落窪の男女伽

水市 宇和香

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四の段

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 道頼の馬に落窪も乗せてもらい、二人は二条邸へと向かっていた。
 薄暗い夜の道は少し怖いが、風を切る爽快さや、木々のざわめき、牛飼い童の掛け声など、外の世界ならではのすべてを、今度こそ落窪は楽しんでいた。
 しかし、背後で手綱を操る道頼は、先ほどから言葉数が少ない。
「……お、怒っていますか?」
 今さらながら問いかけると、道頼は眉を下げて頷いた。
「それはもちろん」
「!」
 無言で仰け反った落窪の耳朶を、彼の吐息が掠める。
「前も言ったでしょう。あなたに怒ることはありません。怒っているのは自分自身に対してですよ。あなたに復讐のことなど告げなければ、こんな大事にならなかったのに、と」
「……大事にしてしまって、ごめんなさい」
 結婚を止めたい気持ちはあったが、大事にするつもりはなかったのだ。道頼にも内裏での立場というものがあるだろうに、すっかりそのことに思い至れなかった。
「いえ、中納言殿と揉めようが、今回のことで世間からの風当りが冷たくなろうが、別段構わないのです。私が後悔しているのは、あなたを危険な目に遭わせてしまったことだけです」
 彼は出仕を終えて二条邸に帰るなり、阿漕から落窪のことを聞かされ、慌てて馬で駆けてきたのだと言った。惟成が落窪のあとを追ったとはいえ、道中何があるかわからない。京には賊が蔓延っているし、落窪はこれまでろくに外出もしたことがなかったのだから、道頼の心配ももっともだった。
「せめてあのときに復讐を諦めていれば、あなたを兵部少輔と取っ組みあわせるようなこともありませんでしたね」
 落窪を見つけたあと、北の方に自身の行いを露呈したのはやはり、兵部少輔が四の君と契るまでの時間稼ぎだったらしい。
 自分の行いを反省するなど、道頼らしくないことだった。落窪があのとき当身を喰らわせてくるとは思ってもいなかった道頼は、意表を突かれ、落窪をさらに危ない目に晒してしまったのだった。
「あなたが男だということを、改めて思いだしました」
 男である落窪は、本気になれば道頼の拘束など解けてしまうし、男と対峙しても負けない腕力があるのだ。北の方や典薬の助に暴言をぶつけられても、叩かれてもやり返せなかったのは、彼女たちに恐怖心を植えつけられていたせいであって、決して力で勝てないわけではない。
 自分の妻が男だと思いだして、道頼はがっかりしているだろうか。男でも女でもいいと言ってくれていた気持ちが変わってしまったのなら悲しい。
 不安な思いで身を縮こまらせていると、道頼は小さく息を吐いた。
「あなたは男なのですから、これからは、屋敷に閉じこもって夫の帰りを待つばかりの生活をしなくても良いのですよ」
 この時代、高貴な身分の女は一生涯を屋敷の中で過ごすものだ。落窪は男だったが中納言家では屋敷の一角に閉じこめられていたし、女の格好をしていたから、道頼も彼を「姫」と呼んで女のように扱っていた。しかし、本来の落窪は男として暮らしても問題ないのだ。
「私の口利きで内裏で働けるようにしてもいい……内裏に集う人々の中には主芙婀も多くいますが、あなたはすでにつがいがいる身ですから、他の誰かを誘惑することもありませんし、発情期の間だけ休みを取れば、特に問題なく出仕できるでしょう」
 それは、落窪が昔憧れた生活だった。屋敷を出て自由になってみたかった。しかし、今一番落窪が望んでいるのは、道頼のそばにいることだ。だが、道頼はどう思っているのだろう。落窪が男として独り立ちすることを望んでいるのだろうか。
「妻としてのわたしは、もう不要ですか?」
 もしそうなら、落窪は潔く身を引きたい。自分を救ってくれた道頼の足を引っ張りたくはない。そう思っていても、実際に「そうだ」と言われるのは怖くて、落窪は彼の顔を見ることができなかった。前を見つめたままそう尋ねると、馬の歩みが止まり、道頼が背後から落窪を抱き締めた。
「そんなことはありえません」
 顎を掴まれて、口づけを落とされる。
「私はあなたしかいらない。妻として屋敷で私の帰りを待っていてほしいし、外になど出したくない。私はあなたに関してはとても嫉妬深い男なので、あなたを誰にも見せたくないのです」
 しかし、と言葉が続く。
「あなたが男として生きたいと願うなら、私はそれを止められません。本当は、あなたの情に訴える術ならいくつだって思いつくのですが……」
 恋をするとこれまで覚えてきた手練手管が何一つ使えなくなるものですね。そう言って自嘲気味に笑う道頼に、落窪はたまらず手綱を離して抱き着いた。
「男のわたしを尊重しようとしてくださる道頼様が大好きです。でも、わたしはあなたの妻として生きたい」
 馬上で抱きあう男二人を、道行く人々が興味本位で眺めているのがわかる。男同士というのはやはり、普通ではないのだ。
 それでも落窪はもう、男の自分を恥じたりしない。
「わたしは妻として道頼様を支えたいと思っていますが、男として、あなたが大変なときは屋敷を飛び出してあなたのそばまで駆けつけたい」
 妻として、男として、道頼のそばにいたいのだ。
 落窪が確然とした態度でそう告げると、道頼は満面の笑みを浮かべた。
「屋敷を飛び出すのは断固反対です」
「え、ええ!」
 男の自分を認めてくれた道頼が反対を唱えるとは思わず、落窪はつい驚きの声を上げてしまった。
「言ったでしょう? 私はあなたを誰の目にも触れさせたくないと」
 道頼の言葉はとても本気に思えて、落窪は混乱した。
「でも、でも、男として生きたいと願うなら、止められないと……」
「気持ちだけ受け取っておきます。あなたが屋敷を飛び出さなくてすむように、私は絶対に窮地に陥ったりしませんから、安心してください」
 妻として生きるという言質を取った以上、道頼は存分に妻を屋敷に閉じこめ、自分だけの宝にするつもりだった。結婚になんの希望も抱いていなかったはずの自分が、まさかここまで一人に乱される未来が待っているとは、考えもしなかった。
 妻が慌てふためく様子すらも可愛らしく、それを遠巻きに眺めている衆目が鬱陶しい。
「さあ、早く帰りましょう」
 衆人たちにきついまなざしを送ってから、道頼は愛馬の腹を蹴った。馬は軽快に走り出す。二人の暮らす、二条邸へ。
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