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12 気づく愛
しおりを挟む光を感じて、フジオミはゆっくりと目を開けた。逆光の中、長い髪が陽に透けている。
「…ナ…」
かすれた声がもれた。
「フジオミ!!」
あたたかい滴が、頬に落ちた。それがマナの涙だとわかるまで数秒要した。
「…マ、ナ、僕は、生きてるのか……」
「ええ。生きてるわ。よかった――」
マナの頬から涙がこぼれ落ちる。フジオミの指が、マナの涙をすくいあげた。指が、あたたかさと同時に現実感を身体に伝える。
「泣かなくてもいい、マナ」
ゆっくりと、フジオミは身体を起こした。痛みはどこにもない。かすかな嘔吐感に眉根を寄せる。が、軽く頭を振って感覚を追い払う。ようやく、周囲が視界に入ってきた。
「――」
身体には、洗いざらしの掛布がかけてあった。身を動かすたびにぎしぎしときしむスプリングベッド。彼の知らない微かな黴臭さが鼻につく。天井と壁は壁紙で覆われてはいるが薄汚れていた。荒廃をとどめるためにコーティングはされているが、今にも崩れそうなコンクリートの建造物。いずれも骨董品とも言える代物だ。
「ここは――」
「廃墟よ。あなた、海に落ちてからずっと目を覚まさないから、ここまで運んだの」
視線をさまよわせ、フジオミはマナの背後にユウを見つけた。
「――」
マナが気づいて声をかける。
「彼がユウよ。あなたを救けて、運んでくれたの」
フジオミは、じっとユウを凝視した。
見れば見るほど不可思議な赤い瞳に、銀色に輝く髪。まるで別の地からやってきた異種族のような違和感。
「ああ 知っている。〈ユウ〉だね」
ユウは、そんなフジオミの視線を鋭い眼差しで受けとめている。それから、不機嫌そうに目を逸らした。
「マナ。外に出てくる」
答えも待たずに、ユウは出ていった。マナは不思議そうにユウの消えたドアを見つめている。
「――嫌われたみたいだね」
笑いながらそういうフジオミに、マナは更に腑に落ちない表情をする。
「どうしてユウがフジオミを嫌うの? 会ったばかりなのに」
「彼はもう大人の男だからね。天敵というものは、見ただけでわかるのさ」
フジオミはベッドから出ると、窓へと向かった。剥出しのガラスの向こうには、荒廃の名残をとどめた風景が広がっている。
「ここは一体どこらへんなんだ? このぐらいの廃墟なら相当大きな都市だったはずだ。ここは、あの海からそんなに離れていないのか?」
「わからないわ。ユウがあたしたちを連れてきたんだもの。あれだと近いのか遠いのかなんて全然わからないのよ」
「彼が連れてきたって、歩いて運んだんじゃないのか?」
「いいえ」
「じゃあ、どうやって?」
「跳んだのよ」
「とんだ?」
「ユウはそう言ってるの。ユウにしかできないわ。思うだけで好きな所に行くのよ」
「まさか、瞬間移動を!?」
「シュンカンイドウ? そういう名前なの?じゃあ、ユウに教えるわ」
無邪気に、マナは言った。だが、フジオミはマナほど寛容にその事実を受け入れられはしなかった。
超能力は研究としてはだいぶ前の時代にもてはやされたものだが、それも被験者がなくてはならない。人口が減少をたどる一方となってからは、対象となる人材はほとんどいなかった。研究は下火となり、それまでの研究結果と仮説だけが残った。
「そうか、シイナの言っていた特殊能力とはそれか…」
考え込むフジオミを、マナはずっと凝視していた。
「ねえ、フジオミ」
「あ、ああ、何だい、マナ?」
「あたし、あなたに聞きたかったの。あなたなら知ってるんじゃないかと思って」
「何をだい?」
戸惑うようなそぶりを、マナは一瞬だけ見せ、けれど思い切って尋ねる。
「博士は、小さなユウを殺そうとしたの?」
真っすぐに、マナはフジオミを見つめた。彼のどんな微妙な変化も見逃すまいとするかのような真摯な眼差しで。
「――」
だが、フジオミは顔色一つ変えなかった。だから、内心の動揺は微塵もマナには悟れなかった。それでも、彼女は再び問う。
「教えて、フジオミ。あたし知りたいの」
「それを知ってどうする?」
フジオミの声は意外なほど穏やかだった。何の違和感もなくマナから視線を外し、外の風景を見やる。
「それが事実なら、君はシイナを憎むかい? 君に見せている面だけが、彼女じゃない。君の考えているシイナと違ったら、君はもうシイナを好きじゃなくなるのかい?」
「――」
振り返ったフジオミの言葉が、逆にマナに問いを投げかける。答えを知ってどうするのかと。
だが、どうもできない。できるはずもない。時を戻すことも、ユウの心に刻み込まれた傷を消すことも、かといってシイナを裁くことも、何も、マナにはできない。自分にできることは、ただ事実を知ることだけだ。
マナはシイナが好きだった。自分を育ててくれたのは彼女だったし、一番歳も近く、何でも話せる女性だった。
今、彼女がユウを殺すというなら、自分は彼女を許せないだろう。
だが、今ユウは生きている。生きて、マナとここにいる。それが、マナだけの真実だ。
彼女は顔をあげ、フジオミに告げる。
「もしそれが本当なら、とても哀しいと思う。だって、あたしは二人ともとても大好きだもの」
比べられないほど、今はシイナもユウも大事だった。
「でも、博士はあたしにひどいことなんかしなかったわ。いつも、博士は優しかった。あたしはやっぱり博士を嫌いにはなれない」
毅然と言い切るマナを、フジオミは驚いたように見つめていた。
「――まいったな。僕は君を見縊っていたようだ」
何も考えていない、愚かな子供だと思っていた。
実際、シイナはそう育てていた。ただ優しく、何も考えないように。幸せで、今ある自分の立場を疑いもしないように。
だが、自分が初めて会った時と、この子はなんと違うのだろう。
なんて大人になったことか。
「君が、真実を見極める力を持っていて嬉しいよ」
「ありがとう。あたしもフジオミが優しくて嬉しいわ」
「優しい? 僕が? そんなこと言われたのは何年ぶりだろうね。懐かしい響きだよ」
「だって、博士の話してくれるフジオミはいつだって優しかったわ」
「シイナが?」
「ええ」
フジオミは苦笑した。
シイナが自分をよく話すのは当然だ。マナに話して聞かせる自分が、いつも彼女が言う傲慢で勝手な男であってはならないのだ。
脚色された自分は、マナの憧れと理想を兼ね備えた男として彼女の中にインプットされている。そして自分はその通りに振る舞う。
全てはマナのために。マナだけのために。
「博士は、きっとフジオミのことが好きなのよ。フジオミをとてもよくわかってる」
その言葉に、フジオミは浅く微笑った。無邪気なマナの考えを、浅はかだとは思えなかった。仕方のないことだ。猜疑や不信から遠ざけて、シイナは育ててきた。
「さあ、どうかな。よくわかっていることと愛することは、決して同じにはならないんだよ、マナ。彼女は、きっと僕より君のことをずっと好きだよ」
フジオミは立ち上がり、落ちてきた前髪を無造作にかきあげた。
「シイナは、君に自分を重ねているんだ。なれるはずだった自分を、君に見ている。彼女には、君こそが全てだ」
ガラスの向こうの見慣れぬ風景を、フジオミはただ見つめていた。
「――」
遠くまで来た。
シイナのいない、今まで自分の知ろうともしなかった世界へ。
思い起すのは何故か彼女のことだけだ。
自分が死んだと思っただろうか。そうならば、冷ややかな仮面の下で、きっと自分自身を責めている。
どんな人間よりも、シイナはフジオミにとってあざやかな色を持った、確かな存在に思えた。その冷酷さも、残酷さも、傲慢さも、彼にとっては全てが深い感慨を呼び起こす。
「――フジオミも、博士のこと好きなのね」
呟くマナの言葉を捕らえ、フジオミは我に返った。奇妙なものを見るようにマナを振り返る。
「マナ――?」
「そうよ。だから博士とあたしが仲良くするのいやなのよ。やきもち妬いてるんだわ」
マナはむくれた顔つきでそっぽを向いた。
「――好きって、僕が、シイナをかい?」
「ええ」
「君は凄いことを思いつく子だね、マナ。一体、どうしてそんなこと考えたんだい?」
「わかるわ。あたし、何故かなんてわからないけど、でもわかる。フジオミは博士のことを好きなのよ」
きっぱりと言い切るマナに、フジオミは唖然とした。論理も何もない、けれど物事の本質を見抜くことに長けた少女は、今、見事にフジオミの――自分自身考えることさえもしなかった――シイナに対する想いを、曝け出したのだ。
「それは――気づかなかったな」
気抜けしたようなフジオミの声に、マナは本当にいやそうな顔をした。
「驚いた。フジオミは意外と鈍感なのね」
その時、二人の背後にあるドアが開いた。ユウが顔を出す。
「マナ。お鍋、ふいてるよ」
「そうだ、ご飯の支度が途中だったのよ! じゃあね、フジオミ、もうすぐお昼だからユウと後から食堂に来て」
マナは急いでかけていく。
後にはフジオミとユウが残る。
「食堂は階段を下りて廊下を左にまっすぐ行った突き当たりだ。すぐにわかる」
それだけを言うとユウはフジオミに背を向けた。ドアを閉めかけるユウに、
「君は僕が嫌いらしいね」
フジオミが言う。
「――」
振り返ったユウは不機嫌そうにフジオミを見返す。フジオミは肩を竦めて微笑った。
「顔に書いてあるよ。マナが好きだから近寄るなって」
ユウの顔がさっと赤らんだ。
「そんなこと、あんたに関係ないだろ!!」
笑いを、フジオミは押さえられなかった。感情を隠せない少年を、フジオミは少々からかってやりたくなった。悪い癖だ。これだからシイナにも煙たがられるのだと、フジオミは思った。
「君は自分のことをどれだけ知っている?」
ユウは答えない。
「――」
「君とマナが遺――」
「言うな!!」
ユウの叫びが、フジオミを遮る。その眼差しは、今にもフジオミを射殺してしまうくらいに鋭かった。
「そうか。知っていたのか」
本当に、悪い癖だ。フジオミは自嘲する。自分は彼の一番痛いところをついたのだ。
「――言わないよ、マナには」
さらりと、フジオミは言った。ユウは怪訝そうにフジオミを見つめている。感情を隠せないユウを、フジオミは好ましく思った。なぜかシイナに似ているとも、思った。
「言ったから、どうなるわけでもない。惹かれる心は止められない。君がそうであるように」
「――」
「僕と君が、逆の立場だったらよかったのに。そうすれば、お互いに、もっと自由に生きられた。僕は君が羨ましいよ。本当にね」
「あんた、何を――」
戸惑ったように声をかけるユウに、フジオミはあいまいな笑みを返した。
「さあ。マナのところに行くんだ。僕にとられたくなかったら、しっかりとマナを捕まえておくことだ。人の心だけは、努力ではどうにもならないから。僕はしばらくここで休んでいる。食事はいらない。行きなさい」
戸惑いながらも、ユウは言われた通り部屋を出た。フジオミは足音が遠ざかっていくのを確かめると、ゆっくりと窓辺へと向かった。
古びた鍵を解き、窓を開け、彼のそれまで知らなかった異臭を風で追い払う。
薄汚れた灰色の瓦礫から身を乗り出す緑の群れ。高いものは建物の二階をすでに越えている。続く草原が風の方向を優しく示す。
「――なんて原始的な世界かね、ここは。とてもじゃないけれど、長居はしたくないな」
フジオミは周囲を見回して、もう一度眉根を寄せた。
マナは初めてここを見た時、とても美しいと思った。しかし、フジオミは違った。彼は、この風景に違和感以外の何をも感じることはできなかった。彼の知っている、美しいと思える自然の風景というのは、ドームの温室の中にしかない。
帰りたい。
今ほど強く、そう思うことはない。
全てが統制化されたあの銀色のドームへと、フジオミは今すぐにでも帰りたかった。
濃い緑は、彼の心を落ち着かせはしない。あるのは見慣れぬ違和感と強烈な色に対する不安、そして嫌悪だけだった。
彼は、人の力の及ばぬ世界の生み出す命の群れより、人の手が造り出した人工物を愛していた。
もしかしたら、自分達は、とっくの昔におかしくなっているのかもしれない。そう感じつつも、不可解とは思えなくなっている。
自然の恩恵を忘れて、一体幾世紀たったのだろう。美しさや懐かしさより違和感を感じるほどに、もうこの風景から自分達はかけ離れたものとなってしまったのだ。
「まいったな」
窓を閉め、鍵をかける。これ以上何も見たくなかった。ベッドに身を投げ出して、目を閉じる。
目眩のように、思考が駆け巡った。
忘れかけた苦い痛みさえも甦ってくる。
どう対処していいのかもわからない。
「――」
フジオミは途方にくれた。
だがそれも、無理はなかった。今まで一度も考えもしなかったことに彼は直面したのだ。
きっとこの世界で一番彼を嫌っているだろう女を、愛したという事実に。
「――まいったなあ。本当に」
意外にすんなりと、彼はその事実を受けとめていた。苦い痛みとともに。
嫌われていることは知っていた。だからこそ、ことあるごとに彼女の前に姿を見せた。彼女の神経を逆撫でるようなこともわざとした。彼女のきつい眼差しも、激しい言葉も、その全てが、彼を惹きつけて離さなかったからだ。
だが、愛されるための努力など、今更できそうもない。自分はすでに、完成されてしまった。もう変われない。死ぬまで、このまま生きていくしかない。
そして、シイナもだ。彼女も、もはや変われない。それしかないのだ。
「――」
何もかもが、もう意味がないように、フジオミには思えた。生きることも、子供をつくることも、未来も、義務も、責任も、全てが色褪せていく。彼女以外の、全てが。
「シイナ……」
痛みしか呼び起こさない言葉を、フジオミは口にした。
今初めて、彼は自分が一人であることを思い知った。見知らぬ世界では彼を護るものは何もない。彼を知る人も、彼が親しんだものも、何も。
ただ一人であること、それはなんという孤独だろう。なんという苦しみなのだろう。
痛みしか伴わぬこの感情。彼は誰に教えられなくとも知っていた。
これが、愛だ。
ずっと昔から、彼女を愛していたのだ。
「――」
今更、気づくなんて。
フジオミの部屋を出て、ユウはそのまま外へと向かった。薄暗い廊下を足早に進んでいく。今は一人でいたかった。
フジオミの投げかけた言葉が、ユウの中で燻っている。
フジオミの言葉は、わかりやすそうでいてわからない。頭上から差し込む光を徐々に感じながら、そう思った。わかっていることは、自分が彼にはかなわないということだ。
「――ちくしょう」
彼は、自分とは全然違う大人の男だ。直感で、そう確信した。
知識や体格など、そんなものでは太刀打ちできないものが確かにある。
生きて重ねてきた年数には、どうあがいてもかなわない。
どんなに自分が歳を重ねても、相手はその分また歳を重ねる。
そして、その分その思考にも年輪を重ねていくのだ。
距離は決して縮まらない。それが、悔しかった。
「あいつが、マナの相手か」
風が不自然に騒めいた。彼の動揺を表すかのように。
「あいつを、選ぶのか。マナ――」
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