10月2日、8時15分の遭遇(前編)

ライヒェル

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最初の一週間

振り子の心

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木曜日。
昨晩は悩んだ挙げ句、拓海に返信しないと埒があかないと思い連絡を返すと、すぐに返信が来て、夕方の7時にアレクサンダー広場の世界時計の前との指定だった。他に何も書いていなかったので、もしかしたらもう別れた事のごたごたの話ではなく、単純に偶然同時期にベルリンに居合わせた友人として会うということなのかも、と少し気が楽になった。
でも、昨晩はやっぱり落ち着かず、疲れているのになかなか寝付く事ができなくて、ベッドの中で何度も寝返りをうち、多分、明け方近くにようやく眠りに落ちた。そのせいで、目が覚めたのは10時、と信じられないくらい遅かった。
結局、その日は夕方の待ち合わせのことが気になってとても観光に行く気分にはなれず、夕方までアパートで時間を潰す。会う約束をしてよかったのかと自問自答したものの、返信しなかったらここのアパートまで押し掛けて来るみたいな感じだったから、もうこれは不可抗力だったと自分に言い聞かせ、重い腰をあげて外出の準備をする。
そして、前日、ヴィクターと来た場所、アレクサンダー広場へ1人で到着した。
世界時計の下で、待ち合わせをする人は多く、広場は行き交う人やパフォーマー、移動式のホットドッグ屋などで賑やかだ。
もう日も暮れて、デパートやカフェ、レストランの灯りがつき、街はきれいなイルミネーションの景色へ移り変わって行く。その景色が、この間のバレンタインデーの時の待ち合わせ場所だった表参道の交差点前広場を彷彿とさせ、複雑な気持ちになる。奇しくも、時折吹く冷たい風までが、あの時と酷似している。
もうすぐ約束の7時だ。
私は毅然とした態度で、明るく自然に挨拶が出来るのだろうか。
日本から遠く離れたベルリンに来て、こんな再会の時が訪れるとは思っていなかった。
首筋を冷たい風に吹かれ、思わずぞくっとしてチョコレートブラウンのハーフコートの前を掻き合わせた。コートの下は黒のタートルネックのセーターとジーンズだから、温かいだろうと思っていたけれど、風対策には無意味な素材だったらしい。
足下を走り回るハトを見下ろしていると、聞き覚えのある声がした。
「久しぶり、理央」
ドキリとして顔をあげると、あの時以来、一度も会うことのなかった拓海が目の前に立っていた。当時は短く刈り上げていた髪が伸びて、ゆるやかなウェーブがかかった長髪のせいか、以前より柔らかい雰囲気になっていた。
買付け出張はカジュアルで行くとは聞いていたけれど、その通り、スーツではなく、カーキ色のパンツに真っ白なシャツ、ダークオレンジブラウンのレザージャケットと軽装だ。
7ヶ月ぶりに見る拓海は、外国に来てもやはり人目を引く堂々としたオーラをまとっていた。
「なんか言ってくれてもいいんじゃないか?」
つり上がり気味の強気な瞳を半分くらいに細めてそう言う。
「久しぶりだね」
特に他の言葉も思いつかず、同じ言葉をおうむ返ししてその場をしのぐ。
昔の彼氏に会うなんてことは今まで経験したことがなかったから、実の所、どう振る舞えばいいのかわからない。
拓海は無口な私をしばらく眺めていたが、やがて特に気にする様子もなく、世界時計を見上げた。
「まさかこんなところで理央に会うことになるとは思わなかった」
「うん、ほんとにそうだね」
相づちしか打てずに、同じように世界時計を見上げたら、拓海がなんの躊躇もなく私の腕を掴んだ。コートのポケットに手を突っ込んでいた私の腕を引っ張り出すと、そのまま手を繋ぐ。手を引こうとしたら、彼はそのまま歩き始めた。
「少し離れたところにディナーの予約を入れてるから、タクシーに乗る」
「えっ、タクシー?」
そのまま引っ張られるようにアレクサンダープラッツ駅前に来ると、待機していたタクシーに片手で合図しすぐに後部座席のドアを開けた。
半ば強制的に押し込まれ、続けて乗り込んで来た拓海が運転手に行き先を告げて、タクシーが発進する。私は繋がれていた手を振りほどいて、拓海を睨んだ。
「いきなり、遠慮もないじゃないの」
「遠慮?」
「こんな強引なやり方しなくたって、普通にタクシーに乗ったのに」
別れた相手は、もう他人だ。
他人とまで言わずとも、知人とか、せいぜい頑張っても友人だろう。それが、無理矢理タクシーに連れ込むようなやり方は、失礼だとは思わないのだろうか。
拓海は苦笑いし、それから眉間に皺を寄せて私を睨み返した。
「なぜ、俺が理央に遠慮をしなきゃいけないんだ?」
「なぜって……私達はもう、別れた者同士だから」
流石に彼の目を見て言うほどの度胸がなくて、窓の外へ目をやりながらそう言った。
「それは、違う」
「え?違うって何が」
どういう意味だと思って振り返ると、拓海はまっすぐに私を見つめて、挑戦的な微笑みを浮かべた。
「俺は、別れたつもりはない。理央が一方的にそう思っているだけで、俺は、認めていないってこと、忘れるなよ」
「え、何言ってるの?もう、7ヶ月以上経って、まだそんなこと」
信じられない思いで呆然とする。
2月のバレンタインデーから一切、連絡を取っていなかったのに、今更まだ認めていないとは理解不能だ。
「この7ヶ月、俺はずっと考えていた」
拓海は運転手の肩越しに前方を見つめて、それから私を振り返った。
「あの時は、俺が話そうとしていたことを言う前に、君が逃げ出したじゃないか。すべてが中途半端だ。それに、理央の言い訳も全く筋が通っていなかった。いつか、もう一度きちんと話をする機会がくるとは思っていたが、どうやら今回こうしてベルリンに居合わせた偶然がその時らしいな」
「……もう、同じことを何度も言わせないでよ」
私だって好きであんな別れ方をしたんじゃない。
拓海のことは、嫌いじゃない。
彼に惹かれたことは確かだし、今でも好きかと言われたら、やはり好きだ。
ただ、彼は私の本当に愛する人ではないと心のどこかで確信しているだけで……
当然、私にとっても、この別れは辛いものだった。
なのに、また振り出しに戻るなんて!
同じ言い訳をまた繰り返し説明することになるのか、と重い溜め息をつく。
「理央だけが言いたい事を言っておいて、俺には何も言わせなかったじゃないか。君は自己中心的で我が侭な女だ」
あまりの言葉に驚いて目を丸くして拓海を見た。
自己中心。
我が侭。
確かに私のした事は。それくらいの侮辱の言葉を受けても当然だったかもしれない。
でも、はっきりとそう言われると流石に傷つく。
涙目になりそうになるのをぐっと堪えた。
「わかってるよ。申し訳ないと思ってる。そんな、最低な女なんだから、もう放っておいてくれてもいいじゃない。謝罪なら、何度だって言うから……」
少しだけ声が震えてしまい、私は慌てて窓の外に目をやった。
拓海はきっと、まだ怒っているんだ。
彼のプライドを傷つけた私を。
タクシーが止まり、拓海が支払いをして、レシートを受け取っているうちに、私はドアを開けた。
外に出てみたが、当然、ここがどこなのかも分らない。ぐるりと辺りを見渡していると、また手を掴まれた。見上げると、さっきより表情が緩んだ拓海の目が私を見下ろしていた。
「間違っても、夜に知らない街を1人でうろつくなよ?」
「うん……ここ、どこなの?」
「アレクサンダー広場からそう遠くないミッテ地区。フレンチのEntrecôteというレストランを予約しといた」
私は思わず溜め息をついた。
フランス料理。
なんでまた、高級そうなレストランなんかに行くのだろう。
「その辺のカフェでもいいのに」
「俺が行きたいところに文句つけるなよ」
冗談なのか本気なのかわからない横柄な言い方で言葉を遮られ、私は黙り込んだ。
立場的に、完全に私のほうが悪者なので、言い返すのも難しい。
弱みを握られたように、言いたい事も言えない自分。
やっぱり会うんじゃなかった。
後悔先に立たず。
拓海はもともと、押しが強く俺様っぽい態度で振る舞う男だった。
仕事と無関係な場所だと、気に入らないことがあればその通りに振る舞うか、時によってははっきりと言うくらい、何事にも怯むなんてことはない男。
相手の性別や年齢も関係はない。
私達が付き合った期間は余りにも短くて、彼のことを全て知っているとは到底言えないけれど、最初からそんな威圧的な態度だったし、言うなれば典型的な肉食系の男なんだと思う。
賑やかな通りを歩きながら、繋がれている手を試しに引っ張り返してみたが、当然その手が解かれることはない。
しばらく歩くと、そのEntrecôteというレストランに着いた。赤いオーニングが突き出したパリの洒落たレストランという感じだ。目の覚めるような真っ白いテーブルクロスが掛けられたテーブルが、オーニングの下に並んで、この肌寒い中にそこで食事をしている人達がいた。開いているエントランスから漏れて来るフランス語のシャンソンを聞いていると、ここはベルリンでなくてパリじゃないかと錯覚しそうになる。
中に入るとすぐに、真っ白いシャツに黒のロングエプロンを付けたウエイトレスがやって来た。拓海が何か予約のことを話していて、すぐに私達は角の窓際のテーブルへと案内される。拓海が手慣れた様子で、私の肩に手を掛けてコートを取り、自分のレザージャケットと一緒にウエイトレスに渡した。
そして拓海は先に私の椅子を引いて、私が座ると、次に自分が着席する。随分とマナーがしっかりしたレストランで、しかも拓海が難なく全ての手順をこなしているスマートさに驚く。
私は微妙な居心地の悪さを感じながら、目の前のメニューを見下ろした。
分厚い皮のカバーがかけられたメニュー。
ドイツ語なんて読めはしない。
メニューを開けようとしない私をちらりと見た拓海は黙って自分のメニューを開き、しばらくすると手を挙げてウエイトレスを呼び、何やらドイツ語で注文を始めた。
まさか、ドイツ語を話すとは思っていなかったので、更に驚く。
拓海は英語と日本語のバイリンガルということだったはずだ。
注文を読み上げたウエイトレスに拓海がまた何か言って、それを彼女が書き留めてテーブルを去った。
「拓海がドイツ語を話すなんて知らなかったよ」
さすがに驚いてそう言うと、拓海はちょっと苦笑いした。
「いや、喋るというレベルじゃない。買付けで回るから、フランス語とドイツ語は必要最小限程度だな。北欧は基本的にどこも英語でいけるし」
「ふうん……さっき聞いた感じだと、必要最小限以上に聞こえたよ」
素直に感想を述べると、拓海が少し笑って私を見た。つり上がり気味のアーモンドアイは、普段がとても気が強そうに見えるけれど、今のように緊張が抜けると長い睫毛が優しい陰影を作って、別人のようにソフトな印象になる。
普段とのギャップが大きくて、不覚にもドキリとしてしまった。
あまり見てはいけない危険なものだ。
私は視線を逸らしてテーブルの上のキャンドルを見る。
また、バレンタインデーの時のテーブルを思い出す。
真っ赤なキャンドルが揺れていた、あのテーブル。
そのフラッシュバックを脳裏から消去しようと、目をぎゅっと閉じ、数秒して開けると、目の前にはシャンパンのグラスが置かれていた。
ウエイターがシャンパンの銘柄を拓海に見せて何か言ってから、それぞれのグラスへ注いでくれる。透明な黄金の液体がグラスの中へ流れ込むと、一気に空気の泡が吹き出してまるで宝石のようにキラキラと輝きながら、すうっと表面へ浮かび上がって行く。ゆらゆらと揺れては、順番に底から離れ表面へ上昇しては消える、銀色に輝く空気の泡を見つめた。
「理央」
拓海がグラスを傾けたので、少し迷ったけれど、私もグラスを手に取った。
一体、何に乾杯しようと言うのだろう。
戸惑いながらグラスを持って拓海を見ると、彼は少しだけ真剣な表情で私を見た。
「再会、に乾杯」
「え……」
その言葉に固まっているうちに、拓海がグラスを少し持ち上げ、ゆっくりとグラスに口を付けた。
つられるように私もグラスに口を付ける。
ものすごく薄いガラスで作られたこのシャンパングラスは、目を凝らさないと輪郭も見えない透明度まで磨かれていて、細心の注意を払って持たないと今にもバリンと脆く割れてしまいそうなくらい繊細だった。
緊張で渇いていた私の喉を冷たく潤していくシャンパン。
少し辛いのかと思ったけれど、思ったより滑らかで飲み易い味だった。



オードブルが運ばれて来た。
テリーヌ、パテ、マリネ、魚介、魚卵、サラダなどの冷たい前菜が、真っ白なプレートに芸術的に並べられている。食用の花や、間引きしたばかりのような細い人参がそのままサラダになっていたりと、見た目も楽しめて、さすが世界のフレンチだなと驚く。
やがてポタージュが運ばれ、数種類のバゲットやカンパーニュが入った籠が添えられる。そしてメインの魚料理、肉料理、とどれも圧倒されるほど芸術的な美しい料理のオンパレードだった。
確かに味も素晴らしかったのだろうと思うけれど、それをゆっくりと味わうのが不可能なくらい、あまりにも非日常的すぎる状況にあった。
元彼と高級フレンチ、なんていう非常事態は、私の味覚を狂わせたのか、あまり味のほうはわからない。チーズの盛り合わせと続けて、デザートとコーヒーが運ばれて来た。
これまで、運ばれて来た食事について少し言葉を交わすくらいで、大したことを喋ることもなく食事をしていたけれど、このデザートの段階になって、テーブルの上に更なる緊張が走る。
バレンタインデーの時は、デザートを目の前に彼からトパーズのペンダントをプレゼントされ、その直後に私が別れを切り出したのだ。
嫌な後味の悪い思い出が蘇るこの状況。
皮肉にも、あの時と同じようにお互いの間には赤いキャンドルの火が揺れていた。
相手もそのことを思い浮かべている様子で、とても難しい顔をして腕組みをしている。
キャンドルの灯りごしに私の顔をじっと眺めているから、間違いないだろう。
とても、デザートに手を付ける気分にもなれなくて、この無意味としか言えない再会ディナーが早く終わって欲しいと願いながら、私は窓の外へ目を向けた。
「あの時」
拓海の声が聞こえ、ドキリとして窓から目を離し、彼に向き直った。
何を言い出すんだろうと、不安で心拍数が上がる。
「俺は、駐在の話をするはずだった」
「……駐在?」
思いもよらない方向に飛んだ話にびっくりしていると、拓海は少しだけ困ったように微笑んだ。
「誰のせいでこの話が出来なかったかはわかっているんだろ」
「それは、当然、私のせい、だね」
「あぁ、そうだな」
拓海はきつく組んでいた腕をほどき、コーヒーに手を伸ばして一口飲んだ。
そして、再度私の目をじっと見つめた。腕を鷲掴みにされた時のように、なぜかその視線を逸らすことが出来ずにその目を見つめ返す。
「年明けから、パリ駐在で東京から転勤になる」
「……パリ?フランスの?」
「二ヶ月毎に買付けするのは効率が悪いということもあるが、来年からコンテナの数を増やすことになったというのが事の発端なんだ」
「そうなんだ。拓海は、海外のほうがのびのび出来て良さそうな気がするね」
思った通りのことを言うと、拓海は苦々しく笑う。
「あのペンダント」
私が突き返したペンダントの話だ。
流石にドキリとして顔が引きつる。
いよいよ核心に近づいてきてしまったようだ。
悪いことをしたと思っているだけに、一番触れたくない話題だった。
「あれは、フランスの1920年代のもので、パリのアンティークショップのオーナー経由で手に入れたやつだった」
「1920年? アンティークだったの……」
普通のジュエリー店で買ったものではないと知り、突き返した罪悪感が倍増する。
目の前のデザートをじっと見つめて、言いようの無い複雑な自分の気持ちと向き合っていると、拓海の右手がテーブルの上を滑って、ミネラルウォーターのグラスに触れていた私の左手の上にそっと重なった。
それが拓海らしくない、優しい触れ方だったのでびっくりして思わず顔を上げると、彼は僅かに微笑んで私を見ている。
少し潤んでいるようなその目に胸にドキリとして、私は息を飲み込んだ。
「あの時、俺が言いたかったのは」
拓海はその言葉を自分で確認するようにゆっくりと言う。
「俺と一緒に来て欲しい、という事だった」
「えっ」
それは、どういう意味……?
一緒に来て欲しい?
パリへ?
まさか。
呼吸が止まったかのように驚いて彼を見つめる。
拓海は私の動揺をじっと観察するように見つめながら、ゆっくりと言葉を続けた。
「アンティークショップのオーナーが、トパーズは誠実という意味があるし、人に勇気を与え、未来の幸福へ導く石だと言っていた」
「え……?」
友情、友愛くらいしか知らなかった私は、まさか拓海が石言葉のことなんて考えていたなんて思いもしなかった。
そんな他の意味もあったなんて。
己の知識の浅さと、彼を見くびっていた自分にショックを受ける。
「パリという全く違う場所に行く、勇気を与えるものだと説明する時間もないまま、君は受け取りを拒否した」
私は文字通り、言葉を失う。
拓海は重ねていた私の手を取ると、ゆっくりと自分のほうへと引き寄せた。
「君が、一緒に来てくれると言ってくれていたら、あのまま外へ出て」
そこまで言うと、拓海は私の左手を持ち上げて、薬指の上にキスをした。
「一緒に、婚約指輪を買いに行くつもりだった」
自分の手に口づけている拓海を呆然と眺める。
話が飛躍しすぎて、もはや今、耳にした事が現実のことかなんてわからない。
パリに一緒に行く?
婚約指輪?
誰か知らない人の話じゃないだろうか。
大体、付き合って1ヶ月そこそこ、2ヶ月も経たない相手に、そんなことを言う事自体、ありえない話だ。
私は大きく首を振って、拓海を見返した。
「拓海、どうかしてる!付き合って2ヶ月も経たない相手に、そんなことを考えるなんて!」
「時間なんて関係はない」
「関係はないって……どういう意味で言ってるの」
「俺は迷わない人間なんだ。何事も」
拓海はそう言うと、挑戦的な強い目つきでじっと私の目を見つめた。さっきまでの優しげな印象なんて見えないくらい強引な視線で。
「理央のことは、最初に会った時から迷いはなかった」
その言葉に心底驚く。
度肝を抜く様なことを連続で聞かされて、どう反応したらよいのか分らないくらい動揺している自分に気がつく。まさか自分がひどいやり方でフッた相手から、こんな話を後から聞かされるとは。
「俺はそれまで、女に別れを切り出された経験はなかったんだ。大体、付き合っているのかどうか解らない曖昧な付き合い方をしていたし、面倒になってくるとすぐに捨てた。女から見たら最低な男だとは自覚してる」
「え……そんなひどいことしてたわけ?!」
流石にびびって理性が戻る。
モテているとは知っていたけれど、まさか本人の口から、わざと曖昧な付き合い方をしてたとか、面倒になったら捨てたなんて聞かされると、正直かなりの衝撃だ。
私が思い切り引いているのもさして気にする様子もなく、拓海は苦笑いした。
「当然、理央にフラれるというシナリオは考えてもいなかったから、俺も動揺したさ。半ば、パニックってやつだろうな。自分はうぬぼれの強いバカな男だと思い知った」
自分に自信がある人は、きっと何事も失敗する場合のシナリオなんて考えないのかもしれない。普通は逆に、失敗を予測して心の準備をしてから挑むことだろう。
さすがに自信家は違う。
そう考えると、少しおかしくなってきて、思わず笑ってしまった。
「じゃぁ、いい勉強になったんじゃないの?次回は失敗しないようにすればいいじゃない」
そう言うと、拓海は眉を潜めた。
「次回ってどういう意味だ」
「だから、次に付き合う人」
私がそう答えると、拓海は一瞬目を丸くして、ぷっと吹き出した。
あまりにも楽しそうに笑うので、変だなと思って怪訝な顔をして見ていると、やがて笑い終えた拓海はまだ握りしめていた私の手を両手で包んで、じっと私の顔を覗き込んだ。
「次なんていない。次回、なら今まさにやってる最中だろ」
「え……今まさに、って」
それは、どういう意味だ。
これは、過去の話だったのじゃないだろうか。
まさか……
私の視線が定まらずに空中を彷徨う。
「相変わらず鈍いやつだな。いい加減、気がつくころだろ」
「それは……」
空を彷徨っていた自分の視線を、拓海に戻した。
彼は、まっすぐに私の目を見つめていて、その顔はふざけている様子も全くみえなかった。ダーツの勝負をしていた時と同じ、とても真剣で、情熱的な目。
その表情は、威勢のいい強気な拓海ではなく、誠実で真っ直ぐなものだった。私が彼に惹かれた、強さの中に見え隠れする優しさが見えて、私は自分の胸の鼓動が早くなるのに気がつき思わず右手で胸のあたりを押さえる。
今、とんでもないことが起きているのじゃないか。
制御出来ないほどの緊張で瞬きさえ出来ない。
拓海は私の左手をぎゅっと両手で握りしめた。
「理央。俺と結婚してほしい」
静かで、少し掠れ気味の優しい声だった。
一瞬で全身の鳥肌が立つ。
結婚?
結婚、して、ほしい?
今のが、いわゆるプロボーズというやつなんだ。
心のどこかでそれを他人事のように思いながら、呆然と拓海を見つめた。
まさかの元彼から、まさかの外国という地で聞く、人生初のプロポーズの言葉。
私の左手を両手で包んだまま、拓海も黙って身動きもしない。
お互いの目も、体も完全に動きを失っている。
やがて、もう冷えきったコーヒーと、溶けて原型をなくしたアイスクリームで濡れたタルトのデザートを気にしたウエイトレスがやってきて、新しいコーヒーを煎れるか、デザートを変えるかと聞いていたようだが、拓海は支払いをする方を選んだ。
拓海がカードを渡したウエイトレスが戻って来て、彼がサインをする。ウエイトレスが持って来た私のコートを拓海が私の肩に掛けてくれるのを、まるで人形のように黙ってされるがままになっている自分。
予想だにしなかった状況でのプロポーズで、正気を保てるはずがない。
俺と結婚してほしい。
その言葉が、繰り返し頭の中を回っているのに、何故かその意味を完全には掴みかねている自分。
気がつくとレストランの外へ出ていた。
自然と繋がれた手を見下ろす。
拓海は私の歩調に合わせてゆっくり歩いていた。
やがて途中で立ち止まった彼が、私を振り返った。
頭の中が空っぽになっていた私は自然と立ち止まった彼を見上げる。
私にプロポーズした、目の前の元彼を。
明らかに思考が止まっている状態の私を見て、拓海は僅かに微笑んだ。
そして、遠慮がちに私の肩に触れると、慎重に両腕で私の背を抱きよせた。バレンタインデーの時、力任せに私を抱きしめた時とは、まるで別人のように、注意深くそっとその腕に力を込めて。
頬に触れる少しひんやりとしたレザージャケットを通して、彼の心臓の鼓動が早いのに気がつく。逃げ出すということを考えつかないまま、黙ってじっとしていると、拓海が独り言のように呟いた。
「無理矢理言う事をきかせようなんてしない。大切にするから」
そんな優しい言葉をこの強引な男が本当に言ったのだろうか。
信じられない思いで見上げると、私を見下ろしているその目と目が合ってドキリとする。反射的に目を逸らすと、拓海が身を屈めて私の頬にキスをした。びくっとして身をすくめたけれど、私の背を抱く彼の腕はきつくなることはなく、逆に私の緊張を緩めるようにそっと手で髪を梳いた。
私が知っている拓海とはまるで違う彼に、頭の中が混乱していく。
もしかして、そっくりさんで別人?
どこかですり替わった?
いや、これは質の悪いドッキリとか?
思考がそこまで飛躍していく。
この男が偽物なのか、本物なのか見極めようともう一度、その目を見上げた。
まっすぐに私を見つめているアーモンドアイは、濁りのない澄み切った光を宿している。黙って私を見ていた彼が、ゆっくりとその意味を確認するように言葉を紡いだ。
「愛しているんだ」
すでに常識の世界から遠く離れたところまで飛ばされていた私は、その言葉で宇宙の彼方へワープした。
人生初の出来事がこうも連続すると、これは夢の中なのか、もしくは映画館で見ている映画に自己投影している最中じゃないのかとまで思い始めてしまう。
拓海の目が、見た事無いくらい優しく私を見つめている。
私の髪に触れていたその手が首の後ろにまわり、スローモーションのようにその目が近づいて来る。身動きすることもなく、私はそのまま彼の唇が自分の唇に重なるのを感じた。
ふわりと重なった彼の唇はとても優しくて、気がつくと目を閉じて受け入れていた。少しずつ拓海の腕に力が籠っていくのを感じたけれど、それはあの時のような乱暴さはなくて、彼の気持ちが偽りではないと伝わって来る力強さだった。
愛される、とはこういうことなんだと気がつく。
彼が本当に私を大切に思っているのだと、その慈しむような優しいキスは教えてくれた。
こんな私を大切に思ってくれるなんて。
それも、あんなに短い時間しか共有していないのに。
どうしてなんだろう。
胸の中に熱くなるものが溢れて、どこか切ない気持ちになる。
しばらくするとずっと上を向いている体勢が辛くなり、身じろぎをすると拓海がすぐに唇を緩めた。
そして、心配げに眉を潜めて聞く。
「苦しかったのか?」
「……う、ん」
そう答えると、拓海は少しだけ照れたように微笑んだ。
「……悪い。つい理性が飛んだ」
まさか彼の口からそんな謝罪がすんなり出て来るとは信じられず、驚いてその顔を見上げると、微かに目尻が赤らんでいるようだった。
「場所を変えよう。ずっと通りのど真ん中に立っているわけにもいかないし」
独り言のようにそう言うと、拓海は私の手を取り、歩きながら握りしめている私の手を自分のレザージャケットのポケットに入れた。
偶然にもまさに向いから来るカップルが、同じように繋いだ手を男性のコートのポケットに入れて歩いているのが視界に入る。
東京で会っていた時に、こんなことをしたことはない。
大体、ダーツの勝利デートで初めて二人で会った時も、いきなり手を繋いできて、引っ張る様な歩き方をしていたのに。
それに、ついさっきまで、レストランに入るまでも強引な態度だったのに、レストランを出てからはまるで別人のようだ。
ポケットの中でしっかりと握りしめられた手の温かい感触は、以前には感じられない親密さがあった。
私が戸惑いのあまり拓海の顔を見ながら歩いていると、その視線に気がついたらしい彼が私を振り返った。
「なにか聞きたいことでもあるなら言えよ」
「聞きたいことっていうか……なんか、拓海じゃないみたいで」
「なにが?」
「だって、こんな紳士的な態度、見た事無いから、知らない人みたいで。いつも、手だって乱暴に掴んでたし。さっきまでそうだったのに」
「……っ」
拓海がきまり悪そうに眉を潜めて小さく舌打ちした。
怒りだすのかと思っていたら、目元を少し赤く染めて私を睨み、投げやりな態度で言う。
「俺が普通の男だってこと、忘れてるんじゃないか?東京で会っていた時は、まだどう理央を扱えばいいのかわからなくて、あんな態度しか取れなかったんだ。さっきも久しぶりでつい意識しすぎてて、どうすればいいのかわからなかったし」
「意識しすぎて?自称、モテ男の拓海がそんなこと言うなんて、変なの」
変な言い訳だと思ってついそう言うと、拓海は立ち止まり、憮然とした表情で私を見下ろした。
「理央の心が読めないから、どう扱えばわからなかったんだ。自分からは手を繋ごうとしないし、俺もこの歳で、手を繋いでいいか、なんて聞けるはずないだろ?」
「え……それは、確かに、変かもだけど」
手を繋いでいいかなんて許可を取るのはせいぜい中高生だろう。
でも、大人は大抵、その場の雰囲気で自然と手を繋ぐものじゃないだろうか。
意識してしまう、なんてそもそも拓海らしくない気がする。
私はふと、以前気になっていたことを思い出した。
「拓海はさ、ダーツの勝負の賭けで勝ったから、ノリで私と映画デートして、その勢いで付き合おう、って言ったのかなと思ってた。すごくモテるって話は聞いてたし、強引なのはやっぱり遊び半分みたいな気持ちで付き合ってるからなのかなと……」
拓海が目を丸くして、呆れた様な顔で私を見つめた。
「何を言っているんだ?俺が何故、ダーツの勝負をしたか、わかってるだろ?」
「それは知ってるけど、拓海は割と適当にデート相手を選んでいたのかと……」
「はぁ?」
信じられないというように苦々しい顔をして、拓海は溜め息をついた。
「本当は、あのくだらない合コンなんか、理央をかっさらったら直ぐに抜け出そうと思っていたのに、君が鈍くてそれが出来なかった」
「鈍いって、私が?」
「酔い覚ましを理由に連れ出そうと考えていたのに、話しかけようとしたらいつも女連中に呼ばれて俺を後回しにしてただろ」
「そうだっけ?」
「仕方がないから、勝てるとわかっていたダーツで勝負して、二人で会えるチャンスを作ったんだ」
そんな話は初耳。
心底驚いていると、駅前のタクシー乗り場へ着いていた。
拓海が後部座席のドアを開けて、私の背中をそっと押した。さっきは無理矢理押し込まれたタクシー。今度は、紳士的に手を貸してくれている拓海。
思わず、一瞬彼を見上げてしまう。
やっぱり、顔を見る限りは本人だ。
でも、時計塔の前で見た尖った雰囲気は抜けて、優しげな表情をしている。
この不思議な状況に釈然としない気持ちでタクシーに乗り込んだ。
車は夜の街を静かに通り抜けて、先ほどのアレクサンダー広場の近くまで来ると、交差点をすぎた辺りで停まる。
タクシーを降りると、拓海が広場の少し奥のほうを指差した。
「俺が泊まっているAdina Apartment Hotel Berlinにラウンジがあるから、そこで話そう」
私はそれを聞いて少し迷った。
彼が宿泊しているホテル内のラウンジと聞くと、さすがにそのままホテルの部屋に連れ込まれる可能性も当然あるからだ。
付いて行くことは、基本的にそれをわかって行くようなもの。
正直、今の私はとても揺れている。
固い決心をして別れたのに、こんな展開になって、気持ちが傾いて来ているのは否めない。
プロポーズをされたから?
トパーズの本当の意味を知ったから?
それで心が揺れているなんて、私も軽い人間だ。
理由はともかく、気持ちが彼に向いてきているのは紛れも無い事実だった。
でも、それだけじゃない。
強引で俺様な拓海には真っ向面から立ち向かえる自信はあったけれど、今の彼は、そんな男じゃないから、突き放すのを躊躇ってしまう。
いわゆるツンデレというのはこういう状態なのだろうか。
彼の宿泊しているホテルのラウンジに行くかどうか、それを迷っている時点ですでに状況的には押され気味になっているということだろう。
結局手を引かれて歩いている自分に、これでいいのかと心の中で問いかけるけれど、答えは見えて来ない。
近代的な真っ白い建物の入り口に入り、殆ど人気がないロビーを通り過ぎて、やがてダークブラウンとワインレッドを基調にした、大人な雰囲気のラウンジに着いた。静かなジャズが流れるシックな空間は、大人達がお酒を片手に夜の時間を楽しむにはぴったりの場所だった。
ダークブラウンのカウチに腰掛けると、拓海がバーテンダーのいるカウンターに行く。やがて、グラスを二つ運んで来て、ブロンズの光沢が美しい丸テーブルに置いた。
「どっちもアルコール抜きだから、安心しろよ」
ちょっぴり意地悪そうな微笑みを浮かべてそう言う拓海に、また少し驚く。
私はそこそこ飲めるけれど、さすがにここで酔っぱらって軽卒な行動はしたくないと思っていたので、正直、お酒を出されたら半分くらいで止めておくつもりだった。
悪い男なら、これをチャンスに散々アルコールを飲ませるとか良からぬ発想をするものだが、真逆のアルコール抜きとは!
私に出されたのは、レモンのスライスが浮いたジンジャエールで、彼はノンアルコールのマルガリータらしい。
レストランを出た時はものすごく動揺していて、頭がきちんと回転していなかったけれど、私も少しずつ落ち着きを取り戻していた。
それは拓海も同じだったようで、レストランではどこかピリピリしていた様子だったけれど、さっきよりリラックスしたような表情でカウチに身を沈めている。
レザージャケットを隣のカウチにかけて、ボタンをいくつか外した真っ白なシャツと、カーキ色のパンツとシンプルなのに、何故かオシャレに見える。体格はいかにも水泳選手のように大柄で強健な作りなのにすらりと長身だから、カウチに寄りかかって足を組むだけで様になるのだろう。
「さっきの」
急に話しだした拓海にドキリとして目を向けると、彼はじっとこちらを見ていた。
「返事は急がなくていい。ただ、絶対に今は断るなよ」
「……うん……」
流石に私も、初めて受けたプロポーズを即座に突き返すほどの心臓は持ってなかったし、自分の気持ちもよくわからないから、返事を急かされないことにほっとして頷いた。
拓海はマルゲリータをテーブルに置くと、身を起こして私の顔を覗き込んだ。
「勿論、いい返事なら今、聞くぞ」
そう言って、膝に置いていた私の左手に触れた。
「明朝に婚約指輪を買いに行く事だって出来る」
「随分と気が短いね。なんでそんなに慌ただしいの」
やっぱりこういう強引さは間違いなく拓海だ。
「プロボーズは指輪を先に準備してからするものだとわかってる。でも万が一、指輪につられてOKしてしまったら、君はきっといずれ後悔する。それに俺は、理央が本当に欲しいと思うものを買いたいし、君も自分で選べば覚悟を決めて心変わりはしないはず」
予想以上に私の性格は解っているらしいと驚く。
「でも、やっぱり拓海は変だと思う」
「なにが」
「だって、本当に、お互いろくに知らないのに、よくプロポーズなんて考えつくよね。もしかして、年齢的なものもあるの?」
疑問に思うことを正直に聞くと、拓海は少し考えるように黙り込んだ。それから、顔をあげて私を見ると、ちょっと照れたように笑う。
「いや、それはない。女と違って、男はあまり年齢は気にしない。俺自身、結婚なんか殆ど考えた事なかったし、漠然と40歳前くらいかなんて思ってた」
「駐在の話が出たから?」
「違う。でもそれは、逆に外野向けの理由付けになる」
「逆に……って意味がよくわからないんだけど」
「急いでプロポーズした理由を周りに聞かれたら、駐在で日本を離れるからと言えば、誰でも納得してそれ以上聞かないだろ?」
「そうか、それは、確かにそうかもね」
「実際は、いわゆる、一目惚れってやつだろうな」
「えっ」
あっさりと言われたその言葉にびっくりしていると、拓海は苦笑した。
「まさか、28歳になって一目惚れなんてことを経験するとは思わなかった。文字通り、一目理央を見てすぐにわかったんだ。俺が結婚するのはこいつだって。そうと気がついたら、時間が経つのを待つ意味なんかない」
「……」
私は信じられない思いで拓海の顔を見つめる。
彼は、私が思っていることと同じ運命の瞬間の話をしている。
しかもその相手が私だったと。
私はずっと、自分の愛する人に出会ったら、一瞬でわかると思ってきた。それが、夢みたいな話だと周りに笑われながらも。
彼は本当に、私がその運命の相手だと信じているのだろうか。
もしかして、本当は彼こそが、私の愛すべき人なのだろうか。
「理央の、掴みどころのない性格も、人付き合いが不器用そうなところも含めて、全部1人で独占したいと思った」
「……っ」
私の弱点とも言える、性格的な難点までしっかり指摘され、思わず赤面した。
あの短い交際期間でよく、そこまで見抜いたものだ。
私なりに猫をかぶっていたつもりだったのに……
「素直になれない可愛げのないやつだし、デートしてもどこか他人行儀で、なかなか殻を割って中を見れなかった。でも、俺は理央が不器用なだけだと知っている」
「どうして、そんなことを言い切れるの?冷たい女だって言われ慣れてる私が、不器用なだけってどうして……」
「港を散歩してて、俺が飲み物を買いにいって戻って来た時に、理央がしゃがみこんで何かしていたんだ。後ろから見ていたら、君は、傷ついて道路のど真ん中でもがいていたカマキリを捕まえて、草むらに放してやってた。しかも、何か話しかけているのが見えたしな」
「な、、っ、なんで、黙って見てたのよっ、盗み見なんて最低っ!」
恥ずかしさで頬が熱くなるのを感じて、思わず両手で頬を押さえた。
実は、私は割と、昆虫が昔から好きで、蝶やテントウ虫、カマキリやバッタ、セミあたりなら迷うことなく触れるし、かわいいとも思っている。友達が、絶対に男の前で昆虫好きとバレない様にしろというから、男性の前で昆虫に遭遇したら、あえてキャーとか怖がる演技はしなくても、基本的にあまり興味がないフリをしていたのだ。
拓海は怒る私を見て何故か楽しそうに笑う。
「寝ている俺にブランケットを掛けたりもしてたし。俺が起きないよう、ものすごく注意しながら、物音ひとつ立てずに。俺がわざとそのブランケットを落とすと、また拾って掛けてた」
「……っ」
「人に見られないところでしか、優しく出来ないんだろ?不器用だよな」
「……もう、この話、止めようよ……拓海、お願いだから」
私はぐったりしてカウチの背もたれに寄りかかった。
すべて見られていたとは。
私の心のパリケードを次々と容赦なく剥がしていく拓海に、完敗だ。
「ほら」
拓海は満足げに微笑んだ。
「理央の口から、初めて、お願い、という言葉を聞いた」
「……」
もう言い返す気力もなく、私は黙って苦笑いした。
そして急に、ものすごく疲れた気がした。
この数時間の間に、一年分の驚きを味わったせいだろう。
到底、思考がついていかない。
私は時計に目を落とした。
もう、11時になっている。
「私、そろそろ……表に、タクシー停まってたよね」
アパートの住所のメモを取り出そうとバッグに手を入れたら、拓海の手が伸びて私のバッグを取り上げた。
驚いて顔を上げると、拓海は反対の手で私の手を掴む。
ドキリとして息を飲んで彼を見た。
「俺がそう簡単に君を帰すと思う?」
「……さっき、無理矢理にどうこうしないって、言わなかった?」
注意深く掴まれた手を振りほどくと、拓海は静かに微笑んだ。
「言った。嘘じゃない」
「じゃぁ、帰ってもいいでしょ?バック、返して」
立ち上がって拓海の隣のカウチに置かれたバッグを取ろうとすると、同時に彼が立ち上がり、私より早くバッグと自分のレザージャケットを取った。
言っていることと、やっていることが真逆じゃないか!
非難するつもりで見上げると、拓海はまた、私の手を取りすぐに歩き出した。
「一緒にいるくらいは許されるだろ?理央を傷つけることは絶対にしない」
「……そんな事言って……」
「プロポーズの返事待ちの間に、自分の墓穴を掘るような行動を取る男はいない。俺を信じろよ」
既にラウンジを後にして、バッグを人質代わりにエレベーター前まで連れて来られ、私はまだ逃げられない自分自身にパニックになっていた。
この手を振り払って、彼を突き飛ばしてバッグを奪い返せばいいことなのに。
心が揺れている。
それを、認めているかのように逃げ出せない私。
そしてさらに、その事実を知っている拓海。
はっと気がつくともう、拓海がカードキーで部屋を開けるところだった。
背中を押されて、1、2歩と足を踏み入れてしまう。
中は広々としてキッチンまであるアパートタイプの部屋だった。モノトーンをベースにダークオレンジで統一されたシックな色合いで、控えめな灯りに照らされるインテリアが、高級感のあるモダンな雰囲気を作っていた。
「最近はアパートタイプの部屋にしているんだ。簡単な食事も作れるし、いかにもホテルという部屋よりリラックス出来るし」
拓海はそう言って、窓に近づくとダークオレンジのカーテンを全開した。
大きなガラスの窓一面に、パノラマ夜景が映って、下を走る電車まで見えるその眺めに目を奪われ、私も窓に近づいて下を見下ろした。
東京のように煌煌とした派手な美しさではなくて、灯りの数も色も少なめだけど、ヨーロッパの古都らしい美しい夜景。
「すごく、綺麗」
車のライトが光の川のようにゆっくりと道路を流れて行くのに見とれていると、拓海が後ろから私を抱きしめた。
「……っ、拓海っ」
反射的にその絡みつく腕を振りほどこうとすると、耳元で彼が独り言のように呟いた。
「昨晩は、一睡もしていないんだ」
「え?」
「理央の返信を読んで、今日の待ち合わせのメールを送り返した後、ずっと眠れなかった。正直、今は、死ぬ程、眠い」
ものすごく疲れたような声だったので、びっくりして振り返ると、目を眩しそうに細めて本当に眠そうだ。
「プロポーズするのに、あんなに気力を使うとは思わなかった……」
今にもそのまま倒れ込みそうに、背中にずっしりと体重をかけて来るので、慌てて両手で支える。このまま倒れられたら、フロアに潰されてしまいかねないし、寝かせたらそっとここから出て行けばいいんだと気がついて、私は彼を支えてベッドまで歩いた。
拓海はどさりと音とたててベッドにひっくり返った。
「悪い、水、くれる?」
「水?」
「キッチンの冷蔵庫にボトルが入ってる」
言われた通りにキッチンから水のボトルを持って来て、ひっくり返っている拓海に渡そうとしたら、そのまま勢いよく手首を掴まれ、あっと思った時には拓海の真上に覆いかぶさるように倒れ込んでいた。
「……っ、拓海!」
つまらないイタズラにひっかかったと急いで身を起こそうとした途端、彼が寝返りを打ち、一瞬で上下が反転し、私の真上に彼の顔があった。
押し返そうとしたけれど、拓海の目がとても穏やかで優しく私を見下ろしているのに気がつき、何故か身動きが出来なくなる。拓海は、しばらく黙って私を見つめて、それからゆっくりと身を屈め私の耳もとに唇を寄せた。
「今晩は、キスだけで我慢する。逃げるなよ」
ドキンとして体が緊張する。
やめて、という言葉が喉まで来ているのに、言おうとして開いた口からは、なにも声が出て来ない。
拓海の唇がゆっくりと私の首から頬を伝い、滑るように唇と重なる。
彼のキスは、まるで私の命を奪うようだ。荒々しい情熱に圧倒され意識が遠のきそうになると、そっと緩めてしばし呼吸を許し、そしてまた、飢えた獅子のように荒々しさを増していく。
もう、頭の中が空洞になってしまったのじゃないかと思うくらい朦朧としていると、拓海が唇を離して私を見下ろした。
「理央。愛しているんだ」
やっとの思いで目を開けて、拓海の潤んだ目を見つめた。
「君を、俺の妻、と呼びたい」
「!」
耳にしたこともないその言葉に、ドキンと大きく心臓が鼓動した。
全身に鳥肌がたって、寒気さえ感じる。
否応無しに感情が昂り、自然と涙が浮かんで思わず瞬きをした。拓海は、そんな私を優しい目で見つめたまま、少し掠れた声で呟いた。
「俺を、愛するようになってほしい。君に愛されたい」
「た、拓、海……」
これ以上こんな言葉を言われ続けたら、正気で居られなくなりそうだ。
「どうしたら、俺を愛するようになるんだ?どうしたらいいのか、言ってくれ」
独り言のように呟く拓海。
私を両腕で抱きしめていたけれど、やがてすっと力が抜けたようにその腕が緩む。
そっと拓海のほうを見ると、目を閉じて規則的な寝息を立てて眠りに落ちていた。緊張と動揺で限界まで来ていた私はほっとして、大きく溜め息をついた。
もしかすると、私の拓海への気持ちは、好きという感情以上のものに変化したのかもしれない。でもそれは、女性が夢見るプロポーズという大事件からくる、一時的な変化かもしれなかった。
ただ、今こうして側に身を横たえていることを、嫌だとは思えなかった。
この部屋に来る事も、キスされることも、拒否しようと思えば出来たのに、私は逃げなかった。
それは、愛されているんだと感じたからだろうか。
受動的な安心感や幸福感は、確かに居心地がいいものだろう。
でも、私が彼を愛していなかったら、側にいたってそれは偽りの愛の姿だ。
私は、自分の気持ちがわからなかった。
だんだん、まぶたが重くなってくるのを感じる。何度か瞬きをするが、その速度が遅くなっていく。何かの音にはっと目を見開き、なんとか身を起こそうと動いたら、それまで脱力していた拓海の腕が動いて、もう一度私を抱き直した。振り返ると彼がうっすらと目を開いて私を見て、私の頬にキスをすると、また、眠りに落ちる。耳もとで聞こえて来る拓海の呼吸音を聞いているうちに、私もついに睡魔に負けて、重いまぶたを開ける努力を断念したのだった。
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