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 日は真上まで昇り、十二時のアラームが部屋に鳴り響く。

「間に合った……死ぬ……メシ……」

 瞬きする時間さえ惜しむような勢いでベタ塗りを仕上げた僕は、机に突っ伏した。

「とりあえずメシだ……死ぬ……」

 立ち上がって部屋から出る途中、相変わらず散らかった部屋を見て、自分の情けなさを痛感する。衛生面とかなんとかしなきゃならんし。毎食パンとかじゃいつ倒れてもおかしくないし。あー、前途多難だなこりゃ。

「ん?」

 頭を悩ませながらドアを開けると、ふといつもと違う空気感に違和感を覚えた。違和感、といっても不思議と嫌な感じはしない。むしろ身が軽くなったような感じがした。

「なんだ、この感じ?」

 階段を降りてすぐに、違和感の正体が分かった。

「これは……?」

 いつも視界に入るはずのゴミ山は、リビングのどこにも見当たらない。代わりにゴミ袋の山は見つかった。その中には見慣れたエナジードリンクの空き缶や、飲料ゼリーのゴミ等々が入っている。脱ぎっぱなしにしてあったジャージや靴下は、窓の外に天日干しされている。ほんのりと暖かい風が窓の外から吹いてきて、部屋中に舞っていたはずの埃は洗い流されている。

「これ、僕の家か……?」

 あまりにも変わり果てていたリビングを見て、思わず言葉がこぼれた。

 床のフローリングまでもが日の光を反射するほどに磨かれている。ツルツルしていて、まるで新居のようだ。疲れのあまり自分の足裏の感覚がとうとうおかしくなってしまったのでは、と疑うほどに綺麗に、懇切丁寧に掃除されていた。

「業者なんて頼んだ覚えないけどな……」
「あ、ひ、柊くん」

 キッチンからひょこっと顔を出したのは夜新城だった。よく見るとキッチンも掃除されている。

「もしかしなくてもこれ、お前がやった?」

 家にいたのは僕と彼女だけだ。となれば事実、これはこいつがやってくれたということになる。だが、どうにも信じきれない自分がいる。

「あ、すみません……どうせクビになると思って最後の悪あがきをと……」
「マジか。いや……マジか」

 正直驚いた。いつも学校であんな感じの彼女が、まさかこんな特技を持っていたとは。相変わらず猫背だし目も合わせないけど。

「ご、ごご、ごめんなさい勝手なことして……わた、私はもう帰りますね。あ、一応余ってた食材で作ったサンドイッチが冷蔵庫にあるので、捨てておいてください……」
「いや食べる、食べるに決まってる。捨てるわけないだろ」
「そ、そうですか……。そそ、それでは失礼しました……」

 大急ぎで玄関へと向かう夜新城。僕は思わずその手をとった。

「あ、ちょ待て」
「ひえっ……!」
「あ、悪い」

 すぐに手を離すも、夜新城は顔を青くして歯をガタガタ鳴らしている。

「い、いえいえいえ全然まったく安全大丈夫です」

 大丈夫じゃないんですね、分かります。

「あー、その、だな」

 引き留めたくせして、僕は何と言えばいいか分からず目を泳がせる。いや、何を悩むことがあろうか。今さらになって夜新城を雇うとかは都合よすぎるし……こんな才能を持っているのなら、僕以外の誰かにその才を使った方が良い。

 僕が悩んでいるのを見かねてか、夜新城はたどたどしく口を開いた。

「あ……もも、もし、私をクビにすることをお気になさっているのなら、そ、それは不要なことですので……だ、大丈夫です」
「え?」
「そ、それにそもそも……私みたいな『限界ぼっち』が誰かのメイドだなんて……ははは、無謀にもほどがありますよね。自分で分かっています」

 自嘲交じりの笑顔で、遠慮がちにペコペコ頭を下げる夜新城を見て、僕はテーブルに置いてあったを手に取って彼女に見せた。

「これ、昨日の夜に買ったんだ。これから世話になるメイドへの手土産にってな」
「そ、そうなんですか……き、きっと喜んで受け取ってくれますよ……」
「それなら、さ」

 僕は腕を伸ばして彼女の手を取り、掌に手土産を乗せる。

「それなら……受け取ってくれるか」
「……?」

 なんで私に? と、状況の掴めていなさそうな表情をする夜新城は首を傾げて考えるそぶりを見せる。

「ちょっと都合、良すぎるかもしれないけど」

 本当に都合が良すぎる話だと思う。さっきまではあんなにも断固拒否な態度だったくせに、夜新城にメイドスキルがあると分かった途端これだ。けど何より――。


「私みたいな『限界ぼっち』が――」


 何より、自嘲気味にそう言った彼女と自分を、どうしても重ねてしまう。だがこれはきっと間違った考えだ。勝手に自分と同じ境遇だと決めつけて、勝手に同情して、勝手に親近感を期待してしまうのは間違っている。二次元の主人公のように、完璧に相手を理解して、関係を保ち続けることなんて多分できない。どこかですれ違ったり、離れたりする可能性がある。それが、僕の忌み嫌う『現実』というものなのだ。僕に人とのかかわりは向いていない。彼女とは関係を持つべきじゃない。きっとまた傷つく。

 そう、これは僕の最も嫌う『現実』のはずなのだ。なのに、どうしても彼女に対する庇護欲や親近感が頭から離れてくれない。それが勘違いかもしれないのに、関係を持てば傷つく可能性だってあるのに。

 それなら……。それなら――。

「僕は、夜新城がいいと思ってる」

 ――『現実』なんて、受け入れればいいんじゃないのか?

 何もしなくても、逃れようとしても、ヤツ現実は無遠慮に襲い掛かってくる。それならば、もう受け入れるほか選択肢はないんじゃなかろうか。どれだけ努力しても、傷つくものは傷つく。それを怖がって可能性をみすみす捨て置くのは味気ない。

 僕に人とのかかわりは向いていない。メイドで、しかもクラスメイトとなれば嫌でも親近感は沸くし、心も許してしまう。その先に起こりうる可能性は恐ろしい。けれど、そんな起こるか起こらないか分からない未来に怖がってたら、僕はから何一つ変われない。何より、情けない話だが僕には身の回りの環境を整えてくれる人がいなきゃ困る。

「……え?」

 ようやく脳が理解できたのか、夜新城は顔をぶわぁっと赤くする。初めて目が合って、彼女の水色の眼に思わず惹きこまれそうになる。誰も見ていないだけで、本当はこんな顔してたんだな。

「ほんと自分勝手だけど、こんなのが雇い主でいいなら」
「えええぇっ!? え、あ、あのっ……!!」

 緊張した心を解くように夜新城は息を大きく吸い込み、部屋に響き渡るくらいの大声で答えた。

「よっ、よよろしくお願いしますっ――!!」

 手土産を受け取ってくれた夜新城を見て、ふっと笑みがこぼれる。

「――そうか。よかった」

『現実』も、受け入れてしまえば案外悪くないのかもな。

 それは彼女が受け取ってくれたことからくる安心故か、はたまた部屋が綺麗になって居心地が良くなったからか。いずれにせよ、これから始まるであろう彼女との生活に、僕は少し胸躍るような感覚を覚えた。
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