龍王級呪禁師の妄執愛は、囲われ姑娘に絡みつく

第1話

　逃げる。必死で逃げる。路地裏は狭く、暗く、据えた臭いで満ちている。
　
「痛いよ、お姉ちゃん。もう走れない……！」
「もう少し頑張って！」

　半泣きの子供の声。でも、今立ち止まったらアレに捕まってしまう。それは駄目だ。そんなことになったら――

「あっ」

　声と共に、後ろに引っ張られる。手を引いていた子供が転びかけたのだ、と察した私は、なんとか子供だけでも守ろうとその小さな身体の上に覆いかぶさった。低い唸り声と共に獣臭が迫る。もうダメ、と思った瞬間

「大丈夫？」

　優しそうな声が掛かった。
顔を上げれば、目の前に何者かが立っている。なに？　と混乱する私の前で、薄暗い中に片方だけの眼鏡が光っているのが見えた。力強く引き上げられ、半分抱き締められるような形でその人に助け起こされて、ハッとして叫ぶ。

「っ、うしろっ、バケモノ！」
「バケモノ？」

　こてん、と首を傾げた彼は、視線を下げた。

「もしかして、アレのこと？」

　男が金属の爪のような装飾品のついた指で示した先に真っ黒な水溜まりのようなものがあった。

「え？　え？　あれ？」

　周囲を見回すが、先程まで私たちを追いかけてきていたバケモノはいなかった。そこにあったのは、真っ黒なドロドロとした液体だけ。視線を上下左右、前後に向けてみてもどこにもいない。

「でも、でも今まで私、追いかけられてたのに」
「ああ、うん。それはオレがやっつけといたから安心して。あそこに残骸があるだろ？」

　あっさりと言われても状況を簡単に受け入れることが出来ない。

「え？」
「だから、もう君を追いかけてるものはいないよ」

　男が動くたびに、上質な香の匂いが漂う。こんな薄汚い路地裏には到底似合わない香りだ。バケモノに対する恐怖から縋りついていた服だって、上品な光沢がある緑色の地紋のある生地に金の糸で繊細な刺繍が施されている、今まで触れたことがないくらいに気持ちのいい手触りの一級品だろうもので――と、そこでやっと、見ず知らずの人に抱き着いていたのに気付く。

「ご、ごめんッ！」

　慌てて離れると彼は「いや、君みたいな可愛い子にだったら全然。迷惑じゃないよ」と爽やかに笑った。
顔を見れば、切れ長の金色の瞳が暗闇でキラキラと輝いている。少し怖いくらいに整った顔立ちの、上級な生活をしていそうな雰囲気の男は、こんな路地裏に相応しいとは思えなかった。
　迷惑じゃないなんていう言葉は絶対に嘘だ。貧民街で生活している人間に抱き着かれて不快でない人などいない。脂ぎった髪に、薄汚れた肌と襤褸の服の自分を思い出して距離を取ろうとする。腕は放してくれたものの、男の視線は私を捉えたままだった。
　男に見覚えのない私も、彼のことを観察する。ここらを出入りしていた人物ではない。少なくとも、私は知らない。かといって薬の売人やら買いに来たという雰囲気でもなく、裏家業の人――ではないとも言い切れない雰囲気だが、それにしてもここに出入りするにしては身綺麗すぎる。仮にそっちの世界の人間だったとして、こんな上質の服を身に着けている人が下っ端なわけもないし、仮に上の方の人であるのなら、手下の一人も連れないでこんな治安の悪い場所になど足を踏み入れないだろう。
　そう思いながら彼のことを上から下まで見た私は、すぐに血の気が引くのを感じた。

「あんたっ、なにやってんのッ？！」

　顔を強張らせて尋ねた私に男は小首を傾げ、笑顔を浮かべてみせた。

「なにって？」
「やだ！　なんで踏んでるの？！　やめてよ、退いて！」

　――信じられない……っ！
さっきまで一緒に逃げていた子供が、踏みつけられている。ピクリともしない様子に手先が冷える。
――もしかして、守れなかった？
世界が暗くなっていくような感覚に襲われる。しゃがみこんで顔を見ようとするが、完全に地面に伏しているからどんな表情を浮かべているのかわからない。呻き声はしないから、気を失っているのか、それとも……
――さっき転んだのは、バケモノに攻撃されたせい？
　安否を確認したいのに、男は足を退かさない。その身体を突き飛ばそうとするが、どれだけ力を込めて押してもまったく動いてくれなかった。

「ねえ！」
「ちょっと、どうしたの。落ち着いて」

　へらへらと笑われて、頭に血が昇った。

「退きなさいってば！」

　勢いよく立ち上がり、手を振り上げてその頬を叩こうとする。しかしそれも、彼に止められてしまった。

「穏やかじゃないなぁ。なに？　オレ、なんかした？」
「してるでしょ、子供！　踏んでっ」

　手首を掴まれ、高く上げられると爪先立ちになって力が入れられなくなる。暴れても手が外れることはない。男はさっきと同じ穏やかな笑みを浮かべているが、目の奥は笑っていなかった。

「子供なんてどこにいるんだ」
「はぁ？！」

　馬鹿なの？　目がついてないの？
　
「そこにいるでしょ！」

　彼の足元を指差せば、やっとそこに視線を向けた彼は「ああ」と納得したような声を上げた。明確に認識はしただろうに、男はやっぱり子供を踏んだままだ。

「ははっ。コレのことを言ってたんだ。コレは子供なんかじゃないよ」

　自分のしていることを棚に上げて、よくそんなふざけたことが言えたものだ。呆れながらも、一刻も早くその子の無事を確認したい私はなおも暴れる。

「放してっ、放しなさいよ！」
「ちょっと、あんまり暴れると怪我するって」

　彼を睨みつければ、小さく肩をすくめて呆れたように鼻から息を吐かれる。

「暴れないって約束できるなら、放してもいいけど？」
「…………」
「暴れないでね」

やっと降ろされた、と思いきや、すぐに背後から抱き締められる。

「放してよ変態！」
「ははは、酷い言われようだな。まあ落ち着いて。よく見てごらん」

　そのままの格好でずるずると後方に引っ張られて子供から距離を取らされる。話す声は、耳のすぐ後ろ。男は地面に伏せたままの子供を指した。金属の爪をくいっと上げれば、その小さな身体がふわりと浮いて宙に磔になる。

「おね……ちゃ……」

　弱々しく呟いた子供が手を伸ばそうとする。
　――生きてる！　息がある！
　安堵して駆け寄ろうとしても、男はそれを許さなかった。全力でもがく私は、身体がうまく動かない様子の子供を指差して叫ぶ。

「ほら！　やっぱり子供じゃない。やめなさいよ、その怪しい術！　放してあげて！」
「っていうかさ、アレは君の知り合い？　なんて名前の、いくつの子か言える？　男？　女？　どっち？」
「……え？」

　直接耳に注がれる彼の言葉に、ふと冷静になる。

「助けてお姉ちゃん」

哀れな声で助けを求めてきているボロボロの子供。しかしその顔に見覚えはなかった。

「あれ……知らな、い」
「だろ？　だって、本当は知り合いじゃないもんな」

　男の言葉と共に、子供の形相が変わっていく。その顔は、庇護欲を掻き立てるような幼い子供とは似ても似つかぬ醜悪なもので、ゾッとして息を呑んだ。

「あれは、子供の姿を真似る妖。引っ張られると死んじゃうんだ。君、うまい具合に引っ張られずに済んだみたいで命を取られずに済んだけど、危ないところだったね」
「そんな……だって、さっきまで普通の子供で」
「だから、そういう妖なんだってば。正体は、見るからに人間じゃないだろ。アレ、可愛い子供に見える？」

　そう言われてしまうと、彼の言葉を飲み込むしかない。
それは白目のない真っ黒な目でこちらを睨み、獣のような唸り声を上げて暴れていた。咆哮と表してもおかしくないような声が出ている口の中は真っ青で、顔中に浮かんでいる筋を含め、どう見ても子供どころか人間でもなかった。途端に恐怖を感じ、首元に回されている男の腕に縋りつく。

「一応ヒト型してるしさ。うん、気分良くないだろうし、見ないでおこうね」

　男はその手を私の首元から目元に移動させると、しっかりと覆って目隠ししてくる。その直後に果汁を多く含んだ果実が潰れるような音がして、それが地面に滴り落ちるような音が続いた。

「はい、終わり。もう本当に安心安全になったよ」

　ぱっと手が外され、視界が明るくなる。目の前には、黒いドロドロの水溜まりがあった。
　本当にバケモノだったんだ……と呆然としながら考えたあと、そんなのの手を引っ張っていたことに怖気立ち、そして自分が命を狙われていたらしいことに背筋が凍った。

「ん？　どうした？」

　後ろから覗き込んできた男は、私が真っ青な顔をしているのを見て驚いたらしい。肩に置いていた手を離すと、前に回り込んできてあわあわとした様子を見せた。

「え？　なに？　そんなに怖かった？　ゴメン、格好つけないですぐに倒せば良かった」
「違……なんか、一気に安心して、そうしたら急に」
「でも、怖かったよな。あ～……ゴメン、でも本当にもう危険はないよ。完全に退治した。もう君を襲ってくることはない」
「うん、ありがとう」

　もう大丈夫、と繰り返せば、安堵した様子を見せた男に肩を抱かれた。
　なに？　と見上げると、彼は金色の瞳で私を見て「ところでさ」と丈の短い手袋をつけた右手の親指と人差し指で丸を作って見せてきた。

「オレ、呪禁師ってやつなんだ。知ってる？　ああいう妖退治で飯食ってるの」

　それで？　と無言でいる私の鼻先に男は指を近付けてくる。

「ついでに、ただ働きはしない主義。ってことで、妖退治のお代、いただけるかな？」
「はぁ？」
「はぁ？　じゃなくて。当然だろ、命救ってもらってるんだから、お礼はちゃんとしなきゃ。ね？」

　にんまり微笑む顔は意地が悪く、善意の人とは言い難いものだった。