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最初の一週間

騒々しい来訪者

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どこかのアパートの呼び鈴が鳴っているのだろう。
また繰り返し、呼び鈴が鳴っている。
心地よい眠りを妨げられるのが嫌で、ブランケットを頭から被ってその音を遮る。
しばらくして、足音がして、ガチャリと音が聞こえた。
その音が、このアパートのものだったように感じて、ブランケットから頭を出して、耳を澄ますと、玄関のほうで何か声が聞こえた。
ヴィクターの声だ。
もしかして、サビーナ?
と思ったけれど、でも、彼女が、ヴィクターがここに泊まったと知っているはずがない。
何か様子が変だなと思い、私は起きて、カウチにかけてあったストールを羽織るとベッドルームのドアを開けて、玄関のほうを覗いた。
入り口でヴィクターが何か言っている。
「ヴィクター?なにかあったの?」
そう声を掛けながら玄関のほうへ寄ると、バタン、と音がして玄関の扉が大きく開かれ、こちらを振り返ったヴィクターのその向こうに、思わぬ人物を見て足が止まる。
「た、拓海……!?」
そこに立っていたのは、驚愕して私を見ている拓海だった。
「……なんで、ここに」
と言いかけて、よく考えたら、彼は私の滞在先を知っていたことを思い出す。
顔色を変えた拓海が、私を凝視した後、いきなりヴィクターに飛びかかって、荒々しく壁に押し付けた。
「おまえ、誰だ!」
ヴィクターの首を締めそうな剣幕で凄む拓海に、私は仰天して走り寄った。
「やめて!離して!違う、拓海!」
「なんだって」
歯ぎしりをしながら、凄まじい殺気を帯びた目で私を見下ろす拓海に対し、ヴィクターは両手を挙げて無抵抗の様子を見せ、苦笑いしている。
「説明しろっ」
「する!するから、ヴィクターを離して!」
私は必死でそう言いながら、ヴィクターの肩をきつく押さえつけている拓海の腕を引っ張った。拓海は、じっとヴィクターの顔を睨みつけながら、少しずつ腕から力を抜き、やがて、静かにその手を離した。
「……こいつが、ここで何をしているのか、単純明解に説明しろ」
拓海が押し殺した声でゆっくりと聞く。
私は深呼吸をして、ヴィクターの目の前に立っている拓海を引っ張って、反対側の壁のほうへ押しやった。
「下の階に住んでいる友達で、閉め出されたから、泊めただけ」
「何言ってるんだ!旅行で来たアパートの階下に住んでいる男を泊めるなんざ、ふざけるのもいい加減にしろ!」
「でも友達だし、危ない所を助けてもらった恩人なの!」
「助けてもらった?」
「今朝、駅で変な奴らに絡まれていた時に、たまたまヴィクターが居合わせて、助けてくれたんだよ」
そう言うと、拓海はひどくショックを受けたように目を見開いた。
「駅で、絡まれた?まさか、電車で帰ろうとしたのか?」
「うん、後から、バカなことしたと思ったけど……」
「……っ、なにやってるんだ!」
悲鳴に近い声で拓海がそう呟いた。
しばらくの沈黙の後、ホールの下でガチャリとドアが開く音がし、「ヴィクター?」とサビーナがヴィクターを呼ぶのが聞こえた。この騒ぎで、サビーナも目を覚ましたんだろう。
「やっと戻れそうだ。なんか、悪かったな、リオ」
ヴィクターがリビングに戻ると、ジャケットを持って来て、そのまま部屋を出ようとした時、拓海が彼の肩を掴んだ。何をする気かとドキリとしたら、拓海が低い声で謝罪を述べるのが聞こえた。
「勘違いして悪かった」
「気にするなよ。状況的に至極当然の反応だし」
ヴィクターが笑って拓海の肩を軽く叩くと、拓海が苦々しく笑った。
「理央を助けてくれたことも、感謝する」
「たいしたことじゃない」
ヴィクターは笑ってそう言うと、拓海の背後にいる私を振り返り片手を挙げて合図すると、部屋を出て行く。階段を下りて行く音を聞きながら、拓海がゆっくりと扉を閉めた。
ものすごく、気まずい沈黙。
閉めた扉に両手をついたまま、私に背を向けていた拓海が、ゆっくりと振り返った。思わず1、2歩と後ずさりしながら見上げると、さっき見た凄まじい怒りを帯びた表情は消えて、逆にどこか悲しそうな、苦しげな目をしていた。
何も言えずに黙っていると、拓海は大きく溜め息をつき、私の手を取ってリビングのほうへ歩き、さっきまでヴィクターが寝ていたソファに腰を下ろした。促されて、私も素直に隣に座る。
黙ってホテルを抜け出したこと、軽率にも電車で帰ったこと、そして、男友達を部屋に泊めて誤解されたこと、いくらでも責められる原因はある。ただ、ヴィクターの件に関しては私は悪いことをしたとは思っていない。
「何から言えばいいのか、わからない」
拓海はうんざりしたようにそう言って、私を見た。
「謝るよ。勝手に、ホテルを出た事も、電車で帰ったことも。でも、ヴィクターは友達だし、危ないところを助けてもらったし、閉め出されてたから」
「……助けてもらった相手なら、理解出来ないでもない」
思ったよりすんなりと納得した様子なので意外に思っていると、拓海はじろりと私を睨んだ。
「けど、誰が見たってあれは勘違いする状況だっただろうが」
「それは、確かに、そうだけどさ……」
「ホテルで目が覚めたら姿がなくて、まだ外は暗いし、きちんと帰れたのか気になって様子を見に来たら、理央が泊まっているはずのアパートの玄関に、Tシャツ1枚の寝起き姿の男が出て来た。驚いていたら、続けて、明らかに同じく寝起き姿の君がベッドルームから出て来たんだ。気が動転して、あいつをはり倒すところだった」
それを聞いて、自分が思い切りすっぴんだったことを思い出し、恥ずかしくなってうつむく。
まだ拓海にすっぴんを見られたことはなかった。
「ちょ、ちょっと私」
どんな顔になっているのか分らないけれど、鏡を見に行こうと立ち上がりかけたが、拓海が私の手を掴んでソファに戻される。直視されるのが嫌で、下を向いていると、不満げな声が聞こえた。
「話をしている最中に何処行くつもりなんだよ」
「話は、聞いてる!聞いてるけど、その……」
鏡を確認したいとは言えず、私は諦めてそこから動くのを止めた。
「なぜ、黙って帰ったんだ」
「それは……1人になって冷静に考えようと思って……」
「だったら、俺を起こすか、俺が起きるまで待つとか考えなかったのか?朝にはきちんとタクシーで帰すつもりだったんだ。まさか、夜明け前に電車に乗ろうだなんて、ここは平和な東京とは違うんだぞ」
「うん……軽卒だった」
私は頷いた。
急いで帰りたかったのは、あのまま一緒に居ると自分の気持ちがますます分らなくなるような気がして、少しでも早く一人になって自分と向き合いたかったからだった。
拓海は両手で頭を抱えて、呻くように呟いた。
「しかも、変なやつらに絡まれたとか、あいつに助けてもらったとか……最悪じゃないか」
「最悪?」
助かったんだから、最悪とは言えないだろうと思っていると、拓海が溜め息をついて顔をあげた。
「俺が、最悪だって言っているんだ」
「なんで?どうして、拓海が?私じゃないの?」
「安全に送り帰すことも出来なかった。変なやつらに絡まれるなんて時に、助けることも出来なかった」
「それはでも、拓海のせいじゃなくて、私が軽卒な行動を取ったからだよ」
「理央」
拓海が私を振り返った。
「ここを出て、北欧を一緒にまわらないか」
「えっ?」
突然何を言いだすのかと驚いて、呆然としていると、拓海が少しイライラしたように腕を組んでフロアを見下ろした。
「……デンマークとスウェーデン、ノルウェーを二日単位で回る予定で、あまりフリーの時間はないけど、理央をここに1人で置いて行きたくない」
「それは無理!いくらなんでも、出来る事と出来ない事があるよ」
「チケットやホテルならどうにでもなる」
「そういうことじゃなくって!こっちの友達ファミリーとも週末に約束してるし、もともとぼんやり過ごそうと思って来たから、何カ国も回るなんて」
「……そうか……いくらなんでも唐突すぎるか……」
拓海は元気無く溜め息をついた。あまりにも気を落とした様子で、さすがに私も心配になる。
「あのさ、もうこういう危ない行動はしないし、ゆっくりカフェとか美術館を回るくらいだから、1人でも全然大丈夫だってば」
「……くそっ」
時計を見ながら、短くそう呟く拓海。
イライラした様子で顔をあげると、私を見た。
「もうすぐホテルに戻って準備しないと、打ち合わせの時間に遅れてしまう。夕方のフライトまで、殆ど全部の時間が予定で詰まってる」
忌々しそうにそう言うと、拓海は両腕を伸ばして私を抱きしめた。
「なんでこうも時間が経つのが早いんだ!やっと会えたのに、半日も一緒にいられなかった」
耳もとで聞こえた声が少し震えていたような気がして、まさかと思って拓海の顔を見たら、目が潤んでいて今にも泣きそうに顔を歪めている。
「拓海?」
まさかあの拓海がそんな顔をするとは信じられなくて、驚きのあまりその目もとに触れると、目尻に溜まっていた涙が指についた。拓海はそれを恥じる様子もなく、ただ私を見つめている。
大の男が泣いている。
いや、泣いているというより、涙を浮かべていると言うべきだろうか。
別れが辛くて?
「皮肉なもんだよな」
自嘲するようにそう言って、私の背中を抱いていた腕を緩める。
「なにが?」
彼は困ったように目を細めて微笑み、右手で私の肩にかかっていた髪を後ろへ流した。
「思い切り油断してる君が目の前にいるってチャンスが巡って来た時に、俺は何も出来ないまま出て行くわけだろ」
油断とはどういう事だと思ったが、よく考えたら自分は、すっぴんだし、ルームウェア1枚という状態だったと思い出し、恥ずかしさにぷいと横を向いた。
「こんな格好の時に、いきなり来る拓海が悪い。あんまり、見ないでくれる?」
「それは不可抗力ってやつ」
からかうようにそう言うと、拓海は身を屈めて私の耳もとで囁く。
「想像していた以上に奇麗で見惚れてる」
「えっ」
すっぴんを想像されてたのかと驚き、恥ずかしくなって睨みつけたが、私の視線なんかまるで気にしない様子で拓海は私が着ているミントグリーンのルームウエアの裾に触れた。
「この1枚を脱がせる時間もないなんて、拷問に近い」
「ちょっと!」
エスカレートする発言に思わずその手を振り払った。
いくらなんでも、露骨すぎる!
恥ずかしさで一気に体温が上がった気がした。
「理央」
はっと見上げると拓海の顔が近づいて、キスされるんだと思わずびくっとして目をつぶる。が、鼻が触れたところで止まったので、どうしたのかと思って目を開くと、彼は苦笑いして私を見つめていた。
「……やめとく」
そう言うと、代わりに頬と頬を合わせて私の背中を抱きしめた。
「キスしてしまったらもう、仕事なんか忘れてこのまま君を滅茶苦茶にしてしまう」
ドキリとして思わず押し返すと、拓海は笑いながら手を離し、ソファから立ち上がった。
「パリに君を連れて行くつもりなのに、ここで仕事をしくじるわけにはいかないしな。もう時間だから行く」
「……」
その言葉にどう返したらいいのか分らず、私は黙って立ち上がり、玄関へ向かう拓海の後を追った。玄関のドアを開けると、一歩外へ出た拓海がもう一度私を振り返った。
「理央?」
「なに?」
「見送りのキスくらいしてくれるだろ?」
「え?」
拓海が自分の頬を指差し、身を屈めながら私の肩を引き寄せた。目の前に来た頬を見て一瞬戸惑ったけれど、拒否する気持ちにはならず、軽くキスをする。
「……じゃぁ、気をつけて」
そう言うと、拓海は満足そうに目を細めてにやっと微笑んだ。
「結婚後の予行練習ってことで」
そこまで飛躍するのかとびっくりしていると、一度背を向けかけた拓海が振り返った。
今度は何だと思わず身構えると、拓海はいきなり私を抱き寄せて首にキスをした。
チクリと刺すような痛みが走る。
ひりひりする首に手をあてると、拓海が意地悪そうに笑った。
「これで他の男は寄り付かないだろ?」
「……っ、拓海、これ、わざと」
「また連絡する」
私の非難の声を遮るようにそう言うと、拓海は身を翻して階段を駆け下りて行った。足音が遠くなり、中庭へ続く扉が締まる音が聞こえたので、私は玄関を閉め、バスルームへ行って鏡を見る。
首の左側に真っ赤なアザが出来ていた。
この位置だと、ハイネックのセーターを着ても見えてしまうかもしれない。
つくづくずる賢い男だと呆れたけれど、私はそれを汚らわしいとは思わない自分に気がついていた。
この半日で、私が知らなかった本当の拓海の姿をたくさん見たからだろうか。
別れた当時より、彼との距離感はずっと狭まっていることに気がついていた。
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