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一の段
二
しおりを挟む三の君と蔵人少将の露顕はつつがなく終わった。宴も終盤になり三の君が下がったため、三の君付きの女房(侍女)である阿漕(あこぎ)も、寝殿と北の対を結ぶ渡廊(渡り廊下)に設けられた自らの局(つぼね)(部屋)に戻る。すると、局にはすでに明かりが灯っており、先客が待っていた。狩衣姿の、こざっぱりとした男だ。
「いつまでも帰ってこないから、どなたかに言い寄られているのではないかと心配した」
先客の名は惟成(これなり)。阿漕の恋人である。宮中では帯刀(たちはき)(皇太子の護衛を行う下級役人)を務め、また、蔵人少将の従者でもある。蔵人少将の文を届けに中納言家へ通ううち、阿漕と恋仲になったのだった。
惟成は姿かたちがすっきりとしていて清潔感があるうえ、よく笑う明るい男のため、中納言家の下仕えの女たちからもずいぶん可愛がられていた。しかし、惟成は阿漕を一目見てから彼女に夢中で、それ以外の女など目に入らない。なぜなら、阿漕は中納言家の姫たちに負けず劣らず、艶やかな容貌をしているのだ。それにとても働き者で気が利く、細やかな心遣いの持ち主である。少々勝気なところも可愛い。
露顕では従者たちにも酒肴が振舞われたが、惟成は阿漕が誰かの目に留まってしまうのではないかと気が気でなく、ろくに料理ものどを通らず、早々に彼女の局に引き上げてきたのだった。なぜなら、今日のために新調したという女房装束(十二単)をまとう阿漕は、いつも以上に気合いを入れてくしけずった、十尺ほどはあろうかという豊かな黒髪、派手に化粧したかんばせ、匂い立つ香り、どれをとっても美しく、宴の前にちらと見ただけで惚れ直してしまったからだ。
「蔵人少将様のご友人たちのような高貴な方々に口説かれたら、おまえも断れないだろう?」
「そんなことないわ。あたしには惟成だけだもの」
本当は酌をして回った際、何人かに戯れに声をかけられたのだが、惟成が不安になるようなことは黙っておく。まだつきあって浅い仲ではあるが、彼が嫉妬深いことは充分にわかっていたからだ。
彼を安心させるように微笑んでやれば、惟成はやっと明るく笑った。
「俺も阿漕だけだよ。阿漕、愛してる」
「ええ、あたしも」
可愛い恋人の言葉に気分がおおいに盛り上がった惟成は、彼女を抱き寄せようとした。が、阿漕は先ほどから忙しなく手を動かしており、それどころではなさそうだ。
「……何してるんだ?」
完全に背を向けられた段になり、惟成は阿漕の黒髪を一房つまみあげながら不審そうに尋ねる。すると、彼女は当然のように答えた。
「姫様に差し上げる夕餉の準備よ」
阿漕は局に帰ってきた際、御台盤(みだいばん)(食器を載せる台)を手にしていた。宴で出された食事のあまりを載せていたので、てっきり自分と一緒に食べるため持ってきたのだろうと思っていたのだが、そういうわけではないらしい。
「姫様って……三の君は先ほどの露顕でいろいろ召し上がっていたんじゃないのか?」
「馬鹿ね、そっちの姫様じゃないわ」
阿漕は察しの悪い恋人の問いにふんと鼻を鳴らす。
「ああ、落窪の君か」
「だからっ、落窪なんて呼び名で呼ばないでって言っているでしょ! 三の君がご結婚なさるから人手がいるっていうんで、三の君に仕えることになったけれど、あたしはもともと姫様付きの女房なの。姫様を悪く言ったらぶつわよ」
ろくに食事も与えられない不憫な落窪――阿漕は落窪と呼ぶのを嫌がるが、便宜上落窪という呼び名で通す――を思うと、阿漕はいつも悲しくて、悔しくて、いたたまれない気持ちになる。
そもそも落窪は、れっきとした中納言の子どもである。ただし、この屋敷に住む他の姫たちとは母親が違う。実の母親が亡くなったためこの屋敷に引き取られたのだが、継母である北の方に疎まれ、長年下働きのような扱いを受けているのだった。
「ごめんごめん。皆が「落窪の君」って呼んでいるからつい……」
北の方の方針で、落窪のことを「姫」と呼ぶのは禁じられていた。しかし、下働きの面々はさすがに「落窪」とだけ呼ぶわけにもいかず「落窪の君」と呼んでいるのである。もちろん阿漕とて例外ではないのだが、北の方たちがいない場ではかたくなに「姫」と呼び続けていた。
阿漕は大げさなほどにため息をついてから、しっしと惟成を手で払う仕草をした。
「前にも言ったと思うけど、空いた時間だけでも姫様のもとにおうかがいしてるから、あたしは忙しいの。特に今は発情期が近いから、いろいろとお世話しないといけないのよ。だから今日は早く帰って」
「今日はって……この間もそう言って追い返されたよ」
惟成は口を尖らせるが、阿漕はにべもない。
「忙しいおまえも愛してるって言ってくれたのはどこのどなた?」
「そりゃ、どれだけ会えなくても俺は阿漕を愛してるよ。だけど、せっかく一緒になれたのに……」
まるで子犬のようなしゅんとした表情。快活な惟成がそんな顔をすると、たいていの女は彼に甘くなる。阿漕もその一人だ。これまでのつんとした態度を一転させ、惟成に頭を下げる。
「……ごめんなさい。あたしのこと、嫌いにならないでね」
それでも阿漕にとって、落窪こそが何より大切な主人なのだ。
「こんなあたしを許してね。だって、姫様をお守りできるのはあたしだけなんだもの」
彼の両手を取って、切々と訴える。
「あたしが姫様の味方をしないと、この屋敷で姫様は本当にひとりぽっちなのよ。存在を公にされないまま、家族に冷たく当たられて、食事もお衣装も最低限。針仕事だけして一生を孤独に過ごすなんて、そんなのってあんまりじゃない」
たかが女房の自分にできることなど、せいぜい三の君のおさがりをひそかに落窪に差し出すくらいしかない。それが口惜しくてたまらない。目の端に涙が浮かんでくる。
「姫様はね、素直でお優しくて、とっても素敵な方なのよ。だからあたしは、姫様のためならなんだってするわ。大好きな恋人との時間を削っても」
それは幼い頃、落窪と一緒にこの屋敷にやってきてからずっと、阿漕が心に決めていることだった。恋人の決意を聞いた惟成は、ふむと小さくうなずく。
「おまえがそこまで言うってことは、よっぽど素敵なかたなんだろうなあ。そんなお人が、高貴な生まれにそぐわない扱いをされているなんて、おかわいそうに」
「ええ、そうなの。とてもかわいそうなのよ。誰か、素敵な殿方が現れて、この屋敷から姫様を連れ出してくださるようなことになれば、あたしも安心して惟成と逢う時間を増やせるのだけれど……」
「そうだなあ……」
うぅん、と腕を組む惟成の頬を、阿漕はするりと撫でた。
「一緒に考えてくれてありがとう。とっても嬉しいわ。やっぱりあなたが大好きよ」
惟成の背筋をぞくりと快感が走り抜ける。もどかしくなって阿漕をすがるような目で見上げても、彼女は惟成に身体を許したりはしなかった。惟成は名残惜しそうに何度も何度も振り返りながら局をあとにする。
見送る阿漕は最後まで、「姫」が男であるとは口にしなかった――……。
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