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第3章
くちづけの意味
しおりを挟むその日は、荒野を北上し、ようやく明日には大きな街に着くところまで移動した。
砂漠を大きく迂回するため、位置的には北東に一旦向かってから、街を抜けて、南西の街道を進んで行くことになる。
蛇行する川は荒野を分けるように、北と南の様相を変える。
川の南は砂漠へと続く、乾いた風の止まぬ荒野が、どこまでも広がっている。
川の北は神々の御座と呼ばれる、夏でも雪の解けぬ険しい山脈へと到る樹海へと通じている。
北といっても、砂漠から北にあるというだけで、まだまだ乾燥地帯から抜け切れてもいない。
徐々に広がっているという荒野を越え、湿地帯に入り、そこをさらに越えてようやく樹海へとたどり着く。
深くはないが、幅広の川に架けられた木橋を渡ったら、続く先には、石畳の街道が伸びている。
昔はもっと豊かだった川の水量は、今や昔の半分以下だ。
その貴重な川のそばで、今日は野営となる。
ここまで来ると、もう明日の移動で、昼前には街へと着く。
街に入れば、レギオンの請け負う宿屋で二、三日過ごし、西までの最後の旅支度を整える。
いつも通り天幕を張り終えたアウレシアとイルグレンは、また剣を持ってなだらかな丘を越えて、少し離れたところにある低木の近くで剣の稽古を続けた。
めきめきと腕を上げた天然皇子も、この時は甘さのない、真剣な顔つきになる。
そこには、今朝のような憂いも、熱っぽい衝動もなかった。
だが、時折瞳が合ったときに垣間見える揺らぎが、なぜか相手を意識しているような気がした。
それに意味を持たせようとは、アウレシアはしていない。
今はまだ。
あのくちづけにはどんな意味があったのか。
そう自問してみる。
しばらく禁欲が続いていたからか、それとも、あのくちづけが、今までにしたどのくちづけよりも、優しく、甘く、感じたからか。
剣を打ち合わせているというのに、そんなことを考える自分に、アウレシアは小さく舌打ちする。
意味など、考える必要もない。
したかったから、しただけだ。
意味など考えたところで、この天然皇子とて考えてもいないだろう。
気持ちを切り替えて、アウレシアは剣に集中した。
しかし、どうやら天然皇子は、アウレシアと違って、意味を考えていたらしい。
「私は、どうやらお前が好きらしい」
稽古を終えて、剣を鞘に戻すなり、イルグレンはアウレシアに告げた。
「はぁ?」
すっとんきょうなアウレシアの声に、イルグレンが僅かに眉根を寄せる。
「聞こえなかったのか? 私は、どうやらお前が好きらしい、と言ったのだ」
「ちょ、ちょっと待った」
「何を待つのだ?」
「――いや、そうじゃなくて――ちょっと、考えさせとくれよ。どうやら好きらしいって、まずおかしいだろ。なんだって、そんなことになっちゃったんだよ」
アウレシアの問いに、しばしイルグレンは考え、それから言を継ぐ。
「アルライカともソイエライアともリュケイネイアスともいても楽しいが、私はお前といるときが一番楽しい。それに、お前と剣の稽古をするのも楽しい。今朝のように、一緒にいたいと思ったのはお前だった。他の者には、あまりそういうことを感じなかったし、これが初めてなのだ」
あくまでも真剣にイルグレンは答える。
「だから思ったのだ。お前を好きなのではないかと――お前は違うのか?」
「――」
失敗した。
またしてもアウレシアは思った。
自分のうかつさにとことん後悔する。
あの場は、雰囲気に流されたというか、淋しそうな子供を慰めるというか、するのがお約束、みたいな状況だったので、アウレシアは正直なところ、そんなに深く考えてはいなかったのだ。
意味があるかというと、ないような、あるような、アウレシア自身にも結局わかっていない。
しかし、今まで付き合ってきた男達と、イルグレンは違うのを計算に入れていなかった。
アウレシアの常識とはまったくもってかけ離れ過ぎている。
天然皇子は、どこまでいっても天然だった。
天然には、真面目に対抗しても無駄だ。
ここは一つ――誤魔化すしかない。
「こ、この件は、ひとまずおいておこう」
それが、アウレシアが今できる最善の逃げ口上だった。
「? おいておくとは?」
「ええっと――結局、気持ちに確信が持てないってことだろ? 確信が持てるまでは、そのことには触れないことにするんだよ。あたし達は、今まで通り楽しく旅をする。それで確信が持てたら、そのことについて話し合う」
「――何か、腑に落ちぬところもあるが、確信が持てたら、触れてもいいのか」
「ああ、そうしよう。だから、この件は、今日はここまで!」
「わかった」
素直に頷く天然皇子をよそに、アウレシアはめちゃめちゃ疲れた。
天然もここまでくると質が悪い。
腑に落ちないのはこっちのほうだ。
たかがあれだけで、これだけ真剣に考える羽目になるなんて。
どんな箱入りだ。
それ以上ことが進んでたら、どのような展開になるやら、恐ろしくて考えもしたくない。
「レシア、今日はすぐ戻るのか?」
能天気にかかる声に、アウレシアはこのまままっすぐ帰る気力はないと確信した。
気持ちを切り替えねば、この天然皇子にもアルライカの軽口にも対抗できないだろう。
顔を上げると、日差しはまだ高い。
妙な汗もかいたことだし、アウレシアは気分転換をすることにした。
稽古した場所からさらに、丘を二つ越えたところに、その湖はあった。
砂漠のオアシスのように、荒地にぽっかりと出現した、さほど大きくもないこじんまりした湖は、頻繁に旅をする渡り戦士しかしらない格好の穴場だった。
「こんな所に、湖があるとは」
感心するイルグレンをよそに、ずんずんと岸へ向かう。
「そこで待ってな。すぐ戻る」
「まさか、泳ぐ気か?」
珍しく察して、問われる。
「ああ」
「着替えはどうするのだ? 持ってきていないだろうが」
剣帯ごと剣を外し、長靴を脱ぐ。
「必要ないさ」
言うなり、アウレシアは軽やかに湖に飛び込んだ。
「レシア!!」
水面に顔を出し、振り返ると、驚いたまま立ち尽くしているイルグレンが見える。
「少し泳いでくる」
「そのままでか!?」
「服も洗えて一石二鳥だろ。このほうが」
中ほどまで泳いだアウレシアは、もぐって向きを変えると、今度は岸まで泳いで戻った。
熱気から解放され、気分は爽快だった。
先ほどまでの気分さえ嘘のように上機嫌で、差し伸べられたイルグレンの手を掴み、アウレシアは水からあがった。
まだまだ暑い日差しは一向に衰える気配もなく、それどころか、アウレシアの濡れた体から物凄い勢いで水分を奪っていく。
後ろに結い上げ垂らした髪を軽く絞り、それから剣帯と長靴を手に持つ。
「濡れたままで、どうするのだ」
「このままで帰るさ。すぐに乾くだろ」
「気持ち悪いだろうが」
その言葉に、アウレシアは感心したように呟く。
「――あんた、本当に皇子様なんだねえ」
「なんだと」
「あたしたちはさ、例えば酷い嵐でずぶぬれになりながら旅をするなんてことはしょっちゅうなんだよ。逆に、雨一滴すら降らない砂漠を、砂塗れになって渡ることもある。それに比べたら、こんな熱いぐらいの日差しに濡れたままでいることなんて、なんともないことさ」
「――衣服は、毎日変えるものではないのか」
「そんなこと、お貴族様しかしないよ。あたしらは三日くらい同じ服を来てたって気にしたりなんかしない」
「三日!?」
「汚れてもいないのに変えるほうがよっぽどおかしいだろ。だいたいあんた、同じ服を二度続けて着たことあんのかい?」
イルグレンは返事につまった。
正直に答えることがひどく悔しいような気がしているのがありありとわかった。
「今は――着ている」
「じゃあ、それまではなかったんだ」
けらけらと、アウレシアは笑う。
「それは、そんなに悪いことなのか?」
憤慨したようにイルグレンは問うた。
「私のいた国では――皇宮では、それは当たり前のことだった。側室の母を持った末席の私でさえそうだった。私のいた世界では、それは当然のことだったんだ。私はそうした立場だったから、それを受け入れていただけだ。それを悪いと、お前等は言うのか」
真剣なイルグレンの様子に、アウレシアも態度を改める。
「悪いことでは――ないのかもしれない。それはあたしらの考えだから。
でも、あんたは考えたことないんだろ。あんたの着ているような絹の服なんて一生着れずに、その日一日食うことさえできずに腹をすかせて、やがて餓えて死んでいく、そういう子供もいることを」
驚いたように、イルグレンは問う。
「なぜ餓えるのだ。服も食物も、買えばいいではないか」
「買うための金がないんだよ」
「金?」
「そうさ。服も、食物も、全て、手に入れるには金がいるんだよ」
「では、金を買えばよかろう」
イルグレンは真剣に答えていた。
答えぬアウレシアに、彼に対する侮蔑の色はなかった。
ただ、困ったように微笑んで、静かに彼を見つめるのみ。
「レシア?」
「あんたは何も知らない――それは、あんた自身のせいじゃない。
でも、知ろうとしないことは、時として大きな罪になることもある。
あんたはすべてを知りたいと思うかい?」
「思う」
即答だった。
「私は新しい世界を知りたい。お前達が見てきた世界を。
もしかしたら、それは私が望むものではないかもしれない。
私が考えていたただ静かで、穏やかな、汚れないものではないかもしれない。
だが、それでも私は本当のことを、自分の目で見て、ありのままに知りたいと思う」
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