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1章:最果て編
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温暖多湿で草木が茂り尽きることのない水辺がある。改めて見渡してみると、どこか豊かな森の一角ではないかと共和国の勇者――アレスティア・ウィルロードは己の目を疑う。
ここは最果て。マナの恩恵が希薄な捨てられた土地。
現に、この塔を一歩外へ出ると、そこは荒れ果てた餓えた土地が広がる荒野。ここが紛れもなく最果ての大地だということは誰の目にも明らかな事実。
回復魔術によって左腕と右脚の欠損以外の治療を終えた彼女は、果樹の枝を折って作った急拵えの歩行用の杖を突いて、塔の縁から荒野を見下ろしていた。
大量出血に加え猛毒や呪いを一身に受けて既に事切れている筈の彼女は、災厄の魔物に掛けられた遅死の祝福によって延命していた。如何なる魔術的抵抗も意味を為さないがために祝福とまで言わしめるその最悪の呪いに、遠くない未来に確定された死を迎えるまでの地獄を見せつけられる運命。
それが、突然消えた。術者が解除するか、倒されることでしか解放されることのない呪いが。
呪いによって麻痺していた全身の感覚と共に体内に残る猛毒の苦しみに襲われ、そこでようやくまだ生きている実感を得た。
全身の血流が滞るような苦しみに、勇者は笑みを浮かべる。
死んだ筈の自分がまだ生きている。生きる希望を、もたらされた。
それが見ず知らずの出会ったばかりの少女の手によるものだということも、そうして救われた事実の中に、その少女が単独で災厄の魔物を打倒したという常軌を逸した功績が含まれていること、再び親友と会えることなどの脳裏を過ぎった何もかもが彼女の胸を打ち震わせた。
これまで何かを救うことしかしてこなかった彼女が、自分が救われたという現実に直面して胸に抱いた感情は、およそ他人が知り得る感謝や感嘆といったものでは比肩しない。
歳柄もなく泣いた。男として振る舞い、武人たれ、毅然とした勇者たれと演じてきた仮初の自分など脱ぎ捨てて泣いた。
そうやって声を張り上げて涙していたアレスティアは、ふらふらと風に吹かれた妖精のように力なく帰還した憧子の、およそ災厄の魔物と戦ってきたとは思えないほどに五体満足な彼女の、深く沈んだ表情を見て絶句した。
痛みや苦しみによる苦悶ではない。
その表情は、アレスティアが任務で初めて人を殺めたときに浮かべていたものと酷似していた。
ただ一点、覚悟を持って殺めたか否かの違い以外は。
憧子が墜ちるように降り立つなり、彼女を支えるようにエルフの少女が飛び出した。
亜人が人間の心配をするという話はあまり聞かないアレスティアだったが、目の前の関係に打算や計算が介在する余地を邪推するまでの余裕はなかった。そんなことより、アレスティア自身が心配していたから。
憧子は何も語らず泣いた。ただ泣いた。救った人間が、救われた人間よりも深く泣いていた。
憧子自身の命に別状があるわけではないと質問に首肯で答えたために、その日は誰も言葉を交わすことなく一夜を過ごした。
夜間、何かにうなされる声を聞いたアレスティアはその光景を忘れないと誓った。
命の恩人が悪夢に苛む姿に、今は封印されている魔王をいつか倒せたとき――否、魔王を倒して己の職責を全うしたときには、この人のために生きていこうと決めた。
後付けのように思い出された親友も連れて。
**********************************
深夜の最果ての荒野にぽつんとたたずむ人影が一つ。
白銀の武具で身を包み、柔らかな身のこなしでそれの前にと辿り着くと溜め息を吐いた。
切り揃えられた短い金髪を掻き上げ、なんとも困ったような表情。
「せっかく虎の子の無制限転移まで使って秘密裏に始末する予定だったのに……お前さ、やる気あんの?」
話しかけられたのは、憧子との戦闘で黒焦げになった災厄の魔物の亡骸。人型ではなく筋肉質のスライムと称した方。
隅々までウェルダン風に焼かれているそれが、小さく身震いした。
「誰のおかげで災厄の魔物なんて恐れられるようになったか、忘れた訳じゃないよね。忘れないよねー。忘れてたら殺すけど」
それはぷるぷると小刻みに震える。言外に忘れていないとでも言いたげに。
「ま、そんなことは今はどうでもいい。とりあえずさ、魔力分けてくんない? 転移使うのにちょっと足りないんだわ」
それに拒否権はない。あったとしても、それを行使するのは生存権と引き換えなのだろう。
そもそも、わずかに身体を震わせることしか、今のそれには出来ないのだが。
ややあって、それから黒い光の帯が差し出される。
「そうそう早く出してよ。にしても……手酷くやられたよね。あれってなんだったの。遠目には人間にしか見えなかったけど……勇者、じゃないよね。王国のは俺と同じく男だったはずだし。共和国のは俺がぼこぼこにしてお前の餌にしようとしたんだし」
それが何も答えられないと知った上で一人ごちる。別に返事は求めてないし考えをまとめてるだけだよ、と呟く。
「だいたい、ここ最果てなんだけど? 何の価値もない土地だから都合よく利用しただけってのに、なんであんな規格外の奴がいんの? 俺の運ってそんなに悪いの?」
静かに癇癪をそれにぶつける。抜いた剣がそれを何度も何度も貫いては血を噴き出す。
「はーあ。あれが魔族なら話は簡単なんだけどなあ。お前が襲ったってことは絶対に違うんだろうし」
断末魔の悲鳴もない。それは、ただぷるぷると震えるのみ。
「なんか今日はもう疲れたなー。共和国の勇者は思ったより弱くて拍子抜けしたけど。あれならいつでも正面から殺せるのに……お前も政治なんて面倒だと思わない?」
ぷるぷる、ぷるぷる。
「はは。まあ、お前らはそうか。魔力さえあればいいもんな。じゃあ、そろそろ魔力も集まって来たし帰るか」
そう言って剣先で地面に魔法陣を描き始める。
ぷるぷるぷるぷる。
「いい加減にしろよ。俺がこんな身体で不自由してるのに魔力なんて分けてやるかよ。だいたい、お前、もう知性取り戻してるだろ」
――ぷる、……っ。
「お気づきでしたか」
「一部始終見てんだから分かるっつーの。お前、俺が誰だか忘れたの?」
「いえ。そのようなことはありません」
「よかったじゃん。それだけ魔力打ち込んでもらってんなら、また油断して教会に魔力を封じられない限りは十分じゃない?」
「十分と言いますか、一撃だけでも過分でした」
「あ、なに? そんなによかったのあれ?」
「最初の一撃で絶命しかけた際に魔王様のご尊顔が脳裏を過ぎりました。二つの意味で」
「へえ。どうでもいいけど」
削り終わった地面の模様を基に魔力を流して陣を起動する。
「知性戻ったってことは、魔王探すの? 宿主の仇は?」
溢れる光に片足を突っ込みながら問う。
「まずは魔王様を探します。仇は、まあ……あいつもあれで眷属なので、完全に魔力を奪われていないならどこかで復活しているでしょうね」
「魔族が魔力飽和で死ぬとかやばいまじ笑える」
「人間ではたまに見るんですがね。私も魔族では初めて見ました」
「はー。長話しそうだからもう行く。魔王見つけたら連絡よろしくね」
「はい。そのように」
すっと、光ごと姿が消える。
その場に残されたそれは、一度大きくぶるっと震えると、隙間から漏れ出るように自らの亡骸から滲み出てくる。
びちゃり、と荒野の大地に落ちたそれ。
無色透明のゲル状の身体。
憧子が見ればまず間違いなくスライムと断定する形状。
それが、徐々に人の姿を取る。
やがて程よい質感と色彩を得ると、そこには妖艶な肢体をさらけ出す女性の姿があった。
「あの……どうせなら私も連れて行ってほしかったのですが……はあ……」
溜め息を吐いて、ここから最果ての荒野を歩いて王国入りする道中を考える。
「だるいですね。ですが魔王様……ああ、魔王様も最果てにおられるのであればやる気も……いえ、さほど出ないですね」
結局自分のやる気はたいして出ないのだと己の性格を思い出して、出来れば十日以内に国境を越えられたらいいなあとぼやいた。
遠く、国境の砦で宴を上げる兵士の下へ全裸の美女が訪れたのは、実に二十日ほど後のことである。
**********************************
帝国第一都市のとある宿屋。
表向きには満室という体で、実際には人払いのために宿泊客が一人もいないその一室で。
帝国の皇帝は、実に愉快な笑みを浮かべてそれ見ていた。
帝国元老院議員のエンブランスが、突如帰還した勇者を殴りつけた瞬間を。
理由は明解。指示にない共和国の勇者に対する暗殺行為。
事が事だけに露見させるわけにもいかず、だが煮え切らない憤慨が、勇者のぞんざいな態度に激昂した。
「ふー……失礼しました、陛下」
「構わん。気が済むまでやるがよい」
皇帝の許可を得て、エンブランスはまたも勇者に手を上げる。
殴られた勇者はというと「まあ、仕方ないか」ぐらいの納得した表情で甘んじて暴力を受けている。
「本来であれば余の判断で軍法会議など経ずにこの場で首を切り落とすところだ。勇者でよかったな、イヴァンよ」
けたけたと笑う皇帝に対し、帝国の勇者――イヴァン・シュラインもまたけたけたと笑って返す。
「まあ、そっすね」
その表情は子供を見る大人のよう。
実際、エンブランスの本気の打撃は全て、イヴァンに届いていない。
身体の表面を覆うように薄く魔力の膜を展開しており、僅かな衝撃さえもそこで遮断してしまっている。
魔王を相手にしても、恐らくは十分な実用性を持つであろう護りの宝具が為す魔法。
エンブランスの激昂は主にこれが理由だった。
罰したいのに罰せない。
物理的にも、法的にも。
それもこれも、皇帝が勇者をこういう風に育て、宝具を与えてしまったのが原因。
故に、意味はなくとも罰する形だけでもと皇帝に提案し、許可され、そうして珍妙な見世物のように振る舞うこととなってしまった。
エンブランスは気が済むまで殴り続けるだろう。
皇帝はエンブランスの存在など意に介さず、勇者へと質問を投げかける。
「で、どこまで行ったのだ?」
「最果てまで。この時期はまだ普通に出歩けるんすね。なんか風はやばかったっす。砂とかめっちゃ服の中に入り込んでくるし目に入るし最悪っすよ」
「そうか。では不幸にも我々の空間転移実験に巻き込まれてしまった諸外国の方々はどうなったか?」
「適当に落として来たんで死んだんじゃないっすかね。共和国の勇者を引き当てたのはまずかったっすけど、案外弱っちかったんでボコって捨てときました。ほら、あいつっす。何百年か前に教会がなんかしたとかいう災厄の魔物。あれにくれてやったっす」
「災厄の魔物か。確かにアレは最果てに隔離していたな。で、どうなった?」
「死にましたね。災厄の魔物の方が」
「……ほう?」
「こないだ話になってた“七光”っすか? たぶん俺が見たやつがばっちりそうっす。共和国の勇者に訊き忘れてたことがあって、まあ後から戻ったときに出くわしそうになったんでやめといたっすけど。“狭間”から見てる感じ『あ、こいつ一人で魔王相手に出来んじゃね?』って思ったっすね。魔力吸収持ちの魔族が吸収しきれずに破裂してんすよ? まじ爆笑っす」
「興味深い話だが見られてはおるまいな?」
「ばっちり“狭間”に退避しといたんで大丈夫っす。こっちに気づいてる様子もなかったんで」
「ならよい。エンブランスもそろそろ気が済んだようだ。下がっても構わんぞ」
「じゃ、風呂いってくるんで失礼しまっす」
まるで勝手知ったる我が家とでもいうように、イヴァンはリラックスした表情で退室する。
果たしてこの二人の関係は何だったか、と現実逃避をしかけたエンブランスはこれまでのやり取りを見て頭を抱えた。
「という訳だ。共和国へ攻め入る」
「ですが陛――いえ、直ちに検討して参ります」
「しかと頼んだぞ。余は工廠を見物してくるでな」
「はっ」
疲労が目に見えるエンブランスを残して皇帝は宿屋を後にする。
工廠を見物してくるという言の通りに襲来し、叱咤激励の後に欠陥を指摘して技術者を怯み上がらせた後、人通りのない通路へと身を押し込める。
「王国の動向を密に報せよ」
それだけを呟いて、隠し持っていた煙草に火を点ける。
執務の合間のちょっとした一息。
そうとしか見えない皇帝の裏で、人知れず影が一つ、消えていた。
ここは最果て。マナの恩恵が希薄な捨てられた土地。
現に、この塔を一歩外へ出ると、そこは荒れ果てた餓えた土地が広がる荒野。ここが紛れもなく最果ての大地だということは誰の目にも明らかな事実。
回復魔術によって左腕と右脚の欠損以外の治療を終えた彼女は、果樹の枝を折って作った急拵えの歩行用の杖を突いて、塔の縁から荒野を見下ろしていた。
大量出血に加え猛毒や呪いを一身に受けて既に事切れている筈の彼女は、災厄の魔物に掛けられた遅死の祝福によって延命していた。如何なる魔術的抵抗も意味を為さないがために祝福とまで言わしめるその最悪の呪いに、遠くない未来に確定された死を迎えるまでの地獄を見せつけられる運命。
それが、突然消えた。術者が解除するか、倒されることでしか解放されることのない呪いが。
呪いによって麻痺していた全身の感覚と共に体内に残る猛毒の苦しみに襲われ、そこでようやくまだ生きている実感を得た。
全身の血流が滞るような苦しみに、勇者は笑みを浮かべる。
死んだ筈の自分がまだ生きている。生きる希望を、もたらされた。
それが見ず知らずの出会ったばかりの少女の手によるものだということも、そうして救われた事実の中に、その少女が単独で災厄の魔物を打倒したという常軌を逸した功績が含まれていること、再び親友と会えることなどの脳裏を過ぎった何もかもが彼女の胸を打ち震わせた。
これまで何かを救うことしかしてこなかった彼女が、自分が救われたという現実に直面して胸に抱いた感情は、およそ他人が知り得る感謝や感嘆といったものでは比肩しない。
歳柄もなく泣いた。男として振る舞い、武人たれ、毅然とした勇者たれと演じてきた仮初の自分など脱ぎ捨てて泣いた。
そうやって声を張り上げて涙していたアレスティアは、ふらふらと風に吹かれた妖精のように力なく帰還した憧子の、およそ災厄の魔物と戦ってきたとは思えないほどに五体満足な彼女の、深く沈んだ表情を見て絶句した。
痛みや苦しみによる苦悶ではない。
その表情は、アレスティアが任務で初めて人を殺めたときに浮かべていたものと酷似していた。
ただ一点、覚悟を持って殺めたか否かの違い以外は。
憧子が墜ちるように降り立つなり、彼女を支えるようにエルフの少女が飛び出した。
亜人が人間の心配をするという話はあまり聞かないアレスティアだったが、目の前の関係に打算や計算が介在する余地を邪推するまでの余裕はなかった。そんなことより、アレスティア自身が心配していたから。
憧子は何も語らず泣いた。ただ泣いた。救った人間が、救われた人間よりも深く泣いていた。
憧子自身の命に別状があるわけではないと質問に首肯で答えたために、その日は誰も言葉を交わすことなく一夜を過ごした。
夜間、何かにうなされる声を聞いたアレスティアはその光景を忘れないと誓った。
命の恩人が悪夢に苛む姿に、今は封印されている魔王をいつか倒せたとき――否、魔王を倒して己の職責を全うしたときには、この人のために生きていこうと決めた。
後付けのように思い出された親友も連れて。
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深夜の最果ての荒野にぽつんとたたずむ人影が一つ。
白銀の武具で身を包み、柔らかな身のこなしでそれの前にと辿り着くと溜め息を吐いた。
切り揃えられた短い金髪を掻き上げ、なんとも困ったような表情。
「せっかく虎の子の無制限転移まで使って秘密裏に始末する予定だったのに……お前さ、やる気あんの?」
話しかけられたのは、憧子との戦闘で黒焦げになった災厄の魔物の亡骸。人型ではなく筋肉質のスライムと称した方。
隅々までウェルダン風に焼かれているそれが、小さく身震いした。
「誰のおかげで災厄の魔物なんて恐れられるようになったか、忘れた訳じゃないよね。忘れないよねー。忘れてたら殺すけど」
それはぷるぷると小刻みに震える。言外に忘れていないとでも言いたげに。
「ま、そんなことは今はどうでもいい。とりあえずさ、魔力分けてくんない? 転移使うのにちょっと足りないんだわ」
それに拒否権はない。あったとしても、それを行使するのは生存権と引き換えなのだろう。
そもそも、わずかに身体を震わせることしか、今のそれには出来ないのだが。
ややあって、それから黒い光の帯が差し出される。
「そうそう早く出してよ。にしても……手酷くやられたよね。あれってなんだったの。遠目には人間にしか見えなかったけど……勇者、じゃないよね。王国のは俺と同じく男だったはずだし。共和国のは俺がぼこぼこにしてお前の餌にしようとしたんだし」
それが何も答えられないと知った上で一人ごちる。別に返事は求めてないし考えをまとめてるだけだよ、と呟く。
「だいたい、ここ最果てなんだけど? 何の価値もない土地だから都合よく利用しただけってのに、なんであんな規格外の奴がいんの? 俺の運ってそんなに悪いの?」
静かに癇癪をそれにぶつける。抜いた剣がそれを何度も何度も貫いては血を噴き出す。
「はーあ。あれが魔族なら話は簡単なんだけどなあ。お前が襲ったってことは絶対に違うんだろうし」
断末魔の悲鳴もない。それは、ただぷるぷると震えるのみ。
「なんか今日はもう疲れたなー。共和国の勇者は思ったより弱くて拍子抜けしたけど。あれならいつでも正面から殺せるのに……お前も政治なんて面倒だと思わない?」
ぷるぷる、ぷるぷる。
「はは。まあ、お前らはそうか。魔力さえあればいいもんな。じゃあ、そろそろ魔力も集まって来たし帰るか」
そう言って剣先で地面に魔法陣を描き始める。
ぷるぷるぷるぷる。
「いい加減にしろよ。俺がこんな身体で不自由してるのに魔力なんて分けてやるかよ。だいたい、お前、もう知性取り戻してるだろ」
――ぷる、……っ。
「お気づきでしたか」
「一部始終見てんだから分かるっつーの。お前、俺が誰だか忘れたの?」
「いえ。そのようなことはありません」
「よかったじゃん。それだけ魔力打ち込んでもらってんなら、また油断して教会に魔力を封じられない限りは十分じゃない?」
「十分と言いますか、一撃だけでも過分でした」
「あ、なに? そんなによかったのあれ?」
「最初の一撃で絶命しかけた際に魔王様のご尊顔が脳裏を過ぎりました。二つの意味で」
「へえ。どうでもいいけど」
削り終わった地面の模様を基に魔力を流して陣を起動する。
「知性戻ったってことは、魔王探すの? 宿主の仇は?」
溢れる光に片足を突っ込みながら問う。
「まずは魔王様を探します。仇は、まあ……あいつもあれで眷属なので、完全に魔力を奪われていないならどこかで復活しているでしょうね」
「魔族が魔力飽和で死ぬとかやばいまじ笑える」
「人間ではたまに見るんですがね。私も魔族では初めて見ました」
「はー。長話しそうだからもう行く。魔王見つけたら連絡よろしくね」
「はい。そのように」
すっと、光ごと姿が消える。
その場に残されたそれは、一度大きくぶるっと震えると、隙間から漏れ出るように自らの亡骸から滲み出てくる。
びちゃり、と荒野の大地に落ちたそれ。
無色透明のゲル状の身体。
憧子が見ればまず間違いなくスライムと断定する形状。
それが、徐々に人の姿を取る。
やがて程よい質感と色彩を得ると、そこには妖艶な肢体をさらけ出す女性の姿があった。
「あの……どうせなら私も連れて行ってほしかったのですが……はあ……」
溜め息を吐いて、ここから最果ての荒野を歩いて王国入りする道中を考える。
「だるいですね。ですが魔王様……ああ、魔王様も最果てにおられるのであればやる気も……いえ、さほど出ないですね」
結局自分のやる気はたいして出ないのだと己の性格を思い出して、出来れば十日以内に国境を越えられたらいいなあとぼやいた。
遠く、国境の砦で宴を上げる兵士の下へ全裸の美女が訪れたのは、実に二十日ほど後のことである。
**********************************
帝国第一都市のとある宿屋。
表向きには満室という体で、実際には人払いのために宿泊客が一人もいないその一室で。
帝国の皇帝は、実に愉快な笑みを浮かべてそれ見ていた。
帝国元老院議員のエンブランスが、突如帰還した勇者を殴りつけた瞬間を。
理由は明解。指示にない共和国の勇者に対する暗殺行為。
事が事だけに露見させるわけにもいかず、だが煮え切らない憤慨が、勇者のぞんざいな態度に激昂した。
「ふー……失礼しました、陛下」
「構わん。気が済むまでやるがよい」
皇帝の許可を得て、エンブランスはまたも勇者に手を上げる。
殴られた勇者はというと「まあ、仕方ないか」ぐらいの納得した表情で甘んじて暴力を受けている。
「本来であれば余の判断で軍法会議など経ずにこの場で首を切り落とすところだ。勇者でよかったな、イヴァンよ」
けたけたと笑う皇帝に対し、帝国の勇者――イヴァン・シュラインもまたけたけたと笑って返す。
「まあ、そっすね」
その表情は子供を見る大人のよう。
実際、エンブランスの本気の打撃は全て、イヴァンに届いていない。
身体の表面を覆うように薄く魔力の膜を展開しており、僅かな衝撃さえもそこで遮断してしまっている。
魔王を相手にしても、恐らくは十分な実用性を持つであろう護りの宝具が為す魔法。
エンブランスの激昂は主にこれが理由だった。
罰したいのに罰せない。
物理的にも、法的にも。
それもこれも、皇帝が勇者をこういう風に育て、宝具を与えてしまったのが原因。
故に、意味はなくとも罰する形だけでもと皇帝に提案し、許可され、そうして珍妙な見世物のように振る舞うこととなってしまった。
エンブランスは気が済むまで殴り続けるだろう。
皇帝はエンブランスの存在など意に介さず、勇者へと質問を投げかける。
「で、どこまで行ったのだ?」
「最果てまで。この時期はまだ普通に出歩けるんすね。なんか風はやばかったっす。砂とかめっちゃ服の中に入り込んでくるし目に入るし最悪っすよ」
「そうか。では不幸にも我々の空間転移実験に巻き込まれてしまった諸外国の方々はどうなったか?」
「適当に落として来たんで死んだんじゃないっすかね。共和国の勇者を引き当てたのはまずかったっすけど、案外弱っちかったんでボコって捨てときました。ほら、あいつっす。何百年か前に教会がなんかしたとかいう災厄の魔物。あれにくれてやったっす」
「災厄の魔物か。確かにアレは最果てに隔離していたな。で、どうなった?」
「死にましたね。災厄の魔物の方が」
「……ほう?」
「こないだ話になってた“七光”っすか? たぶん俺が見たやつがばっちりそうっす。共和国の勇者に訊き忘れてたことがあって、まあ後から戻ったときに出くわしそうになったんでやめといたっすけど。“狭間”から見てる感じ『あ、こいつ一人で魔王相手に出来んじゃね?』って思ったっすね。魔力吸収持ちの魔族が吸収しきれずに破裂してんすよ? まじ爆笑っす」
「興味深い話だが見られてはおるまいな?」
「ばっちり“狭間”に退避しといたんで大丈夫っす。こっちに気づいてる様子もなかったんで」
「ならよい。エンブランスもそろそろ気が済んだようだ。下がっても構わんぞ」
「じゃ、風呂いってくるんで失礼しまっす」
まるで勝手知ったる我が家とでもいうように、イヴァンはリラックスした表情で退室する。
果たしてこの二人の関係は何だったか、と現実逃避をしかけたエンブランスはこれまでのやり取りを見て頭を抱えた。
「という訳だ。共和国へ攻め入る」
「ですが陛――いえ、直ちに検討して参ります」
「しかと頼んだぞ。余は工廠を見物してくるでな」
「はっ」
疲労が目に見えるエンブランスを残して皇帝は宿屋を後にする。
工廠を見物してくるという言の通りに襲来し、叱咤激励の後に欠陥を指摘して技術者を怯み上がらせた後、人通りのない通路へと身を押し込める。
「王国の動向を密に報せよ」
それだけを呟いて、隠し持っていた煙草に火を点ける。
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