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第四章
一話 十千万堂 巴波という男(2)
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夏休み中に、鳥居を「薊くん」と呼ぶようになった。そのころには、巴波は薊への気持ちを自覚していた。
(薊くんが欲しい)
(誰にも取られたくない)
(俺だけのものだ)
薊のそばにいるのは心地いい。特別これという事件があったわけではないけれど、彼と一緒にいたら自然に惹かれていた。
薊は巴波に何も求めない。それが良かった。
巴波は恵まれた人間だ。
東京の学校では同級生の多くが有名な企業の御曹司だったり、芸能人の子どもだったりしたので、生い立ちで特別視されることはあまりなかった。しかし、巴波に寄ってくる男女の多くは、本人たちは無意識かもしれないが、「イケメンだから」「目立つから」「一緒にいたら派手なグループに入れそうだから」そんな下心を抱えているのが透けて見えていた。
もちろんそうではない同級生もいたので、それでひねくれたつもりはない。嫌なことは嫌と言う性分だったので、変に絡んでくる輩には真っ向拒絶して敵を多々作ったけれど、どれだけ言い合いになっても自分に非はないので、落ちこむこともなかった。そもそも、そこまで他人に興味がなかった。
だから、巴波は人間関係に疲れていたつもりはなかったのだ。
しかし、薊のそばにいると、自分はそういう人間関係が煩わしかったのだと再認識させられる。
薊のような地味なタイプの同級生は、巴波に話しかけられるとおどおどして迷惑そうな顔をすることが多かった。
薊もそのタイプかと思っていたけれど、彼はおどおどはするものの、巴波が話しかけるとちゃんと応えてくれた。しかし、別に巴波と同じグループにいたいとか、そういう気持ちはないようだった。ただ巴波という人間を見てくれている気がした。それが嬉しくて、そばにいるほど彼の小さな優しさに気づいて、ますます近づきたくなった。
(自分から好きになるのって初めてだ……)
嫉妬もしたことがなかった。いつも淡白だと言われていたのに。
薊が内気で友だちが少ないのは良かった。彼が誰かと話しているだけで、割って入りたくなるほどいらいらするから。
(さっさと俺のものにしたい)
告白して、付き合って、キスやその先も全部シたい。薊は誰かを好きになったり付き合ったりした経験がないと言っていたから、付き合うことになったら、すべて巴波が初めてなのだ。それはかなり嬉しい。
しかし、巴波が手を出せずにいるのは、まさにその薊に経験がないことが理由だった。
ただでさえ経験がなくて恋愛ごとに消極的なうえ、彼は男同士で付き合うなど思いもしていないようだった。巴波も薊に出会うまで、自分は女子しか好きにならないと思っていたから、気持ちはわかる。積極的に押しすぎて距離を取られたら――もし彼が離れようとしても絶対に逃さないけれど――そう考えると、まだしばらくは今の距離感で我慢することにした。一番の親友。とりあえずはそのポジションをキープだ。
まだ誰も薊に目をつけてはいないけれど、いつ誰が彼の魅力に気づいてしまうかわからない。番犬よろしく、薊に近づく連中には目を光らせた。ほとんど上田と一緒に行動していた薊だが、時たま不可抗力で上田以外と話すことがある。体育でペアになった相手とか、科学の授業で同じグループになった相手とか。クラスが違うので薊と同じクラスの連中に探りを入れつつ、時たま薊に内緒で相手を呼び出すことがあった。
「これ以上薊くんの陰口言うようなら潰すよ」
そう威嚇することもあれば、
「最近薊くんによく話しかけてるみたいだけど、薊くんと仲良くしたいの? 薊くんは優しいから何も言わないけど、迷惑そうにしてるよ」
と唸って追い払うこともあり。
上田を一番に排除してやろうと思ったが、彼は巴波の感情に気づいているらしく、以前と比べて微妙に薊との距離感を弁えるようになったので許した。彼が巴波の気持ちに気づいているとわかってからは、薊に近づくやつらの情報は上田から仕入れた。
誰にも薊を渡すつもりはなかった。
時たま我慢しきれずに薊に触れては「何するん!」と驚かれ、白い目で見られる日々を過ごしてきたが、そんな日々に変化が起きたのは、高校二年生の夏のことだった。
「好きだに、付き合って」
引っ越してきて何度目になるかわからない告白。体育館裏に呼び出されたときからそうだとは思っていたが、案の定だった。
相手は同じクラスの女子、柏田だ。
「ごめん、好きな人がいるんだ」
「そ、そがか……相手は?」
「秘密。ごめんね」
そんな会話をして、すぐに別れた。巴波にとってはなんということもない受け答えだった。
しかし、それから数日が経ち、巴波に好きな人がいるらしいという噂が出回った。柏田発信であることは間違いない。薊に変な誤解をされたら面倒だと思って舌打ちしたくなったが、この噂はいい結果を招いた。
「ねえ、鳥居くんは十千万堂くんの好きな人知っとるけ?」
「えっ、巴波の好きな人? ……知らんに」
ある日、巴波が美術室に入ろうとすると、部屋のなかからそんなやりとりが聞こえてきた。巴波のいないところで女子たちにそんなふうに詰め寄られて、薊は動揺していた。彼と恋愛話などしたことがなかったので、薊は初めて巴波に好きな相手がいると知ったからだ。それから彼は、巴波のことを意識し始めた。
といっても、薊の口から直接好きな人について尋ねられることはなかった。ただ、クラスのどこかから恋愛話が聞こえてくると、巴波をそっと窺ってくる。
(俺のこと好きになってくれた?)
意識しているのは確実だ。美術室で二人きりのときや帰り道など、彼に触れると顔が赤くなる。同性で恋愛するなんて考えてもいないだろう薊は、まだ巴波のことを友だちだと思っているのだろう。だが、押せば落ちそうだ。
(かわいいな)
一年我慢した。もういい加減、自分のものにしたい。押さえつけていた欲望が首をもたげる。
だからつい、キスしたのだ。
その結果、薊は逃げて――消えた。
「え? 薊くんが家に帰ってない?」
その一報を聞いたのは、薊と別れた日の夜遅くだった。薊の母から連絡がきて、一緒に町中探したけれど、薊は見つからなかった。
一晩待ってみたが、薊の消息はつかめなかった。翌日、薊の両親が警察に行き、大捜索が始まったが、彼の行方はようと知れなかった。
(薊くん、薊くん、薊くん……!)
事件に巻きこまれたのだろうか。誘拐だったら犯人から連絡があるはずだが、それもない。薊の両親と一緒に、放課後は毎日彼の捜索に参加したが、なんの手がかりもなかった。
巴波の唯一にして絶対の存在は、巴波と会ったのを最後に、なんの痕跡も残さず消えてしまったのだ。
季節は冬になった。
雪がしんしんと降る日のことだった。
「もうええが。巴波くん、もう、ええが」
薊の家に呼ばれた巴波は、向かい合わせに座った薊の父からそう言われた。薊の母は泣いていた。しかし、薊の父の言うことに異は唱えなかった。
「今までだんだんに。こっだけ探しても見つからんに、もう、探すのはよかあ」
「なんでッ! 薊くんを諦めるっていうんですか!」
だんっとテーブルを叩いて立ち上がる。信じられなかった。よりによって薊の両親が、これ以上薊を探さないと言うなんて。怒りのままに二人を睨みつけたが、巴波をまっすぐ見つめ返す彼らの視線は、どこまでも悲しく、優しかった。
「巴波くん、もう薊に囚われんで」
「巴波くんにはちゃんと高校生活楽しんでほしいに」
彼らは巴波のためを思ってそう言ったのだった。しかし、巴波は受け入れられなかった。
「嫌です、俺は薊くんを諦めません!」
そう叫んで、鳥居家を飛び出す。
町一番の大きな神社――大隠神社の前に立ち、祈る。
(神様、早く薊くんを返してください)
もはや巴波にできることは神頼みしかなかった。町の老人たちは薊が異世界に連れていかれたなどと言っていたが、もし本当にそうなら、一刻も早く返してほしい。
(薊くんがいないとまた昔に逆戻りだ……)
何も楽しくない。何も感じない。薊以外何もいらないのに。
誰と話す気にもなれなくて、一人で過ごすことが多くなった。皆、薊がいなくなったことを知っていたから、そっとしておいてくれた。
巴波は学校に行き、放課後は町中――否、もっと遠くまで足を運んでただ薊を求めてさまよい、家に帰れば寝るだけの生活を続けていた。
「東京に戻ろうよ」
桃子にそう言われたのは、高校三年生の春先のことだった。
「こっちにいても辛いでしょ。東京で少し休んだら? あたしもあっちに帰らないといけないし、アンタは受験もあるじゃない」
巴波はこのころ不眠症になっていて、心も体もぼろぼろだった。
近隣に大学はないので、もし大学に進学するならこの町から出なくてはいけない。就職先だってろくにないし、何より桃子がこの町を出るというのなら、巴波は住む家を失う。
薊の両親の言葉が頭をよぎる。
(高校生活を楽しむなんて、もう二度と無理だけど……)
薊との思い出が詰まった町を出るのは辛かったけれど、ずっと薊の痕跡を辿るのも辛かった。
家族に再三帰ってくるよう言われていたのを突っぱねていたのだが、それももう終わりだ。
もはや潮時だった。
高校を卒業して、大学に進学した。
巴波の周りには昔からの友人だけでなく、新たにできた友人もいたけれど、皆、薊のように巴波の心を動かすことはなかった。
上部だけ……そんな気がしてならない。巴波にとっての唯一は薊しかいなかった。
薊にはとうてい聞かせられないくらい生活は荒れていたけれど、持ち前の要領の良さでなんとか留年はせずにすんでいた。
長期休暇のたびに薊と過ごした町に帰り、あてもなく薊を探すことは続けた。そのたび胸を痛め、しばらく寝られない日々を送ることになったが、やめることはできなかった。傷つくことで、巴波は薊の存在を感じることができたから。
そのあいだ、薊の両親が巴波と同じく薊を探して町を歩いているのを何度か見た。彼らは巴波同様、薊を諦めていないのだ。しかし、声はかけなかった。巴波がまだ薊に囚われているとわかったら気に病むと思ったからだ。
就職活動が本格化する大学三年生になり、今までのようにこの町に来ることは難しくなった。就職したら学生のような長期休暇もない。それでも、ゴールデンウィークが終わった直後の平日、なんとか暇を見つけてやってきた。
(次に来れるのはいつになるんだろう……)
町を歩き回ったあと、いつものように大隠神社に向かう。
桃子が住民を説得したおかげで、この町に十千万堂の工場が建設されることが決まった。工事が始まり、町は徐々に姿を変えていく。道路の舗装も進み、道幅は広くなり、ガードレールが新調された。もちろん、伸び放題だった雑草はなくなり、整然としている。薊と帰った通学路はもはや別物になっていた。彼との思い出までも刈り取られてしまったかのようだ。
自分だけが取り残されている。でも、このまま取り残されていたい。薊を忘れたくない。
(薊くんがいない世界なんていらない……薊くんがいるところに行きたい……)
その願いが聞き届けられたのか、ピカッと本堂が光った。目が焼けるような鋭い光線に驚く間もなく、大きな手が巴波を引き寄せた。
そして、気がついたときには、トルバート王国に転移していた。
(薊くんが欲しい)
(誰にも取られたくない)
(俺だけのものだ)
薊のそばにいるのは心地いい。特別これという事件があったわけではないけれど、彼と一緒にいたら自然に惹かれていた。
薊は巴波に何も求めない。それが良かった。
巴波は恵まれた人間だ。
東京の学校では同級生の多くが有名な企業の御曹司だったり、芸能人の子どもだったりしたので、生い立ちで特別視されることはあまりなかった。しかし、巴波に寄ってくる男女の多くは、本人たちは無意識かもしれないが、「イケメンだから」「目立つから」「一緒にいたら派手なグループに入れそうだから」そんな下心を抱えているのが透けて見えていた。
もちろんそうではない同級生もいたので、それでひねくれたつもりはない。嫌なことは嫌と言う性分だったので、変に絡んでくる輩には真っ向拒絶して敵を多々作ったけれど、どれだけ言い合いになっても自分に非はないので、落ちこむこともなかった。そもそも、そこまで他人に興味がなかった。
だから、巴波は人間関係に疲れていたつもりはなかったのだ。
しかし、薊のそばにいると、自分はそういう人間関係が煩わしかったのだと再認識させられる。
薊のような地味なタイプの同級生は、巴波に話しかけられるとおどおどして迷惑そうな顔をすることが多かった。
薊もそのタイプかと思っていたけれど、彼はおどおどはするものの、巴波が話しかけるとちゃんと応えてくれた。しかし、別に巴波と同じグループにいたいとか、そういう気持ちはないようだった。ただ巴波という人間を見てくれている気がした。それが嬉しくて、そばにいるほど彼の小さな優しさに気づいて、ますます近づきたくなった。
(自分から好きになるのって初めてだ……)
嫉妬もしたことがなかった。いつも淡白だと言われていたのに。
薊が内気で友だちが少ないのは良かった。彼が誰かと話しているだけで、割って入りたくなるほどいらいらするから。
(さっさと俺のものにしたい)
告白して、付き合って、キスやその先も全部シたい。薊は誰かを好きになったり付き合ったりした経験がないと言っていたから、付き合うことになったら、すべて巴波が初めてなのだ。それはかなり嬉しい。
しかし、巴波が手を出せずにいるのは、まさにその薊に経験がないことが理由だった。
ただでさえ経験がなくて恋愛ごとに消極的なうえ、彼は男同士で付き合うなど思いもしていないようだった。巴波も薊に出会うまで、自分は女子しか好きにならないと思っていたから、気持ちはわかる。積極的に押しすぎて距離を取られたら――もし彼が離れようとしても絶対に逃さないけれど――そう考えると、まだしばらくは今の距離感で我慢することにした。一番の親友。とりあえずはそのポジションをキープだ。
まだ誰も薊に目をつけてはいないけれど、いつ誰が彼の魅力に気づいてしまうかわからない。番犬よろしく、薊に近づく連中には目を光らせた。ほとんど上田と一緒に行動していた薊だが、時たま不可抗力で上田以外と話すことがある。体育でペアになった相手とか、科学の授業で同じグループになった相手とか。クラスが違うので薊と同じクラスの連中に探りを入れつつ、時たま薊に内緒で相手を呼び出すことがあった。
「これ以上薊くんの陰口言うようなら潰すよ」
そう威嚇することもあれば、
「最近薊くんによく話しかけてるみたいだけど、薊くんと仲良くしたいの? 薊くんは優しいから何も言わないけど、迷惑そうにしてるよ」
と唸って追い払うこともあり。
上田を一番に排除してやろうと思ったが、彼は巴波の感情に気づいているらしく、以前と比べて微妙に薊との距離感を弁えるようになったので許した。彼が巴波の気持ちに気づいているとわかってからは、薊に近づくやつらの情報は上田から仕入れた。
誰にも薊を渡すつもりはなかった。
時たま我慢しきれずに薊に触れては「何するん!」と驚かれ、白い目で見られる日々を過ごしてきたが、そんな日々に変化が起きたのは、高校二年生の夏のことだった。
「好きだに、付き合って」
引っ越してきて何度目になるかわからない告白。体育館裏に呼び出されたときからそうだとは思っていたが、案の定だった。
相手は同じクラスの女子、柏田だ。
「ごめん、好きな人がいるんだ」
「そ、そがか……相手は?」
「秘密。ごめんね」
そんな会話をして、すぐに別れた。巴波にとってはなんということもない受け答えだった。
しかし、それから数日が経ち、巴波に好きな人がいるらしいという噂が出回った。柏田発信であることは間違いない。薊に変な誤解をされたら面倒だと思って舌打ちしたくなったが、この噂はいい結果を招いた。
「ねえ、鳥居くんは十千万堂くんの好きな人知っとるけ?」
「えっ、巴波の好きな人? ……知らんに」
ある日、巴波が美術室に入ろうとすると、部屋のなかからそんなやりとりが聞こえてきた。巴波のいないところで女子たちにそんなふうに詰め寄られて、薊は動揺していた。彼と恋愛話などしたことがなかったので、薊は初めて巴波に好きな相手がいると知ったからだ。それから彼は、巴波のことを意識し始めた。
といっても、薊の口から直接好きな人について尋ねられることはなかった。ただ、クラスのどこかから恋愛話が聞こえてくると、巴波をそっと窺ってくる。
(俺のこと好きになってくれた?)
意識しているのは確実だ。美術室で二人きりのときや帰り道など、彼に触れると顔が赤くなる。同性で恋愛するなんて考えてもいないだろう薊は、まだ巴波のことを友だちだと思っているのだろう。だが、押せば落ちそうだ。
(かわいいな)
一年我慢した。もういい加減、自分のものにしたい。押さえつけていた欲望が首をもたげる。
だからつい、キスしたのだ。
その結果、薊は逃げて――消えた。
「え? 薊くんが家に帰ってない?」
その一報を聞いたのは、薊と別れた日の夜遅くだった。薊の母から連絡がきて、一緒に町中探したけれど、薊は見つからなかった。
一晩待ってみたが、薊の消息はつかめなかった。翌日、薊の両親が警察に行き、大捜索が始まったが、彼の行方はようと知れなかった。
(薊くん、薊くん、薊くん……!)
事件に巻きこまれたのだろうか。誘拐だったら犯人から連絡があるはずだが、それもない。薊の両親と一緒に、放課後は毎日彼の捜索に参加したが、なんの手がかりもなかった。
巴波の唯一にして絶対の存在は、巴波と会ったのを最後に、なんの痕跡も残さず消えてしまったのだ。
季節は冬になった。
雪がしんしんと降る日のことだった。
「もうええが。巴波くん、もう、ええが」
薊の家に呼ばれた巴波は、向かい合わせに座った薊の父からそう言われた。薊の母は泣いていた。しかし、薊の父の言うことに異は唱えなかった。
「今までだんだんに。こっだけ探しても見つからんに、もう、探すのはよかあ」
「なんでッ! 薊くんを諦めるっていうんですか!」
だんっとテーブルを叩いて立ち上がる。信じられなかった。よりによって薊の両親が、これ以上薊を探さないと言うなんて。怒りのままに二人を睨みつけたが、巴波をまっすぐ見つめ返す彼らの視線は、どこまでも悲しく、優しかった。
「巴波くん、もう薊に囚われんで」
「巴波くんにはちゃんと高校生活楽しんでほしいに」
彼らは巴波のためを思ってそう言ったのだった。しかし、巴波は受け入れられなかった。
「嫌です、俺は薊くんを諦めません!」
そう叫んで、鳥居家を飛び出す。
町一番の大きな神社――大隠神社の前に立ち、祈る。
(神様、早く薊くんを返してください)
もはや巴波にできることは神頼みしかなかった。町の老人たちは薊が異世界に連れていかれたなどと言っていたが、もし本当にそうなら、一刻も早く返してほしい。
(薊くんがいないとまた昔に逆戻りだ……)
何も楽しくない。何も感じない。薊以外何もいらないのに。
誰と話す気にもなれなくて、一人で過ごすことが多くなった。皆、薊がいなくなったことを知っていたから、そっとしておいてくれた。
巴波は学校に行き、放課後は町中――否、もっと遠くまで足を運んでただ薊を求めてさまよい、家に帰れば寝るだけの生活を続けていた。
「東京に戻ろうよ」
桃子にそう言われたのは、高校三年生の春先のことだった。
「こっちにいても辛いでしょ。東京で少し休んだら? あたしもあっちに帰らないといけないし、アンタは受験もあるじゃない」
巴波はこのころ不眠症になっていて、心も体もぼろぼろだった。
近隣に大学はないので、もし大学に進学するならこの町から出なくてはいけない。就職先だってろくにないし、何より桃子がこの町を出るというのなら、巴波は住む家を失う。
薊の両親の言葉が頭をよぎる。
(高校生活を楽しむなんて、もう二度と無理だけど……)
薊との思い出が詰まった町を出るのは辛かったけれど、ずっと薊の痕跡を辿るのも辛かった。
家族に再三帰ってくるよう言われていたのを突っぱねていたのだが、それももう終わりだ。
もはや潮時だった。
高校を卒業して、大学に進学した。
巴波の周りには昔からの友人だけでなく、新たにできた友人もいたけれど、皆、薊のように巴波の心を動かすことはなかった。
上部だけ……そんな気がしてならない。巴波にとっての唯一は薊しかいなかった。
薊にはとうてい聞かせられないくらい生活は荒れていたけれど、持ち前の要領の良さでなんとか留年はせずにすんでいた。
長期休暇のたびに薊と過ごした町に帰り、あてもなく薊を探すことは続けた。そのたび胸を痛め、しばらく寝られない日々を送ることになったが、やめることはできなかった。傷つくことで、巴波は薊の存在を感じることができたから。
そのあいだ、薊の両親が巴波と同じく薊を探して町を歩いているのを何度か見た。彼らは巴波同様、薊を諦めていないのだ。しかし、声はかけなかった。巴波がまだ薊に囚われているとわかったら気に病むと思ったからだ。
就職活動が本格化する大学三年生になり、今までのようにこの町に来ることは難しくなった。就職したら学生のような長期休暇もない。それでも、ゴールデンウィークが終わった直後の平日、なんとか暇を見つけてやってきた。
(次に来れるのはいつになるんだろう……)
町を歩き回ったあと、いつものように大隠神社に向かう。
桃子が住民を説得したおかげで、この町に十千万堂の工場が建設されることが決まった。工事が始まり、町は徐々に姿を変えていく。道路の舗装も進み、道幅は広くなり、ガードレールが新調された。もちろん、伸び放題だった雑草はなくなり、整然としている。薊と帰った通学路はもはや別物になっていた。彼との思い出までも刈り取られてしまったかのようだ。
自分だけが取り残されている。でも、このまま取り残されていたい。薊を忘れたくない。
(薊くんがいない世界なんていらない……薊くんがいるところに行きたい……)
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