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18 暴かれた傷口
しおりを挟むカリナがいなくなっても、日常は続いた。
次の日も、女はユファを手伝い、エレを手伝い、過ごす。
馬の世話が終わるとキリが顔を出し、女を手伝う。
男衆達は女の飯を恋しがり、口実をつけては男と二人きりにしようとする。
男は相変わらず黙って傍にいてくれる。
穏やかな日常。
このまま時間が過ぎていけば、何もかも忘れられるのだろうか。
そうしても、いいのか。
それでも、心の何処かは許されないと知っている。
弟を、見殺しにしたくせに――?
そろそろ昼も近い頃、女はユファに言いつけられた仕事を全て終え、空いた時間にまた薬草の仕分けをしていた。
自分のいた東にはない、効能も違う薬草をより分けたり、乾燥させたりするのは面白い作業だった。
ユファの書いてくれた薬草の特徴と効能を見ながら、足りないものを補充していく。
その時、バタバタと足音がして、治療室の扉が大きく開いた。
「先生、いるかいっ!?」
キリが血相を変えて入ってきた。
「キリ、どうしたの?」
「リュシア、先生は――」
「ここだよ、何だい、慌てて?」
キリの背後から、ユファが顔を出す。
斜め向かいの自室にいたのだ。
「エイダが転んで腹を打ったらしい。子供が流れるって興奮して手がつけられない。エレが宥めても駄目なんだ。先生を呼んでくれって」
「エレは何て言ってるんだい?」
「大丈夫だって言ってんのに聞きゃしねぇよ。先生を呼べの一点張りさ。来てくれよ、今すぐ。馬も用意してある」
「――仕方がないね。リュシア、準備を」
溜息をつくと、ユファは玄関へと向かう。
女は往診用の鞄を持ち上げた。
「――」
右肩に痛みが走ったが、敢えて無視した。
急いでユファの後を追うと、ユファはすでに馬に乗っていた。
鞄を手渡すと、また肩が痛んだ。
「キリとおいで。先に行ってる」
「はい」
ユファが見事な手綱さばきで村へと駆けていく。
「ほら、リュシア。俺の手に足をかけろ」
膝にのせたキリの手に足をのせると、どういうことか、軽々と持ち上げられ、あっという間に鞍の後ろ側に身体があった。
続いてキリがひらりと馬に乗る。
「腕を回してしがみつけ」
言われた通りにすると、馬はユファを追ってエイダの家へと駆けていく。
やはりキリは馬の名手なのだろう。あっという間にユファに追いついた。
ダンの家はエイダの実家の隣で、家の前には、エイダの兄が立っていた。
「先生!!」
「話は聞いてるよ。ダンは?」
「朝早くから、鉄の買い付けに行ってるんです。父が知らせに行ったので、すぐに戻ってくるはずですが」
「エレは?」
「諦めて一旦家に戻りました。とにかく、先生を呼んでくれってきかないんです」
「全く、しょうもない娘だね」
ユファは中に入ると、奥の部屋に向かった。
扉をどんどんと大きく叩くと、
「エイダ、入るよ!!」
そういって扉を開いた。
同時に大きな寝台で蓑虫よろしく掛け布にくるまっていたエイダが顔を上げた。
「せ、先生!!」
「小娘が、エレの言うこと聞いてないのかい? 赤ん坊は無事だよ。あんたが興奮しすぎて流れたらどうするんだい」
「だって、だって、出血したのよ。もし、赤ちゃんが危ないなら先生に取り出してもらうわ。あたしのことはどうでもいいから、赤ちゃんを助けて!!」
「何馬鹿なこと言ってんだい。今取り出したって、月足らずで生きてられないよ。十七にもなって、そんなことも知らないのかい!?」
女はユファの言葉に驚いた。
大人びて見えていたが、自分よりも年下なのか。
「どれ、腕を貸しな。脈をとるから」
ユファが寝台の端に座り込み、エイダの腕をとる。
「――次は仰向けになって」
「嫌、何するの?」
「赤ん坊が無事か確かめるんだよ。診せてもらえないんなら帰るよ」
「駄目よ!!」
悲鳴のように、エイダが叫ぶ。
女はユファが座った反対側に回り込んで、エイダの背中に手を当てる。
「落ち着いて。大丈夫。興奮すると赤ちゃんに伝わるわ」
泣きながら縋るようにエイダは女を見上げた。
普段は大人びた様子のエイダは、今は年相応に見えた。
まだ十七だとは、何度聞いたとしても疑わしく思えただろう。
「だって、ずっと待ってたのに……もし、赤ちゃんがいなくなったら……」
「もし、赤ちゃんがいなくても、ダンはあなたを見捨てたりはしないでしょう? あんなに愛してくれてるのに」
「でも、あたしはいやなのよ!!」
「エイダ……」
「ダンには、誰もいないんだもの……ダンに家族をつくってあげたかったんだもの……あたしが、そうしたかったんだもの……」
再び泣き出したエイダに、ユファが溜息をつく。
「あたし、ずっとダンと結婚したかった……ダンの赤ちゃんを産んであげたかった……やっとできたのに……これでようやく、許されると思ったのに……」
「エイダ、何のことだい?」
「嘘ついて、騙して、結婚してもらったの。ダンを誰にも渡したくなかったから。卑怯な真似をしたから、罰が当たったのかな……」
「何が卑怯なんだ?」
部屋にいた三人が声の方へ視線を向けると、そこにはダンが立っていた。
「ダン……」
ダンが大股で部屋に入ってくると、ユファが立ち上がって身を引いた。
そんなユファに軽く会釈をすると、エイダの手を取り、両手で包み込む。
「おっちょこちょいだな。窓を拭こうとして台から落ちたって?」
「違うわよ。下りたときに足を捻って転んだのよ……」
泣いて真っ赤になった目元に、ダンが微笑ってくちづける。
「赤ん坊は無事なんだろ? それなのに、こんなに大騒ぎするんじゃ、やっぱり外には出ない方がいいな。明日から、子供が生まれるまで外出禁止だ」
「笑い事じゃないわ!! あたし、ホントに怖かったんだから!!」
「子供が駄目になったら、それは、俺達の準備がまだできてなかったってことさ。別に俺は騙されて結婚したわけじゃない。お前と、結婚したくてしたんだ。先に結婚申し込んだのは俺の方だろ? 幼馴染みの特権利用して、抜け駆けしたのも俺の方だ」
言い含めるようなダンの言葉に、エイダの目元から、また一筋の涙が零れる。
「俺を信じてないのか?」
「……あたし、自分に自信がないのよ……」
掠れてもれたエイダの言葉に、ダンは呆れるように返した。
「俺の方が自信なんてなくすさ。こんなに愛してるのに、疑われてるんじゃ」
「疑ってるんじゃ……」
「ないっていうなら、二度とおかしなこと言うんじゃないぞ。俺はお前と死ぬまで添い遂げるんだからな」
「……ダン」
「子供がいてもいなくても関係ない。お前と、生きていくんだ。それ以外大事なことなんてないだろ?」
見つめ合う恋人達に、ユファは無言で女を見て、頷いた。
自分達の存在は邪魔だろう。
静かに後ずさって、ユファと女は部屋を出た。
扉が閉じる寸前、抱きしめ合う二人が見えた。
「全く、夫婦喧嘩は犬も喰わないっていうが、喧嘩にもなりゃしないね。リュシア、今日はもういいよ。家に帰って休みな」
「え?」
「今日は特別だよ。あたしも休むさ」
家を出ると、ユファは鞄を受け取り、馬に乗って治療院へ帰っていった。
女は、そのままエレの家へと向かう。
途中、すでに顔見知りとなった村人達と軽い挨拶を交わしながら、ダンとエイダを思い出す。
愛し合う二人を、素直に羨ましいと思った。
幼なじみという、あんな普通の出会いであったなら、自分達も素直に想いを口にできただろうか。
エレの家に着くと、家にはエレだけでなく、近所の女達が数人おしゃべりに花を咲かせているところだった。
「お帰り、リュシア。もしかして、エイダの所に行ってきたのかい?」
「はい。ダンも帰ってきて落ち着きました」
「まったく、大丈夫だって何度言い聞かせても、ユファを呼んでくれの一点張りで困ったもんだよ」
「お邪魔してるよ」
「お昼は食べたのかい」
口々に話しかける女達に、丁寧に応える。
「昼ご飯は奥にとっといてあるよ。たくさん食べな。あたしらは、ちょいとエイダのとこに行ってくるから、家でのんびりおし」
お茶の食器を片付けて、エレ達は家を出て行った。
女は、見送った後で台所に入る。
そして、エレに言われた通り、皿に自分の分の食事をとり、静かに昼食をとった。
一人で居ても、寂しくなかった。
エレの温もりが、家全体を包んでいるようだった。
台所に並んだ、たくさんの料理。
二人でも食べきれないそれは、残ったらユファやレノ、キリや男衆達のところに持って行かれる。
ここでは、いつも、誰かが分け合っている。
いつも、誰かが思い合っている。
あたたかな人達。
あたたかな場所。
帰ってきたいと思わせるところ。
ここは、そんなところだった。
それを、男達から一時といえども失わせたのは自分だ。
どうして、自分は誰かから奪うだけなのだろう。
不意に泣きたくなった。
それでも、泣けなかった。
贅沢すぎる。
こんなに大事にされていて、それでも不幸だと感じるなんて。
もう出て行こう。
これ以上、錯覚する前に。
優しい人達に囲まれて、ずっとここにいられるなどと甘い夢を見てしまう前に。
なんとか食事を終え、エレが残した食器と合わせて洗って片付ける。
部屋に戻ろうとして、そう言えば湿布を貼り替えていないことを思い出した。
治療院からこっそり持ってきた薬草を手早く準備し、盆に入れたまま部屋へ向かう。
部屋へ入ると、盆を寝台の上に置く。そこで、
「おい」
自分一人しかいないはずの部屋で、背後からの声に驚いて身を竦ませる。
慌てて振り返ると、いつの間に入り込んだのか、部屋の隅に男がいた。
「傷を見せろ」
突然の言葉に、女は戸惑う。
「え……?」
「傷を見せろと言ったんだ。熱を持っているだろう」
「どうして――」
「何度も言わせるな。傷を見せろ。服を剥がされたいのか」
やりかねない低い声音に、女は慌てて後ろを向いた。
背中を向けたまま、前釦を外す。
背中に落ちる髪は左肩によせて前に流し、右肩部分をはだけると、包帯が覗く。
「それもとれ。傷を全て見せろ」
「――」
包帯の結び目をほどくと、後は引っ張るだけでするするとほどけた。
そうして、肩を覆っていたあて布をゆっくりと剥がす。
左肩部分もはだけると、背中の傷は全て曝される。
沈黙が流れた。
傷に視線が注がれているのが、振り返らなくてもわかった。
「湿布には何を使った?」
女が数種の薬草を答えると、
「そこに座っていろ」
男は盆に置かれた薬草を混ぜ合わせた器を持って、一旦部屋を出て行った。
訳がわからず、それでも、寝台に座り込んでいると、男が戻ってきたのが、背中越しに伝わった。
いつもの湿布とは僅かに違う香りがする。
もっとつんとする、けれど不快ではない爽やかな香りだ。
「お前が調合したものに、サヴァラという草の根をつぶして混ぜた。腫れに効く」
「サヴァラ……」
「西よりの、乾いたところでしか育たない。今度キリに教えてもらえ」
傷口に直接塗り込まれたそれは、最初は生ぬるかったのに、すぐに熱く、ぴりぴりした感覚を与えた。
今までとは全く違った。
これがサヴァラの効能かと女は驚いた。
今まで女がしていた湿布よりも数倍効きそうだ。
丁寧に傷口に塗られ、あて布をされ、さらに包帯を巻かれる。
一人でするのと違って、しっかりと巻かれたそれは、痛くも動き難くもなかった。
肩口で結ばれ、終わったのかと思ったとき、
「――」
温かなものが、左腰の、今は塞がった傷口に触れた。
思わず、身体が揺れた。
熱が優しく傷を辿っていく。
必死で堪えても身体が震えてしまう。
息をつめて、女は必死で耐えた。
包帯で隠れるところまでたどり着いた指が、ようやく離れる。
「――服を着ていい」
そこで、ようやく息をついた。
慌てないように袖に腕を通し、前釦を下からはめていく。
指が震えて、上手く止められない。
それでも、何とか胸元まではめ終える。
顔を上げたとき、
「――」
胸元を押さえたままの格好で、背後から男に抱き竦められた。
「一週間後、村を離れる。今度の商売は長くかかる」
それは、しばらくこの村には戻ってこないと言うことだ。
その間に、自分も出て行くことになるだろう。
安堵とともに寂寥が胸を締めつける。
「連れて行きたい。一緒に来い」
男の言葉に、女が身を強ばらせる。
一緒にと、男は言った。
一瞬、どう答えるべきか迷った。
男とともに行けば、また、あの日々が始まるのだ。
相談できる人もなく、寄りかかれる人もなく、どこにも居場所がないと感じる日々が。
男の情けに縋って、待つだけの、苦しいだけの日々。
死ぬまで、繰り返すだけの日々。
この村で暮らした後に、エレやユファの温かさに触れたその後に、また――?
混乱していた。
ここを出て行かなければと思う心と、ずっといたいと思う心。
男の傍にいたいと思う心と、そうしてはいけないと思う心。
リュマを恋しく想いながら、もう会えないことを思い知らされること。
相反する様々な感情が、女を打ちのめす。
苦しい。
胸が痛くて堪らない。
「……あたしは、行けない」
辛うじて、口にする。
「ここには置いていきたくない。俺の目の届くところにいろ。傍にいろ、それだけでいい」
首筋に触れる唇と吐息の熱も、今は苦しみしか呼び起こさない。
「嫌よ。これ以上、あんたからも、誰からも、何も、奪いたくない」
身を捩って逃れようとする女の腕を掴み、男はこちらを向かせた。
「俺から何を奪った?」
「――故郷を。帰る場所を!!」
自分にはすでにない。
だが、男にはあるのだ。
帰る場所が。
待っていてくれる家族が。
仲間が。
「帰る場所なんていらん。俺は、お前がいればそれでいい」
簡単に、そんなことをいう男が嫌だった。
「それじゃあ、あたしが嫌なのよ!!」
叫んだ女に、男が驚く。
「だって、あたしは――」
堪えきれない涙がこぼれる。
「――帰る場所が、欲しいもの。帰りたいと、そう思うもの……」
居場所が欲しい。
もう決して戻れなくても、生まれた国に、あの家に、帰りたいと今も希う。
あそこは、確かな自分の居場所だった。
母と父の思い出があり、リュマがいた。
あそこに、帰りたいのだ。
家族がいて幸せだった、あの頃に、帰りたかった。
諦めてしまえたら楽になれるのに、そうしてしまうこともできない。
「あたしにはもう耐えられない。自分のためにたくさんの血を流させて、国まで滅ぼして、それでも、のうのうと生きてることに。
あんたが救う価値もない女よ。優しくされるたびに、死にたくなるの。こんな自分に嫌気がさすわ――もうやめて、出て行かせて。もう、自由にして」
奪うのも、奪われるのも耐えられない。
これ以上の苦しみには、耐えて生きていくなんてできない。
「駄目だ、リュシア」
男は女を強く抱きしめた。
自分はエイダのように、愛しい男を抱きしめ返すことはできない。
そうしていい女ではないと、わかっている。
「放して――」
泣いて繰り返す女をしばらくだきしめていたが、やがて男は身体を離した。
だが、腕を掴んだまま、女を見つめていた。
「お前は全てを自分のせいだと責めるが、そうじゃない。お前の言葉だけで、俺がただ動いたと思っているなら間違いだ。
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知らなかったからだ。
だが、俺は間に合ったんだ。
俺は知っていた――知っていたのに、それなのに、見過ごした。
俺が行った時には、手遅れだった。
もっと早くあの子のところに行っていたら救えたはずなんだ。
リュマを殺したのはお前じゃない。見殺しにしたのは、俺のほうだ。知っていた分、お前よりひどい」
男は女の腕を掴んでいた手から力を抜いた。
そうして、寝台から立ち上がる。
「俺には本来お前を欲しいと言う資格はない。お前の弟を見捨てた俺には――」
苦々しく言い捨てて、男は出て行った。
女は男の消えたほうを見据えたまま、動けなかった。
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