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1 雪狼幻夜
灰桜
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すっかり藍色に染まった空に、桜が舞い続ける。雪もすっかり溶けた今日、山には数人の人影がある。
「……下山できていない登山客が数名いたはずだが……」
警部は山の中腹の古びた塔に寄り掛かり、空を見上げていた。目の前には、使った形跡のある暖炉とその中に溜まっている灰。そこから、小さくきらりと輝く桜の花びらが顔を出している。
「ここに誰かがいたことは間違いないはずだが……」
開いた窓からは桜の花びらがひらり、ひらりと絶え間なく落ちてくる。
「先輩、遺体は見つかりませんでした。数人分の荷物があることから、ここに避難したとみてよさそうです」振り返ると、後輩——本幡が報告する姿が見えた。本幡は眉を顰めて続ける。
「さらに、血の付いたナイフや床についた血痕なども見受けられました。……先輩、これどういう状況っすか」
本幡は後半、いつも使う口調に戻って耳打ちしてくる。
「……全員が吹雪の中で凍死した可能性もあるが……この塔に避難したのにわざわざ外に出る必要があるとは思えない。ふもとでさえ大打撃だったんだから」
俺は部屋の外を見やった。そこには縁の欠けた小さなマグカップが転がっている。
「ええ……? じゃあなにがあったんすかこれ」
「……俺は、人狼だと思う」
俺が大真面目で言っているのに、本幡はそっと吹き出すように腹を抱える。
「くっ……先輩、都市伝説とか信じるタイプだったんすか?」
「いや、人狼は過去の事例を見る限り、実在すると考えていいはずだ」
床に桜が積もっていく。血痕が見えなくなっていく。
俺はすっかり暗くなった空を見上げる。
「……先輩がそういうのなら、きっとそうなんすよね」
本幡が口元を抑えながら顔を上げた。
「体長三メートル超、体毛は白。本人が言った情報だと、三日人を食わなければ餓死する」
俺の言葉に本幡は息を飲んだ。
「じゃあ、登山客の数が荷物の数と一致するなら六人、その中に人狼が一人いた……全員を食ったとしても、吹雪が始まってもう十八日だから、丁度今日誰かを食べないといけないっすよね……?」
灰の中で俺の見つめる桜だけが色を持っていた。
「先輩……ぁ」
本幡の声が聞こえて、俺は何の気もなしに振り返る。
——振り返った先に、本幡はいなかった。落ちていた桜の花びらが、真っ赤に染まっている。
その先には、知らない人が立っていた。大人しそうな二十代前半のその男性は、口の中の牙をちらりと見せて嗤う。
「こんにちは、警部さん」
赤に染まった灰と花びらを、そいつが踏みしめる。ゆっくりとこちらへ向かう彼から、穏やかな殺気を向けられる。
「……本幡をどうした」
本幡の影はどこにもなかった。
「……今日まで捜索隊の人が来なかったら山を下りようかと思っていましたけれど……そちらから来てもらえるなんて、願ってもない」
灰が舞う。赤い花びらが踏まれてぐしゃり、と音を立てる。
「答えになってねーよ」
俺は無意識に腰の銃に手を掛ける。——捜索には使わないかもしれないけれど、空に向けて撃てば獣対策になるっすよ? そう言って笑った本幡は、この場にはもういない。「……」
彼は琥珀の色に染まった瞳を俺に向ける。
——反射的に銃を抜いて、発砲した。銃弾は分厚く雪のように真っ白な毛皮に阻まれて、ただ銃声だけが虚しく場に響き渡る。大きく口を開けて迫ってくる巨躯に、俺の視界が暗転する。
すっかり藍色に染まった空に、桜が舞い続ける。
「……これでよかった?」
狼は消えていて、先ほどの男性——淳史が微動だにせず問う。
「はい……。こうするしかなかったと思うっす」
彼の後ろから、本幡が姿を現した。下を向いて悲しそうに笑う本幡に、淳史も牙を見せて微笑んだ。
「……君の復讐が遂げられてよかった。心残りはない?」
「ええ……もう、何もかもがどうでもいい」
部屋の外から、銃声を聞きつけてやってきた数人の足音がどたばたと聞こえてきた。
「……三日後、君も食うよ」
「……」
本幡は笑顔のままうなずく。
「……ありがとう。僕はここにいると捕まっちゃうから、また三日後ここでね」
開けっ放しの窓からひらりと飛び降りる淳史。本幡が見下ろすと、そこには真っ白な狼が素早く駆けていく姿があった。
本幡が寂しげに笑い、夜風が月の下で桜と灰を巻き上げる。
——その者の命を対価に、復讐を遂げる。
願いを叶えたという一点だけで、食らうことが赦されるなら。
人の願いを叶えることで、殺すことは幾らでも美しくなる。
それが、人狼に許された唯一の綺麗な生き方だった。
「……下山できていない登山客が数名いたはずだが……」
警部は山の中腹の古びた塔に寄り掛かり、空を見上げていた。目の前には、使った形跡のある暖炉とその中に溜まっている灰。そこから、小さくきらりと輝く桜の花びらが顔を出している。
「ここに誰かがいたことは間違いないはずだが……」
開いた窓からは桜の花びらがひらり、ひらりと絶え間なく落ちてくる。
「先輩、遺体は見つかりませんでした。数人分の荷物があることから、ここに避難したとみてよさそうです」振り返ると、後輩——本幡が報告する姿が見えた。本幡は眉を顰めて続ける。
「さらに、血の付いたナイフや床についた血痕なども見受けられました。……先輩、これどういう状況っすか」
本幡は後半、いつも使う口調に戻って耳打ちしてくる。
「……全員が吹雪の中で凍死した可能性もあるが……この塔に避難したのにわざわざ外に出る必要があるとは思えない。ふもとでさえ大打撃だったんだから」
俺は部屋の外を見やった。そこには縁の欠けた小さなマグカップが転がっている。
「ええ……? じゃあなにがあったんすかこれ」
「……俺は、人狼だと思う」
俺が大真面目で言っているのに、本幡はそっと吹き出すように腹を抱える。
「くっ……先輩、都市伝説とか信じるタイプだったんすか?」
「いや、人狼は過去の事例を見る限り、実在すると考えていいはずだ」
床に桜が積もっていく。血痕が見えなくなっていく。
俺はすっかり暗くなった空を見上げる。
「……先輩がそういうのなら、きっとそうなんすよね」
本幡が口元を抑えながら顔を上げた。
「体長三メートル超、体毛は白。本人が言った情報だと、三日人を食わなければ餓死する」
俺の言葉に本幡は息を飲んだ。
「じゃあ、登山客の数が荷物の数と一致するなら六人、その中に人狼が一人いた……全員を食ったとしても、吹雪が始まってもう十八日だから、丁度今日誰かを食べないといけないっすよね……?」
灰の中で俺の見つめる桜だけが色を持っていた。
「先輩……ぁ」
本幡の声が聞こえて、俺は何の気もなしに振り返る。
——振り返った先に、本幡はいなかった。落ちていた桜の花びらが、真っ赤に染まっている。
その先には、知らない人が立っていた。大人しそうな二十代前半のその男性は、口の中の牙をちらりと見せて嗤う。
「こんにちは、警部さん」
赤に染まった灰と花びらを、そいつが踏みしめる。ゆっくりとこちらへ向かう彼から、穏やかな殺気を向けられる。
「……本幡をどうした」
本幡の影はどこにもなかった。
「……今日まで捜索隊の人が来なかったら山を下りようかと思っていましたけれど……そちらから来てもらえるなんて、願ってもない」
灰が舞う。赤い花びらが踏まれてぐしゃり、と音を立てる。
「答えになってねーよ」
俺は無意識に腰の銃に手を掛ける。——捜索には使わないかもしれないけれど、空に向けて撃てば獣対策になるっすよ? そう言って笑った本幡は、この場にはもういない。「……」
彼は琥珀の色に染まった瞳を俺に向ける。
——反射的に銃を抜いて、発砲した。銃弾は分厚く雪のように真っ白な毛皮に阻まれて、ただ銃声だけが虚しく場に響き渡る。大きく口を開けて迫ってくる巨躯に、俺の視界が暗転する。
すっかり藍色に染まった空に、桜が舞い続ける。
「……これでよかった?」
狼は消えていて、先ほどの男性——淳史が微動だにせず問う。
「はい……。こうするしかなかったと思うっす」
彼の後ろから、本幡が姿を現した。下を向いて悲しそうに笑う本幡に、淳史も牙を見せて微笑んだ。
「……君の復讐が遂げられてよかった。心残りはない?」
「ええ……もう、何もかもがどうでもいい」
部屋の外から、銃声を聞きつけてやってきた数人の足音がどたばたと聞こえてきた。
「……三日後、君も食うよ」
「……」
本幡は笑顔のままうなずく。
「……ありがとう。僕はここにいると捕まっちゃうから、また三日後ここでね」
開けっ放しの窓からひらりと飛び降りる淳史。本幡が見下ろすと、そこには真っ白な狼が素早く駆けていく姿があった。
本幡が寂しげに笑い、夜風が月の下で桜と灰を巻き上げる。
——その者の命を対価に、復讐を遂げる。
願いを叶えたという一点だけで、食らうことが赦されるなら。
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