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十一章
軍事パレード
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「カスピアン陛下に万歳!」
「ラベロア王国に祝福を!」
厳重に警備された大通りには大勢の群衆が詰め寄せ、熱気を放っている。
深紅と黒、金を基調とした総指揮官の軍服に身を包んだカスピアンは、この日のために特別に飾り付けられた軍馬に乗り、何千という数の兵士が前後に長く伸びるパレードの中にいた。
賑やかな楽隊の先導に続き、一際大柄な軍馬が牽引するのは、剣舞を披露する兵士の舞台。カスピアンの前をゆくのは、軍馬に乗り、国旗と王家の紋章の旗を掲げる上位騎士。後方には、護衛、要所要所で馬術を披露する騎士の列、そして一糸乱れず行進する7000人の歩兵が延々と伸びていた。
煌びやかな軍服に身を包む騎士団のパレードに、街中が大歓声に包まれている。
「我が国にさらなる繁栄と栄光を!」
カスピアンは、口々に叫ぶ国民達を見渡しながら、後方の王宮を振り返った。
遠のいていく正門の真上に設けられた立ち見席の最上部には、ユリアスと幼いテオドールを腕に抱くロリアン、アンジェ、そして前国王エスタスの妃である第二の妃レテシア、第三の妃カオリンの姿もある。一段下の立ち見席には、王族と血縁関係のある貴族達や外国から訪れている賓客、その下の段には、他の貴族や神官達が並んでいる。
カスピアンが正門へ戻ってくるパレードの後半には、前国王エスタスがセイラを伴って現れることになっていた。恐らく国民の興奮が最高潮に達するのが、この二人が姿を見せる時だろう。
今日明日と最高レベルの警戒態勢をとってはいるが、明日の婚儀が終わるまで気を抜く事は出来ない。少しでもリスクを減らすため、セイラを公の場に出すのは短時間に留めることにした。
貴賓館で滞在中の客人の中に、自分やセイラを狙う刺客がいないとは限らない。さらに、この群衆の中にも、暗殺を企む輩が潜んでいる可能性はある。警備中の兵士達が時折、群衆の中から酔っぱらいや不審者を連れ出しているのを視界で捕らえながら、カスピアン自身も全方向に注意を向け続けている。
ラベロア王国は世界でも1、2を争う国力を誇る大国だ。恵まれた気候、豊富な資源のお陰で国民のほとんどが潤った生活を送っている。だが、未だに貧困層は存在し、犯罪に手を染める組織が暗躍しているのが現実であり、これが今後最も注力しなくてはならない課題だ。ルシアが以前セイラの馬車を狙った時に買収したのも、こういった反逆勢力であることから、国への、ひいては君主への不満を抱える貧困層を無くすことが、平和と繁栄への近道である。
それにはやはり、貧富や性別に関わらず皆が平等に教育を受け、職にありつけることが出来る社会を作らなくてはならない。
自分の代で、この改革をやり遂げるのだと、強い志を胸に地平線の向こうまで続く群衆を見つめる。
父の病のため、若くして即位したカスピアン。
その手腕を計りかね、注意深くこちらの様子を偵察している国々も少なくはない。
前代未聞であった独り身の国王。
世継ぎとなる嫡子どころか妃さえいないカスピアンの代は長続きしないと見て、いずれは兄ユリアスが王位につくのではないかと予測し、早々にユリアスに取り入ろうとする国々も存在した。国内でも、独り身の国王が治めるラベロア王国の行く末を案じていた者は、決して少なくなかっただろう。
だが、ついに明日には婚儀を迎え、ラベロア王国に新しい王妃が誕生する。待ちに待ったその日に先立つ盛大な軍事パレードに、国民の喜びも倍増していた。
天候にも恵まれ、抜けるような青空の下、パレードは順調に進む。
このパレードを観るために、地方から泊まりがけで王都へやってきた国民も多く、パレードと婚儀の日の前後の王都の人口は、恐らく通常の10倍。王都内の宿泊施設は全満室どころか全く足りない状況だが、カスピアンはそれを見越して騎士団の所有する天幕の使用許可を出していた。国有地である公園や森に、天幕の簡易宿泊所を設置したことにより、王都の路上で夜を過ごす民はいない。また、食料不足に陥らないよう、国で備蓄していた食料を飲食店に安価で卸しており、現在まで混乱は生じていないとの報告を受けている。
用意周到であった事前準備の甲斐あって、目立つ暴動や窃盗も今のところ報告はない。華やかな行事の裏に隠れがちなところにまで、しっかりと手配が行き届いているかどうかも、外国から訪れている賓客が評価する部分である。
ゆっくりと長い時間をかけて首都の大通りを一回りし、パレードは王宮へと戻り始める。
大通りに詰めかけた群衆が掲げる、無数の国旗。
ラベロアの国旗は、深紅地に、牙を剥く黄金の獅子だ。
カスピアンに向け国旗を振り続ける国民の群れは、金色の輝きを放ちながら波打つ、紅の大海原のようだった。
ずっと先に見えた王宮に視線を止めると、突如押し寄せた焦燥感に、カスピアンは奥歯を噛み締めた。
一夜が明ければ、婚儀の日。
手綱をきつく握りしめながら、胸の疼きを耐える。
このところは特に、日を追うごとに愛しさの増すセイラを想うだけで、居ても立ってもいられないような苛立ちに襲われていた。持ちうる限りの自制心を総動員しなければ、目の前の書類さえ手に付かなくなる始末だ。
恋にうつつを抜かすなど、精神的に未熟な者のことだと侮蔑していた過去の己を自嘲する。まさかこの自分が、これほどまでに思いを持て余し、やりどころのない欲求に途方に暮れることになるとは。
国の存亡をその手に委ねられているのが、一国の王。
卓越した強靭な精神力と理性を持つはずの自分が、国政とは無関係の事柄に平常心を失うようなことがあろうとは、夢にも思わなかった。
セイラが王宮を抜け出し、エヴァールの離宮に捕われていた日々を思い返す。
心臓が引き裂かれるような苦痛に、身を身悶えさせていた自分。
エティグスとアンカールの国境でセイラと再会するまで、一瞬たりとも心休まる時はなかった。
国王たるもの、どのような状況にあろうと決して取り乱してはならないという自覚から、表面上は平静を保ち続けていた。セイラが暗殺されかけたお茶会の場では、王子時代の如く、激高し破壊行為に及んでしまったが、国王たるものがそのように取り乱すなど、もってのほかである。
セイラを奪還する策戦会議は、腹心のメンバーのみで人目を避け真夜中に開き、軍事パレードと婚儀の延期手配を含め、通常の政務も一切滞りなく執り行っていた。しかし、カスピアンを幼少期から熟知するロドリゲス大神官の目を欺く事はできなかった。大神官は、アンカールへ出発する準備を終えたカスピアンのもとを訪れ、憔悴の色を隠せないカスピアンを深く案じていると告げた。国のためにも、そしてカスピアン、セイラのためにも、やはりこの婚姻を再考すべきであると進言した。
何故なら、セイラが今回のようにまた、連れ去られるなどの危機に曝される可能性は否めない上、カスピアンがいつか、国とセイラのどちらかの選択を迫られた時、本来選ぶべきである国ではなく、セイラを優先する恐れがあると見たからだ。
カスピアンは、どちらも守り通してみせると断言し、二度とそのような進言は許さぬと一蹴した。
憤激したカスピアンの激しい剣幕に大神官は苦笑いしながらも、それ以上は言及せず、ならば全力でカスピアンを支える所存だと述べたのだった。
ひとつしか守れぬなどと、誰が決めたというのだ。
自分には、この国の眩しい未来を築くという、確たる決意がある。
その未来を思い描く時、自分の隣には必ず、愛する者がいた。
移りゆく季節と年月を共に過ごし、苦楽もすべて、分かち合っていきたいと心の底から願っている。
自分がこれほど強く望んでいることを、果たしてセイラはどれ程わかっているのだろうか。
昨晩のセイラの様子を思い出す。
婚儀前夜は慣例上会うことは許されないため、婚前に会える最後の夜をゆっくりと過ごすつもりでセイラの部屋を訪れた。しかし、セイラは口から出てくるのは、アンジェの名前ばかりだった。
アンジェに関する質問に始まり、近日中に二人で森の離宮へ行く予定をいれたことや、挙句にはアンカール国訪問のことなどを持ち出し、楽し気に話し続けたセイラ。
妹と親睦を深めること自体は喜ばしい限り。
しかし、セイラが婚儀よりもアンジェに気を取られているという事実は、流石に納得出来なかった。
寝ても覚めても、セイラのことが頭から離れないこの自分。
それに引き替えセイラは、この有様だ。
腹立たしさに無口になったカスピアンに気がついたセイラが、今度は、カスピアンの体調が悪いのかと心配し始めた。ふて腐れた自分を見て、心配げに眉をひそめ、カスピアンの額に手を当て熱を測ってみたり、温かいお茶を準備したりと慌てている様子を見て、さすがに大人気ないと気づき機嫌を直した。
謹慎処分が解除されたアンジェを呼んだお茶会が、よほど楽しかったらしい。
お茶会では、ご機嫌になったセイラが饒舌になり、あれこれ面白い話を連発し、最初は呆気にとられていたアンジェも、最後は腹を抱えて笑い出し、苦し気に目元の涙を拭っていたほどだった。アンジェがあれほど大笑いしていたのを見たのは、いつだったか思い出せないほど遥か昔のことだったろう。
周りの者に幸せをもたらす、無垢なこの娘と巡り会えた奇跡。これを、神の成せる業と言わずしてなんと言えよう。
愛しい者を腕の中に閉じ込め、やっと婚前最後の夜を迎える事が出来た喜びに浸っていると、セイラが、これほど幸せな気持ちで満たされているのは、カスピアンに出会えたからだ、と嬉しそうに微笑んだ。
一切の迷いのない強い眼差しに溢れる確かな愛。
例えこの命が尽きることがあっても、自分たちの絆は決して壊れはしない。この確信は、如何なる試練も乗り越えていける自信と強さを与えてくれた。
カスピアンはひとつ、ゆっくりと深呼吸をし、近づく王宮へと視線を戻した。
一際高い歓声があがる王宮の正門周辺。
目を凝らせば、国民が正門前の一帯を完全に埋め尽くし、大歓声をあげて国旗や手を振り回しているのが見えた。
正門の真上の立ち見席を見上げると、ちょうどエスタスが姿を現したところだった。
数年ぶりに姿を現したエスタスの姿に、国民達の歓声が一段と大きくなる。エスタスに促されたのか、セイラが立ち見席の前方に出ると、凄まじい歓声があがった。
今日初めて次期王妃が公の場に姿を現すと発表していたこともあり、その姿を一目見ようと押し寄せた群衆で、正門前は身動きさえできないほどの混雑だ。将棋倒しにならぬよう、警備の兵士達が間に入り隙間をつくろうと動き回る様子を注意深く見る。これほどの混雑では、数人が倒れ込むだけで大きな将棋倒しを引き起こし、圧死する人間が出る恐れがあるのだ。事故を未然に防ぐべく、兵士達が、具合を悪くしたらしい者を群衆から抱え出す様子を確認しながら、先へと進む。
王宮が近づくにつれ、セイラがラベンダー色のドレスに、深緑色のマントを羽織っているのがはっきりと見えるようになる。
エスタスが笑みを浮かべ、ゆっくりと片手を挙げると、国民は一斉に旗を振り上げ、エスタスの名を叫んだ。
3年の空白を経てセイラがこの国に戻ってから、エスタスの体調が少しずつ改善してきたことは、国内のみならず国外にも知れ渡っていた。しばらく前までほぼ寝たきりという深刻な状態であったため、侍医は、エスタスが何か病に罹ればそれがきっかけとなり死に至る恐れがあるとまで言っていた。しかし、セイラが戻ってきてからは、落ちていた体重が徐々に増え始め、先日は、数年ぶりに馬で散歩に出たほど、体力、気力が戻ってきたとの報告を受けていた。寝たきりであったことを考えれば、驚くほどの回復ぶりだ。
エスタス自身も体調に自信を持ち始めたのか、カスピアンの即位後、滅多に口を挟むことさえしなかった国政を気にかけるようになり、懸案事項の進捗を随時報告するようにと指示を寄越した。
外交を担当するユリアスや他の重臣達以外に、経験豊かな前国王の助言を得ることが出来るようになるのは、カスピアンにとって大きなメリットである。
王冠こそ被ってはいないが、シルバー色の毛皮のマントを羽織り国民を見下ろすエスタスは、やはり威厳があった。母シルビア亡き後見せることのなかった晴れやかな笑みを浮かべ、時折身を屈めては何やらセイラに話しかけている様子。
セイラは笑顔でしきりに頷いて、王宮前を埋め尽くす群衆を見渡していた。
ラベロア王国では、国王の正妃が、その時代を表す色を一色選ぶ習わしになっている。その色は国王の在位中、神聖な色として扱われ、国民達もこぞって王妃の色を使いたがる。母シルビアはコスモスの淡いピンク色を選択して、存命中は好んでその色を身にまとっていた。セイラに色を選んでおくよう指示したところ、即答で深い緑色と答えた。
正式に王妃の色が発表される明日に先立って、今日すでにその色のマントを羽織ることにしたらしい。
長身のエスタスだけではなく、いかついエイドリアンやアデロス、複数の衛兵に囲まれたセイラは、普段以上に小柄で頼りなげに見えるものの、初めて公の場に姿を見せた次期王妃に、国民の興奮が最高潮に達しているのが見て取れた。
明日この正門上に立つのは、無事に婚儀を終え、王妃となったセイラだ。
カスピアンは周囲の安全を確認するように、まんべんなく視線を走らせながら王宮へと進む。
正門に近づけば、セイラの名を叫び歓声をあげる国民達の声が空高く響き渡る。楽隊の音楽を掻き消すその凄まじさにカスピアンは苦笑した。
カスピアンに気がついたセイラがこちらに視線を向け、とびきりの笑顔を見せる。どうやら、軍隊パレードの様子や集まった大勢の国民に同じく興奮しているらしい。時折片手をあげて自分の名を叫ぶ群衆に応えるセイラの頬も紅潮していた。
数ヶ月に渡り準備をしていた軍事パレードも終わりに近づく。
澄み渡る秋空を吹き抜けた風に、群衆の歓声が天高く舞い上がっていく。
ふと、亡き母シルビアを思い出したカスピアン。
この広い空のどこからか、自分たちを見守る母の優しい眼差しを感じた。
待ち受ける大きな変化の気配を感じる。
カスピアンは己の全身を包む高揚感を、腹の奥深くまで吸い込んだ。
魂が炎のように激しく燃え上がり、体の隅々までその熱が満ち溢れていく。
正門の真下にたどり着いたカスピアンを見下ろしたセイラが、輝くような笑顔で手を振ってみせた。
太陽の光を背に受けたセイラは、まさに女神の如く神々しく、美しかった。
ここから見上げたその姿は、永遠に色褪せることない記憶として胸に刻まれる。
軍馬を止め、背後の群衆を振り返ったカスピアン。
地平線の向こうまで埋め尽くす群衆が、熱狂的にカスピアンとセイラの名を連呼する。
ひとつとなった国民の心こそ、ラベロアの未来の象徴。
その眩しい未来を見据え、静かに笑みを零すと、カスピアンは大成功を収めたパレードの閉幕へ向かうため、正門をくぐり抜けた。
「ラベロア王国に祝福を!」
厳重に警備された大通りには大勢の群衆が詰め寄せ、熱気を放っている。
深紅と黒、金を基調とした総指揮官の軍服に身を包んだカスピアンは、この日のために特別に飾り付けられた軍馬に乗り、何千という数の兵士が前後に長く伸びるパレードの中にいた。
賑やかな楽隊の先導に続き、一際大柄な軍馬が牽引するのは、剣舞を披露する兵士の舞台。カスピアンの前をゆくのは、軍馬に乗り、国旗と王家の紋章の旗を掲げる上位騎士。後方には、護衛、要所要所で馬術を披露する騎士の列、そして一糸乱れず行進する7000人の歩兵が延々と伸びていた。
煌びやかな軍服に身を包む騎士団のパレードに、街中が大歓声に包まれている。
「我が国にさらなる繁栄と栄光を!」
カスピアンは、口々に叫ぶ国民達を見渡しながら、後方の王宮を振り返った。
遠のいていく正門の真上に設けられた立ち見席の最上部には、ユリアスと幼いテオドールを腕に抱くロリアン、アンジェ、そして前国王エスタスの妃である第二の妃レテシア、第三の妃カオリンの姿もある。一段下の立ち見席には、王族と血縁関係のある貴族達や外国から訪れている賓客、その下の段には、他の貴族や神官達が並んでいる。
カスピアンが正門へ戻ってくるパレードの後半には、前国王エスタスがセイラを伴って現れることになっていた。恐らく国民の興奮が最高潮に達するのが、この二人が姿を見せる時だろう。
今日明日と最高レベルの警戒態勢をとってはいるが、明日の婚儀が終わるまで気を抜く事は出来ない。少しでもリスクを減らすため、セイラを公の場に出すのは短時間に留めることにした。
貴賓館で滞在中の客人の中に、自分やセイラを狙う刺客がいないとは限らない。さらに、この群衆の中にも、暗殺を企む輩が潜んでいる可能性はある。警備中の兵士達が時折、群衆の中から酔っぱらいや不審者を連れ出しているのを視界で捕らえながら、カスピアン自身も全方向に注意を向け続けている。
ラベロア王国は世界でも1、2を争う国力を誇る大国だ。恵まれた気候、豊富な資源のお陰で国民のほとんどが潤った生活を送っている。だが、未だに貧困層は存在し、犯罪に手を染める組織が暗躍しているのが現実であり、これが今後最も注力しなくてはならない課題だ。ルシアが以前セイラの馬車を狙った時に買収したのも、こういった反逆勢力であることから、国への、ひいては君主への不満を抱える貧困層を無くすことが、平和と繁栄への近道である。
それにはやはり、貧富や性別に関わらず皆が平等に教育を受け、職にありつけることが出来る社会を作らなくてはならない。
自分の代で、この改革をやり遂げるのだと、強い志を胸に地平線の向こうまで続く群衆を見つめる。
父の病のため、若くして即位したカスピアン。
その手腕を計りかね、注意深くこちらの様子を偵察している国々も少なくはない。
前代未聞であった独り身の国王。
世継ぎとなる嫡子どころか妃さえいないカスピアンの代は長続きしないと見て、いずれは兄ユリアスが王位につくのではないかと予測し、早々にユリアスに取り入ろうとする国々も存在した。国内でも、独り身の国王が治めるラベロア王国の行く末を案じていた者は、決して少なくなかっただろう。
だが、ついに明日には婚儀を迎え、ラベロア王国に新しい王妃が誕生する。待ちに待ったその日に先立つ盛大な軍事パレードに、国民の喜びも倍増していた。
天候にも恵まれ、抜けるような青空の下、パレードは順調に進む。
このパレードを観るために、地方から泊まりがけで王都へやってきた国民も多く、パレードと婚儀の日の前後の王都の人口は、恐らく通常の10倍。王都内の宿泊施設は全満室どころか全く足りない状況だが、カスピアンはそれを見越して騎士団の所有する天幕の使用許可を出していた。国有地である公園や森に、天幕の簡易宿泊所を設置したことにより、王都の路上で夜を過ごす民はいない。また、食料不足に陥らないよう、国で備蓄していた食料を飲食店に安価で卸しており、現在まで混乱は生じていないとの報告を受けている。
用意周到であった事前準備の甲斐あって、目立つ暴動や窃盗も今のところ報告はない。華やかな行事の裏に隠れがちなところにまで、しっかりと手配が行き届いているかどうかも、外国から訪れている賓客が評価する部分である。
ゆっくりと長い時間をかけて首都の大通りを一回りし、パレードは王宮へと戻り始める。
大通りに詰めかけた群衆が掲げる、無数の国旗。
ラベロアの国旗は、深紅地に、牙を剥く黄金の獅子だ。
カスピアンに向け国旗を振り続ける国民の群れは、金色の輝きを放ちながら波打つ、紅の大海原のようだった。
ずっと先に見えた王宮に視線を止めると、突如押し寄せた焦燥感に、カスピアンは奥歯を噛み締めた。
一夜が明ければ、婚儀の日。
手綱をきつく握りしめながら、胸の疼きを耐える。
このところは特に、日を追うごとに愛しさの増すセイラを想うだけで、居ても立ってもいられないような苛立ちに襲われていた。持ちうる限りの自制心を総動員しなければ、目の前の書類さえ手に付かなくなる始末だ。
恋にうつつを抜かすなど、精神的に未熟な者のことだと侮蔑していた過去の己を自嘲する。まさかこの自分が、これほどまでに思いを持て余し、やりどころのない欲求に途方に暮れることになるとは。
国の存亡をその手に委ねられているのが、一国の王。
卓越した強靭な精神力と理性を持つはずの自分が、国政とは無関係の事柄に平常心を失うようなことがあろうとは、夢にも思わなかった。
セイラが王宮を抜け出し、エヴァールの離宮に捕われていた日々を思い返す。
心臓が引き裂かれるような苦痛に、身を身悶えさせていた自分。
エティグスとアンカールの国境でセイラと再会するまで、一瞬たりとも心休まる時はなかった。
国王たるもの、どのような状況にあろうと決して取り乱してはならないという自覚から、表面上は平静を保ち続けていた。セイラが暗殺されかけたお茶会の場では、王子時代の如く、激高し破壊行為に及んでしまったが、国王たるものがそのように取り乱すなど、もってのほかである。
セイラを奪還する策戦会議は、腹心のメンバーのみで人目を避け真夜中に開き、軍事パレードと婚儀の延期手配を含め、通常の政務も一切滞りなく執り行っていた。しかし、カスピアンを幼少期から熟知するロドリゲス大神官の目を欺く事はできなかった。大神官は、アンカールへ出発する準備を終えたカスピアンのもとを訪れ、憔悴の色を隠せないカスピアンを深く案じていると告げた。国のためにも、そしてカスピアン、セイラのためにも、やはりこの婚姻を再考すべきであると進言した。
何故なら、セイラが今回のようにまた、連れ去られるなどの危機に曝される可能性は否めない上、カスピアンがいつか、国とセイラのどちらかの選択を迫られた時、本来選ぶべきである国ではなく、セイラを優先する恐れがあると見たからだ。
カスピアンは、どちらも守り通してみせると断言し、二度とそのような進言は許さぬと一蹴した。
憤激したカスピアンの激しい剣幕に大神官は苦笑いしながらも、それ以上は言及せず、ならば全力でカスピアンを支える所存だと述べたのだった。
ひとつしか守れぬなどと、誰が決めたというのだ。
自分には、この国の眩しい未来を築くという、確たる決意がある。
その未来を思い描く時、自分の隣には必ず、愛する者がいた。
移りゆく季節と年月を共に過ごし、苦楽もすべて、分かち合っていきたいと心の底から願っている。
自分がこれほど強く望んでいることを、果たしてセイラはどれ程わかっているのだろうか。
昨晩のセイラの様子を思い出す。
婚儀前夜は慣例上会うことは許されないため、婚前に会える最後の夜をゆっくりと過ごすつもりでセイラの部屋を訪れた。しかし、セイラは口から出てくるのは、アンジェの名前ばかりだった。
アンジェに関する質問に始まり、近日中に二人で森の離宮へ行く予定をいれたことや、挙句にはアンカール国訪問のことなどを持ち出し、楽し気に話し続けたセイラ。
妹と親睦を深めること自体は喜ばしい限り。
しかし、セイラが婚儀よりもアンジェに気を取られているという事実は、流石に納得出来なかった。
寝ても覚めても、セイラのことが頭から離れないこの自分。
それに引き替えセイラは、この有様だ。
腹立たしさに無口になったカスピアンに気がついたセイラが、今度は、カスピアンの体調が悪いのかと心配し始めた。ふて腐れた自分を見て、心配げに眉をひそめ、カスピアンの額に手を当て熱を測ってみたり、温かいお茶を準備したりと慌てている様子を見て、さすがに大人気ないと気づき機嫌を直した。
謹慎処分が解除されたアンジェを呼んだお茶会が、よほど楽しかったらしい。
お茶会では、ご機嫌になったセイラが饒舌になり、あれこれ面白い話を連発し、最初は呆気にとられていたアンジェも、最後は腹を抱えて笑い出し、苦し気に目元の涙を拭っていたほどだった。アンジェがあれほど大笑いしていたのを見たのは、いつだったか思い出せないほど遥か昔のことだったろう。
周りの者に幸せをもたらす、無垢なこの娘と巡り会えた奇跡。これを、神の成せる業と言わずしてなんと言えよう。
愛しい者を腕の中に閉じ込め、やっと婚前最後の夜を迎える事が出来た喜びに浸っていると、セイラが、これほど幸せな気持ちで満たされているのは、カスピアンに出会えたからだ、と嬉しそうに微笑んだ。
一切の迷いのない強い眼差しに溢れる確かな愛。
例えこの命が尽きることがあっても、自分たちの絆は決して壊れはしない。この確信は、如何なる試練も乗り越えていける自信と強さを与えてくれた。
カスピアンはひとつ、ゆっくりと深呼吸をし、近づく王宮へと視線を戻した。
一際高い歓声があがる王宮の正門周辺。
目を凝らせば、国民が正門前の一帯を完全に埋め尽くし、大歓声をあげて国旗や手を振り回しているのが見えた。
正門の真上の立ち見席を見上げると、ちょうどエスタスが姿を現したところだった。
数年ぶりに姿を現したエスタスの姿に、国民達の歓声が一段と大きくなる。エスタスに促されたのか、セイラが立ち見席の前方に出ると、凄まじい歓声があがった。
今日初めて次期王妃が公の場に姿を現すと発表していたこともあり、その姿を一目見ようと押し寄せた群衆で、正門前は身動きさえできないほどの混雑だ。将棋倒しにならぬよう、警備の兵士達が間に入り隙間をつくろうと動き回る様子を注意深く見る。これほどの混雑では、数人が倒れ込むだけで大きな将棋倒しを引き起こし、圧死する人間が出る恐れがあるのだ。事故を未然に防ぐべく、兵士達が、具合を悪くしたらしい者を群衆から抱え出す様子を確認しながら、先へと進む。
王宮が近づくにつれ、セイラがラベンダー色のドレスに、深緑色のマントを羽織っているのがはっきりと見えるようになる。
エスタスが笑みを浮かべ、ゆっくりと片手を挙げると、国民は一斉に旗を振り上げ、エスタスの名を叫んだ。
3年の空白を経てセイラがこの国に戻ってから、エスタスの体調が少しずつ改善してきたことは、国内のみならず国外にも知れ渡っていた。しばらく前までほぼ寝たきりという深刻な状態であったため、侍医は、エスタスが何か病に罹ればそれがきっかけとなり死に至る恐れがあるとまで言っていた。しかし、セイラが戻ってきてからは、落ちていた体重が徐々に増え始め、先日は、数年ぶりに馬で散歩に出たほど、体力、気力が戻ってきたとの報告を受けていた。寝たきりであったことを考えれば、驚くほどの回復ぶりだ。
エスタス自身も体調に自信を持ち始めたのか、カスピアンの即位後、滅多に口を挟むことさえしなかった国政を気にかけるようになり、懸案事項の進捗を随時報告するようにと指示を寄越した。
外交を担当するユリアスや他の重臣達以外に、経験豊かな前国王の助言を得ることが出来るようになるのは、カスピアンにとって大きなメリットである。
王冠こそ被ってはいないが、シルバー色の毛皮のマントを羽織り国民を見下ろすエスタスは、やはり威厳があった。母シルビア亡き後見せることのなかった晴れやかな笑みを浮かべ、時折身を屈めては何やらセイラに話しかけている様子。
セイラは笑顔でしきりに頷いて、王宮前を埋め尽くす群衆を見渡していた。
ラベロア王国では、国王の正妃が、その時代を表す色を一色選ぶ習わしになっている。その色は国王の在位中、神聖な色として扱われ、国民達もこぞって王妃の色を使いたがる。母シルビアはコスモスの淡いピンク色を選択して、存命中は好んでその色を身にまとっていた。セイラに色を選んでおくよう指示したところ、即答で深い緑色と答えた。
正式に王妃の色が発表される明日に先立って、今日すでにその色のマントを羽織ることにしたらしい。
長身のエスタスだけではなく、いかついエイドリアンやアデロス、複数の衛兵に囲まれたセイラは、普段以上に小柄で頼りなげに見えるものの、初めて公の場に姿を見せた次期王妃に、国民の興奮が最高潮に達しているのが見て取れた。
明日この正門上に立つのは、無事に婚儀を終え、王妃となったセイラだ。
カスピアンは周囲の安全を確認するように、まんべんなく視線を走らせながら王宮へと進む。
正門に近づけば、セイラの名を叫び歓声をあげる国民達の声が空高く響き渡る。楽隊の音楽を掻き消すその凄まじさにカスピアンは苦笑した。
カスピアンに気がついたセイラがこちらに視線を向け、とびきりの笑顔を見せる。どうやら、軍隊パレードの様子や集まった大勢の国民に同じく興奮しているらしい。時折片手をあげて自分の名を叫ぶ群衆に応えるセイラの頬も紅潮していた。
数ヶ月に渡り準備をしていた軍事パレードも終わりに近づく。
澄み渡る秋空を吹き抜けた風に、群衆の歓声が天高く舞い上がっていく。
ふと、亡き母シルビアを思い出したカスピアン。
この広い空のどこからか、自分たちを見守る母の優しい眼差しを感じた。
待ち受ける大きな変化の気配を感じる。
カスピアンは己の全身を包む高揚感を、腹の奥深くまで吸い込んだ。
魂が炎のように激しく燃え上がり、体の隅々までその熱が満ち溢れていく。
正門の真下にたどり着いたカスピアンを見下ろしたセイラが、輝くような笑顔で手を振ってみせた。
太陽の光を背に受けたセイラは、まさに女神の如く神々しく、美しかった。
ここから見上げたその姿は、永遠に色褪せることない記憶として胸に刻まれる。
軍馬を止め、背後の群衆を振り返ったカスピアン。
地平線の向こうまで埋め尽くす群衆が、熱狂的にカスピアンとセイラの名を連呼する。
ひとつとなった国民の心こそ、ラベロアの未来の象徴。
その眩しい未来を見据え、静かに笑みを零すと、カスピアンは大成功を収めたパレードの閉幕へ向かうため、正門をくぐり抜けた。
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王立学園での舞踏会の夜、次期国王アレクシス殿下が突然、レティシアの手を取り――「君が、私の隣にふさわしい」と告げたのだ。
戸惑う彼女をよそに、殿下は一途な想いを示し続け、やがてレティシアは“王妃教育”を受けながら、自らの力で未来を切り開いていく。いじめられっこだった少女は、人々の声に耳を傾け、改革を導く“知恵ある王妃”へと成長していくのだった。
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