理科準備室のお狐様

石澄 藍

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19.交渉の定石

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「何で、あんたがここにいるんだ!?」

 眠気などはふき飛び、布団からガバッと起きあがって身がまえた。
 急にとび起きたのと緊張が相まって、心臓の鼓動が速い。耳がどくどくと脈打っている。

 あきは武道を習っているわけでも、部屋に武器が隠してあるわけでもない。式島がその気になったら、子どもである灼になす術はない。
 しかし、とっさに走って逃げられるよう心の準備だけはした。逃げきれるかどうかは別として。

 あかりも無言で、すぐ隣りに来た。両方の狐の耳がピンとそば立っている。

「ふたりして、そんなに警戒しなくても大丈夫ですよ。無理やり彼女を奪うようなことはしませんので。落ち着いて、話しあいたいだけです」

 逆光で式島の表情は見えないが、ゆったりとした口調は伝わってくる。
 灼は馬鹿にされているような気がして、無性に腹が立った。

「その話はもう断っただろ!! ここから早く出ていけよ!」

 灼の怒声に、相手は怯まない。
 当然だろう、子どもの戯言だ。いざとなれば、自分は無力なのだから。
 せめて燈だけでも逃さなければ、と灼は思考を巡らせる。

「まあ、そういわずに。少しだけ私の話を聞いてください。このままでは、君の大事な燈さんが消えてしまいますよ?」
「え?」

 思いがけない言葉に、灼は口を半開きにしたまま、思考も身体も固まった。
 警戒や怒りといった感情を忘れ、まじまじと式島を見つめる。

「どういうこと……?」

 式島は問いにすぐには答えず、ゆっくり近づいてきた。やがて、灼の近くの学習机の椅子に、勝手に腰をおろした。
 灼が社へ移った際に、どうせ長くは使わないと思いながらも、自分の部屋から運んでもらったものだ。

 部屋に入るときに、礼儀正しくも式島は靴は脱いでいたらしい。優雅に足を組み、話を続ける。

「燈さんは、依代から霊力をもらって存在していますが、灼くんの霊力では絶対的に足りません。燈さんもそれを自覚しているから、霊力の吸収をできるだけ抑えようとしているのでしょう。自分の存在を、できるだけ薄くすることによって……」

 以前に、霊力の吸収を抑えているようなことはいっていたが、存在を薄くするとはどのような意味か。
 嫌な予感がして、灼は隣りの燈を見上げた。

 燈は黙ったまま、こちらを見ずにうつむいている。先ほどまでとは違い、耳までダランとうな垂れている。

「今、燈さんの存在はとても不安定です。力の強いお化けだと聞いていましたが、現在の状態は幽霊と大して変わりません。普通の人から見えないし、ものにも触れられないでしょう?」

 その言葉で、灼は青ざめた。
 思えば、だいぶ前から違和感はあった。それなのに、何故今まで気づかなかったのか。

 あの日、最初に会った日は確かに触れられたのだ。燈が優しく抱きしめてくれた。
 しかし、その次に会ったとき以降、燈はもう物体をすり抜けるようになっていた。社の戸や自分に、触れることができなかった。
 それは霊力の強い老婆から霊力の弱い自分へと、依代が移ったからではないか。

「何で、今までいってくれなかったんですか? 存在が薄くなっているって、どういうことですか? 消えるなんて、嘘ですよね……?」

 思わず質問攻めにした。最後のほうは、懇願に近かった。
 燈はしばらくいい淀んでから、ようやく口を開いた。

「大したことじゃないわ。わたしとしては、あなたに死なれるほうが問題だったし。……むしろ、わたしなんて消えてしまったほうがいいと思っていたから」
「燈様!?」

 最後のほうは、灼の悲痛な声と重なった。

 燈は暗い顔をしていた。それは、老婆が亡くなったとき、灼に責められたときの表情と似ていた。
 全てを自分ひとりで背負ってきたのだろう。
 そして、目の前の少女は今、その重さに耐えきれなくなっているように見えた。

「本当はね、灼の霊力を強くして、わたしが消滅するまでの時間稼ぎができたらいいと思っていたの。お化けは幽霊ほどに存在が薄くなってしまえば、間もなく消える。だから、わたしが消えてしまえば、灼は解放される」
「燈様が消える必要はありません! 僕が早く死ねば、別の霊力の強い奴が依代になるだけですから、何の問題もありません!」

 静かな部屋に、灼の必死な訴えが響く。
 今鏡を見たら、泣きそうな、さぞかし情けない顔をしていることだろう。

「そんなこと、いわないで。灼が死んだら、悲しいもの」

 燈が目に涙を溜めて、弱々しく笑う。

「でも、どうやらわたしが消えるまで、灼の身体が保たないみたいだから。わたしが他に移れるのなら、そのほうがいい」

 燈が乞うように、式島を見つめる。
 灼はその視線の間に身体をすべり込ませ、遮った。

「納得できません!」

 灼は、なおも食いさがる。
 式島が灼を静かに見やった。

「灼くん、いいですか? 君は自分が死んでしまえばいいというが、その次の依代は誰です?」

 式島の言葉に、灼は考えた。

 今まで「依代は本家から出すもの」、「養子を依代にしたことはない」といっていた。
 つまり、もし自分が死んでも、その法則に従う可能性が高い。そして、その条件を唯一満たすのは――。

「お兄さんになりませんか? 本当に、君はそれでいいのですか?」

 その問いに、灼はハッとした。

 あの兄に燈を渡さずにすんでよかったと、この間考えたばかりではないか。兄はきっと、燈を大切に扱うどころか人としても扱わないだろう。
 自分の死で燈を救えるならよいと思っていたが、これでは果たして救いといえるのだろうか。

 灼の考えこんでいる様子を見て、式島が追いうちをかける。

「私と契約するなら、燈さんを大切にすると約束しましょう。消滅もさせません。それに、何も永遠に返さないとも、いっていません。君の霊力が強くなれば、燈さんの依代になっても平気でしょう。そのときは、君にきちんとお返しします」

 式島が目を細めて笑う。まるで悪魔の誘惑のようだと、灼は思った。

「そうですね、拝み屋の資格をとれるくらい……それほど立派になったら、燈さんを返しましょう。それまで修行がてら、私の仕事を手伝ってもらいます。こき使うので、覚悟してください。最近、管理者就任も決まったので、いろいろと忙しいんですよ」

 式島がとってつけたように、両手を肩の高さまでもちあげ、やれやれといった動作をする。
 そのまま立ちあがり、灼の前に立った。

「どうですか?」

 手は後ろに組んだまま、顔を近づけて、ニコニコと灼の顔を覗きこむ。
 灼はため息をつき、とうとう観念した。

「……わかりました。燈様をお願いします」
「任せてください」

 灼が頭を下げると、式島は満足げに頷いた。

 そのやりとりがひと段落するまで、黙って見ていた燈がおもむろに口を開いた。

「……ところで、何でわたしの名前を知っていたか聞いてもいい?」

 燈が式島を見て、疑わしげに少し目を細めた。

 思いかえせば確かに、式島は灼が呼ぶ前から名前を知っていた。依代以外は知らないはずの「燈」という名前を。

 灼も気になり、式島をじっと見つめる。

「そうですね……例の燈さんの話をしていた知りあいから聞きました。その方は燈さんにすごく会いたがっていましたので、またいずれ紹介しましょう」

 式島は笑顔のままだが、考えが読めない笑いかたをしていた。
 そのとき、灼も気になっていたことを、ふと思い出した。

「じゃあ、僕からも聞いてもいいですか? あなたは何故、うちの兄のことまで知っていたんですか……?」
「ああ、それなら、君に逃げられていた数日のうちに全て調査済みです。交渉相手のことを調べるのは、交渉の定石ですよ。弱みなどを見つけられたら、万々歳です」

 大変よい笑顔で返された。

 この男は敵にまわしたくない。灼はつくづく、そのように思ってしまった。
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