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道連れ(二)
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「──広彬様」
低く呼びかける声を聞いた刹那、紀堂は能面のように表情を消し去った。
「お殿様と若殿様の仇を討とうとしておられるんですね? 水野様は文月の月番老中でいらっしゃった。それで旦那様は、火盗改に千川様を襲わせたのは水野様だとお考えになられた。石翁様と堀様に近づこうとなされたのも、何か関係があると思われたんでしょう……薩摩にも、同じく何かかかわりがある。そうですね?」
大番頭の言葉を聞くうちに、霞がかったように優艶な空気を纏っていた若店主の顔貌が、憤怒を目に漲らせる鬼の形相に取って代わる。我知らず噛み締める歯がきりきりと音を立てる。
「そうだとしたら、どうする」
軋んだ声で唸ると、長い嘆息が聞こえてきた。
「ご家門の再興よりも、仇討ちを望まれるのですか」
「家名は必ず復活させる。だが、お家の滅亡を企んだ者を野放しになどしない。この手で首を引き千切り、父上と広衛の墓前に手向けてやる」
両手がふるえ、こめかみが脈打った。
「広衛はたったの十六だった。あの子になんの罪があった? どうして許すことができようか。父上は高潔なお方だった。あんな風に踏み躙られてよいお方ではなかった。だが俺は……俺は、二人が……家臣らが死んでいる時に、船で有里さんと花火なぞを眺めていた」
呻いた途端、悔恨が胸に溢れた。
藤五郎が静かに目を瞠る。紀堂は顔を歪め、喉を絞るようにして吐き出した。
「俺は愚かにも何も知らず、幸福だと思いながら、皆が絶命していく時に……川なぞにいた……」
死の間際、父は町人に託した息子のことをわずかでも思っただろうか。広彬、と呼んだだろうか。しかし己は、血と苦痛に苛まれて死んでいく父や弟のことなど知りもせず、想い人と戯れながら夜風に吹かれていたのだ。こんなにも馬鹿げたことがあるか。こんなにも、救いようのない最期があるか。
一緒に、死ぬべきだった。父と弟と共に、滅んでしまえばよかった。最期くらい、己の血族と運命を共にするべきだったのだ。そう己を呪う声が止まない。
そうすれば、これほどまでに悔悟にまみれて苦しまずに済んだものを。これほどまでに、誰も彼もを傷つけずに済んだものを……。
「──広彬様。旦那様」
痛みに耐えるように両目を覆っていると、静穏な声が耳に届いた。
顔を上げると、こちらを見下ろす大番頭が、見たこともない柔和な表情を浮かべていた。
「承知しました。やりましょう」
商売の話でもしているかのようにきっぱりと言う。
「お気持ちはよくわかりました。どうしてもとお望みなのであれば、やりましょう。店主の敵は、奉公人の敵でございます」
藤五郎とも思えぬ言葉に紀堂は息を飲み、それからにわかに後悔に襲われた。
「待て、藤五郎。落ち着け。俺は奉公人もこの店も、道連れにする気はないんだ」
「当たり前です。そんなことは手前が承知しません」
ぐいと細い眉を片方持ち上げてから、藤五郎は屈託のない表情で言った。
「あなた様を当店にお迎えした時から、腹は括っておりました。やりましょう。私はただ、あなた様のご存念を聞かせていただきたかったのです。あなた様の口から」
それに、と寸の間遠い目をする。
「大旦那様から、旦那様の思う通りにして差し上げろと言いつけられておりますからね。手伝えとおっしゃるのなら、地獄の果てまでもお供致しましょう。……お手伝いしてもよろしいですか、旦那様」
言葉が出てこなかった。
勤勉で、誠実で、客と奉公人を大切にする店主になるはずだった。皆に愛される店主になれと、義父に教えられたはずだった。大鳥屋を受け継いだことは、誇りだ。利を貪ることなく知恵を使い、義を重んじて人に愛された義父のような男になりたいと、そう思って励んできた。本店の軒先に翻る花喰鳥の屋号紋は、いつでも武者震いを覚えるほどに重く、そして輝いて見えた。
こんな風に変わってしまうはずでは、なかった。
鎧のように固めてきた心が緩みそうだ。だが、大鳥屋を支えるこの男を、修羅道に引きずり込んではならない。自分なぞよりよほど替えがきかぬのは、この大番頭の方だ。
奥歯を噛み締め、顎をふるわせたまま答えない主に、藤五郎は穏やかな目を向けた。
「旦那様は大旦那様とは違う。それでいいんです。大旦那様が預かり金に利子をつけることをお考えになられた時だって、父や重役衆は天地がひっくり返るくらいに度肝を抜かれたものです。あなた様をお迎えした時も、皆やはり驚いたし、本当にお跡継ぎにお育てできるのかと危ぶんだものでした。大旦那様や、他のご店主方と同じになさる必要なぞございません。さすがにご高家のご子息を店主に迎えるとなると、大分重役の苦労も増えますが。まぁ、大鳥屋の重役衆は敏腕揃いでございますから、ご心配は無用です」
大番頭を凝視する紀堂の耳に、蛾のひそやかな羽ばたきが届く。
「あなた様がこの店と奉公人を巻き込むまいとなさっていることは、よく心得ております。しかし、店主は店の顔、奉公人の拠り所です。旦那様の危機という時に、私がお助けしなくてどうするんですか。……大丈夫です。旦那様は、大旦那様や私が手塩にかけてお育てしたんですから。思う通りになすって大丈夫です。私が言うんだから、間違いはございません」
染み一つない大番頭の黒羽織を纏い、微塵の疑いも抱かぬ目で藤五郎が言う。
紀堂は息を詰めたまま、極めつけに理詰めの男が、初めて耳にするような非合理的な言葉を発するのを聞いた。
まるで、死んだ義父のようなことを言う。
途端鼻の奥が痛み、ぐっと口の中を噛み締めた。己は、これほどの信頼を預けられるに足る主ではまるでない。何もかもが、まるで足りない。
それにもかかわらず、藤五郎が躊躇なく自分についてきてくれることが、抑え難く嬉しかった。
大番頭の顔が、ふと暖かいものでぼやけた。
「……手を、貸してくれ、藤五郎」
真摯な、頑なさの失せた声で紀堂が乞うと、大番頭はすっと両手を畳についた。
それから、
「かしこまりました」
と従容として応え、頬を緩めたのだった。
***
夜更けまでかかって、これまでの経緯を話した。幾度か質問を挟みながら、藤五郎は建議書の話にも動揺を見せることなく耳を傾けていた。
「……その建議書の真偽については、野月様にお訊ねするまで置いておくとして……なぜ薩摩が旦那様を狩り出す役目を負わされているのかがわかりませんな。その奥田という男、真実信用できると思われますか?」
やがて、藤五郎が呟いた。
「それが俺も引っかかっている。薩摩を動かせる誰かが命じているのだろうが、それが何者なのかがわからない。奇妙な話だ」
何かを、見落としている気はする。明らかな人物がいるにもかかわらず、はっきり見極めようとすると姿がぼやけてしまうのだ。まるで釈迦の掌にいる孫悟空のように、目の前にある柱が実は釈迦の指であることが見えておらぬような、もどかしい心地に襲われる。
「──奥田らは「水野の犬」などと呼ばれていたな。彼らは薩摩から離れた寄る辺ない身だ。誰かが庇護を与えねば生き延びられまい。越前守様に与していることは有り得る話だ。だが、それならば俺の身元はとうに越前守様や大和守様に伝わっていておかしくない。俺の身の安全を図りたいのであれば、お二方の手元に預けるのがもっとも安心だろう。だが、そうはしていない……」
「越前守様らにも、隠していることがあると」
紀堂は頷いた。
「彼らは正義や誇りのためにだけ働いているのではないだろう。何かある。俺を死なせたくないのは確かなようだが、完全に信用することなどできない」
無意識に晒を巻いた傷のあたりを撫でる。
「だが、彼らは千川を滅ぼした首謀者を知っている。越前守様もそれをご存知かもしれん。……堀家がかかわっている節もある。どうしても重役に目通りがしたい」
「──承知しました。為替金支払方の件、早急に進めましょう」
「それと、例の大鳥包のことだが……」
枕に頭を載せたまま、紀堂は眉根を寄せた。
「包を奪ったが川に落としたんだ。せっかくの証拠だってのに惜しいことをしたよ。薩摩は今頃怒り心頭だろうし、勘定所にでも訴えられたら困ったことになるな」
藤五郎はしばし何ごとか考え込んでいたが、
「……どうにか致しましょう。私に考えがございます」
「策があるのか」
大番頭は細面の顔を頷かせた。
「旦那様に、一筆文を認めていただければ」
文、と怪訝そうに目を瞬かせる紀堂に、藤五郎は平然としながら、はい、と答えた。
藤五郎が布団の側に運んできた文机で、言われるままに文を認めた。これでうまく運ぶのだろうかと案じる紀堂をよそに、乾かした文を畳んで懐に仕舞った大番頭は、満足そうに言った。
「では、後はお任せ下さいまし。……旦那様、そろそろお休みになられた方がよろしゅうございます。熱が出てきたのではありませんか」
「ああ……そうするよ。お前も疲れただろう。よく休め」
腰を上げかけた藤五郎は、そういえば、と動きを止めて口ごもった。
「今日の夕刻、お怪我の報せを聞く前に、花筏の若旦那様がお見えになられました」
横になった紀堂は、思わず瞼を閉じた。聞かなくとも、友一郎がどんな剣幕であったか想像がつく。
白い雨の中を走り去る娘の後ろ姿が瞼に浮かび、傷がぎりぎりと鋭く痛んだ。
「藤五郎……」
瞼を開いて天井を見上げると、はい、と小声の返事が返った。
「有里さんとの縁組は……なかったことにしようと思う」
「旦那様」
大番頭が、信じがたいものを聞いたように身を固くする。
「もう、無理だろう。俺には有里さんと一緒になる器量がない。この状況に、有里さんを巻き込むわけにもいかない」
ひりひりとした痛みが、言葉を吐き出す度に胸に広がる。どう足掻いても、無理なのだ。島津の隠密衆にまで付け狙われて、この上どうしようというのか。
後悔ばかりが心に浮かぶ。
隠密の手にかかって死ぬと思った刹那、有里を行かせたことを心底悔やんだ。追いかけて自分の思いを伝えなかったことを、胸を掻きむしりたいほどに悔やんだ。
……だが、もう、どうしようもない。終わりにすべきなのだ。
「もう、いい。動けるようになったら花筏へ出向いて、旦那さんと女将さんにもよくよく詫びてくる。それで、終いにするよ」
藤五郎は、頬を固めたままぴくりとも動かない。
行灯に突進しては跳ね返されながら、魅入られたように火に向かっていく蛾を、紀堂は静かに見詰めていた。
低く呼びかける声を聞いた刹那、紀堂は能面のように表情を消し去った。
「お殿様と若殿様の仇を討とうとしておられるんですね? 水野様は文月の月番老中でいらっしゃった。それで旦那様は、火盗改に千川様を襲わせたのは水野様だとお考えになられた。石翁様と堀様に近づこうとなされたのも、何か関係があると思われたんでしょう……薩摩にも、同じく何かかかわりがある。そうですね?」
大番頭の言葉を聞くうちに、霞がかったように優艶な空気を纏っていた若店主の顔貌が、憤怒を目に漲らせる鬼の形相に取って代わる。我知らず噛み締める歯がきりきりと音を立てる。
「そうだとしたら、どうする」
軋んだ声で唸ると、長い嘆息が聞こえてきた。
「ご家門の再興よりも、仇討ちを望まれるのですか」
「家名は必ず復活させる。だが、お家の滅亡を企んだ者を野放しになどしない。この手で首を引き千切り、父上と広衛の墓前に手向けてやる」
両手がふるえ、こめかみが脈打った。
「広衛はたったの十六だった。あの子になんの罪があった? どうして許すことができようか。父上は高潔なお方だった。あんな風に踏み躙られてよいお方ではなかった。だが俺は……俺は、二人が……家臣らが死んでいる時に、船で有里さんと花火なぞを眺めていた」
呻いた途端、悔恨が胸に溢れた。
藤五郎が静かに目を瞠る。紀堂は顔を歪め、喉を絞るようにして吐き出した。
「俺は愚かにも何も知らず、幸福だと思いながら、皆が絶命していく時に……川なぞにいた……」
死の間際、父は町人に託した息子のことをわずかでも思っただろうか。広彬、と呼んだだろうか。しかし己は、血と苦痛に苛まれて死んでいく父や弟のことなど知りもせず、想い人と戯れながら夜風に吹かれていたのだ。こんなにも馬鹿げたことがあるか。こんなにも、救いようのない最期があるか。
一緒に、死ぬべきだった。父と弟と共に、滅んでしまえばよかった。最期くらい、己の血族と運命を共にするべきだったのだ。そう己を呪う声が止まない。
そうすれば、これほどまでに悔悟にまみれて苦しまずに済んだものを。これほどまでに、誰も彼もを傷つけずに済んだものを……。
「──広彬様。旦那様」
痛みに耐えるように両目を覆っていると、静穏な声が耳に届いた。
顔を上げると、こちらを見下ろす大番頭が、見たこともない柔和な表情を浮かべていた。
「承知しました。やりましょう」
商売の話でもしているかのようにきっぱりと言う。
「お気持ちはよくわかりました。どうしてもとお望みなのであれば、やりましょう。店主の敵は、奉公人の敵でございます」
藤五郎とも思えぬ言葉に紀堂は息を飲み、それからにわかに後悔に襲われた。
「待て、藤五郎。落ち着け。俺は奉公人もこの店も、道連れにする気はないんだ」
「当たり前です。そんなことは手前が承知しません」
ぐいと細い眉を片方持ち上げてから、藤五郎は屈託のない表情で言った。
「あなた様を当店にお迎えした時から、腹は括っておりました。やりましょう。私はただ、あなた様のご存念を聞かせていただきたかったのです。あなた様の口から」
それに、と寸の間遠い目をする。
「大旦那様から、旦那様の思う通りにして差し上げろと言いつけられておりますからね。手伝えとおっしゃるのなら、地獄の果てまでもお供致しましょう。……お手伝いしてもよろしいですか、旦那様」
言葉が出てこなかった。
勤勉で、誠実で、客と奉公人を大切にする店主になるはずだった。皆に愛される店主になれと、義父に教えられたはずだった。大鳥屋を受け継いだことは、誇りだ。利を貪ることなく知恵を使い、義を重んじて人に愛された義父のような男になりたいと、そう思って励んできた。本店の軒先に翻る花喰鳥の屋号紋は、いつでも武者震いを覚えるほどに重く、そして輝いて見えた。
こんな風に変わってしまうはずでは、なかった。
鎧のように固めてきた心が緩みそうだ。だが、大鳥屋を支えるこの男を、修羅道に引きずり込んではならない。自分なぞよりよほど替えがきかぬのは、この大番頭の方だ。
奥歯を噛み締め、顎をふるわせたまま答えない主に、藤五郎は穏やかな目を向けた。
「旦那様は大旦那様とは違う。それでいいんです。大旦那様が預かり金に利子をつけることをお考えになられた時だって、父や重役衆は天地がひっくり返るくらいに度肝を抜かれたものです。あなた様をお迎えした時も、皆やはり驚いたし、本当にお跡継ぎにお育てできるのかと危ぶんだものでした。大旦那様や、他のご店主方と同じになさる必要なぞございません。さすがにご高家のご子息を店主に迎えるとなると、大分重役の苦労も増えますが。まぁ、大鳥屋の重役衆は敏腕揃いでございますから、ご心配は無用です」
大番頭を凝視する紀堂の耳に、蛾のひそやかな羽ばたきが届く。
「あなた様がこの店と奉公人を巻き込むまいとなさっていることは、よく心得ております。しかし、店主は店の顔、奉公人の拠り所です。旦那様の危機という時に、私がお助けしなくてどうするんですか。……大丈夫です。旦那様は、大旦那様や私が手塩にかけてお育てしたんですから。思う通りになすって大丈夫です。私が言うんだから、間違いはございません」
染み一つない大番頭の黒羽織を纏い、微塵の疑いも抱かぬ目で藤五郎が言う。
紀堂は息を詰めたまま、極めつけに理詰めの男が、初めて耳にするような非合理的な言葉を発するのを聞いた。
まるで、死んだ義父のようなことを言う。
途端鼻の奥が痛み、ぐっと口の中を噛み締めた。己は、これほどの信頼を預けられるに足る主ではまるでない。何もかもが、まるで足りない。
それにもかかわらず、藤五郎が躊躇なく自分についてきてくれることが、抑え難く嬉しかった。
大番頭の顔が、ふと暖かいものでぼやけた。
「……手を、貸してくれ、藤五郎」
真摯な、頑なさの失せた声で紀堂が乞うと、大番頭はすっと両手を畳についた。
それから、
「かしこまりました」
と従容として応え、頬を緩めたのだった。
***
夜更けまでかかって、これまでの経緯を話した。幾度か質問を挟みながら、藤五郎は建議書の話にも動揺を見せることなく耳を傾けていた。
「……その建議書の真偽については、野月様にお訊ねするまで置いておくとして……なぜ薩摩が旦那様を狩り出す役目を負わされているのかがわかりませんな。その奥田という男、真実信用できると思われますか?」
やがて、藤五郎が呟いた。
「それが俺も引っかかっている。薩摩を動かせる誰かが命じているのだろうが、それが何者なのかがわからない。奇妙な話だ」
何かを、見落としている気はする。明らかな人物がいるにもかかわらず、はっきり見極めようとすると姿がぼやけてしまうのだ。まるで釈迦の掌にいる孫悟空のように、目の前にある柱が実は釈迦の指であることが見えておらぬような、もどかしい心地に襲われる。
「──奥田らは「水野の犬」などと呼ばれていたな。彼らは薩摩から離れた寄る辺ない身だ。誰かが庇護を与えねば生き延びられまい。越前守様に与していることは有り得る話だ。だが、それならば俺の身元はとうに越前守様や大和守様に伝わっていておかしくない。俺の身の安全を図りたいのであれば、お二方の手元に預けるのがもっとも安心だろう。だが、そうはしていない……」
「越前守様らにも、隠していることがあると」
紀堂は頷いた。
「彼らは正義や誇りのためにだけ働いているのではないだろう。何かある。俺を死なせたくないのは確かなようだが、完全に信用することなどできない」
無意識に晒を巻いた傷のあたりを撫でる。
「だが、彼らは千川を滅ぼした首謀者を知っている。越前守様もそれをご存知かもしれん。……堀家がかかわっている節もある。どうしても重役に目通りがしたい」
「──承知しました。為替金支払方の件、早急に進めましょう」
「それと、例の大鳥包のことだが……」
枕に頭を載せたまま、紀堂は眉根を寄せた。
「包を奪ったが川に落としたんだ。せっかくの証拠だってのに惜しいことをしたよ。薩摩は今頃怒り心頭だろうし、勘定所にでも訴えられたら困ったことになるな」
藤五郎はしばし何ごとか考え込んでいたが、
「……どうにか致しましょう。私に考えがございます」
「策があるのか」
大番頭は細面の顔を頷かせた。
「旦那様に、一筆文を認めていただければ」
文、と怪訝そうに目を瞬かせる紀堂に、藤五郎は平然としながら、はい、と答えた。
藤五郎が布団の側に運んできた文机で、言われるままに文を認めた。これでうまく運ぶのだろうかと案じる紀堂をよそに、乾かした文を畳んで懐に仕舞った大番頭は、満足そうに言った。
「では、後はお任せ下さいまし。……旦那様、そろそろお休みになられた方がよろしゅうございます。熱が出てきたのではありませんか」
「ああ……そうするよ。お前も疲れただろう。よく休め」
腰を上げかけた藤五郎は、そういえば、と動きを止めて口ごもった。
「今日の夕刻、お怪我の報せを聞く前に、花筏の若旦那様がお見えになられました」
横になった紀堂は、思わず瞼を閉じた。聞かなくとも、友一郎がどんな剣幕であったか想像がつく。
白い雨の中を走り去る娘の後ろ姿が瞼に浮かび、傷がぎりぎりと鋭く痛んだ。
「藤五郎……」
瞼を開いて天井を見上げると、はい、と小声の返事が返った。
「有里さんとの縁組は……なかったことにしようと思う」
「旦那様」
大番頭が、信じがたいものを聞いたように身を固くする。
「もう、無理だろう。俺には有里さんと一緒になる器量がない。この状況に、有里さんを巻き込むわけにもいかない」
ひりひりとした痛みが、言葉を吐き出す度に胸に広がる。どう足掻いても、無理なのだ。島津の隠密衆にまで付け狙われて、この上どうしようというのか。
後悔ばかりが心に浮かぶ。
隠密の手にかかって死ぬと思った刹那、有里を行かせたことを心底悔やんだ。追いかけて自分の思いを伝えなかったことを、胸を掻きむしりたいほどに悔やんだ。
……だが、もう、どうしようもない。終わりにすべきなのだ。
「もう、いい。動けるようになったら花筏へ出向いて、旦那さんと女将さんにもよくよく詫びてくる。それで、終いにするよ」
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