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一の段
三
しおりを挟む「はっはっは、それで私のところに見舞いにきたというわけか」
「いえ、もともとお伺いに来るつもりでしたよ」
「そんなことを言って、本当は今頃その阿漕と共寝しているつもりだったんだろう?」
「うっ、それはそうですが……明日にでも来るつもりだったんです」
たじたじになった惟成が頬を掻くと、いっせいに明るい笑い声があがった。
ここは権勢を誇る名門一家、左大将の藤原 純頼(ふじわらのすみより)邸である。西の対(西に建つ別棟)に住む長男の右近少将(うこんのしようしよう)、藤原 道頼(ふじわらのみちより)と惟成が乳兄弟のため、風邪をひいた彼を見舞いに惟成はやってきたのだった。
道頼は病人のわりにずいぶん元気な様子で、すでに半身を起こしていた。だが、さすがにいつもどおりの装いというわけにはいかず、単姿のうえ、寝乱れたせいか、烏帽子からは汗ばんだ髪の筋がこぼれている。しかし、それすらもむしろ色めかしく魅惑的に映る。幼少の頃から数えきれないほど眺めた姿だというのに、惟成はつい感嘆のため息をついてしまった。
この道頼という青年は、甘く華やかな容貌と洗練された物腰、主芙婀らしい存在感で、宮中では群を抜いて人気を誇っている。
「阿漕という女房を一度見てみたかったなあ」
脇息(きようそく)(ひじ置き)に寄りかかりながら、道頼は残念そうに言った。すると、惟成が返すより先に、女房の一人が口を尖らせる。
「手を出してはだめですよ、惟成は彼女に心底惚れているんですから」
「讃岐は私のことをなんだと思っているんだ」
「色好みで有名な、困ったご主人さまですわ」
ふふふとさざ波のような笑い声が連鎖する。この場に集う者たちは皆、讃岐の言葉のとおりだと思っているからだ。惟成も彼女に同意する一人である。
「せめてお風邪が治るまで、おとなしくしていてくださいまし」
道頼の膝に衾(ふすま)(かけ布団)をかけ直してやりながら、讃岐はまるで子どもに言い聞かせるような物言いをする。事実、讃岐にとっては恐れ多いことながら、道頼は我が子も同然だった。讃岐は今年で四十になる女で、惟成の実母である。つまり、道頼に乳を飲ませ、遊ばせ、大切に育ててきた女こそが彼女なのだ。
讃岐は実の息子よりも道頼を溺愛しており、彼に仕えることを至上の喜びとしている。白髪混じりでしわもずいぶん増えてきたものの、道頼のためなら何であろうとしてみせるというのが彼女の口癖だった。
「讃岐が手厚く看病してくれるなら、屋敷に籠るのも悪くないな」
「ご結婚なさったら、わたくしなどよりよほど若くて美しい北の方が、熱心に看病してくださいますよ」
道頼の軽口にぴしゃりと返すのは、乳母の気やすさからである。
「ご友人の蔵人少将様もご結婚なさったことですし、道頼様もそろそろご結婚を考えてはどうですか? 道頼様なら、どんなお相手だって思いのままですのに」
「またその話か。わかっているよ、いずれきちんとしたところの姫とでも結婚するさ」
毎度のやり取りに彼は薄く笑うばかりで、讃岐はもどかしくてならない。しかし、道頼が自分の意見を曲げないことはよく知っているので、それ以上は強く言えないのだった。そんな二人の様子を見て、ほっと肩で息をしている女房がちらほらいる。おそらくは、道頼に恋をしている女たち……もしかすると、何人かは道頼と一夜をともにしたことがあるのかもしれない、と、惟成は推測する。
道頼は見た目だけでなく、万事そつがなく、男から見ても憧憬の対象だ。しかし、讃岐が言うように色好みがすぎるのが玉に瑕で、光源氏などというあだ名がつけられるほど、彼の女関係は派手なものであった。十九の彼にとってはまだまだ女人との泡沫の恋を楽しみたい時期なのだろう。
道頼が風邪気味なのは事実だが、蔵人少将の露顕に参加した上達部(かんだちめ)(公卿とも。大臣や大中納言、参議など、高位の貴族のこと)たちから縁談を持ち出されるだろうことが予想できたので、面倒を回避するために欠席したというのが実情であった。
「惟成はすごいな、私と同じ十九という年で、生涯ただ一人と決めてしまうなんて」
「俺の場合は、阿漕が他に恋人を作ったら即別れるとうるさいもんで」
その束縛が心地良くもあるのだが。
阿漕を恋人にした今、惟成はもはや彼女以外と恋をする自分を想像できない。互いに平多だが、自分たちこそが運命の相手だと思う。
「道頼様にもそのうちただ一人の方が現れますよ、きっと」
「そうだな」
彼はまったく未来を信じていない様子でうなずいた。そして、口の端を持ち上げる。
「なあ、その男女伽の姫のことをもっと聞かせてくれないか」
「まあ、道頼様。落窪に追いやられた姫など、道頼様には釣りあいませんわ。それでしたら、あちら様には未婚の四の君がおられるそうですよ。手塩にかけて育てた、とてもとても可愛らしいかただそうですわ」
大げさにかぶりを振る讃岐を手で制しながら、道頼は続けた。
「四の君と共寝なんてしたら、すぐに婿入りさせられてしまうじゃないか。そんなのはごめんだと言っただろう」
つまり、道頼はかりそめの恋の相手として、男女伽の姫を所望しているのであった。
この世には、男女の他に三つの種が存在する。もっとも一般的なのは平多であり、人口の七割近くが平多だと言われている。それに対し、男女伽は全体の一割にも満たない珍しい種である。身体的にも知能的にも平多に劣ることが多いうえ、定期的に訪れる発情期の間は獣のような激しい性衝動に苛まれ、身の回りのこともままならなくなる。そのため、男女伽は蔑みの対象になりやすい。その一方で、高貴な人々には男女伽の需要が高い。それは、彼ら貴人の中には主芙婀と呼ばれる種が多数存在するからである。
主芙婀は人口の二割ほどと言われているが、その多くが上流階級の人間である。主芙婀の大半は優れた能力を持ち、人々の上に立つ素質を兼ね備えているため、要職に就いていることが多い。
しかし、主芙婀には子ができにくいという特徴があり、特に主芙婀の血が濃いほど、子ができる確率は低いと言われている。だが、主芙婀が発情期の男女伽と契りを交わした場合、子が生まれる可能性は飛躍的に高くなる。そのため、帝をはじめとした高貴な血筋の家では、男女伽はたいへん重宝されるのである。もちろん、高貴な家では悪い男が通ってこないよう、男女伽は屋敷の奥深くで厳重に守られ、育てられる。ゆえに、男女伽と恋愛する機会は非常にまれであり、道頼もまだ男女伽と共寝したことはなかったのだが、すでに結婚した主芙婀の先達から、男女伽のことはよく聞いていた。
生物的に劣性の男女伽は、本能で強者の庇護を求める術を身に付けているらしく、発情期になると、主芙婀にのみわかる香りを発し、主芙婀を誘惑するようになる。その香りを嗅ぐと、主芙婀もまた、男女伽のように無心で性行為を求めるようになる。そうして本能で求めあいながら行う契りは、何にも変え難い快楽なのだという。
「親姉妹からも疎まれて、放っておかれているなんて、そっと忍びこむにはずいぶんと都合のいいことじゃないか。ましてや男女伽とは……」
「うちの妻が、落窪の君を一夜限りの相手にしたいなんて要望を通してくれるとは考えにくいですよ」
この時代、姫に仕える女房の手引きによって、男が姫のもとに忍んでいくことはごく一般的であった。源氏の物語でも、主人公の光源氏が女房を口説き落として様々な女人に夜這いする様子が描かれている。そのため、姫の周囲を固める女房の懐に入ることが、姫との逢瀬には欠かせなかった。女房に認められなければ、文を取り次いでもらうことすらかなわないからだ。
しかし、阿漕は主を何より大切に思っているので、彼女を遊び相手と割り切る道頼を受け入れるとは思えなかった。惟成にしてみれば、それでこの話は終わったつもりだったのだが、道頼はにこりと笑みを深くする。
「もしかすると、その姫と私が魂のつがいかもしれないだろう?」
発情中の男女伽の首筋を、発情にあてられた主芙婀が噛むことで、二人はつがいとなる。つがいとは主芙婀、男女伽にのみ存在する本能的な結びつきであり、つがいになると、男女伽はつがい以外の相手に香りを発することはなくなるうえ、生理的な嫌悪感でつがい以外と契れなくなる。
魂のつがいというのは、そのなかでも特別な関係である。互いの匂いを嗅いだ瞬間、相手が他の主芙婀あるいは男女伽とは違うと本能で理解するのだ。特別な相手を求める本能はまるで恋愛、いや、愛よりも強く、唯一無二の結びつきとも言われているが、一生のうちに出会わないことのほうが多いという。まるで夢物語のような関係で、現実主義の道頼が本気でその可能性を信じているとは到底思えなかった。しかし。
「おまえは乳兄弟の願いをきけない薄情者ではないと信じているよ」
にこにこと微笑む姿は優しげだが、彼が「否」の言葉を一切受け付けないことは、長年のつきあいでよくわかっていた。惟成は諦めのため息を吐き、「うまくいくかは保証しませんよ」とだけ告げたのだった。
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