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第104話 リディア vs. 漆黒のティネブラ① ── 闇に舞う胡蝶──
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——寒い。
ライネル・フロストの意識は、まるで深い水底へと沈み込むように、ゆっくりと闇へと堕ちていた。
目の前に広がるのは、黒く濁った影の世界。
身体を締めつけるように絡みついた冷たい触手が、じわじわと魔力を蝕んでいく。
(……もう……動けない……)
頭の中では、無数の警鐘が鳴り響いていた。
逃げろ、抗え、抵抗しろ——。
だが、もはや身体が言うことを聞かない。
この影の牢獄に囚われた瞬間から、敗北は決定していた。
「……はは……」
苦し紛れの乾いた笑いが漏れる。
(こんな終わり方か……くだらない……)
白銀級冒険者としての誇りを持ち、魔法士としての研鑽を積んできた。
そのすべてが、たった一筋の影に囚われ、無力なまま終わるというのか。
——こんなものが、魔法士の到達点なのか。
「……っ、く……そ……!」
力を込めようとしても、指一本動かせない。
冷たい影が、まるで自らを喰らわんと這い寄る。
目の前の光景は、もうどこまでも暗く、黒く、冷たかった——。
——しかし、その時だった。
“ひらり”
視界の片隅に、一筋の光が舞った。
(……?)
ぼやけた意識の中、かすかに何かが飛んでいるのが見える。
それは—— 蝶 だった。
いや、蝶のような形をした 光 。
(……何だ……?)
幻覚か? 死の間際に見る幻想か?
それとも、まだ生きろという、何者かの意思か——。
蝶はゆっくりと舞いながら、ライネルの周囲を旋回し始めた。
その光が揺らめくたび、影が微かに後退する。
——そして、蝶がまばゆい光を放った、その瞬間。
ライネルの身体を絡め取っていた影が、焼き払われるように消え去った。
「——ッ!?」
ライネルの身体が解放される。
どさり、と地面に倒れ込み、しばしの間、荒い息をついた。
だが、すぐに顔を上げる。
(……何が起きた!?)
見上げた先に、ゆらりと光を纏いながら、蝶を指先に止まらせた 一人の少女 が立っていた。
長い銀の髪をなびかせ、紫紺の瞳を細める。
彼女は、まるで魔法そのものを具現化したような、美しき魔法士—— リディア・アークライト だった。
「……ふぅ。間に合ったみたいね。」
リディアが、静かに微笑んだ。
その笑みは、どこか余裕すら感じさせるものだった。
ライネルの胸の奥で、何かがざわついた。
「……君は……」
ようやく、言葉が漏れる。
リディア・アークライト。
アルセイア王国が誇る、天才魔法士。
王命独行の一員として、共同任務に就いた相手。
——その名は、以前から知っていた。
(……こんな形で……出会うとはな……)
ライネルは、思わず唇を噛んだ。
◇◆◇
ライネルは、まだ荒い息を整えながら、目の前に立つ少女を見つめていた。
長い銀髪がゆるやかに揺れ、闇の中でもその姿は際立って見える。
指先には、今も光を宿した蝶が止まっている。
リディア・アークライト。
隣国アルセイア王国の天才魔法士。
“銀嶺の誓い” のライネル・フロストと同年代ながら、すでに歴史に名を残すであろう存在。
その名は、魔法士たちの間では、天に愛された魔法士、“天魔” と称えられていた。
「……まさか、君がここに来るとはな。」
ライネルは、低く呟いた。
リディアは特に表情を変えず、静かにライネルを見下ろしている。
その目には、優越感も、嘲笑もない。ただ冷静に観察しているだけのようだった。
「無事でよかったわ。あまり長くは保たなかったみたいだけど。」
「……余計なお世話だ。」
ライネルは無意識に尖った言葉を返す。
(くそ……なぜ、こいつが……!)
◇◆◇
かつて、ライネルはリディアの名を聞き、こう思ったことがある。
——自分と同じ、魔法に全てを捧げる者がいる。
隣国アルセイアに、自分と同じように魔法だけを極める道を選んだ者がいると知ったとき、ライネルはどこかでシンパシーを感じていた。
いつか直接会って、その魔法の理論を語り合いたい——そう思ったこともある。
それほどに、リディア・アークライトの名は魔法士の間で別格のものだった。
しかし——
その期待は、後に聞いた“ある噂”によって、粉々に打ち砕かれることとなる。
◇◆◇
「……アルセイアの天才魔法士も、結局は戦士に媚びる女だったというわけか。」
ライネルは、忌々しげに呟いた。
リディアの紫紺の瞳が、僅かに細められる。
「……どういう意味かしら?」
「そのままの意味だ。」
ライネルは舌打ちしながら続ける。
「君の噂は聞いている。魔法士として名を馳せながら、結局は戦士の剣に縋る女だと。」
リディアの表情は変わらなかったが、その周囲の魔力が僅かに揺らいだように感じた。
「剣聖カリムと懇意だったが、彼が勇者に敗れるや否や、次は勇者に乗り換えた……そんな話をな。」
「……なるほど。」
リディアは僅かに目を伏せ、短く溜息を吐く。
そして、ゆっくりと視線を戻した。
「それ、どこで聞いたの?」
「さあな。噂というものは、自然と広まるものだ。」
ライネルは吐き捨てるように言う。
リディアは、しばらくライネルの顔を見つめていたが、やがて小さく笑った。
「……なるほどね。」
「……何がおかしい。」
「貴方、本当に噂を信じるのね。」
「何?」
ライネルが眉をひそめる。
「私が剣士に媚びる女? 戦士の強さに惹かれた? ……そんなくだらないこと、誰が決めたのかしら。」
「……何?」
「私はね、ライネル・フロスト。」
リディアは静かに、だが確かな意思を込めて言う。
「私は、“科学” という新しい魔法の可能性に興味を持ったの。」
「……科学?」
「貴方は、“勇者” のことを知らないのでしょう?」
ライネルは、黙ってリディアの言葉に聞き入る。
「……確かに、私は彼に…九条迅《くじょうじん》に興味を持ったわ。」
リディアの紫紺の瞳が、僅かに熱を帯びる。
「けれどそれは、彼が “科学” という新しい視点を魔法に持ち込んだから。
彼の知識を学ぶことで、私の魔法は更なる進化を遂げる——そう確信したから。」
「……それが、君の答えか。」
「そうよ。」
ライネルは、リディアの真っ直ぐな眼差しに、僅かに戸惑う。
確かに、彼女の目には迷いがなかった。
(だが……本当に、それだけか?)
自分の知る限り、魔法士というのは孤高の存在だ。
剣士のように誰かに寄り添うものではない。
そして、剣士は魔法士を軽んじる傾向がある。
剣と魔法のどちらが上かという論争は、何世紀にも渡り繰り返されてきた。
(こいつは、本当に……“勇者” とやらに、ただ学ぶためについていっているだけなのか?)
ライネルの胸中には、まだ拭えない疑念が渦巻いていた。
「……ともかく、そんな話をしている場合じゃないわ。」
リディアが、改めてティネブラの方へと向き直る。
「……そいつの術は得体が知れない。君には無理だ。」
ライネルが警告するが——
「得体が知れないのなら、観察して分析すればいいのよ。」
リディアは指を鳴らし、余裕すら見せる。
(——我ながら、まるで誰かさんみたいな言い回しね。)
リディアは、自身の言葉に、クスリと笑みをこぼす。
その直後——
ティネブラの纏う闇が、再び揺れ動く。
「フフ……フフフ……。」
「貴様らの……無駄話は……聞き飽きた……。」
「影に……飲まれよ……覚悟は……できたか……?」
ティネブラが囁くように言った。
その手がゆっくりと闇を払う。
"黒影核"——再び、影が蠢き始める。
リディアは、静かに杖を構えた。
「……さて。」
彼女の指先で、蝶が舞う。
「そろそろ、あなたの術の仕組みを見せてもらうわ。」
その紫紺の瞳には、微塵の恐れもなかった——。
◇◆◇
——影が、蠢いた。
ティネブラの周囲を取り巻く闇が、不気味な波紋を描くように揺れ始める。
彼の纏う漆黒のローブの裾から、粘り気のある闇が流れ落ち、地面を這うように広がっていく。
「……貴様らに……死よりなお深い闇を……」
ティネブラの囁くような声が響いた。
その声が、まるで合図のようだった。
——ズルリ。
リディアとティネブラの影が、異常なまでに歪んだ。
影は、まるで意志を持ったかのように蠢き始める。地面に張り付いた漆黒が不気味に盛り上がり、やがて人の形を取っていく。
——ゾロ……ゾロロロ……
複数の影が、黒い煙のような気配を引きずりながら立ち上がる。
ライネルは、冷たい戦慄が背筋を走るのを感じた。
「な……なんだ……?」
歪んだ影の中から現れたそれらは、ただの魔物ではなかった。
「我らを……殺したのは……貴様か……?」
ザラリとした声が、空間に響く。
ライネルは息を飲んだ。
——それらは、まるでかつての “死者” そのものだった。
影の兵士たちは、リディアの目の前に立ち並んでいた。
無表情のまま、じわりと彼女に向かって歩み寄る。
ライネルは言葉を失った。
それらは、かつてリディアが戦った 魔王軍の兵士たちの姿をしていた。
(これは……何だ……!?)
影の兵士たちは、ぼろぼろの鎧を身に纏い、抜き身の剣を手にしていた。
その目は虚ろでありながら、深い怨嗟を湛えている。
まるで、リディアの “罪” が形を取って現れたかのように——。
「……これは、貴様自身の罪の形だ。」
ティネブラの囁きが、ライネルの耳に響いた。
「貴様が葬った者たちが……影となり……ここに現れた……」
冷たい嗤いが、ティネブラの唇から漏れる。
ライネルの喉が、ひとりでに鳴る。
(これは……幻覚なのか?)
だが、空気が違う。
ただの視覚的な幻ではない。
彼らは “ここにいる” のだ。
(馬鹿な……こんなことが……)
かつての敵が、影となり蘇る。
それが事実なら——
リディアは動けないのではないか?
自分の手で殺した者たちが、今ここに立っている。
普通の人間なら、躊躇し、手が止まるはず。
たとえ、どんなに冷徹な魔法士であろうとも——。
「……リディア・アークライト……!?」
ライネルは思わず叫んだ。
だが——
リディアは 微塵も動じていなかった。
むしろ、じっとその場に佇み、冷静に影の兵士たちを観察していた。
「……ふうん。なるほどね。」
その表情は、まるで “実験の経過を見守る研究者” のようだった。
ティネブラが僅かに眉をひそめる。
「……恐怖は……感じぬか……?」
「恐怖?」
リディアは、ゆっくりと首を傾げた。
その紫紺の瞳が、わずかに細められる。
「……どうして?」
その問いは、純粋な疑問のように響いた。
「私がこれまで何人の魔族を殺してきたか……その数は数えていないわ。」
「……!!」
「でもね、一つだけ確信していることがあるの。」
リディアは、杖を軽く傾ける。
「私が殺したのは、“敵” よ。後悔なんて、最初からしていない。」
淡々と、事実を語るかのように。
それは、単なる “非情” ではなかった。
確かな意志と、覚悟の上での発言だった。
「私が命を奪わなかったら、奪われていたのは私の仲間の命だった。」
「それだけの話よ。」
冷たい沈黙が、空間を支配する。
ティネブラの影が、ざわりと波打った。
影の兵士たちが、一斉に剣を構えた。
「……!! 危ない!!」
魔力が尽きかけた身体を無理やり動かし、ライネルが叫ぶ。
だが、その瞬間——
紅の蝶が、静かに羽ばたいた。
——ピィィィィィ……!!!
蝶の翅から放たれた光が、一筋の熱線となり、影の兵士たちを貫いた。
次の瞬間——
「——ッ!!??」
影たちは、灼かれるように 一瞬で霧散した。
黒煙のように揺らぎ、弾けるように消え去る。
「なっ……!? あの蝶は……何だ!? 使い魔か……!?」
ライネルの目が、驚愕に見開かれる。
影を焼き尽くす、あの光。
リディアの肩の上に留まる、紅の蝶——。
「いい子ね。」
静かに、リディアが呟く。
蝶が、ひらりと宙を舞った。
ライネルの背筋に、冷たい汗が流れた。
(——これは……何だ……!?)
リディア・アークライト。
天才魔法士と名高い少女。
彼女の本当の実力を、ライネルは 今、初めて目の当たりにした。
「なるほど……これは……面白い。」
ティネブラのローブの奥から、くぐもった嗤い声が漏れた。
「では……次は……貴様を……飲み込む……」
影が、さらに蠢く。
だが——
リディアは微笑むだけだった。
「──舞いなさい。
“妖精蝶”。」
次の瞬間、リディアの背後から、更に三羽の蝶 が舞い上がる。
紅、青、緑、紫——。
それぞれが淡い光を纏いながら、杖の周囲を旋回し始めた。
ライネルは、ただ呆然とその光景を見つめるしかなかった。
(……これは……何だ……!?)
(これが……アルセイア王国の天才魔法士……!!?)
こうして——
リディア・アークライト vs. 漆黒のティネブラ。
本格的な戦いが 幕を開けた。
ライネル・フロストの意識は、まるで深い水底へと沈み込むように、ゆっくりと闇へと堕ちていた。
目の前に広がるのは、黒く濁った影の世界。
身体を締めつけるように絡みついた冷たい触手が、じわじわと魔力を蝕んでいく。
(……もう……動けない……)
頭の中では、無数の警鐘が鳴り響いていた。
逃げろ、抗え、抵抗しろ——。
だが、もはや身体が言うことを聞かない。
この影の牢獄に囚われた瞬間から、敗北は決定していた。
「……はは……」
苦し紛れの乾いた笑いが漏れる。
(こんな終わり方か……くだらない……)
白銀級冒険者としての誇りを持ち、魔法士としての研鑽を積んできた。
そのすべてが、たった一筋の影に囚われ、無力なまま終わるというのか。
——こんなものが、魔法士の到達点なのか。
「……っ、く……そ……!」
力を込めようとしても、指一本動かせない。
冷たい影が、まるで自らを喰らわんと這い寄る。
目の前の光景は、もうどこまでも暗く、黒く、冷たかった——。
——しかし、その時だった。
“ひらり”
視界の片隅に、一筋の光が舞った。
(……?)
ぼやけた意識の中、かすかに何かが飛んでいるのが見える。
それは—— 蝶 だった。
いや、蝶のような形をした 光 。
(……何だ……?)
幻覚か? 死の間際に見る幻想か?
それとも、まだ生きろという、何者かの意思か——。
蝶はゆっくりと舞いながら、ライネルの周囲を旋回し始めた。
その光が揺らめくたび、影が微かに後退する。
——そして、蝶がまばゆい光を放った、その瞬間。
ライネルの身体を絡め取っていた影が、焼き払われるように消え去った。
「——ッ!?」
ライネルの身体が解放される。
どさり、と地面に倒れ込み、しばしの間、荒い息をついた。
だが、すぐに顔を上げる。
(……何が起きた!?)
見上げた先に、ゆらりと光を纏いながら、蝶を指先に止まらせた 一人の少女 が立っていた。
長い銀の髪をなびかせ、紫紺の瞳を細める。
彼女は、まるで魔法そのものを具現化したような、美しき魔法士—— リディア・アークライト だった。
「……ふぅ。間に合ったみたいね。」
リディアが、静かに微笑んだ。
その笑みは、どこか余裕すら感じさせるものだった。
ライネルの胸の奥で、何かがざわついた。
「……君は……」
ようやく、言葉が漏れる。
リディア・アークライト。
アルセイア王国が誇る、天才魔法士。
王命独行の一員として、共同任務に就いた相手。
——その名は、以前から知っていた。
(……こんな形で……出会うとはな……)
ライネルは、思わず唇を噛んだ。
◇◆◇
ライネルは、まだ荒い息を整えながら、目の前に立つ少女を見つめていた。
長い銀髪がゆるやかに揺れ、闇の中でもその姿は際立って見える。
指先には、今も光を宿した蝶が止まっている。
リディア・アークライト。
隣国アルセイア王国の天才魔法士。
“銀嶺の誓い” のライネル・フロストと同年代ながら、すでに歴史に名を残すであろう存在。
その名は、魔法士たちの間では、天に愛された魔法士、“天魔” と称えられていた。
「……まさか、君がここに来るとはな。」
ライネルは、低く呟いた。
リディアは特に表情を変えず、静かにライネルを見下ろしている。
その目には、優越感も、嘲笑もない。ただ冷静に観察しているだけのようだった。
「無事でよかったわ。あまり長くは保たなかったみたいだけど。」
「……余計なお世話だ。」
ライネルは無意識に尖った言葉を返す。
(くそ……なぜ、こいつが……!)
◇◆◇
かつて、ライネルはリディアの名を聞き、こう思ったことがある。
——自分と同じ、魔法に全てを捧げる者がいる。
隣国アルセイアに、自分と同じように魔法だけを極める道を選んだ者がいると知ったとき、ライネルはどこかでシンパシーを感じていた。
いつか直接会って、その魔法の理論を語り合いたい——そう思ったこともある。
それほどに、リディア・アークライトの名は魔法士の間で別格のものだった。
しかし——
その期待は、後に聞いた“ある噂”によって、粉々に打ち砕かれることとなる。
◇◆◇
「……アルセイアの天才魔法士も、結局は戦士に媚びる女だったというわけか。」
ライネルは、忌々しげに呟いた。
リディアの紫紺の瞳が、僅かに細められる。
「……どういう意味かしら?」
「そのままの意味だ。」
ライネルは舌打ちしながら続ける。
「君の噂は聞いている。魔法士として名を馳せながら、結局は戦士の剣に縋る女だと。」
リディアの表情は変わらなかったが、その周囲の魔力が僅かに揺らいだように感じた。
「剣聖カリムと懇意だったが、彼が勇者に敗れるや否や、次は勇者に乗り換えた……そんな話をな。」
「……なるほど。」
リディアは僅かに目を伏せ、短く溜息を吐く。
そして、ゆっくりと視線を戻した。
「それ、どこで聞いたの?」
「さあな。噂というものは、自然と広まるものだ。」
ライネルは吐き捨てるように言う。
リディアは、しばらくライネルの顔を見つめていたが、やがて小さく笑った。
「……なるほどね。」
「……何がおかしい。」
「貴方、本当に噂を信じるのね。」
「何?」
ライネルが眉をひそめる。
「私が剣士に媚びる女? 戦士の強さに惹かれた? ……そんなくだらないこと、誰が決めたのかしら。」
「……何?」
「私はね、ライネル・フロスト。」
リディアは静かに、だが確かな意思を込めて言う。
「私は、“科学” という新しい魔法の可能性に興味を持ったの。」
「……科学?」
「貴方は、“勇者” のことを知らないのでしょう?」
ライネルは、黙ってリディアの言葉に聞き入る。
「……確かに、私は彼に…九条迅《くじょうじん》に興味を持ったわ。」
リディアの紫紺の瞳が、僅かに熱を帯びる。
「けれどそれは、彼が “科学” という新しい視点を魔法に持ち込んだから。
彼の知識を学ぶことで、私の魔法は更なる進化を遂げる——そう確信したから。」
「……それが、君の答えか。」
「そうよ。」
ライネルは、リディアの真っ直ぐな眼差しに、僅かに戸惑う。
確かに、彼女の目には迷いがなかった。
(だが……本当に、それだけか?)
自分の知る限り、魔法士というのは孤高の存在だ。
剣士のように誰かに寄り添うものではない。
そして、剣士は魔法士を軽んじる傾向がある。
剣と魔法のどちらが上かという論争は、何世紀にも渡り繰り返されてきた。
(こいつは、本当に……“勇者” とやらに、ただ学ぶためについていっているだけなのか?)
ライネルの胸中には、まだ拭えない疑念が渦巻いていた。
「……ともかく、そんな話をしている場合じゃないわ。」
リディアが、改めてティネブラの方へと向き直る。
「……そいつの術は得体が知れない。君には無理だ。」
ライネルが警告するが——
「得体が知れないのなら、観察して分析すればいいのよ。」
リディアは指を鳴らし、余裕すら見せる。
(——我ながら、まるで誰かさんみたいな言い回しね。)
リディアは、自身の言葉に、クスリと笑みをこぼす。
その直後——
ティネブラの纏う闇が、再び揺れ動く。
「フフ……フフフ……。」
「貴様らの……無駄話は……聞き飽きた……。」
「影に……飲まれよ……覚悟は……できたか……?」
ティネブラが囁くように言った。
その手がゆっくりと闇を払う。
"黒影核"——再び、影が蠢き始める。
リディアは、静かに杖を構えた。
「……さて。」
彼女の指先で、蝶が舞う。
「そろそろ、あなたの術の仕組みを見せてもらうわ。」
その紫紺の瞳には、微塵の恐れもなかった——。
◇◆◇
——影が、蠢いた。
ティネブラの周囲を取り巻く闇が、不気味な波紋を描くように揺れ始める。
彼の纏う漆黒のローブの裾から、粘り気のある闇が流れ落ち、地面を這うように広がっていく。
「……貴様らに……死よりなお深い闇を……」
ティネブラの囁くような声が響いた。
その声が、まるで合図のようだった。
——ズルリ。
リディアとティネブラの影が、異常なまでに歪んだ。
影は、まるで意志を持ったかのように蠢き始める。地面に張り付いた漆黒が不気味に盛り上がり、やがて人の形を取っていく。
——ゾロ……ゾロロロ……
複数の影が、黒い煙のような気配を引きずりながら立ち上がる。
ライネルは、冷たい戦慄が背筋を走るのを感じた。
「な……なんだ……?」
歪んだ影の中から現れたそれらは、ただの魔物ではなかった。
「我らを……殺したのは……貴様か……?」
ザラリとした声が、空間に響く。
ライネルは息を飲んだ。
——それらは、まるでかつての “死者” そのものだった。
影の兵士たちは、リディアの目の前に立ち並んでいた。
無表情のまま、じわりと彼女に向かって歩み寄る。
ライネルは言葉を失った。
それらは、かつてリディアが戦った 魔王軍の兵士たちの姿をしていた。
(これは……何だ……!?)
影の兵士たちは、ぼろぼろの鎧を身に纏い、抜き身の剣を手にしていた。
その目は虚ろでありながら、深い怨嗟を湛えている。
まるで、リディアの “罪” が形を取って現れたかのように——。
「……これは、貴様自身の罪の形だ。」
ティネブラの囁きが、ライネルの耳に響いた。
「貴様が葬った者たちが……影となり……ここに現れた……」
冷たい嗤いが、ティネブラの唇から漏れる。
ライネルの喉が、ひとりでに鳴る。
(これは……幻覚なのか?)
だが、空気が違う。
ただの視覚的な幻ではない。
彼らは “ここにいる” のだ。
(馬鹿な……こんなことが……)
かつての敵が、影となり蘇る。
それが事実なら——
リディアは動けないのではないか?
自分の手で殺した者たちが、今ここに立っている。
普通の人間なら、躊躇し、手が止まるはず。
たとえ、どんなに冷徹な魔法士であろうとも——。
「……リディア・アークライト……!?」
ライネルは思わず叫んだ。
だが——
リディアは 微塵も動じていなかった。
むしろ、じっとその場に佇み、冷静に影の兵士たちを観察していた。
「……ふうん。なるほどね。」
その表情は、まるで “実験の経過を見守る研究者” のようだった。
ティネブラが僅かに眉をひそめる。
「……恐怖は……感じぬか……?」
「恐怖?」
リディアは、ゆっくりと首を傾げた。
その紫紺の瞳が、わずかに細められる。
「……どうして?」
その問いは、純粋な疑問のように響いた。
「私がこれまで何人の魔族を殺してきたか……その数は数えていないわ。」
「……!!」
「でもね、一つだけ確信していることがあるの。」
リディアは、杖を軽く傾ける。
「私が殺したのは、“敵” よ。後悔なんて、最初からしていない。」
淡々と、事実を語るかのように。
それは、単なる “非情” ではなかった。
確かな意志と、覚悟の上での発言だった。
「私が命を奪わなかったら、奪われていたのは私の仲間の命だった。」
「それだけの話よ。」
冷たい沈黙が、空間を支配する。
ティネブラの影が、ざわりと波打った。
影の兵士たちが、一斉に剣を構えた。
「……!! 危ない!!」
魔力が尽きかけた身体を無理やり動かし、ライネルが叫ぶ。
だが、その瞬間——
紅の蝶が、静かに羽ばたいた。
——ピィィィィィ……!!!
蝶の翅から放たれた光が、一筋の熱線となり、影の兵士たちを貫いた。
次の瞬間——
「——ッ!!??」
影たちは、灼かれるように 一瞬で霧散した。
黒煙のように揺らぎ、弾けるように消え去る。
「なっ……!? あの蝶は……何だ!? 使い魔か……!?」
ライネルの目が、驚愕に見開かれる。
影を焼き尽くす、あの光。
リディアの肩の上に留まる、紅の蝶——。
「いい子ね。」
静かに、リディアが呟く。
蝶が、ひらりと宙を舞った。
ライネルの背筋に、冷たい汗が流れた。
(——これは……何だ……!?)
リディア・アークライト。
天才魔法士と名高い少女。
彼女の本当の実力を、ライネルは 今、初めて目の当たりにした。
「なるほど……これは……面白い。」
ティネブラのローブの奥から、くぐもった嗤い声が漏れた。
「では……次は……貴様を……飲み込む……」
影が、さらに蠢く。
だが——
リディアは微笑むだけだった。
「──舞いなさい。
“妖精蝶”。」
次の瞬間、リディアの背後から、更に三羽の蝶 が舞い上がる。
紅、青、緑、紫——。
それぞれが淡い光を纏いながら、杖の周囲を旋回し始めた。
ライネルは、ただ呆然とその光景を見つめるしかなかった。
(……これは……何だ……!?)
(これが……アルセイア王国の天才魔法士……!!?)
こうして——
リディア・アークライト vs. 漆黒のティネブラ。
本格的な戦いが 幕を開けた。
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一応191話で終わりとなります
最後まで見ていただきありがとうございました
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スキル『レベル1固定』は最強チートだけど、俺はステータスウィンドウで無双する
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