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1 雪狼幻夜
焔惑
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三日目だというのに、まだ吹雪は止まなかった。
はっと目を覚ますと、昨日淳史と話した場所だと気づく。時計の針は、六時四十分といったところだろうか。
「寝落ちしちゃった……」
急いで部屋着を整えて、部屋の外に出てみる。
階段には、ぐったりとした様子の淳史さんが倒れていた。
「あ、淳史さん……?」
私の声に目を開けた淳史さんは、見かけほど疲弊していないようだった。
「ごめん、階段の途中で寝ちゃって」
軽く言いながら手すりを掴んで立ち上がる淳史さんは、心なしか昨日より元気そうだった。
「淳史さんが、生きている」
「? ああ。それがどうした」
首をかしげる淳史は、昨日別れた海翔と同じ格好だった。寝巻の端が少しだけ血に濡れている。
「……誰を、食べたんですか」
声が震える。淳史さんの琥珀色の瞳の上で、小さな黒点が揺れた。
「……自分で確認してくれ」
そう言ったとたん、ゆっくりと私の方に倒れこんでくる。
「淳史さん!」
思わず大きな声を出すと、彼は再び目を開けた。
「……おはよう、咲楽」
穏やかで優しい海翔の声が耳に触れた。その瞳は真っ黒で、いつもの海翔の色だ。
頬を涙が伝った。
「……ごめん」
海翔は優しく私を抱いてくれた。柔らかい温もりが布越しに伝わってくる。
「いいよ。……咲楽はよく頑張ってくれた」
海翔は私の手を取り、階段をゆっくりと下りていく。私も海翔の手をしっかり握り返し、後に続いた。
下の階は、何だか騒がしかった。
「……」
海翔が私から視線を逸らす。
階段の下に博之さんの姿を見て、私は声を掛けた。
「どうしたんですか」
「……柚子が刺された」
一瞬、言葉の意味が理解できなかった。
「……え?」
隣を見ると、海翔も呆然としている。
「……食われた、じゃなくて刺された?」
無言で頷く博之さんは、何処か青ざめていた。そのまま歩いていくので、私は海翔の方を見る。
「……」
頷いた海翔と共に、博之さんの後を追う。
「……柚子ちゃん、生きているんですか」
「ああ。意識を失っているが、脈はあった」
しっかりとした声。動揺しているのが伝わってくるが、堂々とした様子で柚子の部屋の扉を開ける。そこには寝台の上で血を流している柚子と、付き添っている蜜柑がいた。
「咲楽さん! 海翔さん……」
蜜柑ちゃんは私たちを見て小さく安どの息を吐きだす。けれど、その視線が一瞬海翔の方で止まった。けれど、すぐに柚子の方に視線を向けなおす。
「今手当をしようとしているんだが、心寧が呼んでも部屋から出てこないんだ。鍵も開いていて……」
博之さんの言葉に、蜜柑ちゃんがこくんと頷く。
私と海翔は視線を交わすと、心寧さんの実験室に向かった。
「失礼します!」
扉をあけ放つと、火が消えた部屋に私の声が虚しく反響した。机には温もりの抜けたマグカップがあり、蓋が開いたままの薬瓶が倒れて机に染みを作っている。
「……いない」
倒れた椅子や実験器具を見て、海翔は一瞬で何が起きたかを理解したようだった。散らかったメモ書きの隙間のわずかなスペースに、白い紙に滲んだ赤い液体がある。
「……」
海翔はその場にうずくまった。それを見て私も全てを理解する。
「おい。どういうことなんだよ、嬢ちゃん」
博之さんが私に問いかける。私は答えようとするが、口にしてしまえば海翔が傷つくという可能性に思い当って口を閉じる。
が、それより先に海翔が口を開いた。
「心寧さんは……」
一瞬、言葉を探すように海翔の視線が泳ぐ。唇に血がにじんでいく。
「——昨晩食われた」
実験室の壁にもたれかかる海翔。
「……淳史に」
部屋にしん、と沈黙が下りた。
吹雪が窓を打つ音がやけに大きく響く。
私は海翔の背中に手を当てた。海翔の胸の内でどんな感情が渦巻いているのか、少しでもその負担を和らげたかった。
「……柚子を」
博之さんの掠れた一言が響いた。
「柚子を手当しなければ」
海翔が無言で立ち上がる。心寧さんの実験室から包帯や消毒液を探しだし、腕に抱えていく。
私もそれに倣おうとして、机の上に青い液体が入った瓶が乗っているのに気付いた。
蓋は可愛らしい紙のラベルで閉じてあった。中でとろりと群青色の液体が光る。その下に小さなメモ書きが残されていた。
〈海翔さんに——〉
メモをすべて読んだ私は、瓶と傍に置いてあった細い注射器を箱に入れ、上着のポケットにしまう。そのままいろいろなものを抱えた海翔と博之さんに続き、散らかった実験室を後にした。
柚子ちゃんの部屋では、蜜柑ちゃんがスマートフォンを触っていた。入ってきた私たちに気付くと、その画面をこちらに向ける。
「応急処置の方法、調べておきました」
海翔が画面をのぞき込む中で、私は画面の端にある十二パーセントという文字の隣に圏外のマークがついているのを目にとめた。
「圏外なのに、調べられるの?」
「ファイルのアプリに何冊か電子図書を入れてあります……。普段から読めるようにしてあるんです」
見てみると、何冊か参考書らしきものが入っていた。普段から勉強している分野なのだろう。
「……わかった。やってみよう」
博之さんが画面を手元においててきぱきと作業を進めていく。段々と血が止まり、柚子ちゃんの顔色も良くなっていくようにも見えた。
蜜柑ちゃんはその中で思いつめたような顔をしていたが、やがてはっとしたように立ち上がった。
「私、お水持ってきます」
落ち着いたような声を発した蜜柑ちゃん。その軽い足音が厨房の方へと消えていく。友人が怪我したことで気が急いているのか、心なしか早足に聞こえた。
「……柚子ちゃんのからだ、どうですか」
私が聞いてみると、博之さんは眉をひそめて言う。
「柚子の容態なんだが……薬が使われているようなんだ」
「薬……?」
海翔が顔を上げた。博之さんの手伝いをしていた彼は、柚子の方に視線を向けて戸惑った声を上げる。
「確かに、出血の様子からして刺されてから時間が経っているのはわかります。刺された時間が深夜なら、普通は悲鳴を上げるとかするよね……?」
そう言いながら、海翔は少しだけ首を横に振った。
「咲楽はどう思う? 俺は文系だから咲楽の方が詳しい」
「私も文系だよ? ……まあ、普通に寝ているところを刺されたら起きるよね」
柚子ちゃんの顔はあまり苦しんだ跡のない穏やかな表情だった。それがかえって不自然な気がする。
「ああ。何らかの睡眠薬が使われているのかもしれない。蜜柑に調べてもらうか……」
心寧がいればもっと簡単に絞り込めたかもしれないな、と博之さんは大きく息を吐きだした。
「過ぎたことを言っても仕方がないだろ。それより、腕を刺されたということは誰かが夜中に包丁で刺したということだろう? 犯人を捜した方がいいんじゃないか」
部屋の棚に、血の付いた一本のナイフが置かれていた。乾いた焦げ茶色の木の上に、煌く金属製のナイフはぽつんと異質なもののように見える。
「心当たりはあるか」
私も海翔も、何も言わなかった。暫く海翔と視線を合わせ、ようやく口を開く。
「博之さん。私は昨日柚子ちゃんと別れてからずっと五階にいました。淳史さんはどうか知りませんけれど、少なくとも海翔とは一緒にいました。私たち、本当に何も知らないんです」
博之さんは私たちのことをじっと見た。
「……どこまで本当だろうな、嬢ちゃん。……だがそれが本当なら淳史がやったということか……?」
——今日、最低一人は死ぬ。君と海翔がちゃんと決めておけば、この『最低』はなかった——
淳史さんの言葉が脳裏に浮き上がる。
「淳史さん……かもしれません……けど」
私は殆ど上の空で返事をした。
「いや……あいつならわざわざそんなことをしなくても扉を破って侵入すればいい話。気に入らないやつは人間のふりをして近づいて、で——食う。それで終わりです」
海翔は少しだけ自虐気味に言った。
海翔は昔、収容されていたことがあるらしい。
それを聞いたのは、今日の昼間だった。
昔の淳史さんは、もっと乱暴な人だったらしい。気に入らない人を全員食い殺す、と言って夜の街を駆けまわっていたという。人を食べるときもわざと食い散らかすことで世間に恐怖を植え付けていた、らしい。
海翔はそのころ、まだ中学生だった。淳史がやったことを自分の意志じゃない、と証明する頭も、証拠もなかった。
「自分の録音されていた声を聞かされた時、どれだけおぞましかったか……」
海翔は苦笑いして言ったけれど、辛かったに違いない。私が支えなくちゃ、と思った。
「出所——というか、ほぼ力ずくで脱獄して、今まで何とか生き延びていた。成長期のころは毎日二、三人人を食べなくちゃいけなくて、朝になったら目の前に殺された警官数人が転がっている。……咲楽と出会ってから、出来るだけ逃げたり騙したりするようにしたんだけれど」
数日に一回、日没直前に私に断って出かけていく海翔。理由は言えない、と言われたから聞かなかった。
——まさか、人を狩りに出ていたなんて。
俺のこと嫌いになった? とつぶやいた海翔に、ううん、全然そんなことない、大好きだと返したところで海翔は沈黙する。頬がほんのりと赤くなっていたから、きっと私の気持ちは届いていたはずだ。
「じゃあ、誰がやったんだよ」
私の話を聞いていた博之さんは、なぜかだんだんと不機嫌そうな表情になった。
「そもそも、夜中の廊下に出歩いたら狼に食われるって……。廊下以外から侵入するルートなんてあるのか? 窓には鍵がかかっているはずだろ」
博之さんの視線を追うと、開けっ放しの窓があった。二重構造のため吹雪は入ってこないが、少し寒い。
「こんな雪の中で窓を開けるなんて……柚子はどうしたんだ」
「あ、でも……」
私は昨日の記憶を思い起こす。
「昨日、暖炉の火が強くて少し煙たかったので私が開けたんです」
私は二重になっている窓の両方を数センチメートルだけ開けたはずだった。けれど、今窓は外側の窓はぴったりと閉まっていて内側の窓は中途半端な位置で開けられている。
「昨日と、違う……」
胸の奥がざわついた。
「あれ? 皆さん、どうしたんですか?」
場違いなほどに可愛らしい声が聞こえて、私たちは振り返る。扉の前で、湯気の立つ鍋とマグカップを乗せたお盆を持つ蜜柑ちゃんがいた。
「遅かったな、蜜柑。ありがとう。……柚子を刺したのが誰か、わかっていないと怖いだろ?」
博之さんが言って、蜜柑からお盆を貰おうとした。
「いえ……。柚子の為に、私が何かできることがあるならやっていたいんです。私、頭良くないですし……だから、皆さんは犯人捜しを続けてください」
寝台の横の小机にそっとお盆を置く蜜柑。その表情からは悲しみと僅かな決意が読み取れて、私たちは顔を見合わせる。
「……場所を変えよう」
海翔が静かに言って、扉の外に向かった。私も無言でその背中を追う。
暫く、蜜柑ちゃんと柚子ちゃんを二人きりにさせてあげたかった。
廊下に出ると、蜜柑ちゃんの部屋のドアが開け放たれていることに気付く。ちらりと中をのぞくと、蜜柑ちゃんの部屋は柚子ちゃんの部屋よりいくらか雑多な感じだった。暖炉には少し強すぎるオレンジ色の炎が、轟々と燃え続けている。
その床にぼんやりとした染みがあるように気がして、思わず二度見してしまった。
——よく見るとそれは防寒具の下にできた乾きかけの水たまりだった。防寒具自体はしっかりと乾いているようだったが、水たまりは乾きにくいのだろう。
「——それで」
最初の夜に話した広めの部屋——通称、ラウンジ。
「誰が柚子を刺したか、ですよね」
海翔が博之さんを睨んだ。
「単刀直入に言います。俺は博之さん、貴方が怪しいと思ってる」
博之さんは一瞬驚きの表情を浮かべた。声を詰まらせた博之さんは、やがてゆっくりと話し出す。
「そんなわけないだろ? 俺は、俺はただ柚子と蜜柑を守りたいだけだ」
言いながら、自分の言っていることがただの感情であって、全く否定できていないことに気付いた様子だった。
「……証拠なんてないだろ」
博之さんは警戒するように僅かに身を引く。
「まず、俺と咲楽はお互いが知っているアリバイがあるから除外できる。狼に襲われた心寧さんも。柚子が自分でやったということは……ありえないよね?」
私の方をちらりと見る海翔に、慌てて言葉を返す。
「睡眠薬が使われているのなら……それに、何のために」
「残りは蜜柑ちゃん、淳史と博之さんになります」
窓の外で吹雪が唸る。時計の秒針が音を立てて進んでいく。
「でも、淳史には動機がない。というか、動機があってもわざわざ致命傷を避けてナイフを刺す必要があるとは思えないです」
それに、と続ける海翔が一瞬笑っているような気がした。
「咲楽が窓を確認した時、昨日と違うって言っていました。窓からなら狼に勘付かれずに他の個室に侵入できる。それが出来るのは個室を使っている人だけじゃないですか」
それじゃ蜜柑も同じじゃないか、と言いかける博之さんを遮って、海翔が小さな空き瓶を取り出した。小さなラベルには心寧さんのメモと同じ丸くて小さい文字がこまごまと書かれている。
「博之さんのコートを掛けているところの下に転がっていました。詳しく調べないとわからないけれど、恐らく何らかの薬が入っていたはず」
目を見開く博之さん。海翔はそれに構わずに続ける。
「夕飯の時にカップを片付けていた博之さんなら、洗った後に睡眠薬を仕込めるんじゃないですか? 柚子を眠らせて、夜の犯行を成功させるために」
私が確かに、と頷くと博之さんは頭を押さえた。
「待ってくれ……」
博之さんは暫く黙っていた。私と海翔が返答を待つ間、暖炉の火が爆ぜる音がやけに大きく響き渡る。
「……そうやって俺を犯人に仕立て上げようとしているお前が怪しいんじゃないのか」
海翔が眉を顰める。博之さんは語調を強めた。
「小瓶なんて、偽装できるだろ。その小瓶が転がっていた証拠はないんじゃないか」
今度は海翔が黙る番だった。私の方をちらりと見やる海翔は、私が小さく首を振ったことで博之さんに視線を戻す。
「……蜜柑に聞いてみたらどうですか? 夜はラウンジにも何回か来ていたはずです」
「……! 今は二人きりで置いといてやりたいんだよ」
苦し気に呻く博之さんが、犯行をするとは思えなかった。
「あの……博之さんは、どうして柚子ちゃんと蜜柑ちゃんにこだわるんですか」
私は誰かが柚子ちゃんを刺したとは思いたくなかった。この中の誰もが、出会って数日だけれどいい人だと思っていた。海翔がやったかもしれないなんて考えたくもなかった。
「博之さんと二人は初対面なはずですよね。出会ったばかりの少女二人にこだわる理由ってあるのかなって」
博之さんは私の方に弱弱しい視線を向ける。
「嬢ちゃん……俺のことを、信じてくれるのか」
「……信用は、していませんけれど。でも、博之さんがそんなことをする人だとは思えなくて」
博之さんは一瞬驚いたような表情を浮かべる。一言ずつゆっくりと選びながら話しだした博之さんに、海翔は普段の穏やかな視線を向けている。
「俺は……俺は、昔守れなかった子がいる。……それだけさ。全然関係ない柚子と蜜柑と、そいつらが重なって見えるんだ。……生きていてほしいんだよ」
博之さんの表情はかたく、何処か痛ましげだった。自分を責めるように視線を逸らした博之さんの横顔を、海翔はすぐには返事をせずにじっと見つめている。
——博之さんはまじめな人だと思う。
柚子ちゃんと蜜柑ちゃんを守りたい、という純粋で真っすぐな想いを抱えているようだった。
……でも、だからこそ。
一歩間違えただけで暴走してしまいそうな、危うさを秘めているようにも見えた。
「……私は、博之さんがやった可能性も否定できないと思う」
私が口を開くと、海翔が静かに視線を送ってくる。肯定なのか、否定なのかもわからない柔らかい視線。
「この塔に避難してきた人たちはみんな優しい人だったから、この中に柚子ちゃんを刺した犯人がいるなんて、信じられない。……だけど、その人はいなさそうなだけで確実にいる」
暖炉のオレンジ色の炎が、海翔の真っ黒な瞳に映りこんだ。
「そういう意味では、博之さんは感情多めに理屈を少し混ぜてきている感じが……なんか、犯人っぽいかも。少なくとも、私とずっといた海翔よりは怪しい」
博之さんがゆっくりと俯く。小さな決意の灯を宿した瞳が、私から外れて海翔に向けられる。
「……そうか」
博之さんの声は、どこか遠くを見つめるように沈んでいた。
自分の中の何かを、そっと引き取っていくような声音だった。
「咲楽」
海翔の優しく包み込むような声に、私は振り返る。
「……俺を疑ってくれても、大丈夫だから」
いつの間にか私のすぐ傍に立っていた海翔は、そっと耳打ちする。
「俺が疑われた時、咲楽も疑われるのは嫌だ」
私は海翔の手をそっと取った。
「でも……私はいつでも海翔の味方でいたい」
海翔は何処か儚げな笑みを浮かべて、私の手をそっと握り返してくれる。細い温かい指が私の手の上を滑って、しっかりと掴んだ。
「ありがとう。でも、咲楽が傷つくのだけは見たくないから……無理はしないでね」
暖炉の方に悲しそうな目をやった海翔の横顔が、なぜか目に焼き付いていた。
博之さんはいつの間に出て行ったのか、もういなかった。ラウンジの限られた空間に、二人分の呼吸音が響く。
「……海翔」
私の声にきょとんとしている海翔。一瞬だけ細められたその目は、私の次の言葉で大きく見開かれた。
「大好きだから」
目を閉じて、海翔に寄り添うように力を抜く。海翔の生きている温もりが感じられた。
「俺も」
短く返した海翔。瞼の裏には明るい炎の熱。ぱちぱちと弾ける薪。
「……」
ぎい、ばたん。
扉が閉まる音がして、私はそっと目を開けた。視界に入る炎の大きさは変わっていないけれど、蝋燭が短くなっている。
起き上がると、胸からはらりと毛布が剥がれ落ちる。軽い音を立てて床に落ちた毛布は、少しだけあたたかかった。
机の上には湯気を立てている湯呑と小さなお茶碗が置かれている。桜の模様が入ったお箸も用意されていた。
お茶碗にかけられていた布巾を取ると、中から炊き立てのご飯が現れる。真っ白なお米を見た途端、思わず雫が頬を伝った。
置いてあるメモ書きは海翔の文字だった。——それだけで、十分だ。
「柚子っ? 柚子っ!」
下の階に降りると、博之さんの慌てたような声が聞こえてくる。
「咲楽? 大変だ、柚子が……!」
海翔と蜜柑ちゃんが付きそう寝台の上で、柚子ちゃんが苦し気に目を開ける。その額には幾つもの汗が浮かんでいて、私を見つめる瞳は何処か震えている。
「咲楽さん……」
柚子ちゃんが私に手を伸ばした。普段は凛としている声も今は掠れていて、呼吸が荒くなっている。
「毒です、これ……!」
その言葉に、私だけではなく海翔と博之さん、蜜柑ちゃんも息を呑んだ。
「な、誰がそれを……!」
息を苦しそうに吐きながら、柚子ちゃんは蜜柑ちゃんに視線を向ける。
「犯人は……」
そこで柚子ちゃんが言いよどんだのを見て、蜜柑ちゃんが叫んだ。
「ねえ、誰にやられたの? 教えてよ……! 柚子が苦しんでいる分、絶対に犯人にも償わせるから……!」
その瞳には小さな涙の粒が浮かんでいる。
「……!」
柚子ちゃんは大きく目を見開いた。咳と共に血が吐かれる。
「——ごめん、……知らないの」
慌てて寝台のまわりに駆け寄る私たちに構わず、柚子ちゃんは蜜柑ちゃんの方にだけ言葉を向けた。
「そんな……」
蜜柑ちゃんは柚子ちゃんの冷たくなっていく手を取る。
「私のことなんていいの。蜜柑は復讐なんて考えなくて、ただ楽しく暮らしていれば、それでいい」
柚子ちゃんがまっすぐな視線を蜜柑ちゃんに向けた。直後、柚子ちゃんの体が痙攣する。あえぐ柚子ちゃんは蜜柑ちゃんの手を強く握り、笑った。
呼吸音がだんだん弱くなっていき、瞼が下ろされる。眠る様にそっと沈んでいった意識は、もう二度と上がってこない。それを、冷たくなっていく体が告げている。
「柚子……!」
蜜柑ちゃんの悲鳴ともつかない声が響く。博之さんは視線をそっとそらし、海翔は穏やかな視線をほんの少し伏せる。
——信じられなかった。
柚子ちゃんはまだ生きていて、今にもあの凛とした声で話しかけてきてくれるんじゃないかと、そんな期待が心の何処かで膨らんで、割れる。
「柚子ちゃん……」
だって、柚子ちゃんは息をしていない。体が冷たい。心臓の音も聞こえない。
心寧さんが消えるようにしていなくなってしまったのも、柚子ちゃんの死体を見ると急に怖くなってくる。
いつもより強い炎が、ふわふわと揺れていた。
「今日は……」
「うん、今日は大丈夫。昨日心寧さんを食ったから」
日没になって表れた淳史さんは、私の問いに軽く答える。
「ねえ、柚子ちゃんが死んだ理由に心当たりって……」
「ない。そもそも君から今日の出来事を聞いたばかりなのに、知ってるわけない」
淳史さんは首を振り、一昨日閉じこもった地下室に入る。
「……まだ十二時まで時間あるよ? 良ければこっちで話さない?」
扉を閉めようとした向こうから、淳史さんの明るい声が聞こえてきた。
「え……」
私が決められずにいると、淳史さんは扉を押し開ける。
「早く!」
その声に押されるようにして私は部屋の中に入る。ちらりと淳史さんの手首に嵌る手錠を見た。今回も私がつけたその手錠は、淳史さんの体の自由を奪うと同時に狼の自由も奪っている。
背後でガチャリと扉が閉まった。なんだか閉じ込められているようで少し怖くなってくる。
「ほら、咲楽も座って?」
木製の椅子に腰かけた淳史さんは、私にも同じものを勧める。私は素直に腰掛けた。
「……海翔は、元気だった?」
淳史さんは私の方に穏やかな視線を向ける。その奥には海翔と違う、はっきりとした意思が見えている。
「……貴方が心寧さんを食ったこと、すごく動揺していた」
私が警戒して話すと、淳史さんは「そんなに緊張しなくていいのに」と笑う。「本当だよ。一人食えば三日はもつ。君を食べることはしない——今はね」
安心できる要素が欠片もない気がしたが、それを今言ったところで淳史さんの心を傷つけるだけだろう。そう思って、淳史さんを見ると、私の方をじっとうかがっていた。
「海翔は……柚子ちゃんも死んで、午後はずっとふさぎ込んでいた」
死んだ。すらすらと出てくる言葉が、果てしなく重たいもののような気がする。
「そっか。柚子さんはまだしも、生きるために食うっていうことには慣れているはずなんだけれど……人間らしさを捨てきれていないところが海翔の弱みだよね」
暖炉がない部屋で、壁際の燭台の炎だけが静かに揺れている。
「……海翔が心寧さんの死を悲しんでいるのは、優しいからだよ」
ぽつり、と自分の言葉が静かな部屋に転がる。
「私はどんな海翔でも好きだけれど……でも、優しい海翔は大好き」
そっと告げた言葉に、淳史さんは私に笑う。
「そっか。まあ、弱さあってこその人間だもんね。僕と違って、海翔は人間だから」
人狼であることがどれだけの苦しみになるか、私は知らない。けれど、その苦しみを少しでも分かち合ってほしいと思う。
「淳史さんも」
私の言葉に怪訝そうに首を傾けた淳史さん。
「淳史さんも、優しい人だと思う」
淳史はそっと微笑んだ。
「あくまでも、僕は副人格。本当のこの肉体の持ち主は海翔だから」
悲し気な色を携えた瞳を、ただ見つめることしかできなかった。
淳史さんは、会話の終わりににこやかに笑った。
「……咲楽。もしこの吹雪が止まなくて、麓まで行けなかったら……僕は君も食う。それで海翔がどう思おうが、僕の知ったことじゃない。……だから、覚悟だけはしておいて」
急に言われても、と思いながら私は言葉を選ぶ。
「……もし海翔が、私を食ったことに罪悪感を抱いたとしても、生きていればいつかは立ち直れるはずだと思う」
生きてさえいれば、と口の中で転がす。
「……そうだね。君は本当に優しい」
淳史さんは笑みを消す。
「そろそろ時間だね。今日は比較的抑えるのも楽だと思うけれど……でもね、君らが餓死しなくても腹が減るのと同じように、狼もまた人間の血肉を求めている。……油断しないでね」
淳史さんの言葉に、頷く以外の動作ができただろうか。後から思い起こしても、きっと無理だったと思う。
蝋燭の炎は小さく、それでも確かに暗闇を取り払って揺れていた。
いつか消えてしまうのに、一生懸命に生きる人間とそれが重なる。
「海翔……」
今は眠っているその名前を、何度も確かめるように呟く。
石造りのうっすら緑がかかっている壁が、ひんやりと冷たい。
階段を上る音が、淳史さんに初めてあった日の夜と同じように寂しく大きく塔に響いた。ラウンジから漏れる明かりに、廊下が照らし出される。
個室に戻るまでの暗い短い道のりで、海翔の声がずっと心の支えになっていた。
三章 鎖月
窓の外に見える吹雪は、昨日よりももっと暗く日光を遮っていた。
地下室の扉の鍵を回し、半ば機械的にそれを開ける。
「淳史さん……」
椅子にもたれかかっている淳史さんの顔色は、かなり良くなっているようにも感じた。
「咲楽、おはよう……」
気だるげに告げた淳史さんの瞳は、もう黒く染まり始めている。
「でも、もう寝なくちゃ」
すとんと落ちた瞼は、直後にゆっくりと開かれる。
「……咲楽」
海翔の穏やかな声が聞こえて、私の肩から力が抜ける。
「海翔……」
海翔は無言で立ち上がった。私はそっと彼の手首の手錠を外す。
「……よかった、無事で」
「うん。……寒くない?」
海翔が私に近づく。額が触れ合うほどに距離が狭まる。
「……海翔がいるから、寒くないよ」
人の肌の熱が額を通して私に流れ込んでくる。海翔は私の手を取った。
「……ありがとう」
小さく呟かれた言葉に、目を閉じて浸る。この時間だけは、張り詰めていた気持ちもほぐれて温まる。
地下室の外は蝋燭もなく、窓の吹雪だけが明かりのもとだった。海翔と二人で並んで歩く足音が、軽く廊下にこだます。
「ねえ、咲楽」
海翔が階段をのぼりながら言った。
「柚子ちゃんを刺した人って、誰だと思う」
私はすぐには答えられなかった。
「……たぶん、博之さん」
言葉が途切れると、足音だけが私と海翔の間に響く。
「なんか、冷静だし。あとは、海翔が言っていた薬の瓶の事もあるけど消去法かな」
海翔が無言で頷く。その視線はいつもの穏やかなものだった。
「蜜柑ちゃんに、あの日の夜何をしていたのか聞いてみよう」
海翔の言葉は、柔らかい口調だったけれど何処か鋭さも秘めていた。
「そうすれば、誰がやったかきっとわかる」
吹雪が窓に当たる音が寂しく響く。
ラウンジに行くと、そこには既に博之さんと蜜柑ちゃんが座っていた。
「おはようございます……。今日は誰も消えなくて、良かったです」
蜜柑ちゃんの控えめな挨拶が私たちに届く。
「おはよう、蜜柑ちゃん。博之さんも、おはようございます」
私が微笑を浮かべてあいさつすると、海翔もそっと頭を下げた。
「あの、二人は……柚子ちゃんが刺された夜、何処にいたんですか?」
私がそっと問いかけると、蜜柑ちゃんと博之さんは首を傾げた。
「柚子ちゃんを包丁で刺して毒を盛った人がいるのって、落ち着かないです」
私の意志を伝えると、蜜柑ちゃんの拳が握りしめられる。
「確かに、この中に犯人がいることに変わりはないんですよね。柚子を殺したやつを警察に突き出すためにも、探さないと……!」
下を向いて話す蜜柑ちゃんの視線は、読めなかった。
「……そうだな」
博之さんもどこか寂しそうに空席となった柚子の椅子を見つめていた。
暖炉の火が大きく燃えて、部屋の中に影と光の差をくっきりと映し出す。口を開いた蜜柑ちゃんは、少しためらいがちに話し出す。
「私は——咲楽さんと柚子と話した後、心寧さんに薬草を取りに行っていたんです」
海翔が疑わし気に聞き返す。
「こんな吹雪の中で?」
確かに外はとてつもない吹雪だった。もう数十センチ先も見えない。
「ええ。中庭は雪もそこまで積もっていなかったので」
この塔には中庭があった。小さな庭だったが、五階まである塔が雪の侵入をある程度防いでいるようだった。
「そうなんだ。じゃあ、コートの下に水たまりができていたのって……」
「はい。防寒着を着ていったら当然ですが濡れてしまったので、早く乾かそうと思って火を強めにしていました。水たまりって、なかなか乾かなくって」
蜜柑ちゃんが頷くのに、博之さんは勢いよく身を乗り出した。
「おい、蜜柑を疑っているのか」
その顔は険しく、信じていたいという気持ちが痛いほど伝わってくる。
「……あの場で柚子に毒を盛れたのは、ここにいる四人だけでしょう。この中の一人が、必ず噓をついている」
海翔が顔を背けていう。海翔だって、私のことを信頼してくれている。私だって、海翔のことを信頼している。だから、私の中で犯人は博之さんか蜜柑ちゃんだけだ。そういう気持ちが、博之さんの中にも蜜柑ちゃんに対してあったのかもしれない。
「……私は、海翔に対する信頼を捨てられるとは思えない。けれど……」
私の言葉が、暖炉の火の音にかき消されそうになっていく。
「蜜柑ちゃんのことも、博之さんのことも信じたい。でも、そうしたところで、柚子ちゃんはもう戻ってこない」
誰かが唾をのむ音が聞こえた。
「真実を見つけましょう。もう、誰も死なせたくない」
ラウンジの静かな空間に、それははっきりと響く。
「……そうだね。蜜柑ちゃんの言葉は嘘か本当かわからないけれど、博之さんの言葉も聞いて決めよう」
海翔が頷き、私の肩に手を乗せる。
私と海翔が揃って視線を向けると、博之さんは言いにくそうにしていた。
「あー、なんといったらいいんだか……」
私たちの目に疑いの色が現れていくのを見て、博之さんは慌てたように言葉を重ねる。
「んなわけないだろ? 俺が柚子を殺すなんて」
そう言われても信憑性がない。
疑いの目が向くにつれ、博之さんは机をたたいた。
「言えばいいんだろ、言えば! あの日俺は、狼が柚子と蜜柑の部屋に行かないように仕掛けを作ってたんだよ」
目を見開く海翔。私も驚きを隠せずに立ち尽くす。
「狼は無差別に襲ってくる。柚子や蜜柑が襲われない保証なんてどこにもないじゃないか」
蜜柑は悲しそうに目を伏せる。もしかして、知っていたのだろうか。
「それは……どこに」
「柚子と蜜柑の部屋の前にある」
私たちの顔が曇ったのを見て、博之さんはさらに慌てた。
「いや、狼って鼻が利くだろ? 野生動物よけに持ってきた大蒜を仕掛けただけだ!」
「本当に……?」
海翔が穏やかな感情の読めない目を博之さんに向ける。
「ああ。なんなら今からでも見せに行ける」
「じゃあ、行ってみましょう」
私たちが席を立つと、蜜柑ちゃんもそっと立ち上がってついてくる。
「私、それを説明してもらって、実際に匂いを嗅いだんですけれど……確かに大蒜でした」
蜜柑ちゃんが説明するけれど、海翔は「とにかく俺たちも実際に見てみる」といってどんどん進んでいく。
「へえ……」
確かに、廊下の端に容器が置いてあり、そこから微かに大蒜臭がする。私たちは普通に通っていても気づかない程度だけれど、狼にとってはこれだけでもかなりきつい。海翔も微妙な顔をしている。
「確かにこれなら狼は避けるだろうな……。だが……」
口元を抑えてよろめく海翔を慌てて支えた。
「大丈夫?」
「うん。ありがと、咲楽」
海翔は私に支えられながらも博之さんの方を軽く睨む。
「分量を間違えたら、匂いが廊下中にあふれて俺が誰も食えなくなる可能性もあったな」
穏やかさを残した、それでも責めるような視線に博之さんは下を向く。
「それでも柚子と蜜柑だけは生きていてほしい……!」
二人が助かれば俺が餓死してもいいっていうのか、と海翔は俯いた。
「否定しないよ。俺が死ねば誰も食われない」
廊下の薄暗い空間で、私は黙って海翔を見つめる。
「けど、俺には咲楽がいるから」
その真っ黒な瞳が、私の方を向く。
「咲楽を残して死ぬのは、嫌だ」
手を握られる。私もそれを強く握り返して、博之さんに向けて言う。
「私も、海翔に死んでほしくない。博之さんが柚子ちゃんや蜜柑ちゃんに死んでほしくないと思うのと同じように、私も海翔には生きていてほしいから」
蜜柑ちゃんは静かに目を伏せていた。博之さんは少しだけ沈黙する。
「ああ……そうだな」
その瞳の奥には、怒りでも疑念でもない、柔らかい感情が渦巻いている。
「このままじゃ、何も見つけられません。……疑わなければ」
海翔が言う言葉は、博之さんだけじゃなくて私と蜜柑ちゃん、そして海翔自身にも向けられている。それを聞いた博之さんは、やがてぽつりと漏らした。
「信じたいと思うことは、駄目なのか」
蜜柑ちゃんがそっと顔を上げた。海翔は黙っている。
「……俺は、柚子を守り切れなかった」
博之さんの言葉に悔しさが滲んでいることに気付く。
「……蜜柑だけでも守りたいと思うことは、駄目なのか」
海翔は溜息をつく。
「駄目じゃ、ないと思います。誰かを守りたいって思う気持ちは、間違っていないです」
私は海翔の方をちらりと見る。海翔は私に頷いて、視線を戻した。
「……けれど今は、その信頼が自分の命を落とす結果になるかもしれない」
私が引き継ぐと、博之さんは片腕を抑える。俯きながらもこちらを見ている博之さんは、どこか苦しそうに瞬きを繰り替えす。
「騙しあいっていうのは、そういうものです」
私の一言で、博之さんはそっと顔を上げた。蜜柑ちゃんが震える。
「お前らもそうだろ。お前らだって、お互いを信頼し続けたらいつか死ぬだろ」
海翔は唇を噛んだ。
「俺は——もし俺が咲楽に騙されていても、……咲楽を、許せる。咲楽の為に、死ねる」
海翔の瞳に雪の冷たい光が映りこむ。穏やかな視線は冷たくなり、一瞬だけ刺すように虚空を見た。
「私も……。海翔になら、殺されてもいい。海翔がそれで、幸せになるのなら」
視線を下に向けると、暗がりに自分の足が見えた。静かな沈黙が肌に纏わりつく。
「博之さんは、どうなんですか」
私は博之さんを見なかった。ただ、隣にいる海翔の存在だけが身近に感じられた。
「……その言葉、いざってときに後悔するぜ? 言うのは比較的簡単だが、実行するにはそれなりの勇気がいる」
はあ、と息を長く吐いた音がした。
「若いな、二人とも。俺は正直、自分の命まで蜜柑に預ける気は全く無い。……ただ、お前らが悲観視しすぎているだけだとは思う」
吹雪が外で唸り声をあげているのが、窓越しに微かに聞こえた。
「……失うことが、怖くて」
海翔が沈黙を裂くようにはっきりと告げる。
「俺より先に咲楽に死なれたくないだけ」
穏やかで、何処か沈んでいて、それでも私の手を力強く握る海翔に、私はそっと目をやった。
「何千回も人を殺した。傷つけた。大切な人を、物を、想いを奪った」
全部、と海翔は続ける。瞳の奥にある穏やかさは、普段の海翔と同じだった。
「全部、見てきたから。俺の被害者が、どんな反応をしてきたか」
どこまでも澄んだ漆黒の瞳が、私を見据える。
「……それでも俺が狂わないように、生きて、傍にいてほしい」
私は無言で頷いた。雪明かりだけが廊下の闇を照らし出す。
「……でも、これで博之さんの潔白が証明できましたよね……?」
蜜柑ちゃんの控えめな声。
ラウンジに戻った私たちは、席について暖を取っていた。
「そうしたら、誰が柚子を殺したんですか……?」
誰も返事をしなかった。
「私、許せないです」
蜜柑ちゃんの怒りに震えた声が、さらに沈黙を重くする。
許せない——その言葉は、もしかしたら本物の怒りじゃないかもしれない。蜜柑ちゃんのさっきまで震えていた手も、今は落ち着いて机の上に乗っている。
でも、博之さんは博之さんでずっと黙っている。それは守るためじゃなくて、何か隠しているのかもしれない。
「私視点だと」
息を深く吸い込む。海翔を信じると決めた——その事実が、心に一つの灯を作る。
「私視点だと、蜜柑ちゃんと博之さんのどちらかが犯人です」
だって、海翔はあの日ずっと私の傍にいた。淳史さんは大蒜が仕掛けられている部屋にわざわざ行ってナイフを刺したりはしないし、時間帯的に毒を盛ることもできない。心寧さんは狼に襲われていたのに、そんなことをする時間もない。
「だから……二人の証拠を教えてください。全部、本当かどうか見極めてやります」
頬が熱い。けど、暖炉の火はそんなに強くない。
「……! 咲楽さんがそこまで言うのなら、私も全部話します……!」
「嬢ちゃん、アンタが犯人である可能性も俺が暴いてやる!」
窓ががたがたとなった。海翔は私の手を黙って取っている。
「わかりました。……始めましょう」
蜜柑ちゃんと博之さんは視線を交わす。
「……じゃあ、私から。——私、心寧さんの研究が普段勉強している分野と同じだって、初日の夜に話して知って。それで、その日からいろいろ聞いたり、研究室を見せてもらったりしていたんです。私が手伝いたいって言ったら、心寧さんが薬草を探してきてといっていたので、中庭に行ったんです! 本当にいろいろなものが生えていて、もしかしたら人狼を人間に直せるようになるかもしれない成分も……!」
海翔がぴく、と反応した。
「……そんなものを、今更」
「……」
蜜柑ちゃんは一瞬黙った。
「……それで、あの日も遅い時間まで話をしていたんです。気づいた時には二十三時半で、……すぐ個室に行きました」
「……そのあとは?」
私が尋ねると、蜜柑ちゃんは唇を噛む。
「ずっとスマートフォンの明かりで、成分の計算をしていました。そういうことをしていると、怖さも少しだけ緩むので。それに、あと少しだったし。……気づいたら寝ていて、朝で、心寧さんはいなくて……」
だんだんと小さくなっていく蜜柑ちゃんの声に、私は頷いた。
「……採ってきた薬草は?」
聞き返すと、蜜柑ちゃんは視線を下げる。
「……心寧さんの実験室です」
「わかった。後で見てみる」
脳内で情報を整理していく。
「……薬の成分、計算していたって言っていたよね。見せてくれない?」
蜜柑ちゃんは無言で頷く。
「……具体的な成分とか、そのあたりも?」
蜜柑ちゃんはまた頷いた。
「……結局、薬はどうなったの?」
「……私は、柚子が大変だったのでほったらかしでした。心寧さんが夜中に食われたなら、私が個室にいる間に完成させたかもしれないですけれど、出来ていないかと……」
蜜柑ちゃんの話を聞いていた私は、上着のポケットから無言で青色のとろりとした液体の入った小瓶を取り出す。
「……」
蜜柑ちゃんは黙って、それが机の上にのせられていくのを見ていた。
「……これに、心当たりは」
「ないです」
ほぼ即答だった。
「……これは、心寧さんの実験室に置いてあった薬。一緒に置かれていたメモには、人狼を殺す薬だと書いてあった」
私がそれを振ると、蜜柑ちゃんの表情が一瞬強張った。
「……」
私が蜜柑ちゃんを見つめていると、彼女は何か思いついたかのように声を上げる。
「……あります、心当たり。青色になる成分と、とろみがつく成分……それ、振っちゃだめです!」
最後の方はほとんど悲鳴に近かった。
「さっき、心当たりないって言っていたのは」
「だって、何種類も何通りも方法を試すんですよ? 人狼なんてデータが少ない物、本当に何が効くかわからないんです……! 一瞬で情報が出てこなかったんですよ! 狼を抑える方法にもいろいろあって、『殺す』で分かったんです……!」
震える手を抑えた蜜柑ちゃんは、私の方をきつく睨む。
「振ったら、全部台無しに……!」
海翔は無言で外の吹雪を見つめていた。
博之さんは腕を組んで、背もたれにもたれかかっている。
「……人狼を殺す、ね。——それって、海翔を、肉体を殺すって意味?」
「……っ」
蜜柑ちゃんが息を呑む。ゆっくりと縦に振られた首に、私は溜息をついた。
「……蜜柑ちゃんなら、作り直せるんじゃないの?」
「……え?」
怯えの表情を浮かべていた蜜柑ちゃんは肩の力を抜く。
「研究、手伝っていたんでしょ? 実験室に残っていたメモとか見れば、再現できるんじゃない?」
私が感情を抑えて発した言葉に、蜜柑ちゃんは再び表情を硬くする。
「……いいんですか」
海翔が視線を蜜柑ちゃんに向けた。
「海翔さんを殺す毒……ですよ? 本当に……?」
——そうか。
研究室にわざとらしく置かれたあのメモは、私が海翔に毒薬を打つように誘導するための、心寧さんなりの死を回避するための計画だったんだ。
「……ねえ、これ。一般人が打ったらどうなるかわかる?」
「……えっと。軽い症状が出ますけれど、死には至らないはずです。解毒剤も——ジギトキシンが主成分ですから、……恐らく作れます」
心寧さんは海翔を殺して、助かる気でいたんだ。
「じゃあ、なんでそれで海翔を殺せるの?」
「狼にだけ効くように調節出来るんですよ……! 嘘じゃないです、必要なら成分濃度表も見せられます!」
甲高い声を上げる蜜柑ちゃん。
「でも、人体にも軽い麻痺などの症状が現れる成分——アコニチンもあります……濃度を調節して、それで——」
私は眉を顰める。
「……海翔、これ——理解できる?」
「いや、成分名も聞いたことすらないな……」
二人で首を捻っていると、博之さんが蜜柑ちゃんのスマートフォンの画面を向けた。そこには電子書籍の文章がのせられている。
「いやいや、流石に聞いたことくらいあるだろ? ちゃんと実在する成分だ。……まあ、俺もよくは知らんけど」
「……!」
スマートフォンを戻してもらった蜜柑ちゃんは、こくこくと頷いている。
「でも、なんで心寧さんが作った薬の内容をそこまで詳しく? 見た目と用途を聞いただけで細かく分かるなんて……」
海翔が口を開いた。疑り深いその目に、蜜柑ちゃんは一瞬息を止める。
「……舐めてますよね、科学者を。私、小学生のころからずっとずっと勉強してきたんですよ? このくらい、分かって当然です。二十一世紀も後半なんですから……海翔さんが生まれた時代と同じにしないでください」
棘のある言い方に、博之さんも一瞬口を挟もうとした。
「……こればっかりは信頼してもらうしかないです。——海翔さんがいなければ、人狼に食べられる心配も全部なくなるんです……!」
——蜜柑ちゃんの言葉は、彼女の正義なんだろう。犠牲者を最小限に抑えるために、一人の命を奪うことは。そのために、自分の全力をもって殺人毒を作り出すほどにまで。
「でも」
喉の奥から声を出す。
「でも、それって」
驚くほど低い音が出る。
「海翔の命より、皆の命の方が重いってことだよね……!」
私の言葉に、蜜柑ちゃんは何か不穏な気配を察したようだった。
「……」
目を伏せたまま何も言わない蜜柑ちゃんは、微かに震えている。隣にいた海翔は片手で目元を抑えている。
「……」
暖炉の火がぱちりと音を立てて爆ぜる。博之さんは視線をわずかに下にずらして無言を貫いている。
「……何度も言うようだけれど、さ」
海翔が口を開いた。
「俺が死ねば全員助かる。それは本当でしょ」
私は思わず息を呑む。
「だって、皆からしたら俺が全ての元凶だよね。俺さえいなければただ皆で笑い合って吹雪をやり過ごして、無事に全員で下山出来たんじゃない? だって、この塔には食料もマッチも大量にあった。俺がいなくたって、ちゃんと生き延びて——」
私はその口をそっと塞いだ。
もう、海翔が自分を傷つけるのを聞いていたくなかった。
「……私は、海翔がいいの」
海翔は自分の口元を塞いでいる私の手にそっと触れる。その頬を一筋の涙が零れ落ちた。
「……ね?」
そっと離そうとした手を、海翔の手が握る。離したくない、とでもいう風に自分の胸に私の手のひらを押し付ける海翔。
「……ごめん」
震えていたその言葉は、誰に向けられたわけでもなかった。
「生きていて申し訳ないって思っていたけど、でも」
あたたかな木のテーブルの上に、涙の粒が幾つも滴り落ちていく。
「咲楽、……ありがとう」
掌に鼓動が伝わってくる。力強いその音を、消させたくない。
「……」
博之さんは表情を変えずに俯く。
「生きるために……命を奪わなければいけない」
私は海翔に囁く。
「そんなの、当たり前だよ。気にしすぎなくて、いい」
海翔が頷く瞬間を見届けた私は、震える蜜柑ちゃんに視線を戻した。
「……わかった。後で見せてもらうよ、蜜柑ちゃんの計算結果。それで、博之さんは?」
博之さんは目を薄く開く。
「……俺は、さっき言った通り罠を作っていた。大蒜を使う案を思いついたのは二十三時ごろで、それまではずっとどうやったら守れるか考えていた」
感情がすべて消え去ったかのような低く落ち着いた声。視線は涙を拭っている海翔を向いていた。
「時間がなくて、簡易的な物しか作れなかったんだ。二十三時半に蜜柑の部屋に行ったとき、蜜柑はまだ起きていた」
はい、実験室から帰ってきた直後で、と蜜柑ちゃんも頷く。
「柚子の部屋の方にも行ったが、柚子は寝ていた。緊張して、疲れていたんだろうな。俺は狼除けの大蒜を置いていって、そのまま蜜柑に挨拶して、ずっと個室にいた」
沈んでいくような重い口調に、海翔の穏やかな視線が一瞬僅かに鋭さを帯びた。
「……大蒜のほかにも罠を考えていたんですか?」
海翔の質問に、博之さんはゆっくりと頷く。
「山で野生動物駆除なんかに使われるトラップも考えた。けれど、雪や木の枝で隠すことが出来ないから、やめたんだ」
本気で海翔を殺そうとしていたことが重く伝わってくる。隣の海翔をちらりと見やるが、その視線は揺らがなかった。
「……ずっと個室にいた証拠は?」
自分の口から出た言葉が、どれだけ博之さんを追い詰めるだろうか。
「……ないな」
そこで蜜柑ちゃんがあっと声を上げる。
「そういえばあの日博之さんが去った後、窓の外で何か動いた音が聞こえたような気がします……」
博之さんが瞠目した。
「——違う……! 俺はずっと個室にいたぞ……!」
「いえ、風かもしれないんですけれど……」
口に手を当てて考え込むような仕草をした蜜柑ちゃんに、博之さんの目が向く。
「スマートフォン片手に計算していたら、窓に一瞬黒い影が映った気がしたんです。火を消した後だったから、見間違いかもしれないんですけれど……」
「火を消した時間は?」
私が勢いよく尋ねると、蜜柑ちゃんは少しだけ身を引いた。
「博之さんが出て行った直後です。そのあと毛布の中で計算していたら、ふと物音がしたきがして振り返ったんです。そしたら、人の肩の高さくらいの影が窓をふっと横切ったんです。でも、もう一度よく見ても何もなかったので……」
「……方向は?」
記憶の中に答えを探すように、蜜柑ちゃんの視線が少しだけ伏せられる。
「確か、柚子ちゃんの部屋の方から博之さんの部屋の方に」
窓の外の吹雪は一向に止む気配がない。この真っ白な雪の中に人影を見たのだろうか。
「……その時間、塔の外に出ていた人っていないよね」
蜜柑ちゃんは小さく笑みを浮かべる。
「多分、飛んできた枝とかじゃないでしょうか? 私もずっとスマートフォンの明かりを見ていたので、すぐには目が慣れなくて」
海翔も博之さんも黙っていた。
「もし誰かが通ったなら、その足跡があるんじゃないでしょうか」
全員が私を驚いた顔で見つめなおす。
「確認しに行きましょう。靴裏の模様と一致させれば誰が通ったかわかります」
窓の近くにはひさしもあった。雪が降っていても多少は足跡が残っているはずだ。
「だとしてもこんな吹雪でしょう? 一人で行くのは危ないですよ? 本当に、はぐれたら最後……」
蜜柑ちゃんの控えめな指摘が入る。
「……俺も行く」
立ち上がった海翔は、ずっとラウンジにかけてあった防寒着を取る。
「咲楽」
私は無言で頷いた。
防寒着を着て外に出ると、本当にひどい吹雪だと改めて認識する。私の手を取って先に出て行った海翔の後ろ姿さえ霞んでいる。
「気を付けて。塔の壁に手を付けるんだ」
言われたとおりにすると、掌から冷たい石の壁の感触が伝わってくる。今も繋いでいる海翔の手が温かい。
「確か、蜜柑ちゃんの個室は真ん中だったよね?」
ぼんやりと聞こえた声に、私は必死に頷いた。
海翔が懐中電灯のスイッチを入れる。そして、柚子ちゃんの部屋の下を照らし出した。
「……これは」
足跡はあった。微かな窪みが幾つも付いている。
けれど、それは棒か何かで引っ掻き回された後のように汚くて、崩れていた。とにかく歩き回ったかのようにあちこちに出鱈目な足跡がついている。
「誰なのか、わからないな」
ぼそりと呟いた海翔に、私も頷く。
「咲楽」
海翔の手が私の冷たい手を強く握った。
私もそれを握り返す。
「帰ろう」
吹雪で何も見えない中、海翔の存在だけが私を支えていた。
「それで? なにかわかったのか」
ラウンジに入った途端、博之さんの冷たい視線が私を射抜く。思わず身を引きそうになる私だったが、海翔が手を握ってくれていた。
「犯人が分からないように崩されていた。場所もたくさんの足跡があってわからなかった」
海翔が淡々と告げるのを、私はただ黙ってみていた。
博之さんは暫く腕組みをしていたけれど、やがて諦めたような顔をして席を立つ。
「冷えただろう。火に当たる席に座れ」
海翔は既に空いていた席に座っている。私も恐る恐る暖炉の傍の椅子に腰かけた。木の温かみのある焦げ茶色が私を出迎える。
「ありがとうございます……!」
冷え固まっていた体がゆっくりとほぐれていく。
蜜柑ちゃんもそれを見て少しだけ頬を緩める。
「結局、足跡からはわからずじまいでしたね。けれど、足跡があったってことは私が見た影も本物だったっていうことじゃないですか? だったら、博之さんが犯人なんじゃ」
博之さんは目を見開く。
「は……? そんなわけないだろ! 俺は柚子を刺すなんてやってない! 外にも出ていない! 蜜柑が犯人なんじゃないのか? 俺に罪を着せようとしている蜜柑が……!」
博之さんは必死に訴えかけるが、蜜柑も負けてはいない。
「信頼してくれているんじゃなかったんですか?」
「自分が信頼していない相手から信頼を貰おうなんて考えが甘すぎるんだよ!」
博之さんの声がラウンジに轟く。
「俺は……柚子を刺すなんてできない」
だって、と博之さんの唇から紡がれる言葉がいつもより小さくて、震えていて、寂しそうだった。
「光に——妻に、顔向けできない」
博之さんが目を伏せる。海翔は黙って穏やかな視線を送っている。
「俺には光と、翠と葵っていう双子の子供がいた。二人が十七になった秋、俺たちは知らない街に旅行に行った。……そこで、通り魔に出くわした。通り魔は、多分強盗でもした帰りで、警察の目を逸らしたかったんだと思う。光に銃を向けて、迷いもなく引き金を引きやがった。翠も、葵も、抵抗できなかった。藍色の空の下で、三人が最後に何を思ったのかもわからないままで、俺もその通り魔に撃たれた。——けれど、暗闇で相手も手元が狂ったんだ。俺だけが生き延びた」
柚子と蜜柑の姿が、翠と葵に重なって見えて、と目を静かに閉じた博之さんに、蜜柑ちゃんは視線を一瞬泳がせた。
「……月が。月が通り魔の顔を照らして。薄くかかった霧も消えて。俺は、あいつの顔を覚えている」
そう言って、博之さんは長く息をつく。
「俺は、もう目の前で子供が死ぬのを見たくなかった。自分の中に、憎しみが蓄積されていくから。けど、いつだって、俺に希望をくれた子は不幸になる」
博之さんは肩を抑えた。服がいびつな形に歪む。
「……撃たれたところは、治らなかった」
——作り話じゃない。
この人は嘘をついていないんだ。
「蜜柑ちゃん」
目を閉じたままだった蜜柑ちゃんは、ゆっくりと瞼を上げる。
「はい、何でしょう?」
「蜜柑ちゃんのアリバイって全部、心寧さんが死んだから確認できない」
「……」
蜜柑ちゃんは黙ってこちらを見つめていた。
「心寧さんは、二日目の朝にこう言っていた。『蜜柑さんが私の使っている部屋を知っていることはないはず』って」
博之さんの目が見開かれる。
「初日の夜だったよ、蜜柑ちゃんが言っていたのは」
静かに座っている蜜柑ちゃんが、一度だけ瞬きをする。
「厨房のナイフが減っていたのは、蜜柑ちゃんが使った直後だったよ? 蜜柑ちゃんが盗った可能性も、高いよね」
海翔は目を伏せた。静かに、けれど納得したように。
「それに。心寧さんに傷をつければ、より血の匂いがする方に狼が誘導されて——」
蜜柑ちゃんはゆっくりと首を振った。
「そんなことはないです。そもそも私が心寧さんにどうやって傷をつけるんですか」
「料理。昼や夜、料理をする際に。様子を見に来た心寧さんに近寄って、手が滑ったと言って軽く傷をつければいい」
厨房の主は蜜柑ちゃんだったから。ここに来てから蜜柑ちゃんが関わっていない食事なんてなかった。
「薬草を取ってきたことは本当なんでしょ? 見せられるって言っていたし。データは捏造したんじゃない? 蜜柑ちゃんなら、毒や睡眠薬を作ることもできたんじゃない?」
蜜柑ちゃんはすました顔を維持しているが、その額にはうっすらと汗が浮かんでいる。
「本当のこと、言ったら?」
「そんな、私が柚子を殺すなんて、柚子はずっと良くしてくれて、」
下を向いて話す蜜柑ちゃんは、かなり焦っているようだった。
「毒なんて、あんなに苦しむように作るわけない……!」
「——毒を作れる人間が、毒を使わない理由はない」
海翔の静かな言葉に、蜜柑ちゃんは身を引く。
「最初は包丁で苦しませずに殺そうと思っていたけれど、失敗したから毒に切り替えたんじゃない?」
「違います……! 私じゃないです……!」
根拠のない言葉に、私は溜息をついた。
「柚子ちゃんは最後まで親友を信じてた」
「……!」
涙目になった蜜柑ちゃんは、もう何も言わなかった。
「……蜜柑」
博之さんが向ける視線は、憐れみと憎しみが入り混じっていた。
「どうします? 蜜柑ちゃん。——狼に食わせますか?」
私が言った言葉に、海翔と博之さんは少しだけ驚いたそぶりを見せる。
「……ちゃんと警察に突き出した方がよくね?」
控えめに提案した博之さん。
「……俺はできれば食いたい」
口角を軽く上げて壁にもたれかかる海翔。
「咲楽や博之さんを食わなきゃいけなくなる確率が減る」
瞳に恐怖の色を浮かべる蜜柑ちゃん。そのまま素早く扉へ駆けていく腕を、海翔が掴んだ。
「逃げるの? 吹雪の中に出るならまだしも、この狭い塔で?」
蜜柑ちゃんの手首を掴んだ海翔の手に力がこもる。服に皺が寄り、蜜柑ちゃんは苦しそうに呻く。
「君は人を殺した——その覚悟はあったの? 人から恨まれて当然、蔑まれて当然の犯罪者になる覚悟が足りなかったんじゃないの?」
海翔が静かな視線で蜜柑ちゃんを射抜く。漆黒の瞳が冷たく細められる。
「俺自身がそうだったからわかる。その年でいきなりその責任を自覚するなんて、出来ない。……俺は止められなかった。自分の意志じゃなかった。けれど、君は自分の欲求の為に、己の意志で命を奪った」
震える手に力がこもる。呼吸が荒くなる。
「——君は、もう人間じゃない」
蜜柑ちゃんの涙が頬を伝っていく。
「だから——守られる権利もない」
海翔の冷たい瞳の奥に、抵抗できない弱者を嬲る快楽が一瞬浮かんだ気がした。
「——やめて、海翔」
私は思わず口走る。海翔は少しだけ動きを止めて、ゆっくりと蜜柑ちゃんを掴んでいた手を離した。
「……ごめん。ちょっと辛くなって」
その瞳に自責の念が宿っているのを見て、私は少しだけ後悔する。人間でありながら人ではない海翔が、一番苦しんできたはずなのに。
けれど、あそこで止めなければ海翔が人間じゃなくなる気がした。
「——ううん。海翔はずっと辛い思いをしてきていて、私はそれを知る術もないのに。勝手に口挟んで……こっちこそ、ごめん」
海翔は首を横に振る。
「——俺には、咲楽に心配してもらえる権利なんてないよ」
私はそれを否定しようとしたが、海翔の諦めたような微かな笑みで言葉に詰まる。
「本当に、俺は人間じゃないから」
博之さんはそっと視線を逸らした。蜜柑ちゃんは扉にもたれかかって俯く。
「……」
私は何も言えなかった。
さっきの海翔の嘲笑を見てしまったら、人間だと言い切ることはできなかった。
「——ごめん。俺も、人間でいたかった。でも」
伏せられた黒い瞳。私を包み込む穏やかな声。
「でも、もう戻れないんだ」
蜜柑ちゃんは、ひとまず拘束した。
海翔がどこからともなく取り出した手錠は、本来なら狼を戒めるものだったのに、今は一人の犯罪者を——少女を捕らえるために使われている。
「……」
博之さんが寂しげに視線を逸らした。柚子ちゃんも蜜柑ちゃんもいなくなって、辛いのだろうか。
「……」
蜜柑ちゃんの自由が奪われて、厨房までがなんだか寂し気に見えてくる。私が乾燥野菜を戻そうとお湯を沸かし始めると、そっと近寄ってきた海翔が手のひらを出した。
「俺がやる」
有無を言わせない口調に、私は横にずれる。そこに海翔が入り込み、鍋の前に立った。私が乾燥野菜を手渡すと、てきぱきと手を動かし始める。
「……俺は、十一歳の時にあいつに会った」
突然はじめられた話に、不意を突かれた私は反応しかねる。
「塾の帰り道だったかな。暗い中で、脇にあった路地から突然手首を掴まれた」
海翔は心寧さんが遺したティーバッグをマグカップに入れる。ティーバッグは自分で茶葉を入れられるタイプで、中の明るい茶色の葉が薄く見える。
「そこには老人がいた。その人、今死ぬんだって、直感でわかった」
もう一つの鍋に水を入れて、隣の火にかける。一つ目の鍋からは既に湯気が立ち始めている。
「大丈夫ですかって声を掛けたら、急に牙をむかれた」
私がちらりと海翔の横顔を見ると、鍋の下の火に照らされた海翔の牙が口からちらりと覗いた。昼間なのに、もう牙が生えている。
「食われると思った瞬間に、その人の手から力が抜けた。寿命だったのかな、死んでた」
鍋の中の乾燥野菜が戻ってきている。水だけの鍋はもう沸騰が始まっていて、海翔はその鍋の火を消した。
「でも、手首は掴まれたままだった。その人の命の火が消えた瞬間に、何かが流れ込んでくるような感覚があった」
鍋の水がマグカップに注がれる。海翔はそれに蓋をして、私の方を見た。
「……それが、淳史さんだったの?」
私が恐る恐るいうと、海翔が薄く微笑む。
「うん。——気づいたら朝で、その老人の死体はどこにもなかった」
きっと淳史が食べちゃったんだろうな、といった海翔はマグカップのふたを取って、ティーバッグを取り出す。食料庫にあった角砂糖二個を入れてかき混ぜたそれを、海翔は私にそっと差し出した。
「そんな感じで、俺は人狼になった。……ほら、冷めないうちに飲んで?」
私は震える手でマグカップを受け取る。少しだけ、水面の見え方がいつもと違う気がした。暖炉じゃなくてこんろの火だからだろうか。
「ありがとう。……海翔って気が利くよね」
私はマグカップに口を付けた。
——温かさとけだるさが私を包み込む。
「かいと……?」
めのまえがちかちかする。
くらい。
なんで。
あんてんするしかいのさいごに、かいとがきばをみせてわらったきがした。
「——本当に、俺は人間じゃないから」
はっと目を覚ますと、昨日淳史と話した場所だと気づく。時計の針は、六時四十分といったところだろうか。
「寝落ちしちゃった……」
急いで部屋着を整えて、部屋の外に出てみる。
階段には、ぐったりとした様子の淳史さんが倒れていた。
「あ、淳史さん……?」
私の声に目を開けた淳史さんは、見かけほど疲弊していないようだった。
「ごめん、階段の途中で寝ちゃって」
軽く言いながら手すりを掴んで立ち上がる淳史さんは、心なしか昨日より元気そうだった。
「淳史さんが、生きている」
「? ああ。それがどうした」
首をかしげる淳史は、昨日別れた海翔と同じ格好だった。寝巻の端が少しだけ血に濡れている。
「……誰を、食べたんですか」
声が震える。淳史さんの琥珀色の瞳の上で、小さな黒点が揺れた。
「……自分で確認してくれ」
そう言ったとたん、ゆっくりと私の方に倒れこんでくる。
「淳史さん!」
思わず大きな声を出すと、彼は再び目を開けた。
「……おはよう、咲楽」
穏やかで優しい海翔の声が耳に触れた。その瞳は真っ黒で、いつもの海翔の色だ。
頬を涙が伝った。
「……ごめん」
海翔は優しく私を抱いてくれた。柔らかい温もりが布越しに伝わってくる。
「いいよ。……咲楽はよく頑張ってくれた」
海翔は私の手を取り、階段をゆっくりと下りていく。私も海翔の手をしっかり握り返し、後に続いた。
下の階は、何だか騒がしかった。
「……」
海翔が私から視線を逸らす。
階段の下に博之さんの姿を見て、私は声を掛けた。
「どうしたんですか」
「……柚子が刺された」
一瞬、言葉の意味が理解できなかった。
「……え?」
隣を見ると、海翔も呆然としている。
「……食われた、じゃなくて刺された?」
無言で頷く博之さんは、何処か青ざめていた。そのまま歩いていくので、私は海翔の方を見る。
「……」
頷いた海翔と共に、博之さんの後を追う。
「……柚子ちゃん、生きているんですか」
「ああ。意識を失っているが、脈はあった」
しっかりとした声。動揺しているのが伝わってくるが、堂々とした様子で柚子の部屋の扉を開ける。そこには寝台の上で血を流している柚子と、付き添っている蜜柑がいた。
「咲楽さん! 海翔さん……」
蜜柑ちゃんは私たちを見て小さく安どの息を吐きだす。けれど、その視線が一瞬海翔の方で止まった。けれど、すぐに柚子の方に視線を向けなおす。
「今手当をしようとしているんだが、心寧が呼んでも部屋から出てこないんだ。鍵も開いていて……」
博之さんの言葉に、蜜柑ちゃんがこくんと頷く。
私と海翔は視線を交わすと、心寧さんの実験室に向かった。
「失礼します!」
扉をあけ放つと、火が消えた部屋に私の声が虚しく反響した。机には温もりの抜けたマグカップがあり、蓋が開いたままの薬瓶が倒れて机に染みを作っている。
「……いない」
倒れた椅子や実験器具を見て、海翔は一瞬で何が起きたかを理解したようだった。散らかったメモ書きの隙間のわずかなスペースに、白い紙に滲んだ赤い液体がある。
「……」
海翔はその場にうずくまった。それを見て私も全てを理解する。
「おい。どういうことなんだよ、嬢ちゃん」
博之さんが私に問いかける。私は答えようとするが、口にしてしまえば海翔が傷つくという可能性に思い当って口を閉じる。
が、それより先に海翔が口を開いた。
「心寧さんは……」
一瞬、言葉を探すように海翔の視線が泳ぐ。唇に血がにじんでいく。
「——昨晩食われた」
実験室の壁にもたれかかる海翔。
「……淳史に」
部屋にしん、と沈黙が下りた。
吹雪が窓を打つ音がやけに大きく響く。
私は海翔の背中に手を当てた。海翔の胸の内でどんな感情が渦巻いているのか、少しでもその負担を和らげたかった。
「……柚子を」
博之さんの掠れた一言が響いた。
「柚子を手当しなければ」
海翔が無言で立ち上がる。心寧さんの実験室から包帯や消毒液を探しだし、腕に抱えていく。
私もそれに倣おうとして、机の上に青い液体が入った瓶が乗っているのに気付いた。
蓋は可愛らしい紙のラベルで閉じてあった。中でとろりと群青色の液体が光る。その下に小さなメモ書きが残されていた。
〈海翔さんに——〉
メモをすべて読んだ私は、瓶と傍に置いてあった細い注射器を箱に入れ、上着のポケットにしまう。そのままいろいろなものを抱えた海翔と博之さんに続き、散らかった実験室を後にした。
柚子ちゃんの部屋では、蜜柑ちゃんがスマートフォンを触っていた。入ってきた私たちに気付くと、その画面をこちらに向ける。
「応急処置の方法、調べておきました」
海翔が画面をのぞき込む中で、私は画面の端にある十二パーセントという文字の隣に圏外のマークがついているのを目にとめた。
「圏外なのに、調べられるの?」
「ファイルのアプリに何冊か電子図書を入れてあります……。普段から読めるようにしてあるんです」
見てみると、何冊か参考書らしきものが入っていた。普段から勉強している分野なのだろう。
「……わかった。やってみよう」
博之さんが画面を手元においててきぱきと作業を進めていく。段々と血が止まり、柚子ちゃんの顔色も良くなっていくようにも見えた。
蜜柑ちゃんはその中で思いつめたような顔をしていたが、やがてはっとしたように立ち上がった。
「私、お水持ってきます」
落ち着いたような声を発した蜜柑ちゃん。その軽い足音が厨房の方へと消えていく。友人が怪我したことで気が急いているのか、心なしか早足に聞こえた。
「……柚子ちゃんのからだ、どうですか」
私が聞いてみると、博之さんは眉をひそめて言う。
「柚子の容態なんだが……薬が使われているようなんだ」
「薬……?」
海翔が顔を上げた。博之さんの手伝いをしていた彼は、柚子の方に視線を向けて戸惑った声を上げる。
「確かに、出血の様子からして刺されてから時間が経っているのはわかります。刺された時間が深夜なら、普通は悲鳴を上げるとかするよね……?」
そう言いながら、海翔は少しだけ首を横に振った。
「咲楽はどう思う? 俺は文系だから咲楽の方が詳しい」
「私も文系だよ? ……まあ、普通に寝ているところを刺されたら起きるよね」
柚子ちゃんの顔はあまり苦しんだ跡のない穏やかな表情だった。それがかえって不自然な気がする。
「ああ。何らかの睡眠薬が使われているのかもしれない。蜜柑に調べてもらうか……」
心寧がいればもっと簡単に絞り込めたかもしれないな、と博之さんは大きく息を吐きだした。
「過ぎたことを言っても仕方がないだろ。それより、腕を刺されたということは誰かが夜中に包丁で刺したということだろう? 犯人を捜した方がいいんじゃないか」
部屋の棚に、血の付いた一本のナイフが置かれていた。乾いた焦げ茶色の木の上に、煌く金属製のナイフはぽつんと異質なもののように見える。
「心当たりはあるか」
私も海翔も、何も言わなかった。暫く海翔と視線を合わせ、ようやく口を開く。
「博之さん。私は昨日柚子ちゃんと別れてからずっと五階にいました。淳史さんはどうか知りませんけれど、少なくとも海翔とは一緒にいました。私たち、本当に何も知らないんです」
博之さんは私たちのことをじっと見た。
「……どこまで本当だろうな、嬢ちゃん。……だがそれが本当なら淳史がやったということか……?」
——今日、最低一人は死ぬ。君と海翔がちゃんと決めておけば、この『最低』はなかった——
淳史さんの言葉が脳裏に浮き上がる。
「淳史さん……かもしれません……けど」
私は殆ど上の空で返事をした。
「いや……あいつならわざわざそんなことをしなくても扉を破って侵入すればいい話。気に入らないやつは人間のふりをして近づいて、で——食う。それで終わりです」
海翔は少しだけ自虐気味に言った。
海翔は昔、収容されていたことがあるらしい。
それを聞いたのは、今日の昼間だった。
昔の淳史さんは、もっと乱暴な人だったらしい。気に入らない人を全員食い殺す、と言って夜の街を駆けまわっていたという。人を食べるときもわざと食い散らかすことで世間に恐怖を植え付けていた、らしい。
海翔はそのころ、まだ中学生だった。淳史がやったことを自分の意志じゃない、と証明する頭も、証拠もなかった。
「自分の録音されていた声を聞かされた時、どれだけおぞましかったか……」
海翔は苦笑いして言ったけれど、辛かったに違いない。私が支えなくちゃ、と思った。
「出所——というか、ほぼ力ずくで脱獄して、今まで何とか生き延びていた。成長期のころは毎日二、三人人を食べなくちゃいけなくて、朝になったら目の前に殺された警官数人が転がっている。……咲楽と出会ってから、出来るだけ逃げたり騙したりするようにしたんだけれど」
数日に一回、日没直前に私に断って出かけていく海翔。理由は言えない、と言われたから聞かなかった。
——まさか、人を狩りに出ていたなんて。
俺のこと嫌いになった? とつぶやいた海翔に、ううん、全然そんなことない、大好きだと返したところで海翔は沈黙する。頬がほんのりと赤くなっていたから、きっと私の気持ちは届いていたはずだ。
「じゃあ、誰がやったんだよ」
私の話を聞いていた博之さんは、なぜかだんだんと不機嫌そうな表情になった。
「そもそも、夜中の廊下に出歩いたら狼に食われるって……。廊下以外から侵入するルートなんてあるのか? 窓には鍵がかかっているはずだろ」
博之さんの視線を追うと、開けっ放しの窓があった。二重構造のため吹雪は入ってこないが、少し寒い。
「こんな雪の中で窓を開けるなんて……柚子はどうしたんだ」
「あ、でも……」
私は昨日の記憶を思い起こす。
「昨日、暖炉の火が強くて少し煙たかったので私が開けたんです」
私は二重になっている窓の両方を数センチメートルだけ開けたはずだった。けれど、今窓は外側の窓はぴったりと閉まっていて内側の窓は中途半端な位置で開けられている。
「昨日と、違う……」
胸の奥がざわついた。
「あれ? 皆さん、どうしたんですか?」
場違いなほどに可愛らしい声が聞こえて、私たちは振り返る。扉の前で、湯気の立つ鍋とマグカップを乗せたお盆を持つ蜜柑ちゃんがいた。
「遅かったな、蜜柑。ありがとう。……柚子を刺したのが誰か、わかっていないと怖いだろ?」
博之さんが言って、蜜柑からお盆を貰おうとした。
「いえ……。柚子の為に、私が何かできることがあるならやっていたいんです。私、頭良くないですし……だから、皆さんは犯人捜しを続けてください」
寝台の横の小机にそっとお盆を置く蜜柑。その表情からは悲しみと僅かな決意が読み取れて、私たちは顔を見合わせる。
「……場所を変えよう」
海翔が静かに言って、扉の外に向かった。私も無言でその背中を追う。
暫く、蜜柑ちゃんと柚子ちゃんを二人きりにさせてあげたかった。
廊下に出ると、蜜柑ちゃんの部屋のドアが開け放たれていることに気付く。ちらりと中をのぞくと、蜜柑ちゃんの部屋は柚子ちゃんの部屋よりいくらか雑多な感じだった。暖炉には少し強すぎるオレンジ色の炎が、轟々と燃え続けている。
その床にぼんやりとした染みがあるように気がして、思わず二度見してしまった。
——よく見るとそれは防寒具の下にできた乾きかけの水たまりだった。防寒具自体はしっかりと乾いているようだったが、水たまりは乾きにくいのだろう。
「——それで」
最初の夜に話した広めの部屋——通称、ラウンジ。
「誰が柚子を刺したか、ですよね」
海翔が博之さんを睨んだ。
「単刀直入に言います。俺は博之さん、貴方が怪しいと思ってる」
博之さんは一瞬驚きの表情を浮かべた。声を詰まらせた博之さんは、やがてゆっくりと話し出す。
「そんなわけないだろ? 俺は、俺はただ柚子と蜜柑を守りたいだけだ」
言いながら、自分の言っていることがただの感情であって、全く否定できていないことに気付いた様子だった。
「……証拠なんてないだろ」
博之さんは警戒するように僅かに身を引く。
「まず、俺と咲楽はお互いが知っているアリバイがあるから除外できる。狼に襲われた心寧さんも。柚子が自分でやったということは……ありえないよね?」
私の方をちらりと見る海翔に、慌てて言葉を返す。
「睡眠薬が使われているのなら……それに、何のために」
「残りは蜜柑ちゃん、淳史と博之さんになります」
窓の外で吹雪が唸る。時計の秒針が音を立てて進んでいく。
「でも、淳史には動機がない。というか、動機があってもわざわざ致命傷を避けてナイフを刺す必要があるとは思えないです」
それに、と続ける海翔が一瞬笑っているような気がした。
「咲楽が窓を確認した時、昨日と違うって言っていました。窓からなら狼に勘付かれずに他の個室に侵入できる。それが出来るのは個室を使っている人だけじゃないですか」
それじゃ蜜柑も同じじゃないか、と言いかける博之さんを遮って、海翔が小さな空き瓶を取り出した。小さなラベルには心寧さんのメモと同じ丸くて小さい文字がこまごまと書かれている。
「博之さんのコートを掛けているところの下に転がっていました。詳しく調べないとわからないけれど、恐らく何らかの薬が入っていたはず」
目を見開く博之さん。海翔はそれに構わずに続ける。
「夕飯の時にカップを片付けていた博之さんなら、洗った後に睡眠薬を仕込めるんじゃないですか? 柚子を眠らせて、夜の犯行を成功させるために」
私が確かに、と頷くと博之さんは頭を押さえた。
「待ってくれ……」
博之さんは暫く黙っていた。私と海翔が返答を待つ間、暖炉の火が爆ぜる音がやけに大きく響き渡る。
「……そうやって俺を犯人に仕立て上げようとしているお前が怪しいんじゃないのか」
海翔が眉を顰める。博之さんは語調を強めた。
「小瓶なんて、偽装できるだろ。その小瓶が転がっていた証拠はないんじゃないか」
今度は海翔が黙る番だった。私の方をちらりと見やる海翔は、私が小さく首を振ったことで博之さんに視線を戻す。
「……蜜柑に聞いてみたらどうですか? 夜はラウンジにも何回か来ていたはずです」
「……! 今は二人きりで置いといてやりたいんだよ」
苦し気に呻く博之さんが、犯行をするとは思えなかった。
「あの……博之さんは、どうして柚子ちゃんと蜜柑ちゃんにこだわるんですか」
私は誰かが柚子ちゃんを刺したとは思いたくなかった。この中の誰もが、出会って数日だけれどいい人だと思っていた。海翔がやったかもしれないなんて考えたくもなかった。
「博之さんと二人は初対面なはずですよね。出会ったばかりの少女二人にこだわる理由ってあるのかなって」
博之さんは私の方に弱弱しい視線を向ける。
「嬢ちゃん……俺のことを、信じてくれるのか」
「……信用は、していませんけれど。でも、博之さんがそんなことをする人だとは思えなくて」
博之さんは一瞬驚いたような表情を浮かべる。一言ずつゆっくりと選びながら話しだした博之さんに、海翔は普段の穏やかな視線を向けている。
「俺は……俺は、昔守れなかった子がいる。……それだけさ。全然関係ない柚子と蜜柑と、そいつらが重なって見えるんだ。……生きていてほしいんだよ」
博之さんの表情はかたく、何処か痛ましげだった。自分を責めるように視線を逸らした博之さんの横顔を、海翔はすぐには返事をせずにじっと見つめている。
——博之さんはまじめな人だと思う。
柚子ちゃんと蜜柑ちゃんを守りたい、という純粋で真っすぐな想いを抱えているようだった。
……でも、だからこそ。
一歩間違えただけで暴走してしまいそうな、危うさを秘めているようにも見えた。
「……私は、博之さんがやった可能性も否定できないと思う」
私が口を開くと、海翔が静かに視線を送ってくる。肯定なのか、否定なのかもわからない柔らかい視線。
「この塔に避難してきた人たちはみんな優しい人だったから、この中に柚子ちゃんを刺した犯人がいるなんて、信じられない。……だけど、その人はいなさそうなだけで確実にいる」
暖炉のオレンジ色の炎が、海翔の真っ黒な瞳に映りこんだ。
「そういう意味では、博之さんは感情多めに理屈を少し混ぜてきている感じが……なんか、犯人っぽいかも。少なくとも、私とずっといた海翔よりは怪しい」
博之さんがゆっくりと俯く。小さな決意の灯を宿した瞳が、私から外れて海翔に向けられる。
「……そうか」
博之さんの声は、どこか遠くを見つめるように沈んでいた。
自分の中の何かを、そっと引き取っていくような声音だった。
「咲楽」
海翔の優しく包み込むような声に、私は振り返る。
「……俺を疑ってくれても、大丈夫だから」
いつの間にか私のすぐ傍に立っていた海翔は、そっと耳打ちする。
「俺が疑われた時、咲楽も疑われるのは嫌だ」
私は海翔の手をそっと取った。
「でも……私はいつでも海翔の味方でいたい」
海翔は何処か儚げな笑みを浮かべて、私の手をそっと握り返してくれる。細い温かい指が私の手の上を滑って、しっかりと掴んだ。
「ありがとう。でも、咲楽が傷つくのだけは見たくないから……無理はしないでね」
暖炉の方に悲しそうな目をやった海翔の横顔が、なぜか目に焼き付いていた。
博之さんはいつの間に出て行ったのか、もういなかった。ラウンジの限られた空間に、二人分の呼吸音が響く。
「……海翔」
私の声にきょとんとしている海翔。一瞬だけ細められたその目は、私の次の言葉で大きく見開かれた。
「大好きだから」
目を閉じて、海翔に寄り添うように力を抜く。海翔の生きている温もりが感じられた。
「俺も」
短く返した海翔。瞼の裏には明るい炎の熱。ぱちぱちと弾ける薪。
「……」
ぎい、ばたん。
扉が閉まる音がして、私はそっと目を開けた。視界に入る炎の大きさは変わっていないけれど、蝋燭が短くなっている。
起き上がると、胸からはらりと毛布が剥がれ落ちる。軽い音を立てて床に落ちた毛布は、少しだけあたたかかった。
机の上には湯気を立てている湯呑と小さなお茶碗が置かれている。桜の模様が入ったお箸も用意されていた。
お茶碗にかけられていた布巾を取ると、中から炊き立てのご飯が現れる。真っ白なお米を見た途端、思わず雫が頬を伝った。
置いてあるメモ書きは海翔の文字だった。——それだけで、十分だ。
「柚子っ? 柚子っ!」
下の階に降りると、博之さんの慌てたような声が聞こえてくる。
「咲楽? 大変だ、柚子が……!」
海翔と蜜柑ちゃんが付きそう寝台の上で、柚子ちゃんが苦し気に目を開ける。その額には幾つもの汗が浮かんでいて、私を見つめる瞳は何処か震えている。
「咲楽さん……」
柚子ちゃんが私に手を伸ばした。普段は凛としている声も今は掠れていて、呼吸が荒くなっている。
「毒です、これ……!」
その言葉に、私だけではなく海翔と博之さん、蜜柑ちゃんも息を呑んだ。
「な、誰がそれを……!」
息を苦しそうに吐きながら、柚子ちゃんは蜜柑ちゃんに視線を向ける。
「犯人は……」
そこで柚子ちゃんが言いよどんだのを見て、蜜柑ちゃんが叫んだ。
「ねえ、誰にやられたの? 教えてよ……! 柚子が苦しんでいる分、絶対に犯人にも償わせるから……!」
その瞳には小さな涙の粒が浮かんでいる。
「……!」
柚子ちゃんは大きく目を見開いた。咳と共に血が吐かれる。
「——ごめん、……知らないの」
慌てて寝台のまわりに駆け寄る私たちに構わず、柚子ちゃんは蜜柑ちゃんの方にだけ言葉を向けた。
「そんな……」
蜜柑ちゃんは柚子ちゃんの冷たくなっていく手を取る。
「私のことなんていいの。蜜柑は復讐なんて考えなくて、ただ楽しく暮らしていれば、それでいい」
柚子ちゃんがまっすぐな視線を蜜柑ちゃんに向けた。直後、柚子ちゃんの体が痙攣する。あえぐ柚子ちゃんは蜜柑ちゃんの手を強く握り、笑った。
呼吸音がだんだん弱くなっていき、瞼が下ろされる。眠る様にそっと沈んでいった意識は、もう二度と上がってこない。それを、冷たくなっていく体が告げている。
「柚子……!」
蜜柑ちゃんの悲鳴ともつかない声が響く。博之さんは視線をそっとそらし、海翔は穏やかな視線をほんの少し伏せる。
——信じられなかった。
柚子ちゃんはまだ生きていて、今にもあの凛とした声で話しかけてきてくれるんじゃないかと、そんな期待が心の何処かで膨らんで、割れる。
「柚子ちゃん……」
だって、柚子ちゃんは息をしていない。体が冷たい。心臓の音も聞こえない。
心寧さんが消えるようにしていなくなってしまったのも、柚子ちゃんの死体を見ると急に怖くなってくる。
いつもより強い炎が、ふわふわと揺れていた。
「今日は……」
「うん、今日は大丈夫。昨日心寧さんを食ったから」
日没になって表れた淳史さんは、私の問いに軽く答える。
「ねえ、柚子ちゃんが死んだ理由に心当たりって……」
「ない。そもそも君から今日の出来事を聞いたばかりなのに、知ってるわけない」
淳史さんは首を振り、一昨日閉じこもった地下室に入る。
「……まだ十二時まで時間あるよ? 良ければこっちで話さない?」
扉を閉めようとした向こうから、淳史さんの明るい声が聞こえてきた。
「え……」
私が決められずにいると、淳史さんは扉を押し開ける。
「早く!」
その声に押されるようにして私は部屋の中に入る。ちらりと淳史さんの手首に嵌る手錠を見た。今回も私がつけたその手錠は、淳史さんの体の自由を奪うと同時に狼の自由も奪っている。
背後でガチャリと扉が閉まった。なんだか閉じ込められているようで少し怖くなってくる。
「ほら、咲楽も座って?」
木製の椅子に腰かけた淳史さんは、私にも同じものを勧める。私は素直に腰掛けた。
「……海翔は、元気だった?」
淳史さんは私の方に穏やかな視線を向ける。その奥には海翔と違う、はっきりとした意思が見えている。
「……貴方が心寧さんを食ったこと、すごく動揺していた」
私が警戒して話すと、淳史さんは「そんなに緊張しなくていいのに」と笑う。「本当だよ。一人食えば三日はもつ。君を食べることはしない——今はね」
安心できる要素が欠片もない気がしたが、それを今言ったところで淳史さんの心を傷つけるだけだろう。そう思って、淳史さんを見ると、私の方をじっとうかがっていた。
「海翔は……柚子ちゃんも死んで、午後はずっとふさぎ込んでいた」
死んだ。すらすらと出てくる言葉が、果てしなく重たいもののような気がする。
「そっか。柚子さんはまだしも、生きるために食うっていうことには慣れているはずなんだけれど……人間らしさを捨てきれていないところが海翔の弱みだよね」
暖炉がない部屋で、壁際の燭台の炎だけが静かに揺れている。
「……海翔が心寧さんの死を悲しんでいるのは、優しいからだよ」
ぽつり、と自分の言葉が静かな部屋に転がる。
「私はどんな海翔でも好きだけれど……でも、優しい海翔は大好き」
そっと告げた言葉に、淳史さんは私に笑う。
「そっか。まあ、弱さあってこその人間だもんね。僕と違って、海翔は人間だから」
人狼であることがどれだけの苦しみになるか、私は知らない。けれど、その苦しみを少しでも分かち合ってほしいと思う。
「淳史さんも」
私の言葉に怪訝そうに首を傾けた淳史さん。
「淳史さんも、優しい人だと思う」
淳史はそっと微笑んだ。
「あくまでも、僕は副人格。本当のこの肉体の持ち主は海翔だから」
悲し気な色を携えた瞳を、ただ見つめることしかできなかった。
淳史さんは、会話の終わりににこやかに笑った。
「……咲楽。もしこの吹雪が止まなくて、麓まで行けなかったら……僕は君も食う。それで海翔がどう思おうが、僕の知ったことじゃない。……だから、覚悟だけはしておいて」
急に言われても、と思いながら私は言葉を選ぶ。
「……もし海翔が、私を食ったことに罪悪感を抱いたとしても、生きていればいつかは立ち直れるはずだと思う」
生きてさえいれば、と口の中で転がす。
「……そうだね。君は本当に優しい」
淳史さんは笑みを消す。
「そろそろ時間だね。今日は比較的抑えるのも楽だと思うけれど……でもね、君らが餓死しなくても腹が減るのと同じように、狼もまた人間の血肉を求めている。……油断しないでね」
淳史さんの言葉に、頷く以外の動作ができただろうか。後から思い起こしても、きっと無理だったと思う。
蝋燭の炎は小さく、それでも確かに暗闇を取り払って揺れていた。
いつか消えてしまうのに、一生懸命に生きる人間とそれが重なる。
「海翔……」
今は眠っているその名前を、何度も確かめるように呟く。
石造りのうっすら緑がかかっている壁が、ひんやりと冷たい。
階段を上る音が、淳史さんに初めてあった日の夜と同じように寂しく大きく塔に響いた。ラウンジから漏れる明かりに、廊下が照らし出される。
個室に戻るまでの暗い短い道のりで、海翔の声がずっと心の支えになっていた。
三章 鎖月
窓の外に見える吹雪は、昨日よりももっと暗く日光を遮っていた。
地下室の扉の鍵を回し、半ば機械的にそれを開ける。
「淳史さん……」
椅子にもたれかかっている淳史さんの顔色は、かなり良くなっているようにも感じた。
「咲楽、おはよう……」
気だるげに告げた淳史さんの瞳は、もう黒く染まり始めている。
「でも、もう寝なくちゃ」
すとんと落ちた瞼は、直後にゆっくりと開かれる。
「……咲楽」
海翔の穏やかな声が聞こえて、私の肩から力が抜ける。
「海翔……」
海翔は無言で立ち上がった。私はそっと彼の手首の手錠を外す。
「……よかった、無事で」
「うん。……寒くない?」
海翔が私に近づく。額が触れ合うほどに距離が狭まる。
「……海翔がいるから、寒くないよ」
人の肌の熱が額を通して私に流れ込んでくる。海翔は私の手を取った。
「……ありがとう」
小さく呟かれた言葉に、目を閉じて浸る。この時間だけは、張り詰めていた気持ちもほぐれて温まる。
地下室の外は蝋燭もなく、窓の吹雪だけが明かりのもとだった。海翔と二人で並んで歩く足音が、軽く廊下にこだます。
「ねえ、咲楽」
海翔が階段をのぼりながら言った。
「柚子ちゃんを刺した人って、誰だと思う」
私はすぐには答えられなかった。
「……たぶん、博之さん」
言葉が途切れると、足音だけが私と海翔の間に響く。
「なんか、冷静だし。あとは、海翔が言っていた薬の瓶の事もあるけど消去法かな」
海翔が無言で頷く。その視線はいつもの穏やかなものだった。
「蜜柑ちゃんに、あの日の夜何をしていたのか聞いてみよう」
海翔の言葉は、柔らかい口調だったけれど何処か鋭さも秘めていた。
「そうすれば、誰がやったかきっとわかる」
吹雪が窓に当たる音が寂しく響く。
ラウンジに行くと、そこには既に博之さんと蜜柑ちゃんが座っていた。
「おはようございます……。今日は誰も消えなくて、良かったです」
蜜柑ちゃんの控えめな挨拶が私たちに届く。
「おはよう、蜜柑ちゃん。博之さんも、おはようございます」
私が微笑を浮かべてあいさつすると、海翔もそっと頭を下げた。
「あの、二人は……柚子ちゃんが刺された夜、何処にいたんですか?」
私がそっと問いかけると、蜜柑ちゃんと博之さんは首を傾げた。
「柚子ちゃんを包丁で刺して毒を盛った人がいるのって、落ち着かないです」
私の意志を伝えると、蜜柑ちゃんの拳が握りしめられる。
「確かに、この中に犯人がいることに変わりはないんですよね。柚子を殺したやつを警察に突き出すためにも、探さないと……!」
下を向いて話す蜜柑ちゃんの視線は、読めなかった。
「……そうだな」
博之さんもどこか寂しそうに空席となった柚子の椅子を見つめていた。
暖炉の火が大きく燃えて、部屋の中に影と光の差をくっきりと映し出す。口を開いた蜜柑ちゃんは、少しためらいがちに話し出す。
「私は——咲楽さんと柚子と話した後、心寧さんに薬草を取りに行っていたんです」
海翔が疑わし気に聞き返す。
「こんな吹雪の中で?」
確かに外はとてつもない吹雪だった。もう数十センチ先も見えない。
「ええ。中庭は雪もそこまで積もっていなかったので」
この塔には中庭があった。小さな庭だったが、五階まである塔が雪の侵入をある程度防いでいるようだった。
「そうなんだ。じゃあ、コートの下に水たまりができていたのって……」
「はい。防寒着を着ていったら当然ですが濡れてしまったので、早く乾かそうと思って火を強めにしていました。水たまりって、なかなか乾かなくって」
蜜柑ちゃんが頷くのに、博之さんは勢いよく身を乗り出した。
「おい、蜜柑を疑っているのか」
その顔は険しく、信じていたいという気持ちが痛いほど伝わってくる。
「……あの場で柚子に毒を盛れたのは、ここにいる四人だけでしょう。この中の一人が、必ず噓をついている」
海翔が顔を背けていう。海翔だって、私のことを信頼してくれている。私だって、海翔のことを信頼している。だから、私の中で犯人は博之さんか蜜柑ちゃんだけだ。そういう気持ちが、博之さんの中にも蜜柑ちゃんに対してあったのかもしれない。
「……私は、海翔に対する信頼を捨てられるとは思えない。けれど……」
私の言葉が、暖炉の火の音にかき消されそうになっていく。
「蜜柑ちゃんのことも、博之さんのことも信じたい。でも、そうしたところで、柚子ちゃんはもう戻ってこない」
誰かが唾をのむ音が聞こえた。
「真実を見つけましょう。もう、誰も死なせたくない」
ラウンジの静かな空間に、それははっきりと響く。
「……そうだね。蜜柑ちゃんの言葉は嘘か本当かわからないけれど、博之さんの言葉も聞いて決めよう」
海翔が頷き、私の肩に手を乗せる。
私と海翔が揃って視線を向けると、博之さんは言いにくそうにしていた。
「あー、なんといったらいいんだか……」
私たちの目に疑いの色が現れていくのを見て、博之さんは慌てたように言葉を重ねる。
「んなわけないだろ? 俺が柚子を殺すなんて」
そう言われても信憑性がない。
疑いの目が向くにつれ、博之さんは机をたたいた。
「言えばいいんだろ、言えば! あの日俺は、狼が柚子と蜜柑の部屋に行かないように仕掛けを作ってたんだよ」
目を見開く海翔。私も驚きを隠せずに立ち尽くす。
「狼は無差別に襲ってくる。柚子や蜜柑が襲われない保証なんてどこにもないじゃないか」
蜜柑は悲しそうに目を伏せる。もしかして、知っていたのだろうか。
「それは……どこに」
「柚子と蜜柑の部屋の前にある」
私たちの顔が曇ったのを見て、博之さんはさらに慌てた。
「いや、狼って鼻が利くだろ? 野生動物よけに持ってきた大蒜を仕掛けただけだ!」
「本当に……?」
海翔が穏やかな感情の読めない目を博之さんに向ける。
「ああ。なんなら今からでも見せに行ける」
「じゃあ、行ってみましょう」
私たちが席を立つと、蜜柑ちゃんもそっと立ち上がってついてくる。
「私、それを説明してもらって、実際に匂いを嗅いだんですけれど……確かに大蒜でした」
蜜柑ちゃんが説明するけれど、海翔は「とにかく俺たちも実際に見てみる」といってどんどん進んでいく。
「へえ……」
確かに、廊下の端に容器が置いてあり、そこから微かに大蒜臭がする。私たちは普通に通っていても気づかない程度だけれど、狼にとってはこれだけでもかなりきつい。海翔も微妙な顔をしている。
「確かにこれなら狼は避けるだろうな……。だが……」
口元を抑えてよろめく海翔を慌てて支えた。
「大丈夫?」
「うん。ありがと、咲楽」
海翔は私に支えられながらも博之さんの方を軽く睨む。
「分量を間違えたら、匂いが廊下中にあふれて俺が誰も食えなくなる可能性もあったな」
穏やかさを残した、それでも責めるような視線に博之さんは下を向く。
「それでも柚子と蜜柑だけは生きていてほしい……!」
二人が助かれば俺が餓死してもいいっていうのか、と海翔は俯いた。
「否定しないよ。俺が死ねば誰も食われない」
廊下の薄暗い空間で、私は黙って海翔を見つめる。
「けど、俺には咲楽がいるから」
その真っ黒な瞳が、私の方を向く。
「咲楽を残して死ぬのは、嫌だ」
手を握られる。私もそれを強く握り返して、博之さんに向けて言う。
「私も、海翔に死んでほしくない。博之さんが柚子ちゃんや蜜柑ちゃんに死んでほしくないと思うのと同じように、私も海翔には生きていてほしいから」
蜜柑ちゃんは静かに目を伏せていた。博之さんは少しだけ沈黙する。
「ああ……そうだな」
その瞳の奥には、怒りでも疑念でもない、柔らかい感情が渦巻いている。
「このままじゃ、何も見つけられません。……疑わなければ」
海翔が言う言葉は、博之さんだけじゃなくて私と蜜柑ちゃん、そして海翔自身にも向けられている。それを聞いた博之さんは、やがてぽつりと漏らした。
「信じたいと思うことは、駄目なのか」
蜜柑ちゃんがそっと顔を上げた。海翔は黙っている。
「……俺は、柚子を守り切れなかった」
博之さんの言葉に悔しさが滲んでいることに気付く。
「……蜜柑だけでも守りたいと思うことは、駄目なのか」
海翔は溜息をつく。
「駄目じゃ、ないと思います。誰かを守りたいって思う気持ちは、間違っていないです」
私は海翔の方をちらりと見る。海翔は私に頷いて、視線を戻した。
「……けれど今は、その信頼が自分の命を落とす結果になるかもしれない」
私が引き継ぐと、博之さんは片腕を抑える。俯きながらもこちらを見ている博之さんは、どこか苦しそうに瞬きを繰り替えす。
「騙しあいっていうのは、そういうものです」
私の一言で、博之さんはそっと顔を上げた。蜜柑ちゃんが震える。
「お前らもそうだろ。お前らだって、お互いを信頼し続けたらいつか死ぬだろ」
海翔は唇を噛んだ。
「俺は——もし俺が咲楽に騙されていても、……咲楽を、許せる。咲楽の為に、死ねる」
海翔の瞳に雪の冷たい光が映りこむ。穏やかな視線は冷たくなり、一瞬だけ刺すように虚空を見た。
「私も……。海翔になら、殺されてもいい。海翔がそれで、幸せになるのなら」
視線を下に向けると、暗がりに自分の足が見えた。静かな沈黙が肌に纏わりつく。
「博之さんは、どうなんですか」
私は博之さんを見なかった。ただ、隣にいる海翔の存在だけが身近に感じられた。
「……その言葉、いざってときに後悔するぜ? 言うのは比較的簡単だが、実行するにはそれなりの勇気がいる」
はあ、と息を長く吐いた音がした。
「若いな、二人とも。俺は正直、自分の命まで蜜柑に預ける気は全く無い。……ただ、お前らが悲観視しすぎているだけだとは思う」
吹雪が外で唸り声をあげているのが、窓越しに微かに聞こえた。
「……失うことが、怖くて」
海翔が沈黙を裂くようにはっきりと告げる。
「俺より先に咲楽に死なれたくないだけ」
穏やかで、何処か沈んでいて、それでも私の手を力強く握る海翔に、私はそっと目をやった。
「何千回も人を殺した。傷つけた。大切な人を、物を、想いを奪った」
全部、と海翔は続ける。瞳の奥にある穏やかさは、普段の海翔と同じだった。
「全部、見てきたから。俺の被害者が、どんな反応をしてきたか」
どこまでも澄んだ漆黒の瞳が、私を見据える。
「……それでも俺が狂わないように、生きて、傍にいてほしい」
私は無言で頷いた。雪明かりだけが廊下の闇を照らし出す。
「……でも、これで博之さんの潔白が証明できましたよね……?」
蜜柑ちゃんの控えめな声。
ラウンジに戻った私たちは、席について暖を取っていた。
「そうしたら、誰が柚子を殺したんですか……?」
誰も返事をしなかった。
「私、許せないです」
蜜柑ちゃんの怒りに震えた声が、さらに沈黙を重くする。
許せない——その言葉は、もしかしたら本物の怒りじゃないかもしれない。蜜柑ちゃんのさっきまで震えていた手も、今は落ち着いて机の上に乗っている。
でも、博之さんは博之さんでずっと黙っている。それは守るためじゃなくて、何か隠しているのかもしれない。
「私視点だと」
息を深く吸い込む。海翔を信じると決めた——その事実が、心に一つの灯を作る。
「私視点だと、蜜柑ちゃんと博之さんのどちらかが犯人です」
だって、海翔はあの日ずっと私の傍にいた。淳史さんは大蒜が仕掛けられている部屋にわざわざ行ってナイフを刺したりはしないし、時間帯的に毒を盛ることもできない。心寧さんは狼に襲われていたのに、そんなことをする時間もない。
「だから……二人の証拠を教えてください。全部、本当かどうか見極めてやります」
頬が熱い。けど、暖炉の火はそんなに強くない。
「……! 咲楽さんがそこまで言うのなら、私も全部話します……!」
「嬢ちゃん、アンタが犯人である可能性も俺が暴いてやる!」
窓ががたがたとなった。海翔は私の手を黙って取っている。
「わかりました。……始めましょう」
蜜柑ちゃんと博之さんは視線を交わす。
「……じゃあ、私から。——私、心寧さんの研究が普段勉強している分野と同じだって、初日の夜に話して知って。それで、その日からいろいろ聞いたり、研究室を見せてもらったりしていたんです。私が手伝いたいって言ったら、心寧さんが薬草を探してきてといっていたので、中庭に行ったんです! 本当にいろいろなものが生えていて、もしかしたら人狼を人間に直せるようになるかもしれない成分も……!」
海翔がぴく、と反応した。
「……そんなものを、今更」
「……」
蜜柑ちゃんは一瞬黙った。
「……それで、あの日も遅い時間まで話をしていたんです。気づいた時には二十三時半で、……すぐ個室に行きました」
「……そのあとは?」
私が尋ねると、蜜柑ちゃんは唇を噛む。
「ずっとスマートフォンの明かりで、成分の計算をしていました。そういうことをしていると、怖さも少しだけ緩むので。それに、あと少しだったし。……気づいたら寝ていて、朝で、心寧さんはいなくて……」
だんだんと小さくなっていく蜜柑ちゃんの声に、私は頷いた。
「……採ってきた薬草は?」
聞き返すと、蜜柑ちゃんは視線を下げる。
「……心寧さんの実験室です」
「わかった。後で見てみる」
脳内で情報を整理していく。
「……薬の成分、計算していたって言っていたよね。見せてくれない?」
蜜柑ちゃんは無言で頷く。
「……具体的な成分とか、そのあたりも?」
蜜柑ちゃんはまた頷いた。
「……結局、薬はどうなったの?」
「……私は、柚子が大変だったのでほったらかしでした。心寧さんが夜中に食われたなら、私が個室にいる間に完成させたかもしれないですけれど、出来ていないかと……」
蜜柑ちゃんの話を聞いていた私は、上着のポケットから無言で青色のとろりとした液体の入った小瓶を取り出す。
「……」
蜜柑ちゃんは黙って、それが机の上にのせられていくのを見ていた。
「……これに、心当たりは」
「ないです」
ほぼ即答だった。
「……これは、心寧さんの実験室に置いてあった薬。一緒に置かれていたメモには、人狼を殺す薬だと書いてあった」
私がそれを振ると、蜜柑ちゃんの表情が一瞬強張った。
「……」
私が蜜柑ちゃんを見つめていると、彼女は何か思いついたかのように声を上げる。
「……あります、心当たり。青色になる成分と、とろみがつく成分……それ、振っちゃだめです!」
最後の方はほとんど悲鳴に近かった。
「さっき、心当たりないって言っていたのは」
「だって、何種類も何通りも方法を試すんですよ? 人狼なんてデータが少ない物、本当に何が効くかわからないんです……! 一瞬で情報が出てこなかったんですよ! 狼を抑える方法にもいろいろあって、『殺す』で分かったんです……!」
震える手を抑えた蜜柑ちゃんは、私の方をきつく睨む。
「振ったら、全部台無しに……!」
海翔は無言で外の吹雪を見つめていた。
博之さんは腕を組んで、背もたれにもたれかかっている。
「……人狼を殺す、ね。——それって、海翔を、肉体を殺すって意味?」
「……っ」
蜜柑ちゃんが息を呑む。ゆっくりと縦に振られた首に、私は溜息をついた。
「……蜜柑ちゃんなら、作り直せるんじゃないの?」
「……え?」
怯えの表情を浮かべていた蜜柑ちゃんは肩の力を抜く。
「研究、手伝っていたんでしょ? 実験室に残っていたメモとか見れば、再現できるんじゃない?」
私が感情を抑えて発した言葉に、蜜柑ちゃんは再び表情を硬くする。
「……いいんですか」
海翔が視線を蜜柑ちゃんに向けた。
「海翔さんを殺す毒……ですよ? 本当に……?」
——そうか。
研究室にわざとらしく置かれたあのメモは、私が海翔に毒薬を打つように誘導するための、心寧さんなりの死を回避するための計画だったんだ。
「……ねえ、これ。一般人が打ったらどうなるかわかる?」
「……えっと。軽い症状が出ますけれど、死には至らないはずです。解毒剤も——ジギトキシンが主成分ですから、……恐らく作れます」
心寧さんは海翔を殺して、助かる気でいたんだ。
「じゃあ、なんでそれで海翔を殺せるの?」
「狼にだけ効くように調節出来るんですよ……! 嘘じゃないです、必要なら成分濃度表も見せられます!」
甲高い声を上げる蜜柑ちゃん。
「でも、人体にも軽い麻痺などの症状が現れる成分——アコニチンもあります……濃度を調節して、それで——」
私は眉を顰める。
「……海翔、これ——理解できる?」
「いや、成分名も聞いたことすらないな……」
二人で首を捻っていると、博之さんが蜜柑ちゃんのスマートフォンの画面を向けた。そこには電子書籍の文章がのせられている。
「いやいや、流石に聞いたことくらいあるだろ? ちゃんと実在する成分だ。……まあ、俺もよくは知らんけど」
「……!」
スマートフォンを戻してもらった蜜柑ちゃんは、こくこくと頷いている。
「でも、なんで心寧さんが作った薬の内容をそこまで詳しく? 見た目と用途を聞いただけで細かく分かるなんて……」
海翔が口を開いた。疑り深いその目に、蜜柑ちゃんは一瞬息を止める。
「……舐めてますよね、科学者を。私、小学生のころからずっとずっと勉強してきたんですよ? このくらい、分かって当然です。二十一世紀も後半なんですから……海翔さんが生まれた時代と同じにしないでください」
棘のある言い方に、博之さんも一瞬口を挟もうとした。
「……こればっかりは信頼してもらうしかないです。——海翔さんがいなければ、人狼に食べられる心配も全部なくなるんです……!」
——蜜柑ちゃんの言葉は、彼女の正義なんだろう。犠牲者を最小限に抑えるために、一人の命を奪うことは。そのために、自分の全力をもって殺人毒を作り出すほどにまで。
「でも」
喉の奥から声を出す。
「でも、それって」
驚くほど低い音が出る。
「海翔の命より、皆の命の方が重いってことだよね……!」
私の言葉に、蜜柑ちゃんは何か不穏な気配を察したようだった。
「……」
目を伏せたまま何も言わない蜜柑ちゃんは、微かに震えている。隣にいた海翔は片手で目元を抑えている。
「……」
暖炉の火がぱちりと音を立てて爆ぜる。博之さんは視線をわずかに下にずらして無言を貫いている。
「……何度も言うようだけれど、さ」
海翔が口を開いた。
「俺が死ねば全員助かる。それは本当でしょ」
私は思わず息を呑む。
「だって、皆からしたら俺が全ての元凶だよね。俺さえいなければただ皆で笑い合って吹雪をやり過ごして、無事に全員で下山出来たんじゃない? だって、この塔には食料もマッチも大量にあった。俺がいなくたって、ちゃんと生き延びて——」
私はその口をそっと塞いだ。
もう、海翔が自分を傷つけるのを聞いていたくなかった。
「……私は、海翔がいいの」
海翔は自分の口元を塞いでいる私の手にそっと触れる。その頬を一筋の涙が零れ落ちた。
「……ね?」
そっと離そうとした手を、海翔の手が握る。離したくない、とでもいう風に自分の胸に私の手のひらを押し付ける海翔。
「……ごめん」
震えていたその言葉は、誰に向けられたわけでもなかった。
「生きていて申し訳ないって思っていたけど、でも」
あたたかな木のテーブルの上に、涙の粒が幾つも滴り落ちていく。
「咲楽、……ありがとう」
掌に鼓動が伝わってくる。力強いその音を、消させたくない。
「……」
博之さんは表情を変えずに俯く。
「生きるために……命を奪わなければいけない」
私は海翔に囁く。
「そんなの、当たり前だよ。気にしすぎなくて、いい」
海翔が頷く瞬間を見届けた私は、震える蜜柑ちゃんに視線を戻した。
「……わかった。後で見せてもらうよ、蜜柑ちゃんの計算結果。それで、博之さんは?」
博之さんは目を薄く開く。
「……俺は、さっき言った通り罠を作っていた。大蒜を使う案を思いついたのは二十三時ごろで、それまではずっとどうやったら守れるか考えていた」
感情がすべて消え去ったかのような低く落ち着いた声。視線は涙を拭っている海翔を向いていた。
「時間がなくて、簡易的な物しか作れなかったんだ。二十三時半に蜜柑の部屋に行ったとき、蜜柑はまだ起きていた」
はい、実験室から帰ってきた直後で、と蜜柑ちゃんも頷く。
「柚子の部屋の方にも行ったが、柚子は寝ていた。緊張して、疲れていたんだろうな。俺は狼除けの大蒜を置いていって、そのまま蜜柑に挨拶して、ずっと個室にいた」
沈んでいくような重い口調に、海翔の穏やかな視線が一瞬僅かに鋭さを帯びた。
「……大蒜のほかにも罠を考えていたんですか?」
海翔の質問に、博之さんはゆっくりと頷く。
「山で野生動物駆除なんかに使われるトラップも考えた。けれど、雪や木の枝で隠すことが出来ないから、やめたんだ」
本気で海翔を殺そうとしていたことが重く伝わってくる。隣の海翔をちらりと見やるが、その視線は揺らがなかった。
「……ずっと個室にいた証拠は?」
自分の口から出た言葉が、どれだけ博之さんを追い詰めるだろうか。
「……ないな」
そこで蜜柑ちゃんがあっと声を上げる。
「そういえばあの日博之さんが去った後、窓の外で何か動いた音が聞こえたような気がします……」
博之さんが瞠目した。
「——違う……! 俺はずっと個室にいたぞ……!」
「いえ、風かもしれないんですけれど……」
口に手を当てて考え込むような仕草をした蜜柑ちゃんに、博之さんの目が向く。
「スマートフォン片手に計算していたら、窓に一瞬黒い影が映った気がしたんです。火を消した後だったから、見間違いかもしれないんですけれど……」
「火を消した時間は?」
私が勢いよく尋ねると、蜜柑ちゃんは少しだけ身を引いた。
「博之さんが出て行った直後です。そのあと毛布の中で計算していたら、ふと物音がしたきがして振り返ったんです。そしたら、人の肩の高さくらいの影が窓をふっと横切ったんです。でも、もう一度よく見ても何もなかったので……」
「……方向は?」
記憶の中に答えを探すように、蜜柑ちゃんの視線が少しだけ伏せられる。
「確か、柚子ちゃんの部屋の方から博之さんの部屋の方に」
窓の外の吹雪は一向に止む気配がない。この真っ白な雪の中に人影を見たのだろうか。
「……その時間、塔の外に出ていた人っていないよね」
蜜柑ちゃんは小さく笑みを浮かべる。
「多分、飛んできた枝とかじゃないでしょうか? 私もずっとスマートフォンの明かりを見ていたので、すぐには目が慣れなくて」
海翔も博之さんも黙っていた。
「もし誰かが通ったなら、その足跡があるんじゃないでしょうか」
全員が私を驚いた顔で見つめなおす。
「確認しに行きましょう。靴裏の模様と一致させれば誰が通ったかわかります」
窓の近くにはひさしもあった。雪が降っていても多少は足跡が残っているはずだ。
「だとしてもこんな吹雪でしょう? 一人で行くのは危ないですよ? 本当に、はぐれたら最後……」
蜜柑ちゃんの控えめな指摘が入る。
「……俺も行く」
立ち上がった海翔は、ずっとラウンジにかけてあった防寒着を取る。
「咲楽」
私は無言で頷いた。
防寒着を着て外に出ると、本当にひどい吹雪だと改めて認識する。私の手を取って先に出て行った海翔の後ろ姿さえ霞んでいる。
「気を付けて。塔の壁に手を付けるんだ」
言われたとおりにすると、掌から冷たい石の壁の感触が伝わってくる。今も繋いでいる海翔の手が温かい。
「確か、蜜柑ちゃんの個室は真ん中だったよね?」
ぼんやりと聞こえた声に、私は必死に頷いた。
海翔が懐中電灯のスイッチを入れる。そして、柚子ちゃんの部屋の下を照らし出した。
「……これは」
足跡はあった。微かな窪みが幾つも付いている。
けれど、それは棒か何かで引っ掻き回された後のように汚くて、崩れていた。とにかく歩き回ったかのようにあちこちに出鱈目な足跡がついている。
「誰なのか、わからないな」
ぼそりと呟いた海翔に、私も頷く。
「咲楽」
海翔の手が私の冷たい手を強く握った。
私もそれを握り返す。
「帰ろう」
吹雪で何も見えない中、海翔の存在だけが私を支えていた。
「それで? なにかわかったのか」
ラウンジに入った途端、博之さんの冷たい視線が私を射抜く。思わず身を引きそうになる私だったが、海翔が手を握ってくれていた。
「犯人が分からないように崩されていた。場所もたくさんの足跡があってわからなかった」
海翔が淡々と告げるのを、私はただ黙ってみていた。
博之さんは暫く腕組みをしていたけれど、やがて諦めたような顔をして席を立つ。
「冷えただろう。火に当たる席に座れ」
海翔は既に空いていた席に座っている。私も恐る恐る暖炉の傍の椅子に腰かけた。木の温かみのある焦げ茶色が私を出迎える。
「ありがとうございます……!」
冷え固まっていた体がゆっくりとほぐれていく。
蜜柑ちゃんもそれを見て少しだけ頬を緩める。
「結局、足跡からはわからずじまいでしたね。けれど、足跡があったってことは私が見た影も本物だったっていうことじゃないですか? だったら、博之さんが犯人なんじゃ」
博之さんは目を見開く。
「は……? そんなわけないだろ! 俺は柚子を刺すなんてやってない! 外にも出ていない! 蜜柑が犯人なんじゃないのか? 俺に罪を着せようとしている蜜柑が……!」
博之さんは必死に訴えかけるが、蜜柑も負けてはいない。
「信頼してくれているんじゃなかったんですか?」
「自分が信頼していない相手から信頼を貰おうなんて考えが甘すぎるんだよ!」
博之さんの声がラウンジに轟く。
「俺は……柚子を刺すなんてできない」
だって、と博之さんの唇から紡がれる言葉がいつもより小さくて、震えていて、寂しそうだった。
「光に——妻に、顔向けできない」
博之さんが目を伏せる。海翔は黙って穏やかな視線を送っている。
「俺には光と、翠と葵っていう双子の子供がいた。二人が十七になった秋、俺たちは知らない街に旅行に行った。……そこで、通り魔に出くわした。通り魔は、多分強盗でもした帰りで、警察の目を逸らしたかったんだと思う。光に銃を向けて、迷いもなく引き金を引きやがった。翠も、葵も、抵抗できなかった。藍色の空の下で、三人が最後に何を思ったのかもわからないままで、俺もその通り魔に撃たれた。——けれど、暗闇で相手も手元が狂ったんだ。俺だけが生き延びた」
柚子と蜜柑の姿が、翠と葵に重なって見えて、と目を静かに閉じた博之さんに、蜜柑ちゃんは視線を一瞬泳がせた。
「……月が。月が通り魔の顔を照らして。薄くかかった霧も消えて。俺は、あいつの顔を覚えている」
そう言って、博之さんは長く息をつく。
「俺は、もう目の前で子供が死ぬのを見たくなかった。自分の中に、憎しみが蓄積されていくから。けど、いつだって、俺に希望をくれた子は不幸になる」
博之さんは肩を抑えた。服がいびつな形に歪む。
「……撃たれたところは、治らなかった」
——作り話じゃない。
この人は嘘をついていないんだ。
「蜜柑ちゃん」
目を閉じたままだった蜜柑ちゃんは、ゆっくりと瞼を上げる。
「はい、何でしょう?」
「蜜柑ちゃんのアリバイって全部、心寧さんが死んだから確認できない」
「……」
蜜柑ちゃんは黙ってこちらを見つめていた。
「心寧さんは、二日目の朝にこう言っていた。『蜜柑さんが私の使っている部屋を知っていることはないはず』って」
博之さんの目が見開かれる。
「初日の夜だったよ、蜜柑ちゃんが言っていたのは」
静かに座っている蜜柑ちゃんが、一度だけ瞬きをする。
「厨房のナイフが減っていたのは、蜜柑ちゃんが使った直後だったよ? 蜜柑ちゃんが盗った可能性も、高いよね」
海翔は目を伏せた。静かに、けれど納得したように。
「それに。心寧さんに傷をつければ、より血の匂いがする方に狼が誘導されて——」
蜜柑ちゃんはゆっくりと首を振った。
「そんなことはないです。そもそも私が心寧さんにどうやって傷をつけるんですか」
「料理。昼や夜、料理をする際に。様子を見に来た心寧さんに近寄って、手が滑ったと言って軽く傷をつければいい」
厨房の主は蜜柑ちゃんだったから。ここに来てから蜜柑ちゃんが関わっていない食事なんてなかった。
「薬草を取ってきたことは本当なんでしょ? 見せられるって言っていたし。データは捏造したんじゃない? 蜜柑ちゃんなら、毒や睡眠薬を作ることもできたんじゃない?」
蜜柑ちゃんはすました顔を維持しているが、その額にはうっすらと汗が浮かんでいる。
「本当のこと、言ったら?」
「そんな、私が柚子を殺すなんて、柚子はずっと良くしてくれて、」
下を向いて話す蜜柑ちゃんは、かなり焦っているようだった。
「毒なんて、あんなに苦しむように作るわけない……!」
「——毒を作れる人間が、毒を使わない理由はない」
海翔の静かな言葉に、蜜柑ちゃんは身を引く。
「最初は包丁で苦しませずに殺そうと思っていたけれど、失敗したから毒に切り替えたんじゃない?」
「違います……! 私じゃないです……!」
根拠のない言葉に、私は溜息をついた。
「柚子ちゃんは最後まで親友を信じてた」
「……!」
涙目になった蜜柑ちゃんは、もう何も言わなかった。
「……蜜柑」
博之さんが向ける視線は、憐れみと憎しみが入り混じっていた。
「どうします? 蜜柑ちゃん。——狼に食わせますか?」
私が言った言葉に、海翔と博之さんは少しだけ驚いたそぶりを見せる。
「……ちゃんと警察に突き出した方がよくね?」
控えめに提案した博之さん。
「……俺はできれば食いたい」
口角を軽く上げて壁にもたれかかる海翔。
「咲楽や博之さんを食わなきゃいけなくなる確率が減る」
瞳に恐怖の色を浮かべる蜜柑ちゃん。そのまま素早く扉へ駆けていく腕を、海翔が掴んだ。
「逃げるの? 吹雪の中に出るならまだしも、この狭い塔で?」
蜜柑ちゃんの手首を掴んだ海翔の手に力がこもる。服に皺が寄り、蜜柑ちゃんは苦しそうに呻く。
「君は人を殺した——その覚悟はあったの? 人から恨まれて当然、蔑まれて当然の犯罪者になる覚悟が足りなかったんじゃないの?」
海翔が静かな視線で蜜柑ちゃんを射抜く。漆黒の瞳が冷たく細められる。
「俺自身がそうだったからわかる。その年でいきなりその責任を自覚するなんて、出来ない。……俺は止められなかった。自分の意志じゃなかった。けれど、君は自分の欲求の為に、己の意志で命を奪った」
震える手に力がこもる。呼吸が荒くなる。
「——君は、もう人間じゃない」
蜜柑ちゃんの涙が頬を伝っていく。
「だから——守られる権利もない」
海翔の冷たい瞳の奥に、抵抗できない弱者を嬲る快楽が一瞬浮かんだ気がした。
「——やめて、海翔」
私は思わず口走る。海翔は少しだけ動きを止めて、ゆっくりと蜜柑ちゃんを掴んでいた手を離した。
「……ごめん。ちょっと辛くなって」
その瞳に自責の念が宿っているのを見て、私は少しだけ後悔する。人間でありながら人ではない海翔が、一番苦しんできたはずなのに。
けれど、あそこで止めなければ海翔が人間じゃなくなる気がした。
「——ううん。海翔はずっと辛い思いをしてきていて、私はそれを知る術もないのに。勝手に口挟んで……こっちこそ、ごめん」
海翔は首を横に振る。
「——俺には、咲楽に心配してもらえる権利なんてないよ」
私はそれを否定しようとしたが、海翔の諦めたような微かな笑みで言葉に詰まる。
「本当に、俺は人間じゃないから」
博之さんはそっと視線を逸らした。蜜柑ちゃんは扉にもたれかかって俯く。
「……」
私は何も言えなかった。
さっきの海翔の嘲笑を見てしまったら、人間だと言い切ることはできなかった。
「——ごめん。俺も、人間でいたかった。でも」
伏せられた黒い瞳。私を包み込む穏やかな声。
「でも、もう戻れないんだ」
蜜柑ちゃんは、ひとまず拘束した。
海翔がどこからともなく取り出した手錠は、本来なら狼を戒めるものだったのに、今は一人の犯罪者を——少女を捕らえるために使われている。
「……」
博之さんが寂しげに視線を逸らした。柚子ちゃんも蜜柑ちゃんもいなくなって、辛いのだろうか。
「……」
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