月負いの縁士

内山 優

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8.追想のファントムペイン

84 守護者の記憶_教えの庭

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 甲高い、声がした気がする。泣くように歌う、その音を思い出さなくてはならないのに。手を伸ばすほどに、現実から遠ざかっていく感覚を成清なるせ葉月はつきは覚えた。
 幼子が声を上げながらこちらに向かってくる。聞こえていた声は、子どもの声だったのだろうか。しかし、今は声の主が誰だかどころではない。子どもが駆けてくる理由など決まっている。もう避けようがない成清は、とっさに身を固くして構えた。

「にーちゃん! 迎えに来たよ」
 走ってきた子どもは飛びついた相手は成清ではなかった。子どもを抱きとめたその後ろ姿が、誰かに似ていると彼はぼんやりと心当たりを頭に思い浮かべる。
「ありがとう、ミノリくん」
「パパね、今日もお仕事だって」

 「は?」と成清はピントを合わせ、目を瞬かせた。にーちゃんと呼ばれ、返事をした目の前の彼は、よく知る声をしている。紺桔梗こんききょう色の柔らかな髪、艶やかな黒曜こくようの瞳──彼は見紛うことなく、月見かおるだった。しかし、すがり寄る幼子は成清の知らない顔である。
 やや離れたところで幼子を見守る人物の姿を成清は認めた。その姿はあり得ない空似だと成清は目を見開いた。

「セツキ。にーちゃんとあそんでもいい?」
「郁さんにはお勉強がありますから」
 跳ねるような声色とは対照的な落ち着きの払った涼しげな声。見た目は郁と瓜二つである青年は、セツキと呼ばれていた。セツキという名をどこかで聞いたはずだ。成清が必死になって記憶をたぐり寄せている間に、「ねぇ!」と鋭い声が飛ぶ。

「おめめがキッてなってるおにーちゃん。かおるにーちゃんと遊ぶの?」
 郁にしがみつきながらミノリが、郁の背後の成清に潤んだ目を向けていたのである。彼は眉間にしわを寄せて答えた。
「お、俺がか?」
「わ、成清くん。いたんだ、今、避けるからどうぞ通って」

 郁は成清を認識している。当たり前だ。彼とは羽純はずみ大学で会って、それから、ことあるごとに裏月うらづきに関わる事件に巻きこまれているため、否応なしに成清と付き合いがある。にもかかわらず、どこか郁の言動に距離を感じるのを成清は不思議に思った。

「にーちゃんと先に約束してるの、僕だからね!」
 「ミノリ。郁さんはお勉強をするのです」とセツキにたしなめられても、ミノリは郁から離れなかった。
「大丈夫。宿題は早く終わらせるから。そうしたら遊ぼうね」
 なにがなんだか成清にはちっとも把握できない。郁と瓜二つのセツキという者に、郁の弟らしき子どもに。振り返れば、見覚えのある校舎に成清は目を見張る。古びた旧校舎と違わぬ、檻を彷彿とさせるツタが這う、校舎の姿が彼の目いっぱいに映る。

「ここ、十二月しわす学園じゃねぇか」
 そこは成清が力を得るために通い、影斬かげきりとして学び、青春のすべてを失った場所だった。
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