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1.夜半のホウリング
2 狂鳴の音
しおりを挟む片方だけのヘッドライトがフラフラと夜道をくねる。車体はみるみる縮み、車輪は一直線に並んで転がっていく。小石が跳ね飛び、段差で車体が揺れる音が不規則に繰り返されていた。
闇色に濡れた髪がなびく。ライトグレーのトレンチコートがはたりはたりと翻る。
まだ幼さの残る面の彼、月見 郁の顔に、容赦なく冷たい空気が叩きつけられていた。
あまりの痛さに彼は口をきつく結んで、時折うなり声を上げていた。
忙しなく鼻を啜ったり、薄い手袋越しのかじかんだ手で、自転車のハンドルを握ったりを繰り返している。
ちっとも紛れることのない突き刺す痛みの中、郁は妙案を思いつき、無理やり口角を上げた。先刻、生徒に問うた設問の意味を考え、頭の血液を巡らせてみようと彼は試みる。
彼が敷物に包んだのはなんだったのか。追っ手の正体は何者なのか。彼はそのあとどうなったのか。
暗闇に包まれた草むらに、紅い光が向けられる。ふいにさわさわと風が、漆黒を纏った髪を揺らした。導かれるまま、吸い寄せられる足と、忙しなく脈打つ鼓動。吐き出される息は霞んで背後に流れていった。
アルバイト先で切ったタイムカードに記録された時間は、真夜中に近かった。静けさに支配された夜道が彼の懐に、より一層寒さを忍びこませる。
あと十分ほどは逃げてもこの極寒からは逃れられない。体温が奪われ続ける耐久レースに挑み、踏ん張らなければならなかった。
今日は特段、冷えこむせいか、焦燥感と悪寒で冷や汗が止まらない。息が詰まる。肺が痛む。誰か、誰か。
助けを求めて伴走者に、と郁は目線を上げる。今夜は月の模様がはっきり浮かんでいた。
目に残光を植えつける月。まぶしくて目が痛い太陽。お供に選ぶなら、月と太陽のどちらがマシだろうか。
マシもなにもそもそも、月も太陽も届くことのない天上の存在であることは比べようもない。が、昼間の暖かな灯火の陽光より、冴えた夜の月の方がより一層冷気を注いでいると思えてしかたない。
郁は真冬のかき氷のような月にゾッとしながら、ハンドルを握る指を小刻みに揺らしていた。
思考さえも凍りつく今は都合よく考えてしまってもいいと郁は頭を切り替えかけた。彼の中に流れこんでくるのは、いつものお守りのフレーズだ。
〝全ては己の解釈次第である。〟
郁は書物からそう学び取り、自分の中に落としこんだ。そうだった。月と太陽、どちらがマシか、マシじゃないかと言っている時点で、善いか悪いかの二択になってしまっていたのだ。
悪とは想像の産物で、脳内から追い出してしまえば、そんなものは最初からなかったのだと気づく。全ての物事の発端には悪はいないし、なんにだって善い面は必ずある、と。
見ない振りをしてもつきまとう、寒月。今まで冷たい奴だと凍えながら、恨めしく早合点していた孤高の存在を改めて眺めてみると、常に視界の中にいることに彼は気づいた。
冷たい響きを帯びているのにどこまでもついてきてくれるなんて優しい奴だ。郁はそう思うと心がじんわりして、血が巡り始めるのを感じた。
無慈悲だと思われがちであるが実は頼もしくて、凛としている様を言い表すのにピッタリな言葉を探し当て、郁はつぶやく。
「地球みたいだ」
そうだ、そうだ。盛大な返事が沸き起こる。地鳴りが体の底から彼の肺腑を揺らし始めた。突然の激しい振動に、急激に跳ねる心臓が彼の呼吸のペースを乱していく。
息が詰まる、苦しい。
為す術もなく、小柄な体躯がサドルから緩やかに崩れ落ちた。
氷のように冷たい息が肺から吐き出されるのを彼は感じていた。悪寒と地響きで震える体を抱きしめながらも、彼は顔を上げる。なにが起こったのだ、と目だけ動かし、原因を探した。
淡い月明かりのステージライトが注がれ、大きく開けた視線の先に目を見張る。月明かりに踊る影絵。浮かれた奴らをズタズタに切り裂く人影。影の切れ間から、月よりもずっと温度も風情もない、青白い光が顔を出す。
人足の途絶えた夜道で、歩道橋を舞台に狂演が繰り広げられていた。
鈍い閃光に分断された両側の暗闇が歪に変形し、隆起していく。散った影の残骸が吸いこまれるように集まり、ひときわ巨大な黒い獣が姿を形作った。
黒い巨体に埋もれた、死んだ魚の目を思わせる眼球は渦を巻き、見る者の心を引きずりこみかねない勢いであった。枯れ木の枝を集めたようなおぞましい牙を剥き出しにして、宵闇に紛れた骨ばった切っ先を振り下ろす。
その凶刃に臆することもなく、一本の刀身が閃光のごとく、斬りこんでいった。
「とっとと失せろ、底なしの大食いが」
地と影の縫い目が浮いた瞬間、ひときわ強い風が沸き起こり、辺りの木々を激しく揺らした。地響きに似た断末魔が静寂を引き裂く。孤狼の慟哭が響き渡った。
郁の体も同調し、より一層わなないた。地の底から、堪えきれない叫びを上げて天を仰ぐ。裂かれた獣のものなのか、彼の叫びなのか、もはや区別はつかなかった。
無意識下、打ちひしがれる郁の体に裂かれた痛みが伝って、その身を焦がしていく。彼の頭の中で、嘆きの鐘がガンガン打ち鳴らされていた。郁は胸が張り裂けそうになる、その音の響きを知っている。でも、音が胸を貫く前に、悲しみも苦しみも全て消えてしまうのだった。
鐘の音はやがて寝言に似た響きへと変わっていく。はやね ていじ やすみ おきゅうりょう――。
繰り返されるうわごとの中で、意味を持った音が繋がり、言葉となって郁の鼓膜を揺すった。せ、んせい……おきて、せんせい……たすけ……
大きな鐘の音が打ち鳴らされ、電池が切れたように叫びが止まった。鈍い衝撃を頭に受けた郁は、てっぺんから下りてくる痛みに構え、身を固くした。
「うるせぇんだよ、迷惑野郎が。何時だと思ってやがる」
拳を振り上げたまま月を背に、影を被った暴君が、うずくまる姿を見下ろしている。輪郭が闇夜にぼやけていたが、彼の瞳は燻ることなく、燃え盛っていた。
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