竪琴の乙女

ライヒェル

文字の大きさ
上 下
47 / 78
八章

開いていく距離

しおりを挟む
その日の夜遅く、静まり返った港に到着した。王宮から伸びていた小川は、ラベロア王国に面する海まで繋がっていたらしい。人影はないけれど、万が一のために、グレーのスカーフを目が隠れるくらい深く被る。
「エリオット?貴方の実家は、どのあたりなの?」
波止場に下りた私は、ランプを持って歩き出したエリオットに訊ねた。
「少し遠いところなのですが、まずは、追っ手を撒くために、暫く海上で時間を稼ぎます」
「海上で?」
陸路での移動だと、馬車などで足がつきやすいからなのか、と納得しつつ、よくこんな短時間で逃亡の計画をまとめたものだと驚いた。
暗闇の先に、一隻の大きな舟がの影が見えて、まさかあれに乗るつもりなのかと思っていると、エリオットが私を振り返った。
「セイラ様。船乗りの責任者に交渉して参りますので、ここで少しお待ちください」
私は頷いて立ち止まる。私の足元にランプを置いて、エリオットが船の方へと走っていった。船内から出て来た数人と話をしている様子を見ながら、きっと長引く交渉になるのだろうと思っていたが、エリオットはすぐにこちらへ駆けてくる。もしかして、断られたのかと不安に思っていたが、戻って来たエリオットはにっこりと笑みを浮かべていた。
「彼らの漁船は夜明け前に沖に出るそうで、大体7日間ほど海上にいる予定と聞きました。数日ほど同船させてもらうことで、話がつきました」
「えっ、そうなの?」
「海上にいる間に、今後のことは考えましょう。出航するまでまだ少し時間がありますので、船内でお休みください。さぁ、セイラ様」
エリオットは麻袋を抱え直し、片手でランプ、もう片手で私の手を引き、暗闇を誘導する。
「ありがとう、エリオット。でも、御礼とか、どうするの?」
素朴且つ重要な疑問が浮かび、心配になる。着の身着のままで飛び出してきたけれど、何をするにもお金やそれに替わる物品が必要だろう。気が動転していて、そんな基本的なことも思いつかなかった。
「大丈夫ですよ。何も、ご心配はいりません」
きっぱりとそう言い切るエリオットは、清々しい笑顔だった。
船の桟橋に来ると、複数の船乗り達が、えらく恐縮した様子で私に向かってお辞儀をする。立場的にこちらが恐縮しなければいけないのに、と慌てて頭を下げた。まさか漁船の船乗り達がこんなに礼儀正しいとは思わず、びっくりしながらも恐る恐る船内に乗り込んだ。漁船と言っても、随分と手入れの行き届いた立派な船。私が乗り込むタイミングで、廊下の壁に取り付けられていたランプに火が灯されていく。
「どうぞ、こちらへ」
階段を上っていったところで、一人の女性が出迎えてくれた。
「私はヨランダと申します。客室にご案内しますので、どうぞ」
男ばかりかと緊張していたところに、女性が居たのでほっとする。エリオットが、朝にまた様子を見に来ると言って、階段を下りていく。
ヨランダの案内で通されたのは、船首寄りの客室だった。広々として、大きな窓が前方についている。清潔で立派なベッドやカウチ、テーブルまであるし、金枠にカラフルなステンドグラスのランプが天井から吊るされていて、私のイメージしていた漁船とはかけ離れていた。魚っぽい匂いくらい当然するだろうと思っていたけれど、それどころか、テーブルに飾られている花の甘い香りがするくらいだ。まるで、誰かがここに寝泊まりすることが決まっていたような用意周到さに、何かが引っかかる気がした。
「あの、この部屋は誰かが使う予定だったのですか?」
私の問いに、ヨランダは首を振る。
「客室は、いつ客人をお迎えしても良いように準備しております」
「……そう」
納得出来るような、出来ないような微妙な気持ちで頷く。漠然とした違和感は否めないが、今晩眠るところは他にはないわけだし、野宿せずに済むよう、エリオットが手配してくれたのだから、素直にその好意に甘えようと決める。
「お怪我をされていると伺いました。一度、状態を確認して包帯を巻き直しましょう」
勧められるままにカウチに腰掛けながら、この1日の間に激変してしまった私の未来を思い出し、込み上げて来る胸苦しさに目を伏せた。




真夜中のラベロアでは、依然として王宮周辺の捜索が続いていた。煌々とした灯を携えた兵士達が、手がかりを求めて、王宮の周りの森や市街を回っている。王宮内の一室では、カスピアンのもとに、ユリアス、そしてエイドリアンを含む腹心の臣下が集まっていた。
「エリオットは前回の奇襲で相手側に捕らわれるという、優れた兵士としてはありえない失態を犯していた。あれは、意図的に捕らわれたということで間違いないだろう。つまり、王家の私道でのセイラの誘拐を企んだ人物の手下は、エリオットということだ。あやつは3年前から騎士団に籍を置いていたが、出身を調べても、何の情報も見つからない。乗馬講師としてセイラの信頼を得ていたのも、全て計算してのことだ」
苦々しい顏のカスピアンが、苛立ちに奥歯を噛み締め、事の一連についての見解を続ける。
「エリオットは、ルシアの手下だと断定した。寄宿舎の者に過去の記録を調べさせたところ、入隊直後に担当していた日誌の文字の綴りの一部がエティグス国式になっている部分があった。今回の逃亡の経路は、やはり厩舎裏の川からだ。小舟が一艇消えている。港へ出た後、海路でエティグスへ向かうはずだ。港へ捜索部隊を送ったが、間に合わない可能性が高い」
腕組みをして話を聞いていたユリアスが、僅かに微笑みを浮かべてカスピアンを眺めた。
「少なくとも、セイラが連れて行かれるところに目星がついたなら、現状は悪くない。最終目的地となる、肝心のルシアの居所は掴んでいるのか?」
カスピアンの後ろに控えていたエイドリアンが答える。
「2日前の報告によると、エティグスの王都からは姿を消したとのことです。まもなく、後をつけている者より、現在地の報告が入るかと」
「つまり、ルシア王子はエティグスのどこかで、エリオットに連れて来られるセイラ様を待っているということですね」
アデロスが注意深く口を挟むと、カスピアンは静かに頷いた。そして、目の前でゆったりと構えているユリアスに目を向ける。
「ユリアス。婚儀に招待していた各国要人には、セイラの怪我のため、婚儀は延期と知らせろ。軍事パレードも日取りを変える。シーラ公国と、アンカール国には別途、内密に連絡をとりたい」
「なるほど。やつらの協力を要請するということか。だが、相手はそう簡単に動くとは思えんぞ?友好国とはいえ、何かしらの見返りを期待するだろう。どうする気だ?」
その答えは既に知っていると言わんばかりに微笑むユリアス。カスピアンは唇を噛み締め、忌々しそうにユリアスを睨んだ。
「背に腹はかえられぬ。延期した婚儀を終えた後、両国の招待を正式に受けると伝えておけ」
ユリアスはひとつ頷くとゆっくりと立ち上がった。
「いいだろう。婚儀を終えた後、セイラが両国を訪問するという書状を認めてやる。条件とし、我が国の極秘事項につき協力を要請することにしよう」
「頼む。ルシアの居所が判明次第、策を練る。セイラが不在であることが外に漏れぬよう、王宮内に緘口令を敷く。国民を無用に動揺させたくはない」
苛立ちに髪を掻き揚げ、肩で深く深呼吸をしたカスピアン。ユリアスは、静かな笑みを浮かべ、カスピアンの肩を軽く叩くと、足早に退室した。
カスピアンは、目の前できつく組んだ両手をじっと睨み、激しく押し寄せる焦燥感を耐える。セイラが連れて行かれるところが判明したものの、あろうことか、またもやエティグス王国のルシア。このルシアの狙いはただひとつ、セイラの心だ。自分に裏切られたと思い、深く傷つき弱っているセイラの心は、いかにもろく壊れやすくなっていることか。容姿端麗で冷静沈着な貴公子と名高い、エティグスの第一王子。ルシアに出会う姫君は、ことごとく恋に落ちると聞く。妹のアンジェも、その例外ではなかったことは記憶に新しい。言葉巧みに言いよるであろうルシアに、セイラが揺らがないという自信は、今のカスピアンにはなかった。最も恐れていることは、あのルシアが、ただの戯れで言いよるつもりではないということだ。ルシアの腕に身を任せるセイラ。想像したくもない悪夢のような場面が、何度消しても繰り返し脳裏に浮かぶ。手遅れになる前に、すべては誤解であったということを、セイラに知らせなければならない。この心の叫びが届かない歯痒さに、カスピアンはきつく、唇を噛み締めた。



船上での最初の二泊は、最悪だった。
乗った当時は考えもしなかったが、思い切り船酔いをしてしまい、頭痛に吐き気が止まらず、基本、ベッドで伏せっているだけ。
秋の終わりには波が高くなるとヨランダが教えてくれたが、常に吐き気に襲われている私にとっては、そんな情報は今更役に立つわけでもなく、ただ一刻も早く船酔いが消えるのを願うだけだった。明るいとなおさら具合が悪くなるので、せっかくの大きな窓もカーテンをぴっちり閉めていた。
船上生活三日目の午後を過ぎた頃になると、ついに体も慣れてきたのか、しつこかった吐き気が和らぐ。ヨランダが、少しは食べた方が船酔い防止になると言うので、消化の良さそうな、ジャガイモのスープをお皿半分食べた。客室に備え付けられていた湯船に入り、包帯を巻き直してもらい、準備されていたドレスに着替える。クリーム色の羊毛生地の、シンプルな形のドレスは、ふわふわした手触りで温かく、陸上より冷える船内にはうってつけだ。こういったものまで常に準備されている漁船があるなんて、と不思議に思ったが、ヨランダも似たような生地の服を着ていたので、もしかすると彼女の予備かもしれないと思った。少し気分がよくなったことに安堵して、閉め切っていたカーテンを開けてみる。

宇宙まで見えそうなほど真っ青に澄み切った空。
眩しさに目を細めていると、白い雲がいくつか流れるのが見える。上空の風はかなり強いということだろうか。
海上にいるということは、どこかに寄港しない限り、基本、空と海しか視界には入らない。
年がら年中、海の上で生活をするという船乗り達は、毎日同じ景色を見て気が狂わないのだろうか。私はやっぱり、陸上の生活じゃないと無理。期間限定の船上生活さえも、船酔いばかりで全然慣れることは出来ないようだ。
私がやっとベッドから起き出したと聞いたエリオットが訪ねてきて、多分、明日辺りにどこかの港に寄り、一度下船すると教えてくれた。これで船酔いともおさらばだと思い、ホッとする。窓から見上げる空に、カモメの姿を見つけて、陸が近いのだと知る。
穏やかな水平線の向こうに、真っ黒い雲が見えることに気がついて、じっと見ていると、ヨランダが、今晩は嵐で海も荒れると言った。
船酔いで寝込んでいる間、何度もあの出来事を思い返し、泣いたせいか、心は随分落ち着いていた。多分、王宮からかなり遠くまで来てしまったことで、もう引き返せないという諦めもあるのだろう。失恋の悲しみは強くなる一方だが、私の選択は間違っていなかったはずだと繰り返し自分に言い聞かせた。
その晩、包帯を巻き直してくれたヨランダが、体の芯から温まるハーブティというものを作ってくれた。濃い赤色で、少し苦い漢方のような味がしたけれど、確かに体がポカポカしてきて、若干残っていた吐き気も忘れるくらい、体がリラックスする。

ヨランダの言った通り、大粒の雨が降り出し、波が強まり、船体も大きく揺れ始めていた。遠くで雷の鳴る音も聞こえ、少し怖くなる。明朝には晴れるとヨランダは言うけれど、人生初めての船上生活で、嵐まで体験する羽目になり、不安は募るばかりだ。
ともかくもう一晩眠ったら、陸上に上がれると思い、早々にベッドに潜り込むと、すぐに眠気が襲ってくる。まるでゆらゆらと揺れる湯船に浸かっているような心地の中、部屋の片付けをしているヨランダを見ているうちに眠りに落ちていった。
深く生温かい沼に沈んだように、ずっしりと重い体。
私は、無の世界の夢を見ていた。
そこには、本当に何も無い。
音も、光も、匂いもなく、手を伸ばしても触れるものは何もない。
一体私はどうしたのだろう。
暗闇の遠くで、人の話し声が微かに聞こえた気がしたけれど、私の瞼は重石が乗ったように開くことはなかった。
しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

テルミナスウィア ~成長システム完全理解で無自覚最強急成長~

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:7pt お気に入り:4

旦那様、浮気してもよろしいですか?

恋愛 / 完結 24h.ポイント:21pt お気に入り:3,120

あの時の空の下で

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:0pt お気に入り:0

俺を裏切り大切な人を奪った勇者達に復讐するため、俺は魔王の力を取り戻す

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:5,290pt お気に入り:91

婚約破棄されたけど前世が伝説の魔法使いだったので楽勝です

sai
ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:1,810pt お気に入り:4,186

伯爵令嬢は卒業祝いに婚約破棄を所望する

恋愛 / 完結 24h.ポイント:78pt お気に入り:3,254

異世界転生雑学無双譚 〜転生したのにスキルとか貰えなかったのですが〜

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:1,172pt お気に入り:33

処理中です...