宝石の花

沙珠 刹真

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第二章

成長日記

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 早起きヨシ!
 気温ヨシ!
 鉢植えヨシ!
 軽石ヨシ!
 土ヨシ!
 種ヨシ!
 生徒の間で指差し確認が流行っているので私も流行に乗ってみた。
 本当は工事現場や工場などで安全確認のためにやることみたいだけどね。
 さて五月も半分が終わり下旬と言われる頃、昼間はぽかぽかと暖かい。
 流石にまだ半袖で出歩く勇気はないけど、車中から見る公園で遊ぶ小学生の中には半袖の子もちらほらと出てきている。
 なんなら半袖に短パンの子も居て、道産子すげーって思わず口に出たのは私だけの秘密だ。
「えっと、まずは……」

〇種まき
 ①鉢植えの底に軽石を敷き、その上に土を入れる。
  終わったらたっぷり水やりをして土を湿らせる。
 ②鉢植え1つにつき指で種を植える穴を4つ開ける。
  深さは1㎝~2㎝、他の穴や鉢植えの縁から距離を取ること。
 ③穴1つにつき種を1つ入れて、土を被せる。
 ④仕上げにまた水やりをして、芽が出るまで気長に待つ(およそ1週間)。
  発芽の段階だとまだ水をたくさん上げる必要はないので、土が乾いたらたくさん水を上げるくらいでいいです。
  水の上げすぎは種を傷めます。
 ⑤植えた種すべてが発芽して1~2週間経ち、本葉(双葉より上の葉)が出始めたら1つの鉢につき元気な苗を2つ残し、残りは捨てても構いません。
  可哀そうなので私は別の鉢に植え替えてます。
  間引く際の基準が分からなければ写真でいいので私に見せにきてください。

 昨日の夜にも読んだけど、作業をする前にもう一度読み直し、いざ作業開始。
 軽石を敷いて、土を入れて、水をやる。
 人差指を土に突き立てる。
 ちょっとひんやりしてるけど、大丈夫だよね?
 確かネットでも調べた時は第一関節の前までって書いてあった。
 穴に種を一つずつ入れて、土を被せる。
「元気に育てよー」
 とは言っても、メモによれば鉢一つにつき二つは間引くことになるらしい。
 ちょっと悲しいので、別の鉢に植えて育てても良いらしい。
 間引かれなかった種が成長して、もし病気になってしまった時の備えとして育てることもあるそうだ。
 無論、そうならないように予防もするつもり。
「うーん。種が八個で鉢植えは二つある。うーん、もう二つ買ってこようかなあ」
 そうすると軽石も土も少し足りない。
 写真を見せに行けばついでに土も買えるかな?
 写真と言えば、成長日記的なものを付けてみようかなあ。
 日記を付けようと思ったことはあるけど、続いた試しがない。
 最高で一か月くらいだったかな。
 成長日記なら毎日じゃないし、写真をパソコンに取り込んで文書ソフトに一言程度なら続けられそうな気がする。
 いや、やろう。
 スマホで写真を撮り、最後に水やりをする。
 うん、やっぱり捨てちゃうなんてかわいそうだし、鉢植えを買いに行って全部育てることにしよう。
 そのまま真っすぐ学校行けば丁度部活の時間に間に合うし、ちゃっちゃとジャージに着替えて、
「いってきます」

5月〇◆日(日)  日記、始めます!
 今日は花屋Morning Gloryっていうフラワーショップの店主(だと思う)の若林さんから貰ったアサガオの種を育て始めたよ。
 自分の日記じゃ全然続かなかったけど、こんな感じで写真と一言くらいなら続くはず。頑張れ、アサガオ! 頑張れ、未来の私!



「ただいまー」
 誰も返してくれないのに、つい言葉にするのが癖になっている。
 種を植えてからの約一週間で帰ってきてからのルーティンが変わった。
 教員生活が始まってからの二か月弱は、荷物を置き、着替えて、化粧を落として、ご飯の支度だった。
 今は、荷物を置き、ベランダに直行しアサガオの様子を確認して、いつもの流れに戻る。
 生徒の部活に加わった日は汗を早く流したいので、ご飯の前にシャワーで、それは今も変わらない。
 そして!
 なんと!
 もう暗いから明日の朝に写真を撮るけど、植えた種すべてから発芽が完了した。
「同じ種なのに成長速度が違って、子供たちと同じみたい」
 種を植えて六日経ち、二つ並べてある鉢のうち、左から二つ、右から一つ、小さい芽が土から出てきていた。
 そこで日記を書こうとも思ったけど、どうせなら全員が発芽したからの方がいいかな、と思って待ちに待っていた。
「無事に全員第一関門クリア。このまますくすく育ってよー」
 願いを土に込めるように声を掛けてから部屋の中に戻る。
 ルーティンをこなし、一息つく。
 誰も見ていないことを良いことに、だらしなくベッドの上に大の字になる。
「もう九時半か……」
 スマホで時間を確認し、何をしようか迷う。
「いや、迷うことなく今日は日記を書くべきでしょ」
 中学生の朝読書に近頃人気の小説でも読もうと逡巡したが、ベッドから腹筋を使って起き上が――れない……。
 副顧問とは言え部活を見るんだから少し筋トレもしようかな。
 ちょっと太ってきた気がしなくもないし……。
 横向きになって両腕も使い起き上がり、ノートパソコンの元へ移動する。デスクの上にはペン立てと共に、自分用に買った紫色のスイートピーが入ったハーバリウムが置かれている。
 文書ソフトを起動し、日記を書き始める。

5月◇●日(火)  発芽!
明日の私がここに画像を挿入する
 植えた種がすべて発芽したよ。
 やったね!
 芽が出るのが早かった子、遅かった子も、元気に育ってね。

「うん、このくらい短い程度ならぱっとできて負担にもならないね」
 ささっと簡単に書式を整えてデータを保存する。
 パソコンを開いたついでに筋トレのことも調べてみる。
「うーん。わからん」
 専門的なことがあれやこれやと書かれていて疲れた頭には辛く、読み上げてみるも言葉と一緒に内容も抜け落ちていくので、早々にブラウザを閉じることにした。
 とりあえず、目標腹筋十回!
 うぅうー……
 ふはあ!
 うん、まだ一回しかできないや。
 万年文化部だった私の脆弱な体を舐めるな!
 って、誰に言ってるんだ、私?



 シャラララン。シャラララン。
 寝る前にかけた目覚ましが耳元で鳴り響く。
 ううーん。
 ベッドの上で伸びをして、お腹の痛みで寝起き眼が一瞬でスッキリする。
 枕の横に置いてあるスマホに表示された時間を確認する。
「六時……」
 もうこの時間に起きるのがデフォルトになりつつあるなあ。
 六時半に起きてバタバタするよりはいいか。
「いやでも今日は日曜日だし部活も午後からだしなー」
 と掛布団の誘惑に負けそうになったところで、
「寝るならその前に水やりしないと」
 誘惑を振り切り、カーテンを開けて、パジャマのままベランダへ出る。
「まだ湿ってる……」
 六月に入り、朝でも暖かくなってきた。
 本州だと早ければあと少しで梅雨入りだけど、北海道には梅雨がないらしく、あのどんよりとした季節が無いというのが未だにイメージできない。
 ベランダは丁度東側に向かっているので、朝日が眩しい。
 朝のにおいがする空気もおいしい。
「日が出ているのは昼と同じなのに、早起きした休日朝のの空気って気持ちいー」
 再び伸びをしながら、おいしい空気をめいいっぱい食べた。
「朝ごはん要らないかも」
 結局、もう一度寝る気にはなれず、目覚めのインスタントコーヒーを淹れてリビングテーブルに落ち着く。
 今日は午前中のうちに間引きのこと教えてもらいに花屋まで行きたいと思っている。
「そういえば、あそこの花屋の名前ってどういう意味なんだろ?」
 『花屋"Morning Glory"』の英語の部分と"意味"という単語を一緒に検索する。
「先生に掛かればこんな英語はちょちょいのちょいっと」
 使うブラウザは特にこだわりがあるわけではないけれど、大学の時の友人の一人がものすごくうるさくて、その友人と同じものをずっと使っている。
 友人曰く『先生』だそうだ。
 検索結果が表示される。
「えっ」
 知らなかった。
「ふーん。だからアサガオの種をくれたのかな?」
 というより今更だけど、なんで育てることになったんだろう?
 ハーバリウムを値引きする代わりに育てる?
 うーん、なんでだろう?
 花屋さんだからガーデニングの宣伝的な?
 うまいように流されちゃったけど、まあ気にしたら負けか。
 ぐぅー。
「朝ご飯にしよっと」
 スマホをテーブルに置き、台所で食パンにイチゴジャムを塗ったものを一枚皿に載せ、再びテーブルに落ち着く。
「直訳すれば『朝の輝き』かあ」
 今日みたいな朝日と早朝の空気と元気に育っていくであろうアサガオたちを幻視し、頬が緩むのを感じる。
 朝食を食べ終え、コーヒーも飲み終わり、食器も片付けた。
 うーん、微妙な時間だ。
 以前貰った名刺には『OPEN  AM 9:00』と開店時間が書いてある。
 来週用のノート作りはまだ残っているけど、やるなら終わるまで集中したいし。
 そうだ、掃除しよう。
 掃除機をかけ、フローリングの部分はフローリング用のウェットシートを使って拭いていく。次いで台所の水回りを掃除し、風呂掃除、最後にトイレ掃除をしていく。
「ふぅー、終わったー」
 スマホで時間を確認すると、九時半。
「予定は九時に到着だったのに、結局こうなるのかあ」
 これならノート作りやっていたとしても変わらなかった気がする。
 出かける準備をして、いざ花屋へ。
 その前に乾いてきた土に水をやり、写真を撮るのも忘れない。
「あとは忘れず土と軽石を貰うようにしないと」
 結局、おまけして貰ったけど、その後のことを考えると私はいいカモってことかな。
 ま、気にしない、気にしない。
 確かにそういうこと考えて悪い顔して笑ってそうな人だけど!





「っはっくしゅん」
 風邪かな?
 それとも、誰かが私の噂をしている、ってやつかな。
 現実的にありえないことだろうけど、そのありえないことが店で散々起こっているから、ありえないと言い切れないのが怖いところ。
「今日あたりかな、藤田さんが来るのは。いつも来るのは日曜日だったし」
 なんでそんな予感がするのかっていうのは、今日、私と同じ作業をするであろうから。
「初心者ってことで、こっちが勧めたこと大体その通りにやってくれてるみたいだし、種まきした日も同じなんじゃなかろうか」
 と、ぶつぶつ独り言を呟きながらせっせとアサガオの間引きをしていく。
「間引きというか、ただの植え替えになってるなあ、毎年」
 毎年春から夏の終わりにかけて、店の入口にアサガオのプランターを置くことにしている。
 育ちが良いのは店側の一段高いところにグリーンカーテン用、育ちが遅いのは道路側で支柱を立てて普通に育てる。
 これは先代からしてきたことで、店を継ぐ以前から知らぬ間に私の仕事になっていたことでもある。
「嫌いじゃないからいいんだけど、いかんせん外に置く関係上神経使うんだよね」
 腰いったーい。
 ずっと屈みながら作業していたので、一度立ち上がり背骨を後ろに反らす。
「よし、終わり」
「おはよう、蛍ちゃん。今年も綺麗なアサガオ楽しみにしてるよ」
「前田さん、おはようございます。今年も頑張っちゃいますよ」
 前田さんは近所のおばあさんで、よく家に飾る季節の花を買いに来てくれる常連さんだ。
 これから自転車で買い物に行くようだけど、わざわざ自転車から降りて挨拶してくれた。
「先代さんもこんなかわいい子を置きざりにして、どこに行っちゃったのかしらね」
「ホント、ドコニイッチャッタンデショウネー」
 うーん、棒読みになっちゃったけど、気にしている様子はない。
「買い物ですか? お気をつけて」
「そうなの。今日、孫が時期をずらして帰ってくるのよ。だからごちそう作ってあげようって思ってるのよ」
 それじゃあね、と手を振り、再び自転車を漕ぎ始め、左折と共に姿が見えなくなった。
 三十路目前の歳になって、かわいいは嬉しいような嬉しくないような……。
 前田さんくらいの歳から見たら同年代はみんなかわいいで括られるんだろうな。
 たしか話で聞いただけだけど、お孫さんとも歳近かった気がするし。
 と、延々と店の前で腕を組みながら考え込む。
「…しさん」
 うーん、孫ねえ。
 まず子供だろうけど、出会いどころかまず興味ないしなー。
 花愛でて、花に囲まれて死ねるならそれはもう本望だし。
 でも跡継ぎとかどうしようって、考えるの流石に早いけど、ここ畳みたくはないしなー。
「…ばやしさん?」
 というか、私も隠居もとい研究の方やりたいし、なんであのジジイだけ自由にやってんだよ、考えるだけで苛ついてくるな、くそー。
 あ、でも先代も独身じゃん。
 いやバツイチって言ってたな。
 で、赤の他人だった私が継いでる訳だし、同じ路線で行くか。
 でも、バイトの求人で来られても困るんだよなー、この店色々おかしいし。
「わーかーばーやーしーさーん!」
「!?」
 うお、びっくりした。
 耳元で大きな声で名前を呼ばれて、立ち上がった時と同じくらい背骨が後ろに反り返った。
「なんだ藤田さんか、驚かせないでくださいよ」
「なんだって……私一応お客さんなんですけど」
「お客は神様って考えはお店側が持つ考え方であって、お客様が持っていい考え方じゃないと思いますよ?」
「そ、それよりも、そのプランターって」
 あ、話反らした。
 ちょっと声が上ずってる。
 まあ、いいけど。
「アサガオですよ。毎年、夏の終わりまで入口にこうやって植えておくんですよ」
「やっぱり店の名前が『アサガオ』だからですか?」
「まあ、そんなところです」
 店の名前は当然、先代がつけたものだけど、アサガオから名前を取った訳ではないらしい。
 先代は自分の店を持つって時に、店の名前で迷っていたある真冬の早朝に散歩していた。その日の朝はかなり冷え込んでいたとのこと。
 そんな冷え込んだ日に店の近所にある小学校の裏山――山というよりも丘であり林だが、小学校の時からそう呼称されていた――を眺めながら道路を歩いていた。
 裏山の木々が樹氷――冷えた樹木に氷点下の水の粒が付着し凍りついて成長したもの――となり、ダイヤモンドダストと共に朝日に照らされ、氷の花が踊るように咲いていた。
 朝にその輝きを見たから、『朝の輝き』というそのままの名前を思いついたらしい。
 恥ずかしいことにアサガオの英名を知ったのは店を構えてからというね。
 やっぱあのジジイ、阿呆だわ。
 と、そんな説明をすると長くなるので、誤魔化しておく。
 先代の、というより店の保身のためにも、言わなくていいことは言わない。
「今日は間引きについてですか?」
 単刀直入に要件を聞く。
「はい。相談ついで? うん? 土を追加で買うついでに間引きの相談?」
 ああ、私のメモの通りに別に植え替える気なのか。
 ありがたい限りでございます。
「一応、もし本当に間引くならって判断で選びますけど、植え替えるんですよね?」
「はい、可哀そうなので植え替えようと思って、鉢植えはもう買ったんですけど、土や軽石、あと肥料も足りなくなるかなって思って来ました」
「なら、対角同士を植え替えるだけで良いですよ。とりあえず店の中へどうぞ」
 店の扉を開けて藤田さんを先に中に入れる。
「あ、ハーバリウムが増えてる」
「常連さん、といってもご近所の方々ですが、ありがたいことに結構人気になってしまって追加で作りました」
 うわぁ、常連さんなんていたのって顔に書かれてるよ。しかも油性マジックの極太ではっきりと。
 まったく失礼な。
 近所付き合いはあるっての。
「あ、これ、今朝の写真です」
 また話反らした。
 まあいいや。
「ふーむ……私なら左の鉢は右二つ、右の鉢は左手前と右奥を残しますね」
「ほとんど同じくらいなのに、すごい」
「まあ、そこは経験による勘もありますよ。結局もっと育っていけばどれも遜色ないくらいしっかり育つでしょうし。
 ああ、でも植え替え前提なら先ほど言ったように、対角同士でやるといいですよ。偏っているとお互いの成長を邪魔し合うこともありますから」
「はい。わかりました。あとは土と軽石を購入したいのですが、ありますか?」
「もちろん新品の在庫はありますが、また半端ものでよければお安く提供しますよ」
「入口のプランターに使った余りですか?」
「それもありますし、育てているのはアサガオだけではありませんからね」
 頼まれたものを準備しにレジの奥へと入っていく。
 おまけで支柱もセットにしておいてあげよう。
「あのー、これって?」
 顔は見えないが、以前来店して時に無くて今回あるものというとレジの前に置いてあるアレしかない。
 それに一通り店内の花は見ているはずな上に、今はアサガオの育成に夢中な様子の藤田さん。
 こうなるとやはりアレしかない。
 この推理が外れる確率はゼロパーセント!
 でも外すと恥ずかしいので、ちらっと藤田さんの様子を確認する。
「ああ、それは害虫対策の原液ですよ」
 藤田さんが手に取っていた瓶には米酢に鷹の爪やらを入れた害虫予防液の原液が入っている。
「原液っていうだけあって、直接噴霧してしまうと花や葉が傷んでしまうので何倍にも薄めて使います。その分だけでも結構持ちますよ」
「やっぱり手作りですか? こんなのも売ってるなんて、やっぱり若林さんってすごい人なのかな」
 おーい、声量落としたけど後半も全部聞こえてるぞー!
 やっぱりすごい人なのかなって、今までどう思われてたの?
 逆にすごく気になるけど、ここはお客の顔を立てて突っ込まないでおいてあげようか。また話反らされそうだしね。
「一気にたくさん作って、小瓶にして販売してます。それも毎年恒例のものですね。家庭菜園にも使えるから結構人気なんですよ。作り方はこの時代ですからインターネットで検索すればすぐに出ますけど、やっぱり手間だからか購入する人が多いですね」
「これも一つお願いします」
「百均で売ってる一般的なサイズの霧吹き一杯の水にスポイトで一滴程度で充分効果があります。なんども言っておきますが、濃くすればいいというものではないので注意してくださいね」
 土、軽石、おまけに肥料と支柱、そして小瓶とスポイトを袋に入れて渡す。
「千五百円になります」
 本当はもっとお高いけど、おまけ、おまけ。
 目先の利益より遠目の利益。
「あの、本当にいいんですか? 絶対、おまけしてくれていますよね?」
「ただって言っているわけじゃないですし、個人経営ですからね、この店は。融通というか私がヨシと言えばヨシなんですよ」
「お言葉に甘えさせていただきます」
「二千円ですね」
 一応、電卓を打っておつりの金額を提示する。
「五百円のおつりです」
「今回もありがとうございました」
「いえいえ、こちらこそ」
 前回も前々回も前々々回とも同じようにして、入口の戸を閉めてからこちらに深々と頭を下げてから広場の方へ歩いていった。
「あなたももう立派な常連さんだと思うけどねー」
 いつものように本人が出て行ってから、そのお客に対しての一言を呟く。
 今回のことが無事に終わったとして、アサガオでも別の花でも育てることを続けてくれたら最高のハッピーエンドだけど、どうなるかな。
 もちろん、生花を買ってドライフラワーにするなりして何かインテリアを自作するような趣味を持ってくれたって大いに結構。
 最近はハーバリウムの自作キットなんてのもあるらしいしね。





 若林さんにまた助けてもらって、おまけもしてもらって、これはもう育てきるしかないでしょ?
 帰る前にコンビニに寄り、軽い昼食を買う。
 北海道に来て初めて見るコンビニで、アパートから最寄りのコンビニが今いるところだった。
 引っ越したばかりの時は、やっぱり慣れた店の方がいいかなって思って、少し遠くても、用がある時は別のコンビニに行っていた。
 でもやっぱり最寄りという強みに勝てるはずもなく、結局その北海道が誇る――って松本先生が言っていた――コンビニ、セイコーマートを使うようになった。
「塩焼きそばあるかな?」
 このコンビニには、特に土日の昼にお世話になっている。
 今日は部活前ということでたくさん食べる訳じゃないけど、かといって食べない訳にもいかない。
 そんな悩みにカチッとはまったのが『百円パスタ――って勝手に私が呼んでいる――』というお手頃価格で味もしっかりしているし、量も多すぎず少なすぎず、私の胃には丁度いい。
 パンも他の全国チェーンのコンビニと違ってワンコインで買えるものが多いけど、朝が食パンだから昼はパン以外がいいっていう個人的願望ともマッチ。
「あっ、あった。よかった」
 部活用のスポーツドリンクと一緒に購入して帰宅。
 午前に部活でその帰りなら店内で手作りされているお弁当を買っていたかもしれない。静岡にいる時も偶にネットで見て、その存在を知ってはいたけど、本物を初めて見て食べた時に、自分の中のコンビニ弁当の常識が崩れ去る音がした。
 あんまり食べると太っちゃうから手が出にくいけど!
 まだ太ってないもん!
 さて、時間もないので早速作業開始。
 でもその前に、メモにしっかり目を通す。

〇間引き(植替え)作業
 ①本来、鉢植えに植える場合は鉢1つにつき1~2株を育てます。
  種まきの項でも書きましたが、育ちが良い株を残します。
 ②1つの鉢の中で育ち具合を見て、育ちが良い株を決めます。
  もしお店に来て私が指定していたら、それに従っても良いです。
 ③間引く株とはいえ、乱暴に扱うと残す方にまで傷つくかもしれません。
  ですから、丁寧に根っこを傷つけないように取り出してください。
 ④取り出した株は別の鉢に植え変えても構いません。
  私ならそうします。
 ⑤取り除いた分、土が減っているようであれば気持ちで良いので足してください。
 ⑥全員元気に育つように面倒を見ながら気長に待つ。
  育っている葉っぱは当然ながら、根っこを傷つけないように注意。
  プリンを崩さないように手で運ぶイメージ。

 なんでプリン?
 いやなんとなく伝わるけど。
 今度行くときにはプリンの差し入れ持っていこうかな。
 まずは植替え先の鉢に軽石を敷いて、土を入れて、植えるところは少し凹ませておいた方がいいかな。
 傷つけないように、慎重に、プリン、プリン、甘いプリン……
 はっ!
 いけない、別のこと考えてた。
 よし、一つ完了。
 若林さんに言われた通りに対角同士で植え替えをして……
「よし、終わり」
 時間もまだ余裕がある。
「そうだ、日記用の写真撮ろう」
 ぱしゃりとスマホで撮影。
 水やりは昼はよくないらしいし、帰ってきてからかな。
 道具たちを片付けて、室内に戻る。
 手を洗い、レンジで買ってきた焼きそばをチン。
「いただきます」
 うん、おいしい。この丁度いい塩気に、ベチャっとすることも、固くなっていることもない丁度いい麺の硬さ。そして財布にも優しい。素晴らしい!
 昼食を食べ終わり、部活に行く準備を整えて家を出る。
「今日の練習メニューは……」
 頭の中で今日の予定を思い出しながら運転して学校へと向かった。


「ただいまー。アンド、っつっかれたー」
 ベッドにそのままダイブしたい気持ちを抑えてベランダへ直行。
 水やりをして、心の中で元気に育てよーと念じる。
 ベランダから戻り、いつものルーティンをこな……
「夕飯作る気力が出てこない」
 頭に浮かぶのは、最寄りのコンビニの手作り弁当、その中のかつ丼。
 頭を振って雑念を追い出す。
 追い出しきれず隅っこに残っている気がするが冷蔵庫を確認し、メニューを考える。
「節約、節約」
 シャワーを浴びて汗を流し、着替えて、夕飯を済ませてひと段落。
「ふう、やっと日記を書けるかな」

6月□◆日(日)  間引きという名の植替え作業
 種まきから順調に育ってきているアサガオたち。
 全て同じ鉢植えの中で育てると日の当たりが悪くなるとか、いろいろな理由で育てる数を減らさなきゃならない。
 でもそんな勝手な理由で捨てられるのは悲しいので、新しい鉢植えを用意して2つずつ植替えたよ。
 土が足りなくなるから、また若林さんのところに行ったんだけど、やっぱりあの人、変人だ。間違いない。だってお店の前で『考える人』みたいに腕組みながら私が名前呼んでも気づかないくらい考え込んでたんだよ?
 周りに響くくらい大きな声出してやっと気づいてもらえた。
 それとも私がそんなに存在感薄いんだろうか?
 いや、あの人が変人なだけだ、違いない。
 ちゃんと凄いって思うこともあって、害虫対策の原液を自作して販売していた。ハーバリウムもそうだけど、花のことになると凄いの。花のこと限定なのが残念だけど。大人の余裕?って雰囲気があって憧れるな。
 花のこと限定なのが、本当に残念だけど。

「長々と思ったことを書いてしまった」
 半分は今日の出来事になっちゃってるし。
「えっと、この後の作業は……」
 パソコンの横に置いてある若林さん自作のメモを手にとる。
「次は肥料の追加と支柱を立てる作業かー。この作業はまた来週の日曜かな、やるとしたら」
 まだ時間は十時を回ったところ。
 今日は、いや今日も疲れたし、早めに寝ようっと。
 歯を磨きながら、何か忘れていることがある気がして考えこむ。
 思い出せないし、大したことじゃないよね、きっと。
 目覚ましをセットし、部屋の明かりを消す。
「今日もお疲れ様でした。おやすみー」
 ……。
 …………んー、何かあった気がするんだけどな。
 ………………!?
「今週のノート作ってない!」
 大学の授業に寝坊した時のようにベッドから跳ね起きて電気をつける。
「危ない、危ない」
 最悪の場合、平日に作業もできるけど、やっぱり土日のうちにやってしまった方が、平日に何か起きた時に対応に追われなくて済むと思っている。
 あとは来週の頭には中間試験がある。
 流石にまだ私がすべての試験問題を作ることになった訳じゃないけど、それでもいくつかは任せてもらえるはずだし、今週の前半にはその作業が回ってくると思う。
 優しい問題にするか、難しめのものにするか、それは同じ学年を持っている松本先生が作っている試験問題によるけど、一年生も最初のテストで張り切っている分、優しい問題で自信を付けさせてあげたいと考えている。最初なだけあって難しい問題を作るのも難しいという言い訳もあるけど。
 と、考えながら作業しているうちに終了。
 日付が変わるほどにはならななったけど、焦った。
 よし、今度こそ……
「お疲れ様でしたー、自分。おやすみー」
 妙な高揚している気分で掛け布団を浅く潜った。
 時間をかけることなく程よい疲れが私を心地よい眠りへと誘った。



 チュン、チュン。
 雀のさえずりが耳に届き、朝を告げる。
「目覚まし三分前起床……」
 頭の中を支配している眠気がクエスチョンマークで押し出されていく。
「これが太陽と共に起きるってやつなのかな、お父さんがよく言ってたな」
 今日、曇りで太陽見えてないけど。
「ていうか、私まだ二十二なんだけどなあ」
 そういう早起きになっていくのって、もっと歳を取ってからのことだとばかり思っていた。
 実際に自分の身に起きてしまったことで、ひどく年齢を意識せざるを得ない。
 シャラララン。シャラララン。
 デフォルトの『ピピッピピッ』っていう音だと起きれなさそうだと思って変えた派手なジングル音が枕元にあるスマホから鳴り響く。
 すぐにアラーム停止をタップし、音を止める。ついでに十五分おきに七時まで設定してあるアラームも消す。
「なんで日曜日だってわかってるのに、こんな早い時間にアラームの設定してるんだ、昨日の私」
 新生活が始まってから寝る前の癖と化した、アラームの設定に抗わなかった土曜日の自分と、そもそもアラーム前に目覚めてしまった日曜日の自分を天秤にかけ、後者が圧倒的に逆恨みしているだけだと結論づけてベッドから抜け出した。
 カーテンを開けてベランダに出る。
「曇りだからかな、涼しーっうーーっはあー」
 伸びをしながら自分でも変だと思う声を出す。
「土、やっぱりまだ湿ってるなー」
 伸びた姿勢から元の姿勢に戻ると同時に横を向き、並べられた四つの鉢植えに目をやる。
「そうそう、今日は肥料と支柱立てるんだった」
 朝日がたとえ見えなくても気持ちよい早朝のにおいを惜しみつつ、一度ベランダから室内に戻る。
 今日は八時から部活があるから、七時半には学校に行っておかないと生徒玄関の鍵がしまったままだから……
「うん、支柱立てるくらいなら行く前にできそうかな」
 目覚めのコーヒーと朝食を用意しながら、今日の予定を考える。
 昼からはフリーだからそろそろ夏服を買いに行きたいなー。
 授業用の服はともかく、完全なプライベート用はなー……
 見て目の保養をするだけならタダ、そうタダ、無料!
 車で少し距離があるが大型のショッピングモールがある。
 初めて行くところだけど全国展開のお店だし、きっと見慣れたブランドもあるはず。
「ごちそうさま」
 食器を水道水で軽くゆすぎ、シンクの中に置いておく。
「よし、急いで作業開始」

〇肥料について
 ①難しいことは書きません。面倒です。
 ②固形の肥料があると思います。種まきから約1か月が目安です。
  その肥料を根元から離したところに5~6粒くらい撒いてください。
 ③あとはつるが伸びてきたら、液体肥料を水で薄めて与えてください(月2~3回)。
  適量はしっかり液肥に書かれた注意読んで守ってくださいね。

〇支柱について
 ①肥料をまく時期かつるが伸びてきたら支柱を立ててください。
 ②アサガオを植えたさらに外側に3~4本支柱を立てます。
  立てる時に根を傷つけないように、乱暴に土に挿さないようにしてください。
 ③倒れないくらい安定する深さまで挿したら、支柱同士を紐で結びます。
  3段くらいがおすすめです。
 ④あとはつるが伸びてきたら、次のつるの誘引を実践してみてください。

〇つるの誘引
 ①難しくありません。つるが伸びてきたら支柱にビニールテープや麻ひもで優しく括り付けてあげてください。
 ②ただし、植物のつるや茎って意外と硬いです。
  中学校の理科でなんか細胞壁やらやったでしょ、新米中学教員藤田さん?
  なので、優しくです。優しく。

 当然、自分でも育て方は調べたけど、肥料について面倒だという若林さんの気持ちはなんとなく分かる。
 そしてなぜか、滅茶苦茶煽られている気がする。私、理科担当じゃないし、数学だもん。
 って、そもそもなんの教科の先生か教えてないや。
 話したつもりはよくないね。
「先に支柱から立てよう」
 慎重に根が傷つくことがないように、若林さんのところで購入した細いプラスチックの支柱を深く挿していく。
 緑色の太めな支柱を鉢植えを買いにホームセンターに行った時に目にしたが、若林さんにお任せしてよかったと作業をしながら感じる。
「あの緑色のやつだと、庭に植えた花にはいいかもしれないけど、鉢植えだと太くて手狭になってたかも」
 段ボールのゴミ出し用に常備してある麻ひもを一本目の支柱に一周巻き付けて、次の支柱まで伸ばして、また一周巻き付ける。四本目を過ぎて、一本目に戻ってきたところでしっかりと解けないように縛る。
 同じ要領で二段、三段と麻ひもを巻いていく。
 これ意外と時間掛かるなあ。
 二つ目の鉢植えが終わるころにタイムアップを告げるアラームが鳴る。
「タイマー付けておいてよかったー。もう二十分経ったのか」
 肥料だけ先に撒き、水やりをして室内に戻る。
 急いで学校へ行く支度をして、家を出た。
「やばい、ちょっと遅れたー」
 焦り気味で車に乗り、一度深呼吸をして安全運転で学校へと向かうことにした。

6月〇▽日(日)  支柱が立ちました!
 植替えから一週間。今日は朝から支柱を立てる作業をしていたよ。半分終わったところで学校に行かなきゃいけない時間になったから帰ってきてからもう半分は終わらせたよ。
 最初は小さな黒い小粒だったのに、今は緑色の葉っぱを上に上にと伸ばそうと元気に育っています。
 支柱の他にも肥料を上げました。きっとこれまで以上にグングン育ってくれることでしょう!
 害虫対策が効いているのか、今のところ被害なし。凄い!
 そういえばこっちに来てから土日は部活か疲れてぐうたらしていたかだったので、初めて充実した休日を過ごした気がする。
 大型ショッピングモールに行ってきたけど、服やお菓子を見ていたら自然と花屋さんも見ることになっちゃって、まだ花の名前とかわからないけど、見ていて楽しかったよ。若林さんのところと違って生花よりも造花のインテリアが多いのが印象的だったな。

 上書き保存っと。
最初のころは一言だけって思っていたのに、後半普通の日記になってるのは、気にしたら負けということで気にしない。
 今日のお出かけは服を買いに行くのが本来の目的だったけど、結局、"節約"の二文字に頭を支配されてしまった。
 チョークで汚れてもいい、ちょっと安めのTシャツを数着と目に留まって気になって仕方なく、一度は耐えたけど結局同じ店に戻って、着る日が今シーズンどころかこれから先あるのかわからない、ちょっとお値段張ったブラウス一着を買っただけ。
 授業参観で着るのは……ないな。スーツでしょ。
 そういえば最近出かける時も部活に行くからって体で下はジャージにスポーツ用のTシャツだもんなー、おしゃれな乙女からほど遠くなりすぎだよ、わーたーしー!
「んー、昨日のうちにノートは終わってるしなー」
 かと言って寝るにはまだ少し早めな時間だし。
 あっ、そうだ。
 シャットダウンしようとしたノートパソコンを操作し、ブラウザを立ち上げる。
 通販サイトを開き、欲しいものを検索する。
「そういえばまだスマホホルダー買ってなかった」
 色々種類があり、値段も様々。
「スマホの機種は関係ないんだ、へえー」
 トップに表示された何点かを別のタブで開いて説明文を読んでみる。
「値段も性能も極端に変わるわけでもなさそうだし、おすすめの奴にしとこう」
 こだわりある人には色々と気になる違いがあるのだろうけど、生憎、私は使えれば良い人なので、一番おすすめと表示されているものを購入することにした。
 と、時間を潰してみたけどやっぱりまだ寝るには早めの九時を回ったところ。
「もう寝る人は寝る時間だけど、普段が普段なだけあって寝られる気がしない」
 うーん。
 いやまあ、偶には早めに寝て、早めに起きたら二度寝するくらいの気持ちで寝てしまうか。
 そうと決まれば行動は早い。
 歯を磨いて、荷物の確認して、よし、おやすみ!
 ベッドに入ると自然と力が抜け、意識が闇に溶け込んでいった。



 ただいま、と声を出す元気すらない。
「はあ……」
 代わりにため息が零れる。
 荷物をリビングテーブルの近くに乱暴に置き、ベッドに体を投げ出す。
「そんなに怒らなくてもいいじゃん……」
 胸の内側にきつく縛られたような苦しさを感じ、枕に顔を埋めて目から溢れてくるものを必死に抑えようと唇を噛みしめた。
……。
…………。
……………………。
…………………………………………。
「……水あげてない!」
 すっかり眠ってしまっていた。
 西にあったはずの太陽は東にいて、外は当然のことながら明るい。
「五時……嘘、寝落ち?」
 化粧もしたまま、服もそのまま、シャワーも浴びていない。
「はあ……」
 そんなことよりも、アサガオに水を上げないと。
 昨日帰宅してからカーテンすらせずに、電気も一晩中つけたままの状態だった室内からベランダへ出る。
「ああ、やっぱり土乾いてる、ごめんね」
 昨日の朝に見た時よりも元気がないように見える。
 すぐに水をたっぷり上げる。
 水を上げ終え、四つ並ぶ鉢植えの前にしゃがみこんだ。
「やっぱり……」
 目に入ったのは、四つのうち一つの鉢植えのアサガオについている蕾だった。
 私が勝手に落ち込んで、水やりを忘れるなんてひどい育て親なのに、この子たちは頑張って昨日も大きくなろうとしてたんだよね。
「情けないなあ」
 昨日、散々泣いたはずなのに、また涙が堪えられずに零れてきた。
「昨日、私ね、初めて怒られるような失敗したんだ」
 隣の部屋の人に聞かれるかもしれないけど、今はそんなこと考える余裕はない。
「普段通りに授業やって、躓きそうな部分は色々例えを出してわかりやすいようにって生徒たちのこと考えて授業をしていたつもりだったの。
 でもね、生徒たちのことは見てあげられてなかったの。考えてばかりで、生徒の顔を見たつもりになっていたの。
 偶々、一年生の様子を見に廊下を歩いてた教頭先生がね、私の授業の様子も当然見ていて、五人も机に伏せて居眠りしてるのに何で注意しないのかって、授業中でもお構いなく怒鳴られて、頭の中真っ白になっちゃって、すぐに居眠りさんたちは起こしたんだけど、授業の時間があと五分くらいだったっていうのもあって、そのまま怒られちゃった。
 怒られた癖に何言われたのか、全然覚えてないけど、凄く怖かった。教頭先生の目も、授業を受けていた生徒たちの目も、騒ぎに駆けつけた他の目も、すごく、すごく怖かった。
 それが昨日最後の授業でよかったよー。あのまま次も授業だったら、絶対教壇に立ってられなかったもん。自信持って言えるよ」
 ただ一つの蕾を優しく撫でる。
「その後、放課後にも松本先生に怒られて、部活もあったんだけど、出られる気がしなくて、体調悪いってことで定時で帰らせてもらって、帰ってきたらそのまま寝落ちしちゃった。ごめんね、水やり忘れるなんてひどい親だ、私は。
 でも、一晩寝て、君たち見て、間違ってたのは私だってわかったよ。
 ううん、分かってた。でも緊張とかで黒板に向いていることが多くなって、そのまま直そうともせずにいた。私が弱いのが悪かったの」
 口に出してみると、モヤモヤとしたものが吐き出され、自分の中で整理がついた。
「君たちを見ていると、私ももっと大きく成長していかないとって思っちゃうね。負けないぞー」
 ポケットに入ったままのスマホを取り出し、蕾の写真を撮る。
 まだ学校に行くまで時間があるので、そのまま日記を書くことにする。
「その前に着替えとか諸々やらないと」

6月◇▽日(水)  蕾がついた(まだこの一つだけだけど)
 偶然目についたけど、本当なら気づいたらたくさん蕾が!ってなっていたのかな?
 昨日は色々失敗したけど、とにかく今日は教頭先生と松本先生に謝って、生徒たちにも謝らないと!
 恩師には難しい問題を解く時ほど笑顔でって教えられたんだから、こんな時こそ私が笑顔じゃないと生徒を不安にしちゃう授業になっちゃうもんね。
 だから、まずは謝る。そして、ちゃんと生徒の顔を見る。
 今日から笑顔の鬼教員目指すぞー、おー!

 普通の日記の割合の方が多くない?
 いや、気にしたら負け。
 そう、気にするな。
 今日は笑顔。
「じゃあ、いってきま……」
 履き始めた靴を一度脱ぎ、ベランダに寄る。
 室内から顔だけを出し、
「じゃあ、いってくるね!」
 笑顔でアサガオたちにも挨拶をし、少し早めに学校へ向かった。
 心なしか、アサガオたちが行ってきますと返してくれた気がした。



 チュン、チュン。
 雀のさえずりが耳に届き、朝を告げる。
 うん、これはあれだ。
 知ってる。
 私、これ知ってるよ。
 デジャヴってやつでしょ?
「やっぱり……アラーム三分前起床、おはようございまーす」
 寝起きの回らぬ舌でぼやきつつ、ベッドの上で軽く伸びをしてから鳴り響く前の目覚ましアラームをオフにしていく。
「もう何も言うまい……」
 今日は"摘芯"っていう作業やる予定だし、さっさと朝の準備済ませよ。
「支柱の時みたいに朝バタバタやるのも嫌だし、メモ見て手順だけイメージしておこ。イメトレ大事!」
 七月が目前に迫っているからか朝は暖かい。季節に合わせてホットコーヒーからアイスコーヒーに切り替えた。
「向こうで飲んでたのと同じものあってよかった」
 食パンの表面にブルーベリージャムを塗り、お皿に載せてコーヒーカップと一緒にリビングテーブルに置く。
 右手に食パン、左手に若林さんのくれたメモを持ち、メモを眺める。
 行儀が悪いが、誰も見ていないので注意する人も当然いない。
「盆栽なんかの剪定ってことだよね、なんだかプロっぽい作業だなー」

〇摘芯について
 ①アサガオの成長は頂芽優性という特性があります。これは簡単に言うと一番背の高いやつが一番偉いってことです。余った栄養で頂芽より下は成長しますが、結局上の部分しか花が咲かないなんてこともあります。
  この作業はそのたくさんの栄養を人為的に他に回そうっていう作業です。
 ②本葉が8~10枚の時にやることが多いです。
 ③双葉を除いて、下から6枚目より上の親つるをハサミで切る。
 ④――――

「えっ、っていうことは――」
 食べかけのパンを皿に放り、ベランダの戸を開ける。
「――最初についた蕾も摘んじゃうってこと……?」
 私の教員生活初めての大失敗から立ち直る勇気をくれた蕾を、綺麗な花を咲かせてあげることもなく捨てることになる。
 それは嫌だ。
 この作業、絶対にやらないとダメなのかな。
 戸を開け放ったままテーブルへと戻る。
 今の私の心境とは相反する朝の空気が部屋を満たしていく。
 朝食を済ませ、午前中の部活の準備をする。
 経験がないのに考えても答えが出るはずもなく、たっぷりと水を上げ、部活へと向かった。





「あ、そうそう。帰り際で悪いけど、今度、いいアサガオが入荷予定だよ」
「へー、それは楽しみだね。アサガオか、それなら九月あたりに引取りに伺えば丁度いいかな?」
「普通のアサガオなら九月にはもう枯れてるだろうけど、あれの枯れ方は特殊だからね、九月後半か十月まで待つのがいいよ、そっちの都合は知らんけど」
 頭の中で予定を思い出しているのか、はたまたスケジュールを組み直しているのか、異世界の商人で私の数少ない友人のクラウスは俯き、前に垂れてきた金髪を頭の後ろに戻すように左手で抑えながら固まっている。
 この状態で写真撮ればいい絵になるよなー、私の趣味じゃないけど。
 クラウスの年齢は私の一回りもいかない程度上だ。
 『一回り』という表現は当然、こちら側独特の表現で初めてその言葉を聞いてきょとんとしていたことを思い出し、つい笑ってしまう。
 ただ共通している部分もあり、日付の概念は何故だか同じなのだ。
 こちらも祝日は国によるけど、暦は全世界共通だからどっちが先かは知らないけど、長い付き合いの中で共通化したのかもしれない。
「十月の……下手をすると十一月まで縺れ込むかもしれないな」
「私は構わないよ。それより、ルミィに予約空けとけって言っといてー」
「先行して九月末にはこちらに顔を出すように言っておくよ。最近忙しそうにしていたが、その頃には落ち着いているだろうし」
「よろしくー」
 ルミィは宝飾品を手掛けている芸術家で、特に宝石の花を使った作品を手掛けることが多い。それ故に私たちはこうして業務提携的なものを結んでいる。
 ついでに、クラウスと同じく私の狭い交友関係の中にいる一人でもある。
「随分、楽しそうだな」
「わかる?」
「わかるさ、長い付き合いだ」
「面白い子なのよ、今回のそれは」
「楽しみにしてるよ。それじゃあ」
 私たちに共通しているのは三人とも二代目ってこと。
 そう、三人とも被害者である。
 って、その言い方はおかしいか。
 まあ望んでいたようなものだし、それぞれの仕事に誇りを持っている。
 でも、やっぱあの隠居ジジイの身勝手さを考えると腹立つわ。
 正確にはジジイ〝ども〟か。
 あの二人の親のことはあんまり知らないから、どうでもいい。
 やっぱりあのジジイだ。
「じゃあねー」「誰に手を振っているんですか?」
 しまったー……。
 見られた、見られてしまった……。
 裏口の戸を開けて片足を向こうの地面につけたまま、クラウスはこちらを向いて固まっている。
 口で『バカヤロウ』と言っている気がするが無視だ、無視!
 てか、お前も戸が開く音聞き逃してただろうが!
 レジの椅子に座ったまま、店の裏側を向いていた体を店の入口へと向ける。
「……ってなんだ、藤田さんかー」
 びっくりして損した。
「えっと、もしかして、若林さんって、幽霊、見える、人、ですか?」
「ソンナコトアルワケナイジャナイデスカー、ハハハ……」
 遠くない未来にこの店の裏を知ることになる、受け入れられるかどうかは本人次第だけど、知ってもらうことにはなる。
 私だけに聞こえるくらい小さい音が後ろの戸から聞こえた。
 切り替えていこう。
「今日はどうされましたか?」
「以前来た時もそうでしたけど、店の裏に向かって何か話してるのってお店の経営で悩みすぎて幻覚が見えているとかですか? 私でよければ相談に乗りますよ!」
 おう、のう。変な方向で誤解されてるよ。
「あぁあぁ――」
 大袈裟に前で両手を振り続ける。
「――そんなことじゃあないですよ。ちょっと今後の入荷予定とか考えていて、まあ癖みたいなもんです。つい手を振ったり、こう動かしてないと考えられないって感じです」
 これでもかというくらい大きく身振り手振りで誤魔化す。
 もう私の変人イメージが確固たるものになった気がする。
 あきらめよ。
「あー、なんかわかります。私も長時間ノートに字を書く時とかぶつぶつと口に出しながら書いてるらしくて、学生時代は周りからよく気味悪がられました。今は意識して抑えられるようになりましたけど」
 おっ、なんか変な仲間意識が芽生えた。
 嘘も方便ってね。
「それで、何か用事があって来店されたんじゃないですか?」
「そうです。今日、摘芯って作業やろうと思ったのですが、蕾を取るのが、その……可哀そうで」
「あー、はいはい。摘芯はやらなくても育ちますよ。小学校の時にそんな難しい作業やった記憶、ありますか? 少なくとも私の記憶にはないです」
「あ、確かにないです」
「メモにも書いた通り、栄養の行先を人の手で操作するのが摘芯です。その蕾を取るのが嫌でしたら、そのままでもかまいません。
 もし、来年もアサガオを育てる気があるのでしたら、確か四つありましたよね、鉢植え」
「はい、四つです」
「二つは摘芯をやってみて、片方は手を付けず、なんて比較してみたらどうでしょう。育ちにどう違いが出るのか、百聞は一見に如かずってやつです」
「なるほど! そうしてみます」
「はい、そうしてみてください」
 納得してくれたようで何より。
「ありがとうございました」
 足早に店から出ていき、スマホで入口のアサガオの写真を撮ってからいつものように一礼し、藤田さんは帰っていった。
 少し時間を空けてから店の外に出る。
「まあ、その気持ちもわかるんだけどね、これも元気に育てるためだからね」
 今週、件の作業を施されたプランターの上で元気に育つ花を見ながら呟いた。
 自然のままか私たちに管理されるのか、どちらが幸せか、その答えが返ってくることはない。
「私は前を通った人たちの記憶に君たちが残るように育てることを優先するよ」





「ただいまー」
 当然、返ってくる声はない。返ってきたらそれはもう不審者か、幽霊かどちらかだ。
 部活を終えて、真っすぐ若林さんのところへ向かったので、まずは汗を流すことにする。
「ふうー、さっぱり」
 アイスコーヒーで一息つき、リビングテーブルに朝から置いたままにしてある育成メモを手に取る。

〇摘芯について
 ①アサガオの成長は頂芽優性という特性があります。
  これは簡単に言うと一番背の高いやつが一番偉いってことです。
  余った栄養で頂芽より下は成長しますが、結局上の部分しか花が咲かないなんてこともあります。
  この作業はそのたくさんの栄養を人為的に他に回そうっていう作業です。
 ②本葉が8~10枚の時にやることが多いです。
 ③双葉を除いて、下から6枚目より上の親つるをハサミで切る。
 ④子つるが伸びてきてから双葉、本葉1、2、6枚目の付け根から育ってくる脇芽は摘み取る。
 ⑤脇芽は多いほど多くつるが伸び、その分だけ花も多くなるが、すべてを育てようとすると負担になり早く枯れる原因になる。
 ⑥どう育てていきたいかで実施するタイミングなども変わってくるが、鉢植えなら最悪実施しなくても大丈夫です。

「あっ、最後に書いてあった」
 恥ずかしいけど、それでも相談に乗ってくれたんだから若林さんの親切心が伺える。
「ここはアドバイス通りに半分はやって、半分はそのままにしてみよう」
 コーヒーを飲み終え、コップを一度濯いでから水を満たしてシンクに置いておく。
 本当は園芸用のハサミが良いのかもしれないけど、まだ新品の普通のハサミがあるので、それを洗ってから使おう。
 ベランダに出て、どの鉢にするか選ぶ。
「わかりやすく右左で分けよう」
 最初の蕾がついている鉢は左側にあるので、左二つはそのまま、右二つのアサガオを摘芯することにする。
 えっと、六枚目より上……
 これが双葉で、って最初のころよりずいぶん大きくなってる。
 いち、に、さん、よん、ご、ろく……
 手でしっかり太い茎を触りながら数えていく。
 ここから上を切る……
 ハサミを持つ手が罪悪感に怯える。
 切る場所をハサミの刃の間に通し、力をこめる。
「ごめんね!」
 ザクっ。思わず目を瞑ってしまう。
 同じように他の二つの鉢、三本の株も切っていく。
 ザクっ。ザクっ。ザクっ。
「……授業一回分よりも疲れた」
 摘み取った部分とハサミを手に持ち、室内へと戻る。
 仕方ないので、摘み取った部分はゴミ箱の中に捨ててしまう。
 ハサミはティッシュで水分をしっかり拭き取り、元々置いてあったパソコンデスクの上のペン立てに挿しておく。
「あ、そうだ、写真」
 日記用に写真を撮ろうと再びベランダに出る。
 切られた痕が痛ましい。
 この気持ちを日記に残しておこう。
 きっと何も考えずにやっていいことじゃない。
 少し極端な考えだけど、教育に似ていると思う。
 子供が元気に育つのなら、学校にも何にも縛られずに、勉強が好きなら勉強、本を読むのが好きなら本を読む、遊ぶのが好きなら外で走りまわるもよし、ゲームをするのだっていい。自由にやりたいことを自由にやらせてあげるのが一番かもしれない。
 本来そういう好きなことに費やすエネルギーを義務教育という過程を経て、別のところに向けさせる。今日やったことで言うと、本来なら頂芽の育成に多くの栄養が使われるところ、それを別のところ、つまり脇芽に向けさせる。
 そうすることで、自分も知らなかった自分の得意なことや新しく好きになることが見つかる。脇芽から育つであろうつるが伸び、蕾がつき、花が咲く。
 人が違うのは、決して親つるが義務教育によって切られる訳じゃないこと。やっぱり好きならその道へ行く選択もできる。それに対してアサガオは、親つるを切られてしまっている。アサガオはやっぱり頂芽を育てたいと思っても、その選択を人によって勝手に切られてしまった。もう脇芽を伸ばしていくしかない。だから切った責任として、必ず来る、枯れてしまうその日まで愛情を持って育てていかなければならないと思う。
 仕方ない、皆やっているから、と漠然と切るのではだめなのだと、そう感じた。
 生徒たちの花が咲くかどうか、私がすべて見られるわけじゃないけど、松本先生の言葉を借りるのならば、『一助になればいい』、そう思う。

6月◇◆日(土)  摘芯作業
 摘芯っていう盆栽でいう剪定の作業をやったよ。
 一番伸びている真ん中の茎を切ってしまうんだけど、この前の蕾のことを考えるとできなくて、また若林さんのところに押しかけちゃった。
 結局、2つの鉢植えだけ摘芯することにした。でもやっぱり心苦しかった。
 この作業が終わってから、少し考えてみたけど、教育に似てるなって思った。かなり暴論な気もするけどね。でも、何も見ず考えずにやっていいことじゃないなって。
 そうそう、若林さんのところに行った時、またあの人、変なことやってたの。店の裏に向かって手を振って「じゃあねー」って。
 考え事している時の癖って言ってたけど、植替え用の土を買いに行った時は考える人だったもん。絶対嘘だ。やっぱり目に見えない何かと話していたに違いない(笑)
 本当に経営難で幻覚を視ていたらどうしよう、何か力になれないかな?

 本当にあの人の頭、大丈夫かな?
 心配しすぎかもしれないけど、行く度に奇行を見せられていると心配するなという方が無理があると思う。
 種まきから始まり、育成メモによれば次は花が咲くのを待つだけでそれ以降は何も書かれていない。
「気が早いけど、種を収穫するタイミングって書いてくれていないんだよね」
 今日書いた分を上書き保存し、文書ソフトを閉じようとしたが、なんとなく最初の方に戻ってみる。
「作業した時に双葉を見た時もそうだけど、こんなに小さかったんだもんね。今は鉢植えの方が小さく見えるもん」
 ついでに最初は一、二文程度だった日記の内容にもセルフツッコミを入れておく。
「たまに面白かったことを日記感覚で書き残しておくのもいいかも、折角始めたことだし、花が枯れたら終わりっていうのも寂しいし」
 そうしたら授業中のちょっとした雑談のネタも増えて、面白い要素も増えた授業にできるかも。
 この先、今まで生きてきた人生よりも長い時間、教員として生きていくと思う。先の見えない不安もあるけど、少し光が差し込んだような気がした。
 シャットダウンして暗転したノートパソコンの画面には、ぼんやりと微笑む自分の顔が写っていた。



 シャラララン。シャラララン。
「……うーん、あとちょっとだけ」
 ……。
 シャラララン。シャラララン。
 ……。
 シャラララン。シャラララン。
 ……。
「……っは、やばい!」
 二度三度と目覚ましが鳴ったことで最悪の状態でスッキリと目覚めた。
「七時!? 寝坊だ、やばい、まずい、どうしよう」
 寝る前に荷物は準備してあるから大丈夫。
 パジャマから着替えて、後は、後は……
 なんで?
 今まで起きれてたじゃん!
 慌てて靴を靴を履いたところで思い出す。
 靴を一旦脱ぎ……どころじゃない。片方は履いたまま、もう片方も脱ぎながら室内へと戻る。
 唐傘お化け顔負けの片足飛びで移動しながらベランダへの戸を少し乱暴に開け、アサガオたちに水やりを済ます。
「じゃあ、いってきます」
 早口に告げるところで、目に一輪の花が映る。
「花咲いてる……」
 でも、今はそれどころじゃない。
 ほんとにやばいって。
「今、七時十五分、まだ間に合う」
 焦るなー、焦るなー。でも急げ。
 心に矛盾したことを念じながら学校へと向かった。


「ただいまぁ、先にシャワー浴びよ」
 一日の中で朝がどれだけ大事か身に染みて実感できた一日だった。
 よりにもよって今日は、一時間目から二時間目を除いて午前に集中して授業が入っていた。
「ここ三か月弱の中で一番疲れたかも、下手したら二十年ちょいの私の人生の中で一番だったかも」
 今の私の背中は、さぞ丸まって見えていることだろう。
 寝坊の経験は高校や大学の時にも何回かある。でも学生の時は、朝体調が優れなかった、と言い訳できた。
「社会人がそんな言い訳できるわけないし、まして生徒の悪い例になるから絶対やっちゃダメなことだって警戒してたのに……」
 今日の反省をしつつ、パジャマに着替えてベランダへと向かう。
「そういえば、朝、花咲いてたんだった」
 待望の開花に胸を躍らせ――
「うん、"アサガオ"だもんね、夜なんだから花咲いてる訳ないじゃん」
 朝、一瞬だけ見た情景を夜に当てはめ膨らませていた思い込みによる期待が儚くも打ち砕かれる。
 これは私が百パーセント悪い。
 バカか?
 やっぱ、私はバカなのか?
「っと、気を取り直して、写真は撮っておこう」
 他の蕾も育ってきている。
 多分、明日、明後日とどんどん開花していくんだろうな。
「蕾の時は尖ってるけど、開花すると内側に萎むんだ、へー知らなかった」
 というより、覚えていなかった。
 小学校と言っても一年生って何年前の話だろ?
 ――十六、七年……
 いや、考えるのはやめよう。
 歳のことばかり考えてたら、その分だけ歳を取るって言うもんね。
 私はまだ若い! フレッシュ!
 それでいいじゃない!
「……なんか空しくなってきた。あ、ご飯、用意しないと」
 自分で自分を傷つけて、私ってやっぱバカでアホの子じゃない?
「これ無限ループってやつだ。切り替えないと延々と自虐し続けるやつ」
 切り替えてご飯を作り、食べて、食器の片づけをして一息。
 麦茶を入っていた空のコップに麦茶を入れ直してノートパソコンの元へ。
 写真はまた後で追加するとして、今日中に日記を書いてしまおう。
 というか、今日は早めに寝て早めに起きよう。
 早寝早起き、大事。
 カタカタカタ……
 静かな室内に小刻みに小さい音が響く。
 最初はどんな風に書けばいいかと、何を書けばいいかとか、書いては消して書いては消してと繰り返してたけど、慣れたもので自然と言葉が出てくるし、手もそれに追いついてくる。
 そんなにタイピングは得意じゃなかったし、ブラインドタッチなんてできなかったし、滅茶苦茶レポートを書くの遅かったのに、今では何のその。
「意識してやってみると自然とできるようになるものだね、ブラインドダッチって」
 まだミスタイプも多いけど、日々成長を感じる。
 やっぱり私はできる子、バカでアホの子じゃない。
 ……切り替えられてないから、やっぱりダメ?
「ふう、上書き保存して終了」
 シャットダウンしてパソコンを閉じる。
 少し伸びをして、
「うん、寝よう」
 洗面所へと向かい、歯を磨き、寝る準備に入る。
「ほんと、今日は疲れた。二度と失敗しないように、気を付けるぞ、私。じゃあ、おやすみ」


 チュン。チュン。
 よし、この感覚は……
「アラーム三分前起床、ヨシ」
 少し早めに設定しておいたアラームが鳴り響く前にすべてオフにする。
「さっさと準備だけ済ませちゃおっか」
 早くベランダに出たいところだが、その気持ちを抑えてすぐに出勤できるように準備を済ませる。
「それでは、ご対面!」
 わざわざ閉めたままにしていたカーテンを力いっぱいに開く。
 目は閉じたまま。まだ、見ない。まだ、ステイ。
 昨日とは打って変わって優しくベランダの戸を開ける。
 そして、目を開く。
「綺麗な紫! しかも三輪に増えてる!」
 他の蕾ももう今か今かと開花待ちだが、やはり最初に蕾がついた株は早かった。
「あっ、後ろにもう二つ」
 鉢の裏側も見てみると茂った葉で正面からは見えていなかった花が元気いっぱいに開いていた。
 ぜーんぶ、紫。
 ピンクとか咲かないかな。
 今のところはすべて紫で、他のもなんとなく紫の花の予感がする。
「とりあえず写真を撮って、日記に追加しちゃおう」

7月□▼日(木)  開花!
 花が咲きました! 翌朝の私がきっと素敵なアサガオの写真を載せていることでしょう! 頼んだ、明日の私! ←やっておいたよ!
 実はよりによって、こんな記念すべき日なのにお寝坊してしまって、その日に写真を撮れなかったのが悔やまれる。ある意味、記念すべき初寝坊。
 でも悪かったのは朝だけで、普通に間に合ったこともあって、先輩方には笑われたけど、皆さん一度は通る道らしいってことを教えてもらった。
 この前、教頭先生に散々怒られて少し苦手意識ができちゃったんだけど、急に話に割り込んできて怒られる!って警戒してたら、
「私も若いころありましたよ。しかも一時間目が始まる時間に起きました。あれは肝が冷えますよね、本当に。もちろん、若いからと許される訳もなく、当時赴任していた学校の教頭先生、果ては校長先生にもひどく怒られましたよ。でもね、その後に指導してくれていた当時の私の先輩からの言葉に救われました。
『失敗は生徒だろうと教員だろうとある。そういう時は、上の人達は怒るのが仕事、私たちはそれを笑い話として生徒に悪い例を見習わないように"教える"ことが仕事って考えると楽になる』
 いつもはとても厳しい人だったのですがね、何言っているだ、この人は?本当にいつもの先輩なのかな?ってなりましたよ。
 まあ、だから、そんなに落ち込まないでくださいね、時間には間に合ったわけですから。過去、常習化してしまう新米も見てきましたが、藤田先生なら大丈夫でしょう?」
 すごい、多分一字一句ちゃんと覚えてた!
 思わず「ありがとうございました。今日の授業で生徒に話します!」って言ったら「授業はちゃんとやってくださいね」って返されてまた職員室が笑いで包まれちゃった(笑)。しかも生徒もちらほらと居たから、別の学年でも噂になってるかも。
 失敗しても放置されずに、しっかりと怒ってくれる人が居るって幸せなんだろうなって思った。だって、それだけ期待してくれているってことだよね? もちろんただの八つ当たりで怒ってくる人はダメだけど、私をちゃんと見てくれている人にはちゃんと応えようと思う。
 あれ、これってアサガオの成長日記だよね? おかしくない?
7月〇□日(金)  昨日の追記
 日記で追記っておかしいけど、開花についてだからいいよね?
 今朝、ベランダで確認したら、合計で5つの蕾が開花していたよ。まだ、他の鉢は蕾のままだけど、近い内に満開になる予感がする!
 今のところ全部綺麗な紫色の花で、他もそんな予感がする。
 満開になったら、また日記を更新しようと思う。
 じゃあ、行ってきます。今日は寝坊してないよ。5時起きのおいしい朝の空気を吸って気分上々だよ!

 うーん、アサガオと私の成長日記?
 誰に見せるわけでもないし、妙にテンション高い文章になっているのも気にしないでいいか。
 意外にも授業最初の五分で昨日の失敗を生徒に話したら、その後の時間もスムーズに授業が進んだ。
 私の体力的にはかなり消耗したけど、居眠りする生徒ゼロ。睡魔に襲われてそうな生徒もゼロだったのは記念すべき記録だと思う。
 今まで授業終わりに引き留められてわからないところ教えて欲しいと言われたことがなくて、少しまだ距離があるのかなって、内心では寂しかったんだけど、少しだけかもしれないけど、その距離が縮まった気がする。
 再びベランダに出て、水やりをする。
「行ってきます」
 小さな風に揺られ、アサガオたちが手を振り返してくれたような気がする。
「よし、今日はコンビニスイーツでも買って帰ろう。しかもちょっと高い奴」
 昨日とは反対に余裕を持ち、軽い足取りで学校へと向かった。



7月◇△日(木)  夏休みです!満開です!
 夏休みに入ったよ、生徒がね。悲しいけど教員にはほとんど関係ありません。授業はなくなるけど部活はしっかりとあるし、新米は外部研修とかあって余計に疲れたりもするんだけど、やっぱり日々の授業と比べたら多少は楽になる、かなあ?
 そして、これはアサガオの成長日記です。私のことは本来二の次!
 な・ん・と! アサガオが満開になりました!
 先週の内に書きたかったんだけどね、もう課題の準備とかで忙しくて、まさに忙殺されたってやつですよ。ほんと、冗談無しに疲れた。
 この一つ前の寝坊経験の時が一日の疲労の最高記録だとしたら、今回は長期的な疲労の最高記録樹立だよ、多分。
 今の内に課題を作っておけば来年から楽になるからってこの夏休みに生徒に課す課題を全部任されてしまった。松本先生、スパルタ!
 いけない、また私の日記になってる。
 朝起きると満開の花が見られるようになったから、起きてから昨日の疲れが癒されるって不思議な体験をしている今日この頃。この子たちがいないと今頃私はどうなっていたのか、想像がつかない。
 覚悟はしているけど、この後は段々枯れていくんだよね。
 悲しいけど、また来年育ててみたいと思ってる。
 そうそう、見事に全部の花が綺麗な紫色だったよ。だから来年も育てるとしたら他の色のも育てて、ベランダを今よりもっと華やかにしたいな。

 久々に部活も休み。祝日で出勤も無し。
 だというのに問答無用で起きてしまう私の体を少し恨むけど、開花した元気なアサガオたちを見られるのは昼前までだから、気持ちよく起きることができる。
 やっと書きたかった久々の日記を書き終えた。
 特に今日の予定も考えていないのでベランダに足と顔だけ出して、体育座りのような姿勢になる。この姿勢のまま、朝の空気を感じながらアサガオを眺めているだけで幸せを感じる。
「そうだ」
 思いつきでSNSのアイコンをアサガオにしようと写真を撮る。ついでに近況報告の投稿をしておく。
「春から育てていたアサガオが満開ですっと」
 学生の頃から変わっていなかったアイコンを一新し、鉢植え全体の写真も投稿する。
「あんまり反応してくれる人はいないけど、私一人だけに見てもらうより、少しでも多くの人に見てもらった方が、この子たちも嬉しいよね」
 体育座りの姿勢で膝に腕と頭を乗せて、時々風に揺られるアサガオを眺める。
 うとうとと心地よさに体を預け、私はそのまま意識を手放した。



――慣れぬ土地で、慣れぬ一人暮らし、慣れぬ教員生活。様々なプレッシャーに圧し潰されそうになっていた藤田穂の新生活に、アサガオという同居人が増えた。春から開花するまで――否、開花してからも彼女はアサガオに愛情を、それに応えてアサガオは彼女に元気な姿を見せていた。
 夏の終わりと共に、そんな日常に終わりが迫っていた。


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