チェイン・ペタル

令藤

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1 雪狼幻夜

雪寂

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 びびび、という鋭い音に私ははっと目を覚ました。いつもの寝慣れたベッドではなく、固い台の上に毛布を敷いたベッド。
 そうだ、淳史さん。
 起き上がり、端末をタップしてアラームを止める。充電は残り三パーセント、かなり消耗してしまったようだ。
素早く服装を整え、鍵を握る。個室のドアを開けて、その暗さと寒さに驚く。窓から見える外のせかいでは吹雪が続いていて、まだ暗かった。
階段を下りる足音が、かつ、こつと規則的に聞こえる。見えてきた突き当りの扉は相変わらずどっしりと構えているようだった。私はそっとノックする。
「……淳史、さん?」
 返事はなかった。
「淳史さん!」
 無我夢中で鍵を回す。
「くっ……!」
 開けようとするが、私のか弱い力では押し開けることができない。
「淳史さん!」
 もう一度声を掛けると、その扉が内側から勢いよく開かれた。
「……咲楽さん。おはよう」
 にっこりと笑った淳史さんは、そのままこちら側に倒れこむ。
「あ、淳史さん……」
 駆け寄ろうとした私は、淳史さんの体にまとわりつく血と狼の体毛を見て一瞬躊躇してしまう。
「大丈夫ですか」
 荒い息を突きながら僅かに顔を持ち上げた淳史さんは、私に向かって笑顔を作る。
「水を貰える?」
 その声ははっきりとしていて、私に有無を言わせなかった。急いで井戸の水を汲みにいく。
 戻った時、そこには柚子と蜜柑が立っていた。
「咲楽さん! 淳史さん、大丈夫ですか」
「……わからない」
 私が素直にいうと、淳史さんはゆっくりと首を振った。
「こういうことは何回もあった。平気だよ」
 水を手渡すと、それをそっと口元に運ぶ。震える手にそっと自分の手を重ねると、淳史さんはそのまま水を飲んだ。
「……ありがとう」
 柚子と蜜柑の方に視線をやると、二人は身をすくませる。
「淳史さん……もう狼じゃないんですね」
 柚子ちゃんが警戒した様子で尋ねてきた。
「うん。日が昇ったら海翔に戻るって」
 私が伝えると、二人はお互いの手を握り合う。
「初めまして、淳史さん。私は柚子です」
「は、初めまして……蜜柑です」
 淳史さんは軽く会釈したけれど、暗いのでよく見えない。
「海翔や咲楽さんから聞いていると思うけれど、僕は淳史って呼ばれている。海翔の夜の姿で、人狼だ。僕が君たちを食わなくちゃいけない時は仕方ないって割り切ってもらうしかないけど、よろしく」
 淳史さんが琥珀色の瞳と牙を見せると、二人が握りあう手に力がこもった。
「淳史さん。そんな怖がらせなくても」
「いいんです」
 私の声を遮る柚子ちゃん。
「食われる立場なのはわかっています」
 蜜柑ちゃんを抱き寄せながらも、しっかりと淳史さんを見据えている。
「しっかりしているね。……食い応えがありそうだな」
「ちょっ、脅すのは……」
 私が止めようとするのを、彼はゆっくりと立ち上がって制する。
「傷はもう消えた。夜明け前にシャワーでも浴びてこようかな」
 呑気に伸びをする彼に、二人は表情を硬くする。
「そんなに警戒しなくても、ちゃんと用意してくれれば必要以上に食わないよ?」
「用意……」
 その言葉を聞いた柚子が青ざめる。蜜柑も震えながら私に視線を向けた。
「……とりあえずごはん、食べませんか」
 私はそれだけ言うのに精いっぱいだった。
「今日の夜明けは六時五十六分。……信じるかどうかは君たち次第だ」
 歩き出した淳史さんの背中を見送る蜜柑ちゃんは、柚子ちゃんに抱かれながらどこか思いつめたような顔をしていた。


「蜜柑ちゃん、そんな重ね着していて暑くない?」
「私、寒がりなのでこのくらいが丁度良いんです」
 キッチンで白米をといでいる蜜柑ちゃんは、セーターを何重にも重ねていた。暖炉の熱で既に暑くなっている室内では、薄手の服一枚を着ているだけの私でも汗をかき始めているところだった。
「窓開けてもいいかな? 数センチくらいでいいんだけど、換気しておかないと息苦しくて」
 私が提案すると、お米のとぎ汁をそっと流した蜜柑ちゃんは小さくうなずいた。
「大丈夫です。少しなら」
 私が厨房の窓を少しだけ開けると、外は相変わらずの吹雪だった。入り込んできた冷気が心地よく厨房を包む。
 お米の入った鍋を火にかけた蜜柑ちゃんは、何だかそわそわしながら私の方を向く。
「火、見ていてもらえますか? 私、心寧さんを探そうと思って」
 言われてみれば、と昨日のことを思い起こす。昨日の晩から姿が見えない心寧は、海翔に言われたことで傷ついていたみたいで心配だ。
「わかりました。こっちは任せてください」
 厨房から出て行った蜜柑ちゃんを横目に、食料庫から持ってきた食材を取り出す。
「お魚と野菜……お米と煮込んで雑炊にしてもいいかも」
 鍋に湯を沸かし、乾燥野菜を入れて戻す。その間に燻製の鮭をほぐしておく。暫くたって戻ってきた野菜を切ろうと包丁入れを開けると、一つだけ空きがあるのに気づく。蜜柑ちゃんが使ったのかもしれないが、米を炊くのに包丁など使うだろうか。
 もともとなかったかもしれないし、と調理を再開する。
「嬢ちゃん。そっちの調子はどうだ」
 お米の火を止めて蒸らす段階で、博之さんが顔を出した。
「ええ、大丈夫です。アレルギー食品とかはないですか?」
「ああ。柚子と蜜柑にも確認したが、大丈夫そうだった」
 それならよかったです、と米の様子を確認した。上手く炊けているようだ。
「雑炊にしようと思って。海翔もアレルギーはないはずですから、心寧さんさえよければ」
「私がどうかしましたか?」
 手を止めて入口の方を見ると、博之さんの隣に心寧さんが立っていた。
「大丈夫です。ここにある食材は食べられると思います」
 口角を上げた心寧さんは、昨日とは違って白衣を着ていた。眼鏡をかけた彼女は科学者のような雰囲気だ。
「昨日の夜、何処にいたんですか? 連絡とかする時に困るので、出来れば居場所を教えてほしいと思って……」
「ああ、ちょっと離れている大きめの部屋にいました。実験器具とかもあるので、もしかしたら」
 心寧さんはいったん言葉を切った。少しためらう様に下を向く。
「もしかしたら、海翔さんに薬を作れるかもしれないと思ったんですけど……」
 口ごもりながらも話した後半は、ぎりぎり聞こえるくらいの大きさの声だった。
「心寧さん……」
 考えてみれば、雪山で遭難してこの塔に来て、お互いのことを全然知らないんだなと気づいた。
「後で、自己紹介の場でも作りましょうか」
「えっ?」
「雪山で遭難してこの塔に逃げ込んだ人なんですから、もう少しお互いを知って、助け合えないかなって思ったんです。……その、運命共同体っていうんでしょうか?」
 驚いたような顔をする心寧さん。
「それはいい考えだな。俺たちはお互いのことを知らなすぎる」
 博之さんが頷き、心寧さんの肩に手を置いた。
「心寧さんが何かしたいことがあるなら、ちゃんと言ってほしい。そうじゃないと、俺たちは動けない」
 はっきりとした口調で告げる彼。私はそこから目を離して、出来上がった雑炊を取り分けた。
「そういえば、蜜柑ちゃんを見ませんでしたか。心寧さんを探しに行くって言って出て行ったんです」
「蜜柑さんですか? 見ていないですね……。私が使っている部屋、劇薬とかも入っていましたし、無事だといいですけれど」
その言葉に、博之さんが心寧さんに詰め寄った。先程とは打って変わった鬼のような形相に、心寧さんと私は思わず一歩引く。
「劇薬だぁ? その部屋は何処だ! 蜜柑を危険にさらすわけにはいかない!」
 博之さんの低く大きな声が厨房に轟く。
「ここから皆さんの使っている個室と反対の方向に進んだ突き当りです……! あの、ですから落ち着いてください!」
 心寧さんが必死に説明すると、博之さんは厨房から飛び出ていく。
 残された私と心寧さんは顔を見合わせ、息を吐きだす。知らずのうちに息を止めていたようだった。
「何でしょうか、あの人……。蜜柑さんが私の使っている部屋を知っていることはないはずなのに」
 心寧さんは雑炊の器を手に取った。
「運びますよ。昨日は心配かけたみたいですし」


 時計の針が七時を指した。食卓は柚子ちゃんの手によって掃除され、清潔になった談話室だ。
「おはようございます……」
 扉を開けて入ってきた海翔。その瞳の色は元の黒色に戻っていて、何処か疲れているようだった。
「海翔」
 私は思わず席を立つ。迷わず近づいてきた海翔を、しっかりと抱いた。
「お帰り」
「……ただいま」
 胸の中にある温もりが、体全体に沁み渡っていくようだ。海翔に強く抱き返され、肩に入っていた余分な力が抜ける。
「ありがとう。誰も殺さずにいられた」
 私から離れた海翔は、頬を濡らした液体を拭う。
「咲楽のお陰だ。本当にありがとう」
 私はなんと返していいかわからなかった。とにかく海翔が目の前にいるということが嬉しかった。
「……良かった」
 私が目尻を拭ったところで、博之さんがぱんぱんと手を叩く。
「皆、腹も減っただろう。せっかく嬢ちゃんが作ってくれた雑炊、冷めないうちに食べようぜ」
 それを合図に、各々が食事の準備を始める。
「蜜柑ちゃん、お水の準備してくれない?」
「なあ咲楽、食料庫にワインなかったか? 水汲みに行くより近いだろ」
「そうだね……未成年の柚子ちゃんと蜜柑ちゃんのぶんだけ汲んできてもらってもいい?」
「はい、勿論です!」
蜜柑は暫く厨房で器を選んでいた。陶器の器がかちかちとぶつかり合って音を立てる。
「わあ、ここにあるマグカップどれもかわいい……! どれにしようかなぁ」
 少しだけ速足で水を汲みに行った蜜柑を横目に、心寧が袋を取り出した。
「あの……私、ティーバック持ってます。良ければお茶も飲めますよ」
「わあ、いいんですか? 心寧さん」
「ええ。お水とお酒だけじゃ味気ないと思いますし」
 先程までとは打ってかわって、和やかな雰囲気が場を満たす。出会ってまだほんの数日の人たちとこんなに楽しく話せるなんて、と私は少し感動していた。すれ違った海翔の明るい笑い声が廊下に響く。
「蜜柑ちゃん、お帰り。お茶いる?」
「いえ、私と柚子はお茶苦手なので。お気遣いありがとうございます」
 蜜柑ちゃんがお水を注いだ緑と青の硝子のコップを持って申し訳なさそうに頭を下げている。
「柚子、色どっちがいいとか、ある?」
「じゃあ緑の!」
「じゃあ私が青だね!」
 笑いあう柚子ちゃんと蜜柑ちゃん。そのまま足取り軽く机へ向かう。


「……で」
 海翔が切り出す。
「俺は今日誰かを食わないと餓死します」
 後片付けが一通り終わって何も亡くなった空間に、暖炉のぱちぱちという乾いた音だけが虚しくこだます。
「は……?」
 知っていた未成年二人と私は驚かなかったけれど、事実を胸に突き付けられるような感覚に辛さを覚えた。博之さんと心寧さんは動揺を隠しきれずに、それでも冷静に海翔を見据えている。
「……俺は」
「誰か一人、生贄を決めましょう。そうじゃないと、必要以上の犠牲が出る」
 海翔の言葉をさっと遮る。
「咲楽! そんな、」
 続きを言わせたくない。聞きたくない。
「おいおい嬢ちゃん、そりゃないだろ。そいつを餓死させとけば明日以降の犠牲者は出ないだろうに」
 博之さんの言葉に頷きかける海翔を抱きしめた。
「私は。海翔が人殺しでも、死んでほしくない。誰かを犠牲にしてでも生きてほしい。……そう思っちゃ、駄目?」
 海翔は黙り込む。
「……お願いします。この通りですから」
 私は頭を下げた。
「咲楽さんの願いも理解はできるんですが、それで命を差し出せというのは……」
 柚子ちゃんが蜜柑ちゃんの手を握る。震える肩に力がこもる。
「嫌です……そんな、生贄なんて」
 蜜柑ちゃんが身を引いてはっきりと宣言した。
「誰が死んでも後悔する」
「でも」
 心寧さんの大きな声に、一瞬場が静まり返る。心寧さんはその先をそっと告げた。
「でも、決めないと全員死にます」
 重く響いたその声に、暖炉の火だけが楽しそうに揺れている。
「誰か一人が食われなければ、人狼は無差別に襲ってくる。全員が身を守れば、海翔さんは餓死する」
 心寧さんは隣にいた私の肩に手を置いた。人の温かい熱が冷たい私に流れ込んでくるようだった。
「そんな……」
 柚子ちゃんの呼吸が荒くなる。
「俺は未成年を守ったほうがいいと思う」
 それを遮る様に低い博之さんの言葉が響く。
「子供を犠牲にするような選択、俺は認めねえよ。生贄になるのは少なくとも大人だ」
 腕を組んで海翔を睨みつける博之さん。
 だれも異論を唱えなかった。
「……じゃあ、私と博之さんと心寧さんの三人になりますか」
 私はできるだけ落ち着いた声を出そうとしたが、どうしたって声が震えてしまう。
 すぐには返事をしなかった。
 窓の外で吹雪が唸る音が微かに聞こえる。それを隠すように暖炉の火がぱちりと弾ける。
「……そうだな」
 博之さんの地面に落ちていくような声が空気中に溶け込んで消える。
 海翔が下を向いて震えているが、私は彼の背中に手を強く当てて言葉を紡ぐ。
「他に、意見は」
 沈黙が下りた部屋で、壁に掛けられていた防寒具が暖炉に温められていた。初日はびしょ濡れだったのに、もう湿気さえ含んでいない。
「……あの。咲楽さんは自分が犠牲になってもいいみたいに聞こえますけれど」
 心寧さんが息を吐きだす。言葉は強くはっきりとしていて、自分が食われないために戦うという意思が現れているようだった。
「……私は」
 海翔が手を強く握りしめ、掌に血がにじむのを横目に見た。
「海翔がそれでいいなら、私でも」
「いいはずないだろ!」
 怒鳴るような低い声に、私は言葉を止めた。
「咲楽を食うくらいなら、自分が飢え死にする方がまだいい。俺は咲楽を食うなんて選びたくない」
 長く息を吐きだす海翔に、誰も口をはさめない。
「他の人間が犠牲になってでも俺に生きていてほしいって言ってくれた咲楽を、俺が、俺自身が食うことを受け入れてどうすんだよ!」
 静まり返った空間にぎん、と響き渡る低い声は、大好きだった海翔の穏やかな声と似てもつかない。
「……海翔」
 私の掠れた声に、海翔は我に返る。
「ごめん。でも、咲楽を食うくらいだったら俺を死なせてくれ……!」
 再び俯いた海翔の声が震える。
「……わかった。無理しないでね」
 海翔が黙り込み、心寧さんと博之さんはお互い何も言い出さないまま私を見ていた。
「……いったん解散しましょう。お二人には考える時間が必要です」
 代わりに柚子ちゃんが暗い声で言った。傍らには怯えた様子の蜜柑ちゃんがいる。
「そう、ですね」
「ああ。……柚子、ありがとう」
 二人はやっと口を開く。誰からともなく椅子を立ち、一人、また一人と扉から出て行った。
 炎がふわりと燃え上がり、私の視線の先の海翔の涙を優しく乾かした。


 こんこん。
「あの」
 私が就寝準備をしていると、扉の向こうから遠慮がちな声が聞こえてきた。
「良ければ少し話しませんか」
 蜜柑ちゃんの声だ。
「私の部屋、使っていいので」
 今の声は柚子ちゃんだろうか。これから夜になるというのに、凛とした声はぶれていない。
「……そうね。それもいいかも。待って、着替えるから」
「いえ、寝巻で大丈夫ですよ。女子しかいませんし」
 笑い声も一緒に聞こえてきたので、私はそのまま扉の外に出た。柚子ちゃんはさっぱりとした感じの綿の寝巻で、蜜柑ちゃんは何枚も薄い服を重ねてその上に厚めのカーディガンを羽織っていた。
「私、飲み物入れてきます。……咲楽さんもお湯でいいですか?」
「ありがとう、大丈夫だよ」
 蜜柑ちゃんはぺこりと頭を下げて、厨房の方へ向かう。
「あ、先に座っていてもらって大丈夫ですよ」
 柚子ちゃんは私の方を見た。
「……蜜柑もああ言っているし、先に行きましょう」
 柚子ちゃんはニコッと笑って部屋へと私を促す。
 ——しっかりものだなあ。
 出会ったばかりの私にも丁寧な対応をしてくれるし、人狼がいるというのに怖がらずに明るくふるまっている。学級などでもクラスを引っ張っていくリーダー体質なのかもしれない。
 柚子の部屋には寝台の上に本が一冊だけ置いてあって、他は荷物なども隅の方にまとめ置かれていてすっきりしていた。暖炉の隣にある窓にはカーテンがひかれていて、外の激しく暗い吹雪を隠している。
「好きなようにくつろいでください。蜜柑もそろそろ来ますから」
 寝台のシーツをそっと整える柚子は、私と目が合うとそっと微笑む。
 ぎい、と大きめの音を立てて開いた扉から、蜜柑が顔を覗かせた。手にはお盆があって、三つのマグカップが湯気を立たせている。
「柚子は緑好きだったよね? 咲楽さんはこの桃色のを使ってください」
 そっとマグカップを手渡す蜜柑ちゃんは、自身も青色のマグカップを手に取っていすに腰掛ける。
「……結局、誰が死ぬか決まってないですよね」
「あの状況じゃね……」
 朝の話し合いの後も何度か相談したが、どうするかはついに決まらなかった。
「自己紹介の時間、取れなかったな……」
 私が呟くと、蜜柑ちゃんがマグカップに息を吹きかけながら言った。
「確かに、ちゃんと自己紹介しておいた方がよかったかもしれません……今から軽くやりますか?」
 蜜柑ちゃんの頬は寒さのせいか赤く染まっていて、可愛らしかった。
「私は峰沢蜜柑、十七です。柚子の同級生で、一緒に登山に来ていました」
 柚子ちゃんも蜜柑ちゃんに倣ってお湯に息を吹きかける。
「飯間柚子、同じく十七歳です。蜜柑とは親友で」
 柚子ちゃんは視線をちらりと蜜柑ちゃんに向ける。蜜柑ちゃんはそれに気づくとちょっと笑った。
「咲楽さんは?」
「稲谷咲楽二十三歳。普段は……一応、医療事務を。病院で受付とかしてる」
 へえ、と頷きながらお湯を啜る柚子ちゃん。
「あの。二人は寒くないですか? 火、大きくしても大丈夫でしょうか……」
 蜜柑ちゃんは寒そうに体を縮めている。その目は何度も暖炉の方に向けられていた。
 柚子がちらりとこちらを確認してきたので、頷く。
「私たちは平気だよ。ありがとう」
 ぱち、ぱちという軽やかな音と共に炎が大きく燃え上がった。薪が炎に包まれて爆ぜていく。
 椅子に戻ってきた蜜柑ちゃんがすとんと腰掛けるが、なんだかその姿がぼやけて霞んでいるようだった。煙のせいだろうか、と思って暖炉の方に視線をやると、強すぎる炎から煙が逆流してきている。
じわじわと体の奥が熱くなってきている。喉の奥に息苦しさがまとわりついてくるようだ。
「……窓、開けていいかな? 匂いもこもって狼に気付かれやすくなるかもしれないし」
 二人が頷くのを見て、私はカーテンをそっとめくって窓を静かに開けた。途端に煙がそこへ流れていき、代わりに冬の心地よいひんやりとした空気が部屋に流れ込む。
「……寒いかな。すぐ閉めるね」
 ある程度煙が出て行ったのを確認して、私は窓枠に手を掛ける。ぎ、と金属が軋む音が響く。
「いえ、このくらいなら寒くないです。閉めなくていいです」
「そうですね。閉めちゃうとまたすぐにこもっちゃいますしね」
 振り返ると、二人がゆるく首を振っていた。
「そう。それならこのままで」
 私が元の位置に戻ると、蜜柑ちゃんが身を乗り出す。
「咲楽さんは、無事に下山出来たら何をしたいですか? 私は家族に会いたいです……連絡も入れられなくて心配していると思うし」
 マグカップを見つめる視線は何処か震えていた
「……家族に、会えるといいですね。私は——そうだな、海翔とどこか旅行に行きたいかも。暫く雪はもういいけど、海翔が人狼だってわかった今もちゃんと仲良くしたいから」
「素敵ですね……。柚子はどう?」
 蜜柑ちゃんが話題を振ると、柚子ちゃんはマグカップに視線を落としたまま話しだす。
「双子の兄がいるんですけど……出かける前喧嘩して出てきたんです。仲直りしたい」
 柚子ちゃんは一瞬だけ目線を上げて、蜜柑ちゃんの方を見ずにまた下を向く。そのマグカップを握る手に一瞬力が入ったようにも見えた。
「……仲直り、出来るといいですね」
 私はそっと言葉をかけると、柚子は慌てたように私を見た。
「すみません、なんか暗い話題でしたね。咲楽さんは何処に旅行に行きたいんですか?」
「そうだなあ、沖縄とか行けたらいいな。この雪山の嫌な思い出を全部溶かしてくれそう」
 それから、しばらくは他愛のない話で笑い合った。場が暖かい空気で満たされたそのときだった。
 こんこん、という控えめなノックが響く。
「すみません、咲楽いますか」
 聞こえてきた穏やかで低い声は、間違いなく海翔のものだろう。私が視線をやると、二人は顔を見合わせる。
「咲楽さん、行ってきたら」
 柚子が小声で後押ししてくれる。
 私は立ち上がって、服装を軽く整えてから扉に手を掛けた。
「——はい、咲楽です」
 開けて覗くと、思った通り海翔が立っている。部屋着を着た海翔は昼間よりどこか柔らかい印象で、一瞬どきりとする。
「あのさ。……少し、話さない?」
 ぎこちない笑顔を向けてくる海翔。まっすぐで優しい視線を見ていると、胸がほんのりと温まってくる。振り返ると、柚子ちゃんと蜜柑ちゃんがそっと頷いてくれた。
「うん。……行こうか」
 海翔が私の手を取る。それにつられて外へ出ると、途端に肌を冷たい空気が刺すように触れる。その中で海翔の手だけが私に温もりを与えてくれていた。


 地下一階へ降りる階段の隣には、二階へ上がる階段が設置されていた。そこを躊躇いもなく上っていく海翔についていくと、そのまま三階、四階とどんどん歩いていく。
「あっ……!」
 階段に足を掛けたところで、疲労のせいか躓きそうになった。
転ぶ、と思ったその瞬間、思っていたような衝撃は来なかった。
私の肩を支える温かい手の感触がある。私がバランスを取り直すと、海翔はそっと私に笑いかけた。
「大丈夫だった?」
「うん。海翔のお陰で大丈夫」
 海翔が照れたように私の手を握りなおした。細い指から伝わる熱が、私の冷えた指先を温めてくれる。
「……行こうか」
 階段を上り切って海翔が指した先には、一つだけぽつんと扉があった。焦げ茶の木にずっしりとした黒鉄の金具がついていて、他の部屋とは趣が違うようにも見える。
海翔はぐっと力を入れて扉を開けた。
「わ……」
 予想していたよりもずっと大きな空間が目の前に広がる。広い壁に大きな窓が何枚も嵌っていて、分厚いカーテンで外が見えないようにそっと覆い隠されている。壁際に設置された暖炉は個室にあるものより一回り大きかった。その中で勢いよく燃える炎が辺りを隅々まで明るく照らし出している。おいてあるこげ茶色のソファや椅子を、温かいオレンジ色の光が包みこんでいた。
「……ここ、海翔が用意してくれたの?」
 海翔は無言で頷く。照れたように視線を逸らす姿がいとおしい。
「……ありがとう。素敵な場所だね」
 私は海翔に笑顔を向けて、火の傍のソファに腰掛ける。隣に座る様に視線で促すと、海翔も少し笑って腰を下ろした。ソファが沈み込む感触が柔らかく、包み込まれていくようで安心できる。
「……」
 海翔は燃え盛る炎をじっと見つめていた。その指先が少しだけ震えているのに気付く。
「……」
 海翔の手に自分の手を添えると、海翔のぬくもりが伝わってきた。震えていた手がそっと緩む。
「……そろそろ、日が沈む」
 ぽつり、と落とされた言葉に、私は海翔に肩を寄せる。
「大丈夫。私たちが何とかするから、海翔は安心して寝ていて」
 弱弱しく微笑んだ海翔は、声にならない言葉をつぶやいて目を閉じる。
「……俺が」
 はっきりとした言葉が告げられたのは、それからどのくらいたったときだろうか。燭台に立てられた蝋燭が大分短くなっている。
「俺が狼だったから、こんなに辛いのかな」
 私が添えたままの海翔の手に、力がこもっていた。
「こんな体じゃなかったら、咲楽ともっと楽しく過ごせたのかな……。たまに、考えちゃうんだ」
 海翔がうっすらと開けた目は、まだ黒かった。
「……いつか、咲楽を食ってしまいそうで怖い」
 視線が揺れる。黒い瞳の端が濃い琥珀色に侵食されつつある。
 それが分かった途端に、手の中にあるものが零れ落ちていくような感情に襲われた。
「海翔は今のままでいいよ。私は今の海翔が好き」
 必死に、ただそれだけを伝えると、海翔はふ、と息を吐きだして笑った。
「それはよかっ」
 唐突に言葉が途切れる。そのまま意識を失う様に倒れこんだ海翔は、荒い息をして目を開けた。
 完全な琥珀色に支配された海翔の瞳の奥に、さっきまでいた海翔の気配が消えていた。
 起き上がった淳史さんは、私に微笑む。
「咲楽。今日は誰を食わせてくれるんだ?」
 ぞっとした。
 声も、顔も、話し方も全部が全部海翔と同じなはずなのに、胸が凍るような冷たさを感じた。先程までの暖炉の火も少しだけ勢いが弱くなっているようで、部屋の隅に小さな影が出来ていた。
「淳史さん……」
 私が答えられずにいると、淳史さんは立ち上がって私に背を向けた。
「決めてないんだね。優しい、と言うべきか……」
 淳史さんの声が私の心に突き刺さる。
「だけどね、甘い。それじゃ問題を先延ばしにしているだけだよ。誰も救えない」
誰も救えない。
——その言葉が、私の胸にずしりと沈んだ。
わかってる。わかってるけど。
「今日、最低一人は死ぬ。君と海翔がちゃんと決めておけば、この『最低』はなかった」
 確実に一人死ぬだけで済むから、と静かに告げる淳史さん。
「でも……」
 反論しようとして、何も言えない自分に気付く。
 自分が言おうとしていることは、全部願望だけでできている。理屈でも救いでもなく、ただ現実を否定したいだけの言葉。
「本当は、今すぐにでも君のことを食いたいけれど」
 背中を向けていた淳史さんは、後ろ姿だけ見れば海翔と全く変わらない姿だった。
「聞いておくよ。海翔を死なせる気はあるか?」
「そんな……」
 言葉に詰まる。
 なにか言おうとしても、喉につかえて出てこない。
「どっちなんだ」
「し、死なせたくないに決まってるでしょ……!」
 本音をぶつける。誰かを犠牲にしてでも海翔に生きていてほしいという昼間の自分の言葉を、否定したくはなかった。
「そう思ってる間に、誰かが死ぬんだ」
「……!」
「君が何も決めないことも、誰かを殺す」
 誰を死なせるのか。誰なら死なせていいと思うのか。選んではいけない選択だという気がした。自分が人であるという証拠を、手放したくなかった。
「……」
「もういい。きっと君は、選べないから」
 かたい石造りの床を踏みしめて扉へ向かう淳史さんは、その表情を見せない。
「海翔が選ぶより、君が選んだ方が海翔の苦しみを和らげられるとは思わないの? 海翔を支えるなら、人間の心なんて捨てたほうがいい」
 扉を開けて出て行った淳史さんは、最後に琥珀色の瞳を私に向ける。静かな怒りが見え隠れする視線に、私は何も言えなかった。
 扉がばたんと音を立てて閉まる。
 炎の光が躍るオレンジ色の部屋で、私は膝を抱えて蹲る。海翔が用意してくれた居心地のいい部屋も、この感情のせいで楽しめない。
「……でも」
 淳史さんが去った静かな空間に、声を絞り出した。
「海翔が好きだって言ってくれた私の人間らしさをとったら、駄目な気がするから」
 返事をする人は誰もいない。暖炉がぱちぱちと音を立てて、だんだんと勢いを弱くしていった。
 自分の中で、淳史さんの言葉がぐるぐると渦を巻いていた。
 ——今日は誰を食わせてもらえるんだ?
 あの一瞬の迫力が、自分を、海翔を否定しそうになる。かぶりを振っても、思考の渦は頭の奥に張りついたまま離れてくれない。考えるほど、胸の奥がひりひりと痛んだ。
 分厚いカーテンの向こうで、風が雪を窓にたたきつけていた。揺れる炎が映る視界が、重くなる瞼と共に紅く暗く閉じていく。
 考えることすら、もうできない。
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