チェイン・ペタル

令藤

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2 茜血桜

湿り風

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 生きることが罰なら、俺は罰を咲かせ続ける。


 まだ暑いけれど、だんだん涼しくなってきた。そろそろ上着を着てもいい時期かもしれない。
「稲谷さんって、独身なんですか?」
 隣からのぞき込んでくる女性は、職場の同僚だ。
「……独身ではないです。半年前、妻に死なれて」
 曇り空は夕陽を遮って、道行く人たちの表情もどこか暗かった。
「……すみません」
 隣で同僚が俯いた。
「いいんです。それにしても暑いですね。これで異常気象、幾つ目でしたっけ」
「……そうですね。この間の吹雪が四十五で、今のは五十三だった気がします。東京曇天みたいな名前でした」
 ああ。もう、そんなに立っているのか、あの日から。気づかなかったけれど。
「そうですね……。これからちょっと、買い物に付き合ってくれませんか」
「え……?」
 彼女がいなくなってから、生きることの意味をずっと考えていたけれど。
「こんなところにお店があるんですか……?」
 不安げに後ろをついてきた女性は、少し首を傾げた。黒い髪が揺れる。
「ないですよ、店なんて。悪く思わないでくださいね? ……俺は、生きなくちゃいけないので」
 女性が理解する前に、俺は姿を変える。誰もいない町の外れから、遠くの町が見える。雲に遮られた青空を、見ることはできない。
「——」
 女性が叫び声をあげる前に、俺は彼女を飲み込む。生温かいものが喉を通っていく。
「っ……」
 人間の姿に戻っても、不快な感覚は消えない。
けれど、これでもう、何回目だろうか。
彼女を失ってから、もうずっと繰り返してきた。
生きるために、躊躇うことをやめたかった。
けれど、彼女は俺が人間であり続けることを望んでいた。
「無茶、いうなよ」
 俺は膝から崩れ落ちた。
——もう、精神が持たない。
続けなければいけないのに。
生きていかなければいけないのに。
誰かを犠牲にし続けないといけないのに。
 ——咲楽の声は、桜を連れた春の風は、今でも俺を縛っている。
「……いきるよ」
 あの日の言葉を繰り返し、自分を無理やり立たせて。
「……」
 町は雲に覆われて、日が見えない。
 だから、自分が混ざっていく。
 消えていく。
 押し負けてはいないけれど、獣としての本能は抑え込めなくて。
「咲楽」
 この世にはいない彼女の名前を呼ぶ。
 自らが生きるために殺した彼女の名前を。
「……俺は」
 赤い体の蜻蛉が舞う。金色に光る稲が風に揺れてさらさらとなる。
「俺は、何なんだ」
——いきてねって言っただろ。
 ちゃんと生きてるよ。
 ……いや、今の俺が生きてるって言えるのか、わからないけれど。


「お兄さん。どうしたんですか」
 ふいに背後から聞こえてきた声に、俺はゆっくりと振り返る。
「……どうもしていないよ。君こそどうしたの、こんなところで」
 そこに立っていたのは、十歳くらいの少女だった。肩までの黒髪がさらりと揺れる。
「……私はただ、散歩していただけですよ」
 雲が立ち込める薄暗い空の下で、彼女は視線をわずかに下げる。
「そうか。……名前を、聞いてもいいか」
気まぐれだった。ただ、こんな人気のない場所で歩いている少女だったら、また今度食えるかもしれないと思っただけだった。
「私ですか? 私は、本幡澪っていいます。……お兄さんは、なんていうんですか」
 本幡。そういえば、昔そんな名前の人を食ったかもしれないと思う。珍しい苗字だから、覚えている。
「俺は……稲谷海翔。この近くに住んでいて」
 ああ。そうだ。咲楽を食った三日後に、俺に復讐を願い出た捜査隊の警官だ。
「澪、兄弟がいたりするか」
 急に変なことを聞いてしまったかもしれないな、と思い直したが、澪は少しだけ視線を上げた。
「……兄が、いました。殺されましたけれど」
 そうだ。俺は知っている。あいつは息子を殺されて、精神が病んでいて。息子が殺された時その場にいたのに助けなかった、という警察の先輩を殺そうとしていた。
結局、そいつを食ったのは淳史だったけれど。
「そうか……。すまない」
 少しだけ考える。
 咲楽の「いきてね」を守るために、澪をどうするか。
「……俺は、妻を殺されて」
「……」
 澪の瞳が細められた。
「……それは、大変でしたね」
 ああ。優しいんだろうな、この子は。咲楽みたいに。
 知らない人でも、何か困っていそうだったら声を掛けてしまうんだろうな。
 だから、これから俺はこいつを——
「……海翔さん。頑張って下さいね」
 その一言で、俺は顔を上げる。濃い灰色に染まった空が向こうに見える。
「奥さんも、きっとあなたが生きることを望んでいますから」
 澪の瞳の奥に、琥珀色がちらりと見えた気がした。
 そんなはずはない。琥珀色と言ったら、淳史の瞳の色だ。
「……ああ。ありがとう」
 澪はてくてくと歩いていった。俺は彼女の行く先を見届けて、そっと動き出す。


 俺は、咲楽に命を貰って。
 あの日から、春が嫌いになった。
「こんにちは、海翔さん。風が気持ち良いですね。春みたいに過ごしやすくって」
 部長が声を掛けてくる。
「……俺は春が嫌いです」
「そうなんですか? ……もしかして、花粉ですか?」
 彼は先日自分の部の人間が行方不明になったというのに明るかった。
「いや。そういうわけではないんですが」
 部長が帽子に手をやる。眼鏡を通して瞬きされる視線は、空を向いている。
「そうでしたか。しかし、この曇り空は嫌ですね。なんだか気分が滅入りますよ」
 呑気に話す部長に、俺はなんとなくいらついた。
「そもそも異常気象を引き起こしたのは人間じゃないですか」
「……その言い方だと、貴方が人間じゃないように聞こえますよ」
 笑う部長に、俺はどきりとした。
「いや、そんなわけないですって。俺はちゃんと節水節電してますからね」
 俺だって人間なはずなのに、なんであんな言い方をしたんだろうか。
 やっぱり、この陽がささない天候で昼夜が一体化して、淳史と俺が混ざってきているんだろうか。
「海翔君は偉いな。私はなかなかうまく節電できなくてね。異常気象が増えるばかりだというのはわかっているんだが……」
 異常気象さえなければ、俺が咲楽を食うこともなかっただろうに。
「部長みたいな人がいるからですよ、こんな天候なのも」
「まあ、暑いよりはいいじゃないですか、これでも」
 この人はどこまで呑気なのだろうか。次はこいつを食おうかという気にさえなってくる。
「太陽がないと道端の雑草もあんなに元気がなくなるんですよ」
 枯れかけた草を踏む部長に、俺は眉を顰める。
「そうなんですけれどね……」
 そっと目を伏せた彼に、俺は言い過ぎたかと思った。
「ま、無理はしないでくださいよ」
 俺は部長に軽く手を振って、細い路地に入る。
また今日も誰か食わなければいけない。
 暗い曲がり角を覗くと、一人だけ女性が立っていた。都会でも郊外になると本当に人気が少ない。
 狼化して、音を立てずに後ろから忍び寄る。頭から素早く彼女を飲み込んだ。
 生温かい液体が喉を通る。地面に口から溢れた血が滴り落ちる。
「……」
 後ろからの視線を感じて、俺は狼の姿のまま振り返った。人型に戻れば、警察に通報されるかもしれなかった。
「……」
 そこに立っていたのは、澪だった。彼女はあの日と同じ服を着て、目を丸くしている。
「……」
 お互い無言だった。
 澪には俺が誰だか、いや人間なのかすらわからないはずだ。なら、話してわざわざ正体を明かす必要はない。
「……」
 澪はやがてくるりと後ろを向いて、歩き出した。目の前に巨大な狼がいるのに、何の反応もなかった。
「……」
 ただ、彼女は一瞬だけ、つまらなそうな表情をした。


 俺も、人間でいたかった。
 でも、もう戻れない。
 それは、あの日咲楽に言った通りだ。
 なのに。
「稲谷君?」
 目の前にいる先輩は、咲楽とどこか似ていた。
「百先輩……大丈夫です。ただ、少し息苦しくて」
「異常気象で湿度きついもんね。ちょっと待ってね……」
 先輩が何やら鞄の中をあさるのを横目に、その笑顔を見る。
「あれ? おかしいな……確かに持ってきたはずなんだけど」
 咲楽とそっくりな横顔。違うのは、先輩は髪を長く伸ばしているけれど、咲楽は少し短めだったことだけかもしれない。
「もういいですよ、先輩。俺はあと少しやったら帰るので」
「そう?」
 笑顔は、全然違う。あどけない先輩より、儚くて、それでも決意を秘めた咲楽の笑顔の方が好きだ。
「夜は気を付けてね。最近物騒だから」
 妹が行方不明だというのに、本当に何も気にしていないようだった。
「……咲楽は」
 俺が思わず口にすると、百先輩は一瞬きょとんとする。
「咲楽は今頃」
 いないんだ。
 咲楽はもう、俺が殺した。
「咲楽は今頃どうしているんでしょうか」
 俺が食ったのに。
 止まらない。言葉が溢れる。
「咲楽、監禁とかされていないといいですけれど」
 行方不明。そして、捜索隊も消えている。
 百先輩からしたら、生きていることすら、怪しいはずなのに。
 俺は、何を言っているんだろうか。
「咲楽か……」
 俺だけが帰還した後、先輩は俺に何か聞くようなことはしなかった。
 ただ、少し俯いて、俺の手を取っただけだった。
「咲楽は……もう、生きていない気がするの」
 先輩は今日もそっと俺の手を取る。
「稲谷君を傷つけてしまったら申し訳ないんだけれど……消えてしまったって、そういうことだから」
 そのくらいで傷つくわけがない。
 俺自身が咲楽を消したのに。
 俺自身が咲楽を代償に生きているのに。
「いえ。ただ……」
 異常気象を引き起こしたのは人間だ。
 勿論、俺も含まれる。
 十一歳の時までの俺は、純粋な人間だった。
「ただ、青空を二人で見たかったんです」
 あの二人だけの最後の空間で、青空なんていくらでも見ただろうに。
 百先輩だって傷ついていないはずがないのに。
「ただ、二人っきりで太陽の光を浴びたかった」
 この曇天は、起こってしまったからにはもう止まらない。あと一週間か、一か月か。少なくとも、すぐに終わる代物ではない。
「だから」
 だから、俺は許せなかった。
 異常気象を起こしておきながら、まだ事態の緊急性に気付いていない人間たちを。
「だから——先輩が気にすることじゃないです」
 許せなかった。
 自分自身を。
「咲楽は俺の中にいますから」
 百先輩は、その言葉にどれだけ傷つくかわからないのに。


 百先輩は、咲楽の実の姉だ。
 その百先輩を差し置いて、俺が被害者ぶることなんてできない。
「だからって……」
 俺は都内の人気のない路地裏を探し当てる。
 一人だけ現れた男性に狙いをつけ、俺は忍び寄る。
「……っ」
 俺は足を止めた。素早く建物の影に回り込み、様子を観察する。
 男性の様子がおかしかった。
 背後に誰かが覆い被さっている。
 男性の肩から、血があふれ出した。
 そいつは男性にしがみつく。
普通の人より小さいその体に、血が跳ねる。
その影がこちらをふと見たような気がして、俺は慌てて背中を壁に付けなおした。
 どさり、と体が倒れる音がした。
 俺が恐る恐る顔を出すと、得体のしれないやつは消えていて、出血している男性だけが横たわっていた。
 俺が手を当てても、反応しない。冷たくなっていく体は、恐らく救いようがない。
「……」
 死にかけのこいつでも食えば腹を満たせる。
 もともと俺が食おうとしていたターゲットだし、救急車を呼ぶ気は欠片もない。
「……」
 俺は無言で狼化した。少しだけ地面が遠くなる。
 倒れている対象を食うのは、これが初めてじゃない。そう、あの雪山で死んだ柚子を解毒して食った時もそうだ。
「……!」
 血溜りが出来ていたが、対象の男性自身に血は残っていなかった。
 一滴も。
「……? ……!」
 なにが起きたのか、一瞬理解できなかった。
 一瞬でこんなにきれいに血を抜けるなんて、あいつ——


 夜の中でも、都会は明るい。
 ライトが眩しいくらいに曇り空を照らして、湿った秋の匂いが風に乗って重くまとわりつく。
「だからって……」
 少し都心を外れると、のどかな田舎道が続く。田畑の作物が日射不足で萎れかけているのも見える。
「だからって、なんで夜になっても俺が消えないんだよ」
 淳史は起きている。用水路の暗い水面に映る俺の瞳は、少し黒っぽかったけれど琥珀色だった。赤い蜻蛉もあまり見かけなくて、姿の見えない虫の鳴き声だけが辺りに響く。
「……っ?」
 突然頭に力が入らなくなる。頭からどんどん足元に向けて気が抜けていくようにコントロールが効かなくなり、そのまま倒れるかと思った。ひりひりする肌を暗く湿った風が撫でる。瞳の奥が刺されたように痛い。
「……」
 いつものことだ。
 毎晩のことだ。
 もう慣れた。
「……あああ」
 その、はずなのに。
苦しみを伴って現れる変化は、自分を許したくないという願望から来ているのかもしれない。咲楽を食った、自分自身を。
「ああああああ……!」
 鋭い頭痛。視界がぼやける。体が勝手に動き出す。
痛みを訴える足を無理やり立たせ、今日も誰かを食わなければいけないと口の中で転がしたのは、
 ——淳史であると同時に、俺でもあった。
「咲楽……!」
 道の真ん中で、雫が頬を伝うのを止められないまま、自分と淳史の人格が混ざっていく感覚に心を裂かれながら、けれど咲楽の「いきてね」は、餓死寸前の俺を突き動かす。
 誰かを食うことに慣れた。
 それが、人間でいるためのぎりぎりのラインを攻めているような気持ちになる。
 咲楽は、俺に人間でいて、それでもなお生きることを望んだのに。
「無理だ……俺には、出来ない」
 遠くに人影を見つけて、俺はほとんど無意識に走り出す。固い土の地面が足裏を通して心臓まで、脳まで駆けあがってくる。薄闇に包まれた街でも、まだ昼の人格の俺が起きているくらい明るいのに。
「……人間じゃなくなる俺を」
 踏み込む。その瞬間に、足元から筋肉が膨張して、白い毛並みが出来ていく。
「赦してくれるか……」
 後ろを振り返ったその人間を、頭から飲み込んで。
「まだ、愛してくれるか……」
 咲楽は死んだ。俺が食い殺した。
 最後の願いぐらい、俺が聞き届けてやりたい。
「俺、約束通り生きているからさ……」
 咲楽。
 この揺れる視界が、体中の痛みが、君が俺に望んだものなのか。
 君がそれを願うなら、きっとどんなことでも受け入れるから。
 秋の虫の声はだんだんと小さくなっていった。
 人型に戻っても、不快な感覚は消えない。
「俺、生きているから」
 人間に戻るまでの道は、ゆっくり探していけばいい。
 例え無理難題でも、俺は君の願い通りに生きていくから。


「稲谷君?」
 覗き込んでくる百先輩。咲楽の微笑みがフラッシュバックする。
「あ、あの……大丈夫なんで、ちょっと」
 どうにか言ったはいいものの、その先が続かない。
「無理しなくていいからね?」
 長い髪を揺らして心配そうに顔を上げた百先輩に、俺は悲鳴を上げかける。
 淳史が暗い昼にも侵食してきていて、百先輩を食うにはどうしたらいいのか考え始める始末だった。
「あ、大丈夫です。……でも、ちょっと」
 言いよどんだ俺に、百先輩は首をかしげる。一挙一動が咲楽と瓜二つだ。
「今日は早めにあがりたいです……」
 咲楽を思い出させないでくれ。
 俺が殺したんだという事実を突きつけないでくれ。
「咲楽は」
 まただ。
 止まらない。
 百先輩は傷つくだろうか。
「咲楽はどこでしょうか」
 なにを言っているんだ。
 咲楽は俺の腹の中だ。
 あの雪山の塔で、咲楽は俺が食ったんだ。
「咲楽はっ……」
 視界が滲む。PCのキーボードに雫が落ちてくる。
「……稲谷君」
 百先輩は少し俯いた。
「咲楽は、いないのよ」
 子供を諭すような声。
「咲楽は、何処にもいない」
 知っている。
誰よりも、俺が。
絶対に見つからないって。
もう、生きていないんだって。
「先輩……」
 咲楽は死んだ。俺が食い殺した。
「すみません」
 俺が食ったことは覆せなくて。
 そのせいで色々な人が悲しんで。
 それを目の前で、目を伏せる先輩から直に受け取って。
「すみませんっ!」
 本当に、謝ったくらいじゃ何にもならないだろうに。
「稲谷君……」
 先輩はただ俺を見つめて、それから俺の手を取った。
「家に帰りなさい」
 一瞬、何が起こったのか理解できなかった。
「咲楽と、住んでいた家があるでしょう?」
 二人で暮らしていた家に、帰る?
 嫌だ。これから紡ぐはずだった二人の物語は、もう捨てたんだ。俺が生きることを選択した時点で、もうその未来は消えたんだ。
 これまでずっと、眠らなかったのに。
 いつも夜中はそのあたりの道を歩いて、咲楽の願い通りに生きていたのに。
「……」
 思い出したくない。
 咲楽の声だけで十分だから。
 後悔したくない。
 あの選択を、頭の中に再生してしまうから。
「……家に、帰りなさい。部長には私が言っておく」
 家に。
 そんなことはできない。もう半年近く帰っていない。登山にいったあの日から、全てが変わっていないはずだった。蜘蛛でも住み着いただろうか。埃も溜まっただろうか。
 だから、俺は帰る場所がない。
 俺が帰れるのは、自分の心の中の日常だけだから。
「……貴方は、一旦気持ちを落ち着けて」
 無理だ。生きろと言った咲楽の想いをそのままにしておきたいから。
 家に帰ったら、誰も食えなくなるから。
 あの、咲楽を飲み込んだ時の布の感触、血の匂い、肉の味、鮮やかな色、鼓動の大きな音が今も体に焼き付いていて、誰かを食うたびにそれが甦ってきて。
「……はい」
 それなのになんで、俺の体は肯定の返事をしてしまうのだろう。
 淳史なのかもしれないけれど、何のために。
 自分が壊れていく。視界が歪む。先輩の声は咲楽とそっくりで、でも俺に対する感情が全然違う。
 咲楽の視線はもっと優しかった。
 咲楽の声はもっと熱かった。
 咲楽の指はもっと細かった。
 百先輩は、咲楽じゃないのに。
 桃は、桜にはなれないのに。
 重ねてしまうのはなんなんだ。
「咲楽は……」
 まただ。
 なにかいおうとすると、全てが「咲楽」になってしまう。
「咲楽は」
 駄目だ。もう、止めないといけない。
「咲楽は……!」
 咲楽は死んだ。俺が食い殺した。
 その事実を、自分に目いっぱい突き付けたつもりだった。
「咲楽は俺が」
 言ってはいけない。
 警察に捕まって、極刑を言い渡されたらどうにもできない。
 巨大な狼も、麻酔銃や鎖には勝てない。
 死んだら、咲楽との約束が守れない。
「咲楽は俺が……」
 咲楽は死んだ。俺が食い殺した。
 その重みを、失ったものを、まだ実感していなかったのかもしれない。
「俺が……!」
 百先輩は何があったのか知らないだろう。
 咲楽は俺の目の前で死んだのかもしれない、くらいに思っているのかもしれない。
 それだけじゃ、ないのに。
「……稲谷君」
 百先輩は俺の手を引いた。
「ご飯でも、食べに行きましょう。私が奢る」
 俺は黙って視線を上げる。
「……」
 軽く頭を下げることしか、できなかった。


「何がいい?」
 メニューを差し出す百先輩は、いつものように何も気にしていない顔だった。
「……」
 俺は口を開くとまた咲楽のことをいいだしてしまうような気がして、黙っていた。
「……無理に話さなくて大丈夫だよ? とりあえず、ドリンクバーでも頼む? それともお酒?」
「……」
 咲楽は酒が嫌いだった。
 俺も、ほとんど飲んだことはない。
「……」
 そんな何気ないことまで思い出してしまうのは、百先輩が何か言うからだろうか。いっそ何も言わずに黙っていてほしいくらいだ。
「……お酒、飲める?」
 俺は微かに首を横に振った。それ以上の動作はできなかった。
「……じゃあ」
 先輩はスマートフォンを取り出して、バーコードを読み取る。
 昔咲楽と来た時は、店員さんを呼び出していたのに。
「……」
 全部、咲楽の動作に重なって見える。
 忘れない。
忘れられない。
 忘れたくない。
 けど、彼女の記憶を捨てない限り、俺はこのままだ。
 ずっと、誰とも話せない。
「……」
 先輩の視線が痛い。
「大丈夫?」
 先輩だって辛くないはずがないのに。
「……」
 咲楽咲楽咲楽咲楽。
 止まらない。
 咲楽は死んだ。俺が食い殺した。
 精一杯口をつぐんでも、溢れ出す感情が濁流を生み出す。
「……!」
「あの日。半年前、何があったの」
 先輩はそっと聞いた。風のように、桜の花びらのように、春の陽射しのように、あたたかく、柔らかく、何処までも咲楽にそっくりな声で。
「話したくなければいいんだけど」
「咲楽は」
 言葉を抑え込めない。
 咲楽は死んだ。俺が食い殺した。
「咲楽は死んだ」
 駄目だ。先輩が傷つくだろう。俺も生きていられなくなるだろう。
「……」
 百先輩は黙って聞いていた。俺はまだ下を向いている。
「咲楽は死んだ。俺が」
 零れる言葉に、百先輩の咲楽そっくりの表情は変わらない。
「咲楽は死んだ。俺が……」
 言葉が、胸の内側から押し寄せてくるのに、自分自身がせき止めていて。
 それは、一気に溢れ出す。
「咲楽は死んだ。俺が食い殺した」
 先輩の表情が、一瞬凍り付く。
 ——もう、認めてしまった。
 咲楽は死んだ。俺が食い殺した。
 呪文のように繰り返し、自分に言い聞かせて、それが自分の思い違いだったことを願い続けて、けれど、現実は変えられなくて。
「咲楽は死んだ。俺が食い殺した」
 自分を制御できない。
 もう、後戻りできない。なかったことにはできない。
 ——生きていくなら、必ずこうなると勘付いてはいたはずだったのに。
「咲楽は——」
「稲谷君」
 俺が繰り返そうとするのを、百先輩が遮る。
「飲み物を、取りに行こう」
 あの日もそうだ。飲み物を咲楽に用意して。麻痺薬を盛った手が震えていて。
 食欲をこらえきれなくて。
「……はい」
 何もかもがどうでもいい。
「先輩の分も、俺がとってきますよ」
「そんな、いいのに」
「何かしていないと、また狂ってしまいそうなんです」
 俺が丁寧に告げると、先輩は押し黙る。
「……何がいいですか?」
「……アイスティーを」
 どこか不機嫌そうに言った先輩を横目に、俺は席を立つ。
 店の柔らかい音楽に包まれて、俺は利き手をポケットに滑り込ませた。
「……」
 指先に少しだけ取った麻痺毒を、グラスの飲み口にそっと塗る。解毒しやすい即効性の毒だ。
「……悪く、思わないでください」
 先輩には聞こえないであろう小さな声で呟くと、それだけで体感温度が下がった。
 片方のグラスにアイスティーを、もう片方にはミルクを入れる。たぷんと波打った水面が、暖かな光を透明に透かしている。
「先輩。これでいいですか」
 俺は席に戻って、先輩にグラスを差し出す。紅茶の褐色に氷が揺れる。
「うん。ありがとう。……稲谷君って気が利くよね」
——ありがとう。……海翔って気が利くよね。
俺は一瞬、咲楽が目の前にいるかと錯覚した。
グラスに口を付けようとする先輩が、咲楽と重なる。
 考えるより早く、手が動く。
 ぱりん、と音がしてグラスが割れた。
 先輩の手から弾かれた硝子が床に散らばる。
 百先輩はこちらをそっと見た。
「……なんで?」
 その顔はいつもの百先輩だった。
 俺は紅茶に濡れた手をゆっくりと下す。
「すみません。もう一杯もってきます」
 百先輩は明らかに不自然な俺の行動に反論しかけたが、何かに気付いたように口を閉ざした。
 店内の音楽が急に遠くなった。
 百先輩は、咲楽じゃないのに。
 桃は桜にはなれないのに。
 もう一度ポケットに手を滑り込ませる。震える手に触れたのは、人間が飲めば即死は免れない毒薬。
 ——咲楽は死んだ。俺が食い殺した。
 告白してしまったからには、先輩を消さなければいけないのに。


 ——その日、先輩は俺を通報した。


 しくじった。
 夜の暗い街に飛び出し、人目も気にせず狼化する。白狼の巨躯は一瞬にして夜の東京に広がり、冷たい秋の風を受けて一気に加速する。背後で誰かが叫び声をあげているが、一瞬で距離を離すと甲高いその音も遠くへと消えていく。
 どこか、人目のつかないところ逃げなければ。
 警察に捕まればもう、「いきてね」を守れる気がしない。
 もう息が荒くなっていた。今日も誰かを食わないと死ぬのに、まだ誰も食えていない。
 百先輩を食う予定だったからなのだろうか。
 必要以上の犠牲を出さないことにこだわって、ここで力尽きて死ぬのだろうか。
 ——いや。今は人間らしさを捨ててでも、「いきてね」を守り通さなければいけない。
 人型に戻る。人気のない田んぼ道で、赤い体の蜻蛉が曇り空の下を待っている。
 咲楽と昔、散歩に来た道だ。あれは一年くらい前だったろうか。丁度秋だった。
 肩で息をしながら立ち止まる。元気のない稲穂が風にさらさらと揺れた。
「稲谷君」
 俺は咲楽の声に振り返る。
 ——何を言っているんだ、俺は。咲楽じゃない、百先輩だ。
「もう、逃げられないよ?」
 先輩の車の向こうには、数台のパトカーも止まっている。
「……」
「咲楽を殺した時も、毒を盛ったんでしょ?」
 先輩の表情は悲しそうだった。その瞳には怒りも、憎しみも、恨みもなくて、ただ寂しそうに俺を見つめている。
「……ああ。その通りだ」
 俺は警戒しながら後ずさりをする。咲楽と何気なく歩いた秋の田舎道は、今は針の生えた地獄の道のようにも思えてくる。
「……ねえ、大人しく捕まってよ」
「断る」
 もう狼になるだけの気力すら残っていない。百先輩を食うことなら辛うじて上手く行くかもしれないが、後ろに警察が控えている今は失敗する可能性が高くなる。
「これも、咲楽のためなんだから」
 先輩の悲しげな瞳に、俺はキレた。
「は? あの場にいなかったくせに、よくそんなことが言えるな」
 咲楽がこれを聞いたら、どう思うだろうか。俺に寄り添ってくれるだろうか。それとも、俺を止めようと手を伸ばすだろうか。
「あそこでそのまま下山していたら、俺が捕まっていた。それを避けるために咲楽を食ったのに、なんでそんな無意味なことしなくちゃいけないんだよ」
 口調を荒げずに、それでも感情を抑え込めなくて。
「咲楽は最期に、俺が生き続けることを望んだ。——だから、捕まるわけにはいかない」
 百先輩はしばらく俺を見ていたが、やがて口を開く。
「受刑したら、それだけで稲谷君の罪も償われる——」
「そんなわけないだろ!」
 俺自身の怒声が飛ぶ。
 体の奥で目覚めかけている淳史と、初めて一体になる。瞳に涙が浮かぶのを、抑えきれない。
「俺が生きていくために何人殺した? 十二年間ずっと人を食い続けて、その分だけ願いを、幸せを奪った……今更、懲役? そんなので今までの罪が消えると思うか?」
 蜻蛉が俺の大声に驚いて飛び去る。折れかけていた自分の心が、まだ立ち上がる。
「俺は、人狼だから。どれだけ罰を受けても、赦されないんだよ」
 咲楽は、きっとこの言葉を否定するだろう。その小さな手で、俺の口を塞ぐだろう。そして、あのやさしい声で、俺の存在を肯定してくれるんだ。
 けれど、
——咲楽は死んだ。俺が食い殺した。
その事実は、覆らないから。
「人狼とか、ずっと人を食ったとかは、馬鹿な私にはわからないけれど……お願いだから、私の為に捕まってよ。咲楽を殺したやつを、許せないから」
 咲楽は、もうどこにもいないから。
 俺の心の中に残っていた咲楽の幻像でさえ、今は塵となって消えて行くから。
「咲楽は俺に、「いきてね」って言った。その言葉を、守り抜かないと」
 百先輩の顔が歪む。その表情に、初めて怒りが現れる。
「なんで、こいつなんかっ……こんな奴を咲楽が赦すはずがないっ……!」
「……!」
 百先輩の瞳から零れ落ちた大粒の涙が、湿り気味だった地面に染みを作る。
 ——あの日と同じように。
 俺は先輩にゆっくりと近づく。
「……俺は、咲楽の最後の言葉を信じるだけ」
 風は湿っていて、少し息苦しかった。
 なんてことはない。
 俺の被害者は、俺の食道の奥で息苦しさに藻掻くだろうから。
 現に百先輩が俺の喉を通っていくとき、少しだけ突っかかりがあったから。
 仕方がない。
 だって、そいつらの呼吸を封じ込めなければ、悲鳴をあげられてしまうから。
 だから、こんな秋の湿った風なんて、苦しいのうちにもいれたくない。


 人を一人食えば、後は警察たちの制圧なんて簡単だった。
 ——俺は、人狼だから。
 咲楽の「いきてね」を、守らなければいけないから。
 人間らしさなんて、二の次だから。
パトカーのライトは、血痕を照らすことなく静かに夜の街へと消えていった。
俺の足元には、千切れた稲穂だけが残っている。
「いきてね」——その声だけが、まだ俺を引きずっている。
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