竪琴の乙女

ライヒェル

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十章

王都ティミリのルシア

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ここはエティグス王国の首都、ティミリ。

強い雨の降りしきる夜、王宮ではエヴァールより到着した一行の出迎えで、女官達が慌ただしく動き回っていた。もともと天候の崩れる前に戻る予定だったにも関わらず、現地出発が大幅に遅れたため、悪天候の中の帰還となった。荷解きは待ち構えていた女官や使用人達に任せ、ずぶ濡れになった一行は、それぞれの寄宿舎へ向かう。

厳しい表情のルシアは無言で王宮に入ると、乾いた布を差し出す女官達には目もくれず、王族の居住する東の宮へと向かう。普段とは明らかに様子が違うルシアに、出迎えた女官達も顔を見合わせる。いつもならば例えずぶ濡れだろうと、微笑みを浮かべゆったりと落ちき払っている王子が、今日に限っては、周りを寄せ付けないほどの殺気を放ち、心ここに在らずという有様だ。
東の宮で出迎えたルシアの専属女官達も、ルシアの様子がいつもと違うことに気がつく。皆、余計な言葉を口にせぬよう、静寂を保ちながら、ずぶ濡れの王子の湯浴み、着替えの準備を始める。
遠くのサロンで催されているらしい夜宴から僅かに流れてくる楽隊の調べに、美しい眉をひそめるルシア。ルシアの父、現エティグス王であるミハイルは、華やかな社交の場を好み、毎夜の如く盛大な夜宴を開くのだ。
たかが楽隊の調べと頭では分かっていても、今はその楽し気な雰囲気がルシアの神経を逆撫でする。
「耳障りだ。窓をすべて閉めろ」
苛々した様子のルシアの声に、女官達は大急ぎで全ての窓をきっちりと閉めた。
このように不機嫌で苛立つ王子を見たことがなかった女官達は皆、緊張した面持ちでテキパキと仕事をこなす。

湯浴みを終え、純白のガウンを着てカウチに座るルシアの背後に回った女官二人が、乾いた布にその髪を乗せ、金の櫛で梳かしていく。ローズマリーオイルを含ませながら、水分を含んだ美しいブロンドの髪は、女官達の手により丁寧に乾かされ、キラキラとまばゆい輝きを放つ。
最後に、ゆるい三つ編みにしたその髪を金の紐で纏めると、女官達は注意深く王子の横顔を眺め、特に問題がないことを確認すると急いで片付けを始めた。
「殿下。お食事をされますか」
ルシアの直属女官のラウラが尋ねると、ルシアは黙ってしばらくラウラの顔を眺めていたが、やがて、ひとつため息を零すと首を振った。
「後でよい。エヴェリンを呼べ」
「かしこまりました」
ラウラを含め部屋に居た女官は一列に並び、揃って丁寧にお辞儀をすると、退室する。
ルシアは扉が閉まる音を聞くと、ギリッと奥歯を噛み締めカウチから立ち上がった。

閉め切った窓の側に寄り外を見ると、雨が降っているにも関わらず、三日月が雨雲から透けて見える。輪郭のぼけた月にさえ苛立ちを感じ、すぐさま目を逸らした。
目にするもの全てが癪に障る。
扉をノックする音と同時に、エヴェリンが入室する。
「殿下。お帰りなさいませ」
優雅にお辞儀をして、顔を上げたエヴェリンに目を向けた。
エヴェリンは、ルシアが最初に娶った妃で、父ミハイルの従兄弟の娘だ。
明るいブロンドに淡い青い目のシモナと違い、エヴェリンは濃いダークブロンドの髪に濃い青い目をした、ルシアより3歳年上の妃。まだ20歳で騒々しいシモナと異なり、エヴェリンはおっとりとした性格で、落ち着きがある姫君だ。
今は小賢しいシモナの顔など見たくもない。
大人しいエヴェリンなら側に置いても鬱陶しくはないだろう。
にこやかに微笑んでいるエヴェリンに無言で歩みよると、ルシアはその腕を掴んだ。
普段と様子の違うルシアに気づいたのか、エヴェリンはやや驚いたように目を見開いたが、促されるままにベッドへと向かう。
にこりともせずエヴェリンの結い上げた髪を振りほどき、その体を押し倒したルシア。エヴェリンは頬を染め眩しそうにルシアを見上げると、両手を伸ばした。
慌ただしく唇を重ねながら、エヴェリンの纏っていた檸檬色のナイトドレスの帯紐を解くと、熱を帯びた肌に手を這わせていく。
いつになく荒々しく躁急なルシアに応えようと、エヴェリンがルシアのガウンを解くと、ガウンはするりと肩から滑り落ちた。エヴェリンはルシアの剥き出しの背に手を回しその大きな体を抱き寄せる。
ルシアは目を閉じてエヴェリンの首筋に唇を寄せた。
「……ルシア……」
消え入るようなその声が耳元で聞こえた瞬間、ルシアは目を見開いた。
サイドテーブルのランプの炎が照らすエヴェリンの顔を見下ろしたルシア。やがて、美しい眉をひそめると、エヴェリンから目を背け、身を起こした。
一体何が起きたのか分からず、呆然としたエヴェリンははだけたドレスの前を掻き合わせながら身を起こし、自分に背を向けたルシアに声をかけた。
「殿下?なにか、お気に召さない事でも……」
自分が何か粗相をしたのかと不安を覚えたエヴェリンは、紐が解けルシアの背を覆う金色に輝く髪に手を触れた。
「殿下?」
ルシアは音もなく立ち上がると、ガウンを手に取り羽織りなおし、静かにエヴェリンを振り返った。
興がそがれたかのように冷ややかな視線に、エヴェリンは開きかけていた口をつぐんだ。
「部屋に戻れ」
「え……?」
驚いたように目を見開くエヴェリンから目を逸らすと、ルシアはベッドを離れ、暖炉の側のカウチへと足を向ける。その背が間違いなく自分を拒否していると知ったエヴェリンは当惑しながらも、身支度を整えベッドから下りると、速やかに扉の方へと向かう。
エヴェリンは、自分に背を向けたままのルシアに向かってお辞儀をすると、静かに、おやすみなさいませ、と声をかけ、退室した。


扉が僅かに軋みながら閉まる音を耳にした後、ルシアは苦々しく自分の手を見下ろした。
暖炉の炎が照らす自分の手の平に、消えることのないあの感覚が蘇る。
漆黒の夜に流れる河のように煌めきながら、この指の間を滑り落ちた美しい髪。
それはひんやりとした河の流れを手に掬うようだった。
そして、極上の白絹のように滑らかな肌。
あのようにきめの細かい美しい肌に触れた事は、ただの一度もなかった。
ルシアは自分の五感に鮮明に残る記憶を噛み締めるように目を閉じた。
咲き始めの薔薇の花びらのように淡く色づいた唇は、なんとも甘やかだったことか。
柔らかく華奢な体はしなやかで、ほっそりとした白い首筋の艶かしさは思い出すだけで胸の奥が疼いた。
抱きしめれば春先に咲く花の優しい香りに包まれ、まるで神々の住まう天界に身を置いたような、不思議な昂揚感を感じたものだった。
あの娘が自分の名を口にするのを聞くと、心が華やぎ自然と微笑みを零さずにいられなかった。
耳にこびりついて離れない、あの娘の声。
セイラ。
ルシアはその名を心の中で呼び、苦痛に顔を歪めた。
この手で触れ、口づけて、しっかりと胸に抱きたいと想うのは、もはや、あの娘のみ。
手中に収めたと確信していた筈だった。
あたかも全てを受け入れたかのように振るまい、自分を騙し、逃げ去ったセイラ。
怒りと失望、憎しみに腸が煮えくり返る。

エヴァールの離宮で、ティミリへの出発に向けた会議が終わった頃、慌ただしく駆け込んで来た騎士とジョセフィを目にした時、報告を聞かずとも何が起きたか即座に気がついた。
この自分を欺き、セイラが逃亡したという事実は、到底受け入れる事が出来ない屈辱だった。
港をくまなく捜索したものの、その形跡は確認出来ない。ティミリへの出発を一日ずらしたにも関わらず、セイラの足取りは一切掴めぬまま、結局、ダミアンをエヴァールに残し自分は王都へと戻った。
間違いなく、カスピアンが何か画策し、セイラを導いたのだろう。そして恐らく、例の幼馴染みとの関係が誤解であったと、何らかの方法でセイラに伝えたに違いない。
つまり、エヴァールの離宮内で、セイラに接近することが出来た何者かが、ラベロアに通じていたということだ。
何故気がつかなかったのか。
誰が、いつ、どこで、どのように。
思い返しながら、ルシアは暖炉の炎をじっと見つめた。
この燃え盛る炎のように焼けつく心は、例え豪雨に曝されてもその勢いが緩むことはないだろう。

やりどころのないこの屈辱と怒り、沸き上がる恋慕の情を紛らわせようと、エヴェリンを呼びつけたものの、あの娘の面影を重ねようとすればするほど、失望に襲われる。
エヴェリンの濃い青い目を見ると寒々しさに心が冷え、疎ましささえ感じた。この国で最も美しいと謳われる、濁りのない濃い青い目であるというのに、その色はもう、ルシアの興味を惹く事はない。
少し前の自分なら、たかが目の色と一笑したであろう。
ルシアが見つめたいと渇望する瞳は、今はもう、あの娘のものだけだった。
セイラの琥珀色の瞳はまるで大地の女神のように優しい輝きを放ち、甘い蜂蜜がとろけるようにしっとりと潤んでいた。
近辺では見かけない顔立ちは、ラベロアの青空市場で初めて目にした時から強い印象として残っている。
少女がそのまま大人になったような、不思議な娘。
その美しさは妖精と呼ぶべきか、女神と呼ぶべきか。
遥か遠くの国から来た、紛れも無く希有な存在。
機嫌良く微笑む表情はまるで少女のように愛らしい反面、真剣な顔つきになれば、成熟した大人の女としての魅力に溢れていた。素顔は表情豊かで活発ながらも、ひとたび注目の的となれば、高貴な百合の花のような気品と優雅さを纏う姫君へと変貌する、その切り替えの早さも、ルシアの興味を惹いてやまなかった。
知らず知らずのうちに、あの娘の表情、言葉、所作のすべてを見逃すまいと、自分の目は常にその姿を追っていた。
それほどまでに、己の心がセイラに支配されていたのだと今更気づく。
今頃セイラは、カスピアンの腕の中で微笑んでいるのだろうか。
心臓が焼けるような嫉妬は、反吐が出るほど不快だった。
まさかこの自分が、このような敗北感に浸る事があろうとは。
ルシアは自嘲の笑みを零した。

あの夜船に揺られていた満月の下、何故自分は当初決めていた通りに、あの娘を抱かなかったのか。あの時、セイラが泣こうと喚こうと構わず我がものにしておくべきだった。セイラの心を傷つけてしまうことを躊躇した自分の詰めの甘さを悔いるが、既に過ぎた事を後悔したところで得るものはない。
カスピアンの婚儀が近々執り行われるのは、確実。
今回のことがあっただけに、更に厳重な警備が敷かれることだろう。
大国ラベロアに新しい王妃が誕生するのだ。
類い稀な美しさに叡智を持つ王妃を得て、世界中の羨望の的となるのは、ラベロアの若き国王、カスピアン。
ルシアはゆっくりと自分の両手の平を見下ろし、静かに微笑む。
あの男をこの手で葬り去り、この世から抹殺すれば、セイラは永遠に自分を許さないだろう。セイラに恨まれることを躊躇うほどに、あの娘に愛されたいと願っている自分に気がつき、ルシアは苦虫を噛み潰したように顔を歪めた。
直接手を下さずにあの男を消す。
あるいは、別の手でセイラを手に入れる。
次こそは綿密に計画を立て、抜かりなく進めねばならない。
この屈辱は必ず晴らしてみせる。
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