かぎしっぽの叩くおと。

Rico.

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幸せのリリィ

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 晴れていた空がにわかに黒くなり、突然の激しい水音とともに大粒の雨が降ってきた。階下にある自転車置き場の屋根が激しくうねり、その音で目が覚めた。身体を起こすと、優子も不機嫌そうに目をこすっている。時計を見ると朝の七時だった。少しばかり朝寝坊をするのは休日の恩恵のひとつである。友紀は、そのままベッドから抜け出して、ハナコの様子を見に行った。
 ハナコの姿はいつも寝ているクローゼットではなく、物置と化している部屋の窓際にあった。大きく耳を立て、目を見開いて磨りガラス越しに外を見ようとしている。どんなに目をこらしても白濁したガラスは透けようもないけれども、ハナコが一生懸命考えた外界との接点である。きっとハナコには、人にはわからない情報が入ってきているに違いない。
「ハナコ」
 友紀が声をかけると、ハナコは振り向いてにゃあと鳴いた。
 大丈夫よ、と言いながら頭を撫でてやる。気持ちよさそうに目を細めたハナコは、それだけで怖かった雨音のことを忘れてキッチンの方へ駆けていった。関係ない外のことより、大事なのはゴハン。
 かわいい動物の模様のついたハナコのお皿を洗っていると、優子も起き出してきた。
「朝ごはん、作るわ。いつものでいい?」
「うん。ありがとう。すごい雨だね」
「そーね。もう少し寝てたかったんだけどなぁ」
 冷蔵庫から食パンとマーガリンを取り出しながら優子は大きくあくびをした。カラカラ、ハナコのゴハンが陶器とぶつかって音を立てる。
「ハナコ、ごはん食べてる?」
「問題ないわよ。ちゃんとトイレもしてるし」
「そ。あんまりあたしハナコに構ってやれないから、友紀が面倒見てくれると助かるわ」
 起き抜けの優子はどこか気が抜けている。
 ぼんやりベーコンを焼いている優子に先回りして、卵の殻を捨てたりパンを乗せる皿を用意してやるのも気づかないようで、さも最初からそこにあったようなそぶりを見せる。普段、誰の助けも要らない風に歩いている優子を支えられている実感を得ることができて、友紀はひそかに満足する。
 チン、トースターがパンの焼けたのを知らせると、焼けた目玉焼きとベーコンをその上に乗せ、ケチャップとマヨネーズをかける。湯気の立つカフェオレにふたつ、氷を入れて冷まして、向かい合っていただきます。かじるととろける半熟卵の黄身が、皿に垂れる前に食べきるのがツウだ。
「今日はどうする?行きたいところ、ある?」
「あー、ちょっと疲れたから休みたいな。夕方買い物行くでしょ」
「うん。ついてきてくれる?」
「そりゃね。荷物持ちするよ」
 カフェオレを飲み干して、ひとつ伸び。部屋着のままでとった朝食のかすを払いのけて、優子は洗面所へと向かった。友紀は食器を片付けてスポンジを濡らす。ハナコは優子のあとをついて、短いしっぽを立てて走っていく。
 貴重な休日の睡眠を妨げた雨はもうすでに止み、ストップをかけられたセミたちが再び鳴き始めていた。
 エアコンは時期尚早と、まだスイッチをつけていない。開け放した窓からは、まだ辛うじて涼しい風が流れ込んでくる。これが湿気を含んで熱くなってきたらいよいよクーラーの出番だ。その時のために買った最新のエアコン。端境期に購入したからずいぶん安くすんだ。
 友紀はウォークインクローゼットを開け、花柄のティーシャツを引っ張り出した。
 出かけるなら、しっかりめかしこんでオシャレをする。家で過ごすなら、ラフな格好がいい。顔を洗い、いつものように薄くファウンデーションを塗った。まもなく、着替えた優子がやってきた。
「最近、いつも化粧してんだね」
「夏だしね。いつも家にいるし、だらしないって思われたくないから」
「あたしは別にいいと思うけどな。友紀、そのままできれいだよ」
「ありがと」
「本気だよ?」
「うん」
 笑って返事をしながら、友紀はメイクを終えてポーチを閉じた。ガラガラ、聞きなれた音が近づいてくる。片耳だけ窓の外へ向けて、友紀は視線さえそちらに向けず、優子に寄り添って彼女の肩口に額を置いた。無言で優子が頭を撫でてくれる。カーテンが開いてる。外から見えてしまうかも。落ち込んだルームメイトを慰めるともだち。そんな風に自分に言い聞かせることで、友紀は人の目を避けている。
「私もばかだなぁ」
 優子は、聞こえないふりをしたみたいだった。
 この日は一日に何度も夕立が降った。
 友紀と優子は、空が落ち着き始めた頃を狙って外に出た。一週間分の食材をたんまり買い込んで、優子が半歩先に歩く。太陽がもうすぐそばまで降りてきていて、世界が朱色に染まっていた。道路も、木々も、優子の白いうなじも赤い。両手を広げて赤色を集めて閉じ込める。指の隙間から漏れて逃げていく赤い糸。行き先は辿る前、そこらじゅうに染み渡った赤色に混じって消える。
「ねぇ、あたしたちだけみたい」
「ほんとだね」
「学生のころは、窓の外見て真っ赤だったらはしゃいで飛び出してたな。こういう日って音がなくてさ」
「世界に自分ひとりみたいになるのよね。歩いてる人もつくりものみたいで…」
 世界が急に狭くなって、赤色が濃く深くなってゆく。太陽が怖いくらいに近づいてきて、地球が壊れてしまうみたいな。明日なんてもう来ないんじゃないか。世界はこのまま終わるんじゃないか。何度もそう思ったが、次の日は何の変哲もない日常だった。
「早く帰ろ。ハナコが待ってる」
「うん。ごはんあげなくちゃね」
 不安になった気持ちを消し去るためか、優子は歩くスピードをはやめた。慌てて友紀はそのあとを追う。
 家には、すぐに着いた。ハナコが夕食にありついて、炊飯器が湯気を出すころには、もうすっかり赤色の破片は消え去り、街には街灯がつき始めていた。
 優子が先にシャワーを浴びるというので、友紀は下ごしらえを済ませ、打ち水のためにベランダに出た。川にかかる線路を走る電車が強烈な光を放って消えた。すぐに、大勢のサラリーマンたちが降りてくる。
「こんばんは」
 声をかけられて、友紀は持っていたバケツを置いた。
「ああ、こんばんは。遅くまでお疲れ様です」
 カートの音が軽い。彼の運ぶ荷物の中身はもう空っぽらしい。
「もう、帰り道です。今日はお休みですか?」
「もう、帰り道です。今日はお休みですか?」
「はい」
「僕も、明日は。友人に会いに行くんです」
「そうですか。楽しんできてくださいね」
「ありがとう。あなたに会えてよかった」
 嬉しそうに微笑んで、彼は自転車をこいで行った。スーツの波を避けるように、向こう側へ。いつもの通り一度も振り返らず小さくなる彼の背中を、友紀は見えなくなるまで見つめた。ピー、と音がして、米が炊き上がる。網戸を閉めて部屋に戻ると、部屋着姿の優子がこちらを見ていた。
「これ、鍋に入れる?」
「違う。炒めるの。もう煮込む時間ないでしょ」
 優子は料理を手伝うのを諦めて、リビングのテレビをつけた。くだらないバラエティの音声を背景に、ダイニングを片付け始める。友紀は手早く食材をかき集め、全部フライパンに放り込んだ。
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