そのメイドは振り向かない

藤原アオイ

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お願い、いなくならないで(sideあずさ)

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 砕けるカップ。こぼれた紅茶は地面が一滴残さず飲みこんでんでいき、その場所から植物のように闇が溢れ出す。それは辺りの植物を枯らし、生気を吸いとっているようにも見えた。

 それはそのまま拡散していくのではなく、その全てがエステルさんの小さな体に収束していく。彼女の全身の穴という穴から入り込もうとしている。

 駄目だ、あれだけは駄目だ。

『綺麗ダ。その銀色の髪も、高潔な魂モ。羨ましい、妬まシイ。どうしテ、どうシテ』

 声が聞こえる。黒板を爪で引っ掻いたような不快な音。でも、わかってしまう。

 羨望、妬み。

 あんな歪なものが自然から生まれるはずがない。生物は永遠に美しくあり続けることはできない。でもあの闇は、そうあろうとしている。

 呪いの集合体、墓場のものとはレベルが違う。直視するだけでも、震えが止まらない。

 その様子を、ルーカス様は楽しそうに眺めている。やっぱりこの人がやったんだ。でもそれは、後からでいい。彼を裁くのは、聖女の役割じゃない。

 間に合って欲しい。その一心で祈りを捧げる。血が滲むほどに握られた拳。腕の血管が、何かに耐えきれず弾ける。

 血液。手の甲を、指を、そして爪を伝い、ゆっくりと落ちていく。不思議と痛みは感じない。

「エルヴィン様、少し離れてください」

「……あずさ?」

「……」

 闇に触れる。私が聖女だからだろうか。闇はその形を保てなくなり、霧のように消えてしまった。でも、エステルさんはそのまま。



 応急処置はした。墓場の闇のように、見えるものは全部祓った。そのはずなのに。

「なんで、目を覚まさないんですか……」

 液体が触れた肌は焼けただれたまま。闇は消せても、闇によって引き起こされたことは消せないのだろう。

 エステルさんは、今も眠り続けている。青白い指先、だんだんと冷たくなっていく体。私に医療系の知識があったとしても、この世界にはきっとそれを行えるだけの技術がない。

 生きているってわかっていても、やっぱり怖い。いつ燃え尽きるかわからない命。

「エル。辛いとは思うが、状況を説明してくれ」

「……はい、兄上」

 エルヴィン様がウィリアム様に庭園で起こったことを説明する。

 その場にいたルーカス様とそのメイドは、今は地下牢に繋がれている。王位継承に関する会議は、王族の暗殺未遂が起こったために今日のところはお開きとなった。

 ルーカス様の処遇が決まってから、続きは行われるとのこと。良くて国外追放、最悪の場合は一族処刑もあり得るらしい。

「……また、僕の見てない所で」

 その声にこめられたのは、怒りか。それとも自己嫌悪か。私にはそれを確かめる術などなく。

「兄上?」

「いや、なんでもないさ。ちょっと、五年前にも同じようなことがあってね」

「五年前の、こと?」

「……」

 銀翼の王女と彼女の母である王妃が殺害された件だろう。エルヴィン様は何も知らされていないのだろうか。エステルさんと長い間一緒にいた、ある意味では当事者だというのに。

「折角の機会だ。少し昔話をしようか」

 こんな状況なら、許してくれるだろう。ウィリアム様の顔にはそう書いてある。

「昔話って?」

「銀翼の王女……って言っても、覚えてないよね。そんなに会う機会も無かった上に、あの時の君はまだ十歳だったんだから」

 十歳といったら、私がまだ小学校に通っていた年齢だ。私だってその頃、もしくはそれ以前に会った親戚の顔とか覚えてないし。

「……銀翼の王女。えっと、この前の鎮魂祭の?」

「そうだね。うん。今からするのは五年間に死んだのお姫様の、その後の話さ」
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