調べ、かき鳴らせ

笹目いく子

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紫檀の棹(二)

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 卯月に入る頃には、穏やかにきらめく大川の向こう岸から、威勢のいい槌音が朝から晩まで風に乗って鳴り響いてくるのが日常になった。未だ市中に設けられた御救小屋に留まっている被災者は多い一方で、神田の焼け野原に新しい町屋や武家屋敷が再建されるに従い、両国橋を行き来する人々の顔は活気を増すようだった。
 大火の影響で複数の演奏が延期になっていたが、四月に入ると次々に使者が訪れ新たな日程を伝えてきたので、幾度か青馬を伴って赴いた。
 演奏や座敷に招かれるのはたいてい夕刻から夜であるため、青馬を家に置いて行くか迷ったが、青馬は一人きりになるのをひどく嫌がる子供だった。十にもなれば留守番もできそうなものだが、ほんの四半時ほどでも久弥が家を留守にすると、三味線を弾く元気もなくなるらしく、稽古部屋に入り込んでいたりする。そうして久弥の半纏に包まって、所在なげに膝を抱えているのだった。そのため演奏に出向く際は、先方の許可を得て楽屋で待たせることにした。青馬はそこで夕餉を出してもらい、仮眠しながら久弥を待った。
 けれども、あどけなく繊細な性格とは真逆のように、青馬は芸に対しては不敵なまでの貪欲さを見せた。『越後獅子』はたどたどしいながらも通しで弾けるようになっていた。賑やかで興も乗るし、久弥が変化のある替手で合わせるのがことに楽しいらしく、青馬の気に入りの曲になった。 
 柳橋芸者の真澄は、やはり大火の影響でお座敷が減ったため、頻繁に稽古に姿を見せた。
 先日の翳りのある表情は見間違いであったかのように、黒々と濡れた瞳は美しく澄み、青馬に注ぐ眼差しは朗らかでやわらかかった。

「青馬さん、一緒に『越後獅子』を浚いましょうか」

 という真澄と稽古をして過ごす内に、青馬はすっかり懐いてしまった。真澄と合わせるのだと『越後獅子』をますます熱心に練習し、娘が数日姿を見せないと「……今日は、真澄さんはこないんですか」と残念そうに尋ねて久弥を苦笑させた。
 玄関脇の梅花空木ばいかうつぎがかぐわしい香りの白い花を咲かせはじめたある日、橋倉から夕餉に招かれた。

「青馬、橋倉先生の子供らと遊ぶか」

 と尋ねると、青馬は気恥ずかしそうに瞬きし、次いでゆるゆると笑顔になった。
 午後の稽古を終えて空が黄金色に染まりはじめた頃、先日あがなった反物を手土産に家を出た。松坂町の表通りは、仕事仕舞いをして足早に家路に着く人や、湯屋に向かう人、煮売り屋や一膳飯屋に入って行く人、棒手振りを呼び止めて夕餉の菜を買い求める人で忙しくも賑やかだ。久弥は贔屓の寿司屋台で寿司を見繕い、菓子屋で鹿の子餅を求め、別の店で酒も買い込んだ。
 緊張からかすっかり無口になった青馬を促し、亀沢町にある橋倉家の生垣を入り玄関土間を訪うと、子供がどどっと廊下を走ってきた。

「松坂町のお師匠さんだ。いらっしゃい」

 くりくりとよく動く目をした童子は、長男の善助ぜんすけだ。五才にしてはよく口の回る子で、雀のようにさえずりながら、独楽鼠こまねずみの様に動き回ってばかりいる、と橋倉がことあるごとに言っているのを思い出す。遅れて出てきたのは三つになる勇吉ゆうきちで、昼寝でもしていたのかまだ眠そうに目を擦っている。
 善助は土間に棒立ちになっている青馬を見るなり、ああっ、と甲高い声を立てた。

「お師匠さんとこの迷子? 火事で迷子になったんだよね。お父ちゃんが言ってた」

 青馬はびくりとして顔を強張らせると、困ったように久弥を見上げた。

「そうだ。青馬というんだよ」
「そうま?」 
「何歳?ねぇ何歳?」

 久弥が笑いを堪えて答えていると、板敷に橋倉の妻のお三津が女中のふみと共に現れた。

「お師匠さんに、青馬さん? そうでしょう? よくいらっしゃいました」

 ふっくらと色白の顔に、朗らかな笑みを浮かべたお三津は、そう言って膝をついた。

「先日は青馬に着物をありがとうございました。子供の着物の用意がなかったので、本当に助かりました」
「あらよかった。よく似合ってますよ。聞いた通り可愛らしい子ですねぇ。私はお三津というんですよ。この子は善助、下の子は勇吉というの」

 和やかな笑顔を向けられ、青馬はようやく緊張を緩めて肩を下げた。

「お師匠さん、どうぞ上がって下さいな。うちの人は今日も両国の御救小屋に応援に行っているんです。でも、もうすぐ戻るでしょうから」

 ありがとうございます、と答えながら手土産と反物を差し出すと、お三津とふみは目を丸くした。

「まぁたくさん。そんなお気遣いをなさらないで下さいよ。反物なんてもったいない」
「それ何? 餅? 食べたい」
「違うよ、寿司だよ」

 善助と勇吉がごそごそと折詰を覗き込もうとするので、「これ」とお三津が軽く睨んだ。

「じゃあ、遊ぶ? 青馬、何して遊ぶ? かくれんぼしようか。手車てぐるま泥面子どろめんこもあるよ。独楽は? 庭で遊ぼうよ」
「おいら、えっと、かくれんぼがいい」

 一時もじっとしていない騒がしい兄弟を、青馬はあんぐりと口を開けて眺めている。

「青馬さんと言いなさい。五つも年上なんですからね」 
「青馬の方が呼びやすいよ」

 そう言いながら土間の下駄をつっかけると、

「こっち、ほらおいでよ」
「こっちだよ!」

 善助と勇吉は一緒になって青馬の袖を引いて表へ出て行く。
 あたふたと久弥を振り返り、ふらふらと引っ張られて行く青馬を見て、久弥はお三津と顔を見合わせてくすりと笑った。団子になった子供らが、押し合いへし合い、砂埃を立てつつ庭へ消えると、 

「ーーなんだい、ありゃあ」

 と呆れたような声がして、見れば生垣を入ってきた橋倉が、薬箱を提げたまま庭の方角を見遣っていた。


***


 夕餉の後のひと時を居間で橋倉と談笑していると、子供たちの足音と喚声が家の奥から響いてきたので、二人して耳をそばだてた。

「こう家が揺れちゃあ、酒がこぼれらぁ」と言って猪口を手にした橋倉が笑う。

 表はもう夕闇が深まり、部屋の行灯には灯が入れられている。細めに開いた障子の外に、キョッ、キョッ、と鳴くほととぎすの声が響いていた。
 久弥は茶を喫しながら口を開いた。

「神田はまだ大変な様子ですか」

 酒を舐めていた橋倉が頷く。

「ああ。町屋はじゃんじゃん建てられはじめてるがね。御救小屋には、まだ大勢怪我人や焼け出された人がいるよ」

 橋倉が聞き集めた話によると、今回の火事による焼死者は二千八百人余に達し、焼失範囲は日本橋から京橋・芝一帯に及んだ。焼失総家屋数は三十七万軒に上り、うち大名・旗本の屋敷は二百余であるから、延焼した家屋のほとんどが町屋であった。
 久弥は少しの間考え込むと、実は、と切り出した。

「……ふぅん。春日の手代ねぇ」

 青馬の生まれ育ちと、近江屋の隠居から聞き及んだ話をおおまかに話すと、橋倉は不快そうに唇を歪めた。

「人死が大勢出ているし、行方が知れねぇ人もまだまだ多いからな。そいつが青馬の生死を調べるのも一苦労だとは思うが、気を付けておくよ。話を耳に挟んだらお師匠にすぐ知らせるからよ」

 ありがとうございます、と久弥は懇篤こんとくに礼を述べた。

「そんなこたいいけどよ。もしその父親が青馬を探し当ててきたら、どうするんだい?」
「渡しませんよ。青馬が嫌がっていますからね」
「……法外な手でくるかもしれねぇよ。何しろ、手前ぇの子供を苛め抜いて、屁とも思わねぇ野郎だろ」
「まぁ、どうにかします。お上に訴えるなら受けて立ちますし、力ずくでくるなら、痛い目を見るのは向こうだと思いますよ」

 橋倉の視線が、久弥の背後に置かれた打刀をちらりと撫でた。

「お師匠は、何だか変わったねぇ。そこまで即座に腹を据えて親代わりをするとは、正直思わなかったよ。そりゃああの子は性根も真っ直ぐだし、聡いし才もあるんだろうけどさ。独り身を通してたあんたがねぇ」
「……おかしいですか」

 久弥がかすかに苦笑いすると、橋倉は猪口をあおって、いいや、と答えた。

「よかったよ。あんたは寂しかったんだろう。何か事情があるんだろうが、人を遠ざけて暮らすのにお師匠は向いていないんだよ。青馬を手元に置けるんならいいことだ」

 返答に困って、久弥は口を噤んだ。
 しかし、久弥の返事を待っている風もなく、橋倉は飄々とした顔で、ただちびちびとうまそうに酒を舐めていた。

 
 長居をして橋倉家を辞した頃には、とっぷりと日が暮れていた。温んだ空気が心地よい朧月夜である。武家屋敷の壁が続く通りは静まり返り、久弥と青馬のひそやかな足音だけが滲むように響いている。どこからか、沈丁花のむせ返るように甘い香りが漂ってくる。仄白い月明かりがやわらかく降り注ぎ、屋敷の甍を艶やかに濡らし、漆喰壁と地面とを青白く浮かび上がらせていた。
 橋倉に借りた提灯で足元を照らしながら歩いていると、青馬が弾んだ声音で言った。

「あのう、お師匠様。善助と勇吉が、俺を友達にしてくれるって言いました」
「ほう」

 久弥は唇を引いて微笑んだ。

「そいつはよかったな」

 はい、と青馬は満足そうに幾度も頷く。頭の後ろで束ねた髪が、子馬の尻尾のように機嫌よく跳ねた。

「遊ぶのは楽しいですね。三味線を弾くのも楽しいけど、友達と遊ぶのも楽しいです」

 笑みを浮かべて聞いていた久弥は、ふと視線を上げてぴたりと足を止めた。
 少し前を行く青馬の肩をそっと掴んで止めると、月明かりに朧に浮かび上がる道の先を透かし見た。

「……青馬、これを頼む」

 提灯を差し出しながら前に出ると、はい、と青馬が不思議そうに受け取った。
 青馬を壁際に下がらせて数歩前に足を進めると、ほどなくして武家屋敷の壁が途切れた横道から人影が歩み出てくるのが見えた。
 青白い月光に照らされた顔を見て、まだ若いな、と久弥は眉をひそめた。二十を幾つか過ぎたかどうかに見える。小袖袴に大小を差した男は、暗く凝った両目を久弥に据え、摺るような足運びで近づいた。左手で鍔元を掴み、右手を柄に置くと、そのままぴたりと動かなくなる。

「……山辺久弥だな」

 低い声を聞きながら、久弥は微動だにしなかった。

「……やめておけ。抜かぬのなら見逃す」
「ほざけ。臆したか」

 嘲笑うように唇をめくると、若い侍は鋭く刀を抜いた。
 ぎらっと不吉に輝く刃に青馬の喉がひゅっと鳴り、手の提灯が大きく揺れて、久弥の足元の影も左右に振れた。

「そこにいろ」

 久弥は静かに言うと男に向き直って鯉口を切り、じわりと腰を落としながらするすると抜刀した。
 白々とした月光が、ぞっとするような滑らかさで刀身の油膜の上を這う。
 背後で青馬が何か言いかけて、声を出せずに喘いでいる。
 そのまま構えることもせず、無造作に数歩進む。長身の久弥を上目遣いに見上げながら、男が思わず一歩下がった。
 青眼に構えた男は、迷うように鋒をふるわせた。いつの間にか、両目に怯えが浮かんでいた。久弥の体から滲み出る気勢に、腕の違いを覚っている。こめかみを汗が伝うのが見える。静謐を浮かべた目で久弥が佇んでいると、やがてのしかかる恐怖に耐えかねたように、男は静寂を切り裂く鋭い気合と共に殺到してきた。
 二刀が蛍火のような光の尾を引いて蕭然と噛み合う。飛び下がりながら小手を繰り出す男の剣を一瞬で巻き落とすと、久弥の剣が青白く一閃し額を割った。若い侍は黒い血飛沫をまき散らし、ものも言わずに崩れ落ちた。
 血振るいをして振り返ると、青馬は背中を壁に押し付けたまま、身動きしなくなった男に凍りついたような視線を向けていた。無防備に見開いた両目に、小刻みにふるえる灯りが揺れている。

「青馬」

 久弥が小声で呼ぶと、飛び上がるようにして青馬が顔を上げた。

「行こう。歩けるか」

 青馬は紙のように白い顔をしながら、久弥の声が耳に入らぬようにぼんやり立ち竦んでいたが、やがてぎこちなく頷いた。
 壁から背を離して歩こうとした青馬の膝が笑い、かくりと抜ける。
 慌てて壁に背をつけ、途方に暮れているのを見て、刀を納めた久弥はゆっくりと歩み寄った。
 青馬の強張った手から提灯を取り、背を向けて膝をつくと、そら、と背中に乗るよう促した。しかし青馬はどうしたらいいのかわからぬように、浅く呼吸して突っ立っていた。
 青馬の恐怖と混乱が背中に伝わってくる。辛抱強くうずくまったまま、久弥は青馬の手を掴んで引き寄せるのをなぜか躊躇った。ーー今、人を斬ったばかりの手だ。何か言葉を掛けてやらねばと思うのに、目の前に転がる物言わぬむくろの前に、気休めの言葉など無意味に思えた。
 ただ息をひそめて、背中に青馬の体温を待っていた。
 おもむろに、そろそろと青馬の足が動いた。背中に負ぶさるのではなく、壁伝いに離れて行く気配に、さっと胸が冷たくなった。たった今、目の前で人を斬り殺した男の背になど乗りたいわけがないのだ。額が痺れ、足から萎えるように力が抜けそうだった。青馬の拒絶に動揺する己にうろたえた。

「……歩けます」

 不意に、青馬の掠れた声が耳に届いた。
 振り向くと、青馬が唇を結び、足を踏みしめて立っている。

「怖くありません。歩けます」

 青白い顔のままそう言って、青馬は隣に立ち肩を怒らせる。
 精一杯の虚勢を浮かべた目が、久弥の目を真っ直ぐに見た。月明かりを映してふるえる双眸を見ている内に、急に喉の奥が詰まり、久弥はぐっと歯を食い縛った。

「……そうか」

 立ち上がり、ゆっくりと歩き出す。覚束なげな足取りで青馬がついてきた。人気のない通りを少し歩いたところで泳ぐように青馬の手が伸び、久弥の右の袂をきゅっと掴んだ。
 きりきりと鋭く胸が痛む。遠慮がちに袂を掴む小さな手を、久弥は右手でしっかりと包み込んだ。
 安堵したように握り返すやわらかな手の温もりを感じながら、どうして自分の方が泣きたい気持ちになっているのだろう、と奥歯を噛み締めたまま思っていた。


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