3 / 4
幸せのリリィ
3
しおりを挟む晴れていた空がにわかに黒くなり、突然の激しい水音とともに大粒の雨が降ってきた。階下にある自転車置き場の屋根が激しくうねり、その音で目が覚めた。身体を起こすと、優子も不機嫌そうに目をこすっている。時計を見ると朝の七時だった。少しばかり朝寝坊をするのは休日の恩恵のひとつである。友紀は、そのままベッドから抜け出して、ハナコの様子を見に行った。
ハナコの姿はいつも寝ているクローゼットではなく、物置と化している部屋の窓際にあった。大きく耳を立て、目を見開いて磨りガラス越しに外を見ようとしている。どんなに目をこらしても白濁したガラスは透けようもないけれども、ハナコが一生懸命考えた外界との接点である。きっとハナコには、人にはわからない情報が入ってきているに違いない。
「ハナコ」
友紀が声をかけると、ハナコは振り向いてにゃあと鳴いた。
大丈夫よ、と言いながら頭を撫でてやる。気持ちよさそうに目を細めたハナコは、それだけで怖かった雨音のことを忘れてキッチンの方へ駆けていった。関係ない外のことより、大事なのはゴハン。
かわいい動物の模様のついたハナコのお皿を洗っていると、優子も起き出してきた。
「朝ごはん、作るわ。いつものでいい?」
「うん。ありがとう。すごい雨だね」
「そーね。もう少し寝てたかったんだけどなぁ」
冷蔵庫から食パンとマーガリンを取り出しながら優子は大きくあくびをした。カラカラ、ハナコのゴハンが陶器とぶつかって音を立てる。
「ハナコ、ごはん食べてる?」
「問題ないわよ。ちゃんとトイレもしてるし」
「そ。あんまりあたしハナコに構ってやれないから、友紀が面倒見てくれると助かるわ」
起き抜けの優子はどこか気が抜けている。
ぼんやりベーコンを焼いている優子に先回りして、卵の殻を捨てたりパンを乗せる皿を用意してやるのも気づかないようで、さも最初からそこにあったようなそぶりを見せる。普段、誰の助けも要らない風に歩いている優子を支えられている実感を得ることができて、友紀はひそかに満足する。
チン、トースターがパンの焼けたのを知らせると、焼けた目玉焼きとベーコンをその上に乗せ、ケチャップとマヨネーズをかける。湯気の立つカフェオレにふたつ、氷を入れて冷まして、向かい合っていただきます。かじるととろける半熟卵の黄身が、皿に垂れる前に食べきるのがツウだ。
「今日はどうする?行きたいところ、ある?」
「あー、ちょっと疲れたから休みたいな。夕方買い物行くでしょ」
「うん。ついてきてくれる?」
「そりゃね。荷物持ちするよ」
カフェオレを飲み干して、ひとつ伸び。部屋着のままでとった朝食のかすを払いのけて、優子は洗面所へと向かった。友紀は食器を片付けてスポンジを濡らす。ハナコは優子のあとをついて、短いしっぽを立てて走っていく。
貴重な休日の睡眠を妨げた雨はもうすでに止み、ストップをかけられたセミたちが再び鳴き始めていた。
エアコンは時期尚早と、まだスイッチをつけていない。開け放した窓からは、まだ辛うじて涼しい風が流れ込んでくる。これが湿気を含んで熱くなってきたらいよいよクーラーの出番だ。その時のために買った最新のエアコン。端境期に購入したからずいぶん安くすんだ。
友紀はウォークインクローゼットを開け、花柄のティーシャツを引っ張り出した。
出かけるなら、しっかりめかしこんでオシャレをする。家で過ごすなら、ラフな格好がいい。顔を洗い、いつものように薄くファウンデーションを塗った。まもなく、着替えた優子がやってきた。
「最近、いつも化粧してんだね」
「夏だしね。いつも家にいるし、だらしないって思われたくないから」
「あたしは別にいいと思うけどな。友紀、そのままできれいだよ」
「ありがと」
「本気だよ?」
「うん」
笑って返事をしながら、友紀はメイクを終えてポーチを閉じた。ガラガラ、聞きなれた音が近づいてくる。片耳だけ窓の外へ向けて、友紀は視線さえそちらに向けず、優子に寄り添って彼女の肩口に額を置いた。無言で優子が頭を撫でてくれる。カーテンが開いてる。外から見えてしまうかも。落ち込んだルームメイトを慰めるともだち。そんな風に自分に言い聞かせることで、友紀は人の目を避けている。
「私もばかだなぁ」
優子は、聞こえないふりをしたみたいだった。
この日は一日に何度も夕立が降った。
友紀と優子は、空が落ち着き始めた頃を狙って外に出た。一週間分の食材をたんまり買い込んで、優子が半歩先に歩く。太陽がもうすぐそばまで降りてきていて、世界が朱色に染まっていた。道路も、木々も、優子の白いうなじも赤い。両手を広げて赤色を集めて閉じ込める。指の隙間から漏れて逃げていく赤い糸。行き先は辿る前、そこらじゅうに染み渡った赤色に混じって消える。
「ねぇ、あたしたちだけみたい」
「ほんとだね」
「学生のころは、窓の外見て真っ赤だったらはしゃいで飛び出してたな。こういう日って音がなくてさ」
「世界に自分ひとりみたいになるのよね。歩いてる人もつくりものみたいで…」
世界が急に狭くなって、赤色が濃く深くなってゆく。太陽が怖いくらいに近づいてきて、地球が壊れてしまうみたいな。明日なんてもう来ないんじゃないか。世界はこのまま終わるんじゃないか。何度もそう思ったが、次の日は何の変哲もない日常だった。
「早く帰ろ。ハナコが待ってる」
「うん。ごはんあげなくちゃね」
不安になった気持ちを消し去るためか、優子は歩くスピードをはやめた。慌てて友紀はそのあとを追う。
家には、すぐに着いた。ハナコが夕食にありついて、炊飯器が湯気を出すころには、もうすっかり赤色の破片は消え去り、街には街灯がつき始めていた。
優子が先にシャワーを浴びるというので、友紀は下ごしらえを済ませ、打ち水のためにベランダに出た。川にかかる線路を走る電車が強烈な光を放って消えた。すぐに、大勢のサラリーマンたちが降りてくる。
「こんばんは」
声をかけられて、友紀は持っていたバケツを置いた。
「ああ、こんばんは。遅くまでお疲れ様です」
カートの音が軽い。彼の運ぶ荷物の中身はもう空っぽらしい。
「もう、帰り道です。今日はお休みですか?」
「もう、帰り道です。今日はお休みですか?」
「はい」
「僕も、明日は。友人に会いに行くんです」
「そうですか。楽しんできてくださいね」
「ありがとう。あなたに会えてよかった」
嬉しそうに微笑んで、彼は自転車をこいで行った。スーツの波を避けるように、向こう側へ。いつもの通り一度も振り返らず小さくなる彼の背中を、友紀は見えなくなるまで見つめた。ピー、と音がして、米が炊き上がる。網戸を閉めて部屋に戻ると、部屋着姿の優子がこちらを見ていた。
「これ、鍋に入れる?」
「違う。炒めるの。もう煮込む時間ないでしょ」
優子は料理を手伝うのを諦めて、リビングのテレビをつけた。くだらないバラエティの音声を背景に、ダイニングを片付け始める。友紀は手早く食材をかき集め、全部フライパンに放り込んだ。
0
あなたにおすすめの小説
ちょっと大人な物語はこちらです
神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な短編物語集です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
【完結】20年後の真実
ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
公爵令息のマリウスがが婚約者タチアナに婚約破棄を言い渡した。
マリウスは子爵令嬢のゾフィーとの恋に溺れ、婚約者を蔑ろにしていた。
それから20年。
マリウスはゾフィーと結婚し、タチアナは伯爵夫人となっていた。
そして、娘の恋愛を機にマリウスは婚約破棄騒動の真実を知る。
おじさんが昔を思い出しながらもだもだするだけのお話です。
全4話書き上げ済み。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です
朝陽七彩
恋愛
私は。
「夕鶴、こっちにおいで」
現役の高校生だけど。
「ずっと夕鶴とこうしていたい」
担任の先生と。
「夕鶴を誰にも渡したくない」
付き合っています。
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
神城夕鶴(かみしろ ゆづる)
軽音楽部の絶対的エース
飛鷹隼理(ひだか しゅんり)
アイドル的存在の超イケメン先生
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
彼の名前は飛鷹隼理くん。
隼理くんは。
「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」
そう言って……。
「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」
そして隼理くんは……。
……‼
しゅっ……隼理くん……っ。
そんなことをされたら……。
隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。
……だけど……。
え……。
誰……?
誰なの……?
その人はいったい誰なの、隼理くん。
ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。
その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。
でも。
でも訊けない。
隼理くんに直接訊くことなんて。
私にはできない。
私は。
私は、これから先、一体どうすればいいの……?
王族に婚約破棄させたらそりゃそうなるよね? ……って話
ノ木瀬 優
恋愛
ぽっと出のヒロインが王族に婚約破棄させたらこうなるんじゃないかなって話を書いてみました。
完全に勢いで書いた話ですので、お気軽に読んで頂けたらなと思います。
貴方なんて大嫌い
ララ愛
恋愛
婚約をして5年目でそろそろ結婚の準備の予定だったのに貴方は最近どこかの令嬢と
いつも一緒で私の存在はなんだろう・・・2人はむつまじく愛し合っているとみんなが言っている
それなら私はもういいです・・・貴方なんて大嫌い
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる