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3.明滅
しおりを挟む春弥様は私が愚かにも血を求めて夜の森へ向かった日から、何かと私の身を案じるようになった。
出かける私を引き留めようと、夜にあれをしたい、これをしたいと言うようになってしまわれた。
私との約束があるため、春弥様は言いつけを決して破らなかったが、お昼に衝撃のデートを終えた今宵は、いつもと引き留め方が違った。
「ねえ、ナギ。夜のお外は危ないよ」
玄関の前までこっそりついていらっしゃる春弥様は珍しい。春弥様は私の夜のお出かけが食事だと勘違いしており、いつもはベッドの上で、「夜ご飯、ボクもいつかはナギとお外とでご一緒する」と私の口調を真似てみたり、「寒いからお外で食べたら凍っちゃうよ」などと心配されたりするのだが。
主が声をかけてきたというのに、このまま黙って外へは行けないので、扉にかけた手を引いてゆっくりと振り返る。
「夜風はお体に触りますよ、春弥様」
恭しく身を屈め、頭を下げる。お辞儀をすればそれだけで春弥様は分かってくださり、いつも屋敷のお部屋へと踵を返される。
「ごめんね、引き留めて。ボクのために夜、町に出てること、知ってるの」
「春弥様、ご心配をおかけして申し訳ありません。お気づかい痛み入ります。すぐ戻りますのでどうか、安心してお休みください」
いつからだろうか。夜のお出かけが食事目的ではないと気づいたのは。
春弥様のためのおつかいだと知っていて、眠ったふりをして私を送り出していたのだろう。
「ボクも十八になったら、ナギと一緒におつかいするからね」
「ええ。お約束していますからね」
春弥様はぎゅっと抱きつかれてから、「気をつけてね」とうれしそうに廊下へと戻られていった。
なぜか胸にざわめきが広がる。もちろん、春弥様のためのおつかいはこなしてくるが、それだけでは済まないからだろうか。渦巻くわだかまりの正体を私は掴めずにいた。
夕暮れを見つめる春弥様のお顔は美しく儚げだ。陽が傾きはじめるこの刻、春弥様はお屋敷に戻らねばならならない。この門限は過保護すぎる治秋様の言いつけだった。
だが門限が破られたことは一度もない。子煩悩な父親の姿もない。
思い描いた夕暮れの主の姿はすべて私の夢想であって、春弥様がお外へ出てしまったのは、私を追って夜、外へ飛び出したそのたった一度きりだ。
それからは屋敷の外へ出られたことがなかった。一度だけの夜の外出は私のせいなので、春弥様は亡きお父様の言いつけを破ったことにはならない。
夕闇へ踏み出す度に、春弥様とお外で過ごす幻想が頭を渦巻き、胸がひどく痛む。春弥様がもし外の世界へ足を踏み出されたなら、この上ない幸せと好奇心で胸をいっぱいにして、風を感じながら愛らしく舞うだろう。
恥も道徳心もかなぐり捨てて、死骸の血を啜れば春弥様とともに、外を日の下を歩ける。だが意地を張ってでも、幸福へ連れ出したくない理由が私にはある。
外は自由にあふれているのと同時に、悪に汚れていた。
私は春弥様が十八になられる前に、この悪に始末をつけようと機会をうかがっている。願わくば私の思いが通じて心を入れ替えろと、今日も今日とて、顔も合わせたくない男の元へ通う。
この男は黒桐屋の屋敷の周りをうろつき、侵入を試みようとしていた不届き者の一人である。
「治秋も趣味が悪い。誰とできた子かも知らないガキを屋敷に置いとくばかりか、当主の座を明けわたすなど、とうてい受け入れられない話だ」
暖かく優しい幻想に刃が突き刺さり、春弥様以外が永遠の闇に塗り潰される。今なんと言ったか。
しかし、誰がなんと言おうと、春弥様が黒桐屋家の現当主であり続けることに変わりはない。故人である治秋様の唯一の実子であることも、覆ることはない。
「治秋様の遺言は絶対だ。春弥様が当主であることは変わりえない!」
「まだ未成年だろ、あのガキ」
男の顔がニタリと笑い歪む。汚らわしい闇の気配が満ちる。
「俺が後見人、〝ナギ〟だ」
そうか。こいつは、最初からそういうつもりで近づいたのだ。そうして春弥様を傀儡にするつもりなのだ。
「偽のナギさんよお、あんたは一生、ガキのために働かないとなぁ」
「ころ、シテヤル……」と小さく吐く。「ん? 聞こえねぇーな」「ニセモノ、詐欺師」と下卑た嗤いが次々にさざめく。
「貴様らはユルサナイ」
視界が暗転した。景色が果てしない夜に染まっていく。
春弥様……。そのたった一つの、儚き光だけは離さないようにと、目を逸らさずに、視界が明滅する痛みに耐え続けた。
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