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最後の一週間

想いに気づく時

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木曜日の午前中、私は最後の洗濯をしながらiPadで音楽を聴いていた。
Clean Bandit の Rather Be というUKの音楽だ。
このPVは日本の築地や京都で撮影されていて、主演も日本人女優さんなので、聞くだけでなく見るのも楽しい。リズムも心地よく、つま先立ちで軽くステップを踏みながら、洗濯物を干しつつ、PVのテキストを読み歌ってみる。
ふと、何度目かのリピートの時、何気なく歌っていたその歌詞の意味を日本語で考えてみて、なぜか洗濯物を干す手が止まってしまう。

安らぎなんて遥か遠いところ 私達は海も陸も越えて旅をしているの


でも貴方が私と共に居てくれたら もう他に行きたいところなんてない


いつまでだって待てるから その最高の瞬間を


貴方と共にいる限り 私の心臓は鼓動し続けるの


京都から湾への道を一歩づつ


気ままに歩くの


私達は違う人間だけどやっぱり似てる 貴方には他の名前をつけちゃう


バッテリーを交換しよう


貴方がチャンスをくれたら 私は貴方の胸に飛び込むわ


簡単なことじゃないけれど 必ずやってみせるから


貴方なら知っているはずなの 私は貴方の前なら迷わない


貴方と一緒なら 他に行きたいところなんてないの


他に好きな場所なんて何処にもないの




歌詞の意味を頭で考えた途端、猛烈に感情が昂り、泣きたい衝動に駆られる。
なんとか堪えようとしたけれど、視界が一気に歪むのを止められず、思わず濡れたタオルで顔を覆ってしまう。
冷たいタオルの下で、熱い涙が滝のように溢れて来るのを感じた。
なんだろう。
この、胸が詰まる様な、不思議な感覚は。
身を締めあげるような苦しみが押し寄せる痛み。
なのに、心の中で何かが熱く燃えているような高揚感。
相反する二つの感情が複雑にうごめいて、私の魂を右へ左へと激しく突き動かすのを感じた。
きっと、外国という地にいながら、プロポーズの返事を自分1人で決めなければならないという切羽詰まった状況で、精神が不安定になっているからなのかもしれない。
私は、涙で濡れた顔を濡れたタオルで拭くと、音楽を止めた。
この曲は好きだけど、きっと今は聴かない方がいい。
洗濯物を干し終えると、キッチンやシャワールームの掃除にかかる。
このウイークリーアパートは、チェックアウト後の清掃料金35ユーロがチャージされているから、理論的には、片付けもせずに散らかしたままチェックアウトしていいのだが、やっぱり日本人的には、出来るだけ奇麗な状態で出たい。
明日の金曜日は最終日で、ランチを蓮美ちゃんとした後はもう、アパートでゆっくり過ごして、土曜日のフライトに備えたいと思っているので、今日中にアパートの掃除とゴミ出しを済ませる予定だ。
そして、忘れてはならない、拓海への返事。
まだ、完全には決めていない。
でも。
もう、心のどこかで、ギブアップしている自分に気がついていた。
悩むことに疲れてしまった。
このまま、東京で同じ仕事を続けようとは思っていなかったせいもあるだろう。
私も結婚して1人の人と一緒に自分の家庭を持ちたいと真剣に思い始めているのも確かだ。
きっと、これまで交際してきた誰よりも、私のことを理解して、大切に想ってくれている彼。
私も、拓海のことは好きだ。
だったら、断る理由なんて、どこにあるんだろう?
断らなくてはならないという、その理由がわからない。
その理由がないのなら、どう考えたって、このプロポーズを断るという答えに辿り着かない。
堂々巡りの先に、ひとつの解決法が頭に浮かぶ。
彼にテーゲル空港で会う時に、はっきりとした断る理由がないのなら、私はもう、拓海のプロポーズを受ける。
その瞬間までは、もう考えない。
運命の手にゆだねると決めた。
自分で決められないのなら、流されるままに流れるのもまたひとつの生き方だ。
少しだけ何かが吹っ切れた様な気がする。
キッチンのシンクを磨いた後、冷蔵庫の中を覗いてみた。
殆ど使い切って空に近くなった冷蔵庫を見て少し、悲しくなる。
2週間なんてこんなにあっという間に過ぎてしまうものなのだ。たったの2週間だけれど、この街に思ったよりも愛着が沸いてしまった。
センチメンタルな気持ちになったけれど、3月にアナマリーとジョーの結婚式に出席すると約束したから、また半年もしないうちにこの街へ戻って来る。そう思うと元気が出て来る気がした。
掃除を終らせた後は、もう一度、スーツケースや機内持ち込みのバッグを開けて、昨日買って来た衣類をどうにか入れようと試行錯誤をしたものの、やはり、殆ど入らなかったので諦めて、紙袋のまま持って行くことにする。
気がつけばもう4時を過ぎていて、ランチを食べていないことに気がつく。
今晩のメキシカンに備えて、残っていた林檎と少し固くなっていたプリッツエル、コーヒーという朝食メニューみたいな軽食ですませる。それから、今晩は写真を撮ろうと思って、カメラを取り出して、これまでの写真を整理した。ピンぼけや連写のものを削除して、空き容量を作る。
持って行くバッグの準備が終ると、今晩着ていく服をどうするか、開きっぱなしのスーツケースの前で悩む。
そして、1枚のニットワンピを取り出した。先月買ってからまだ一度も着ていない、ボルドーのタイトニットワンピース。
深いワインレッドに魅せられて買ったけれど、会社に着ていくにはデザイン的にどうかと思ってまだ一度も袖を通していない。
胸元は鎖骨が見えるあたりを楕円にくり抜くようなラインの開き具合で、丈は丁度、膝上10cmくらいの短さ、袖は短めで肘と手首の丁度中央あたりまでの長さだ。
秋にはぴったりの、私が一番好きなボルドー色。
このワンピースを、ベルリンで知り合った友人達との最後の食事に行くために着るなら、きっといい思い出になりそうだ。
そのボルドーのタイトニットワンピースを着てみる。
束ねていた髪を下ろしてみると、ボルドーの色が反射しているのか、髪の色がいつもより赤みを帯びたブラウンに見えた。
そして、グレートーンのアイメイクパレッドでスモーキーアイを作る。
シルバーとグレーのトーンでグラデーションを作って、上瞼は目尻までダークブラウンのリキッドライナーでくっきりと、下瞼はペンシルで薄めにラインを入れた。
憧れのジェニファー・ロペスの影響で、彼女のメイクを真似したスモーキーアイが好きなのだが、さすがに仕事には不向きなので夜の集まりにしかしない。
そう言えば、拓海とバレンタインのディナーで会った時も、スモーキーアイのメイクをしていて、彼がとても似合っていると褒めてくれたのだった。でも、あの晩は泣いてアパートに帰ったから、帰宅した時に顔を見たらマスカラが涙で溶け、ホラー映画のようにグレーの涙のラインが頬を伝っていたんだったっけ。
余計な記憶を振り払うようにシャドーパレットを片付け、今回はマスカラはつけずに、ピューラーでまつげはカールさせるだけにとどめ、再度、鏡の中の自分を見る。スモーキーアイのメイクの時は、リップはヌードカラーと決めているので、アプリコットカラーのペンシルを引くだけにする。
黒のハンドバッグに合わせて、同じく黒のロングスエードブーツを履く事にする。本当はあのシルバーのロングチェーンのピアスを付けたかったけれど、片方しかないので、今晩はアクセサリー類は一切つけないことにした。
鏡の中の自分を見つめて、不思議な気分になる。
いつもの自分なのに、何か違うような気がした。
鏡の向こうにいる理央は、いつもと違う目をしているようだ。
何かを探しているような、遠くを見ている様な、戸惑いの目。
私はどうしたんだろう?
このベルリン滞在で、何かが変わったのだろうか。
確かに、いろんなことがあったけれど……
何か、大きな壁の前で呆然としているような、自信のなさそうな、頼りないこの表情。
鏡の中の自分を見ていると、呼び鈴が鳴ったのに気がつく。
我に返って腕時計を見ると。6時05分。
外を見れば少し暗くなって空がオレンジ色に染まっていた。
開けていたリビングの窓を閉める。
エレベーター設置工事の音は相変わらずだが、もう、6階までの足場は組み終わって地上の地盤を固めている作業の音だから、それほど耳障りではない。
私はソファに置いてあったバッグを取ると、玄関に急いだ。
「ヴィクター?」
ブーツを履きながら念のためドアの向こうに声をかけてみると、『Yeah, It's me』とヴィクターの声が聞こえた。
ブーツを履き終えて、バッグを片手にドアを開けると、階段の手すりによりかかったヴィクターが携帯をいじっている。
グレーのデニムに、ホワイトのロングスリーブシャツ、ブラックのジャケットを片腕にかけていて、髪はまたバックに流したスタイルだ。
仕事に行く時は下手したら学生みたい見えるのに、夜の出かける時は随分と大人っぽい。携帯を見下ろしているその横顔もベビーフェイスには見えないくらいシャープだ。
「服装で、随分、雰囲気かわるよね」
そう言うと、携帯から顔を挙げたヴィクターが私を見て、びっくりしたように目を見開いた。青い目の瞳孔がくっきり見えるくらい目を見開いているので、私のほうが動揺して思わず自分を見下ろした。
「私、変かな?!」
もしかしたら、メキシカンのレストランはもっとカジュアルなジーンズとかを着た方がよかったのかもしれない。
「ジーンズに着替えて来る!」
思わず一度閉めたドアを開けようとしたら、ヴィクターが手を伸ばしてドアを閉めた。びっくりして彼を見上げると、ちょっと可笑しそうに瞬きをしながら首を振る。
「リオ、それでいい。すごく似合ってる」
「……そう?もしかして、場違いな感じなんじゃ」
疑わしく思いながらそう聞くと、ヴィクターは私が持っていた鍵を取って玄関の鍵を閉め、またその鍵を私の手の平に乗せた。
「そんなことないって。ちょっとばかり、気取った場所だから」
「ほんとに?」
「ほんと、ほんと。さ、出発」
笑いながら急かすように背中を押され、階段を下りる。
「2週間ってあっと言う間に過ぎるものなんだね」
階段を下りながら後ろを振り返ると、階段を下りながら黒のジャケットを羽織るヴィクターがクスッと笑う。
「それは、楽しい2週間だったってことじゃないの」
「うん、そうだよね。退屈な時は、一日、ううん、たったの一時間さえ長く感じるのに」
「言えてる。気分が時の感覚まで変えてしまうってすごいよな」
きっと今晩はあっという間に過ぎてしまうんだろうなと思いながら、棟の扉を開けて中庭に出る。エレベーターの設置工事をしている人達と作業場のその後ろに、ゴミ捨て場があって、その黄色い大きなコンテナを見てふと立ち止まり、ヴィクターと出会った時のことを思い出して、笑いが溢れる。
「ゴミのコンテナのカバーと格闘していた人間見たの、あれが始めてだった」
同じく思い出していたらしいヴィクターがそう言って笑う。
私も己の姿を想像して笑い出す。
「カバーがあるのに、まさか上に穴が開いてるなんて思わないよ、普通は!絶対、私以外の外国人もやってると思う」
言い訳をしながら庭を通り過ぎ、いつもの柵を開けて立つと、彼が笑顔で私を見て、短く、ダンケ、とドイツ語でお礼を言いながら通り過ぎた。
もう何度か一緒に往復した道を歩いて駅に到着し、電車に乗り込むと丁度ラッシュアワーだったらしく、車内は込んでいたので出入り口近くに立つ。
ドアのガラスの外の夕焼けを見ていたら、電車がトンネルに入った瞬間、ガラスに自分とヴィクターの姿が映り、ドキンとして一歩後退する。犬や猫に突然、鏡を見せた時の反応と同じ感じで何故かびっくりしてしまった。
ガラスに映っている、ドアの上の路線図を見上げているヴィクターの姿に目が留った。
両手をグレーのデニムのポケットにつっこんで立っている。
少し眩しげに目を細め、口元に僅かな微笑みを浮かべた優しそうな顔だ。
その時、上を見上げていたヴィクターが視線を下し、ガラスに映る私を見た。
お互いの視線が重なり、はっとした次の瞬間、電車はトンネルを出て、ガラスの向こうにはまた、夕焼けのベルリンの街並みが広がっていた。
オレンジ色だった空は群青色を帯びたピンク色に染まり始め、交差点や建物の電気の灯りが煌めき始めていた。
私は心を落ち着けようと深呼吸をし、バッグを強く握りしめた。
街の向こうに見える夕日を真っ直ぐに見つめなら、私は静かに、ゆっくりと息をする。
自分の心臓の鼓動の音が、頭の中でドク、ドクと響く。
電車がトンネルを出たその時。
さっきの一瞬で気がついた、とんでもない事実。
そうだ、これなんだ。
あの、訳のわからない不安定な私を作る原因。
どうして、今になって、そんなことに気がつくんだろう。
それに気づいたからといって、どうしようもないのに!
むしろ、知らないままのほうがよかった。
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