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三の段
五
しおりを挟む翌日の晩、蔵人少将の従者として中納言邸を訪れた道頼は、迷ったふりをして阿漕の局を訪ねた。
「開けておくれ。体調は回復したのだが、文をいただけず、気持ちが弱ったままの私を哀れと思うなら」
誰に聞き耳を立てられているかわからないので、名乗りはしない。その代わり、落窪に出した文をなぞって呼びかける。すると、慌てたように格子が上げられ、中から美しい女が現れた。惟成の言う特徴と合致する。彼女が阿漕だろう。
「あ、あなたは……?」
「しっ、いったん中に入れてくれないか」
驚いた表情の阿漕の背を押し、局に押し入る。そこで道頼は密やかに名乗った。
「君の話は惟成からよく聞いているよ」
彼女が惟成に話した落窪の様子を伝え聞き、落窪の反応を探っていたからだ。それによると、落窪の反応はいつも素直なものだったようである。その話を聞くたび、一度でも彼から直接受け答えされてみたいと思い続け、ようやく落窪の重い腰が上がったところでこの事態だ。
道頼は彼女に落窪のもとに案内させるつもりだったのだが、阿漕は険しい表情で首を振った。
「あたし、今では姫様と会うことも禁止されているのです」
「それでは、姫はこの数日ずっと一人で……?」
「いいえ、……姫様のもとには、ずっと典薬の助という助平爺がいるのですわ。あの男は、主芙婀で……男女伽の姫様を何日も何日も、弄んでいるのです……っ」
そう叫んだ阿漕の頬には、滂沱の涙が伝っていた。その涙で、落窪がとうにその男とつがいになってしまったことは察せられた。阿漕は道頼にすがりつく一歩手前まで詰め寄り、がくりとこうべを垂らす。
「あなたがどういう目的でこの屋敷に来たのかあたしにはわかりませんが、もう手遅れなのです……」
「――それで、姫は今どこにいるんだ?」
「もうあなたと姫様はつがいになれないのですわ」
「わかっている」
強い口調で押し通せば、阿漕は「北の対の塗籠です」と答えた。
「あたしがしっかりしないといけませんわね」
涙に濡れたまなじりを恥ずかしそうに拭いながら、彼女は真っすぐ前を向く。そして、先頭に立って歩き出した。
蔵人少将が来訪したことで、女房たちは三の君のもとに集まっているのだろう。運良く誰にも会わずに塗籠の前まで辿り着いた。
細く戸を開けると、すえた臭いが漂う。その中で臥せる影が二つ。
落窪と典薬の助は、就寝中のようだった。
「どうにかしてあの男を引き離せないものか……」
「それでしたら、あたしが……。少将様は隠れていてくださいませ」
阿漕がそっと忍びこんだ。小声で男を呼んでいる。
「姫様に気づかれないうちに、あたしと……」
しばらく応酬が続いたのち、阿漕とともに出てきた男の姿に、道頼は目を丸くする。想定をはるかに上回る老齢だったからだ。
典薬の助は脂下がった顔つきで、阿漕の尻を撫で回している。助平というのは本当らしい。阿漕はむりやり作った笑顔で、なんとか彼を塗籠から連れ出した。
遣戸から二人が出ていくのを見届けたのち、道頼は素早く塗籠に潜りこむ。衾をかけて寝息を立てている身体を小さく揺すると、落窪がゆっくりと瞬きした。
「………ぁ」
見つめあうのは二度目だった。初めて出逢ったときは、啞然としている隙に突き飛ばされたものだったが、今は道頼も落窪も、胸に渦巻く思いをまなざしに乗せて、無言で互いを見つめていた。
「あなたが別の男のつがいになったと聞きました」
他人のものになった落窪からは、もはや男女伽独特の誘うような香りはしない。
落窪は大きく息を呑んだ。みるみるうちに、小さな瞳から大粒の涙をこぼす。
「っ、……最後に、会えて良かったです……」
それでも微笑んでみせる姿が健気で痛々しい。
「どうして最後などと言うのですか」
その一言は、道頼にしては珍しく、考える前に口をついて出た言葉だった。つがいになれない男女伽――契ることのできない男女伽が相手だというのに。
落窪は、心の底から不思議そうに目を丸くした。
「わたしはもう典薬の助様のつがいになったので……少将様にとってはなんの価値もありませんから」
なんの価値もない。自分が落窪をそう見なしていると思われたことが許せなかった。
「あなたに三月も文を差し上げてきた私が、今さらあなたを無価値などとは思いません」
思わず強い口調で迫ってしまった。しかし、落窪こそもはやつがうこともない主芙婀の自分を用なしだと思っているのではないかと、ふいに気づいた。そもそも、落窪は一度も文を返してきたことがない。
それでも三月の間、道頼が文を送り続けたのは、落窪の反応を伝え聞いていたからだ。少なくとも、これまでの落窪は自分を好ましく思っていたようだが……。
落窪は、無精ひげの浮いた頬を緩めた。自然にほころんでしまったようだった。
「そう言ってもらえるだけで嬉しいです。わたしはあなたに男女伽性を求めてもらったときから、ずっと、あなたに救われ続けているのです……」
だから少将様が好きです。ぽつりとつぶやく落窪の様子を見て、道頼はようやく落窪の心の内をつかめた。落窪は、自分が男女伽の性だけを求められていると思いながら、それでも道頼の言葉に喜び、道頼を好いていた。しかし、自分が男女伽としての価値を失くした途端、未練など一つもないかのように呆気なく身を引く様は、きっと道頼になんの見返りも求めていないのだろう。相手が自分をどう思っていようが、嬉しい言葉をかけてくれた相手が好きというだけのことで、相手が愛情や同情を持とうが持つまいが、落窪には何も関係ないのだ。
それはなんと健気で一途な、無償の愛なのだろうか。
家柄も、恵まれた容姿も、才能も、人並み以上に持っている道頼は、他人とは必ず自分に見返りを求めるものだと思っていた。それは当たり前のことで、なんの疑念も抱いたことはなかったし、その思いを自分も利用してきた。しかし、ただ好かれることの尊さに、道頼は胸が詰まった。
だが、それゆえに落窪が自分を簡単に手放そうとしているのだと改めて気づき、道頼はぐっと落窪の手を引き寄せた。そして、指先に口づける。
「愛しています」
これまで出逢った数々の女人に告げてきた言葉だった。だからこそ、今までで一番真摯に、気持ちが伝わるよう、思いのすべてをこめた。
「でも、わたしはあなたの男女伽になれません……」
落窪は困惑の表情で、そっと手を引き抜く。確かに、このままでは道頼と落窪はつがいになれない。落窪の戸惑いももっともだ。何か手はないか、何か――
「あの男を殺しましょう」
「っ!」
言葉には言霊が宿る。それゆえ、人々は滅多なことを口にしないものだ。しかし、現実主義の道頼にとって、それは至極当然の結論だった。
つがった相手が死ぬと、つがいの関係は解消されると聞いたことがある。それならば、典薬の助をこの世から消せばいい。噂の真偽は、彼が死んだあとでわかるだろう。
「だめっ、……だ、だめです……」
慌てたようにかぶりを振る落窪が小憎らしい。
「なぜ? あなたはあの男とつがいでいたいのですか?」
「ち、違う……そんなことは……、でも……」
そのとき、落窪の脳裏に浮かんでいたのは、実母の冷たくなった姿だった。落窪には難しいことはわからないが、人が死ぬことの怖さは知っている。死んだらただの肉塊となり、もう二度と動かず、言葉を交わすこともできなくなるのだ……。決して典薬の助に情があるわけではない。しかし、人が死ぬことを良しとはできなかった。
落窪の震える姿に、無体な質問をしてしまったと道頼は反省する。だが、それ以外に自分たちが結ばれる方法が思いつかなかった。
道頼にとって、自分にできることが何もない、八方塞がりの状況は、生まれて初めてと言ってもいいできごとであった。肝心なときに何もできない自分に打ちのめされる。
「あなたと契れなくとも、私はあなたと添い遂げたい。あなたもそう思ってくれますか?」
そんなことしか言えないのだから、自分が情けない。
落窪はますます涙を流す。
「はい……気持ちは、一緒です……でも、もう、右近少将様はお帰りになるべきです……いつ、北の方様たちがやってくるか……あなたまで、打ち据えられてしまいます……」
落窪はそう言うが、道頼が身分を明かせばきっと、中納言家では道頼を歓待することだろう。自分がもっと早く落窪への気持ちを固めていれば、こんな事態にはならなかったかもしれない。その事実はますます道頼を苛む。
それにつけても憎いのは、中納言家の面々である。落窪を長年に渡り虐げ、今もなお、恐怖で支配している。
落窪を腕の中におさめながら、彼は中納言家への復讐を考えていた。しかし、落窪に伝えれば必ず却下されるだろう。それゆえ、道頼は落窪に何も告げるつもりはなかった。
「私は今、蔵人少将の従者に身をやつしているため、派手に動けません。ですが、すぐにここから救いだしてみせますから、私を信じて待っていてくれませんか」
「……はい」
落窪は素直なので、人の言うことは疑わず信じる性質だった。それでもさすがに、自分をここから助け出すという話を呑みこむには、しばらくの間が必要だった。
だが、道頼はできないことは言わない人物だということは、文からもよく伝わっていた。そのため、落窪は小さくうなずいた。
「ずっと待っています……」
落窪を手放すのが名残惜しく、耐え難く、道頼は最後にきつく落窪を抱きしめてから、その場を後にした。
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