アリスと女王

ちな

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色のない世界

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「ん…い、たた…っ」

体の痛みで目を覚ました凛は、ゆっくり意識を浮上させました。

まず目に飛び込んできたのは、蓮と一緒に覗き込んだ広場と同じ石造りの床でした。冷たくも温かくもなく、ただじゃりじゃりとした感覚があるだけです。ゆるゆると瞬きをして、何が起こったのかを思い出しました。

はっとして右手を握ると、薄い金属の感覚があります。鍵はしっかり手に握っていたようでした。

「…蓮」

ほとんど空気を逃がしたような声で、無意識に名前を呼びます。当然というべきでしょうか、返事はありません。

重たい瞼が下りようとして、はっと目が覚めました。自分はあの闇に飲み込まれるように、梯子から転落したのです。

がばっと起き上がると、体のあちこちが悲鳴をあげました。

「いっ、たぁぃ…っ!」

ぎしぎしと軋む体を無理やり起こし、あたりを見渡しました。

高い天井と、広い空間。耳鳴りがしそうなほどに、そこはなんの音もしませんでした。壁はあちこちくり抜かれて光が差し込んでいます。窓からは青い空しか見えません。恋しくて仕方がなかった青空ですが、感動している暇などありませんでした。

「なに、ここ…?」

ただひたすら広いその場所は、音はもとより色がないのです。モノトーンでもセピアでもなく、石造りの床もレンガの壁も、色の認識をしているはずなのに、何色かと聞かれたら答えられない…その不可思議な空間は、凛を酷く混乱させました。

それから、吹き抜ける風にも温度がないのです。冷たくもなく、温かくもなく、草の匂いや外の匂いのどれも感じられません。

「よくここまで来れたね」

「ひゃあっ!」

突然降ってきた声に、凛は大袈裟に飛び跳ねました。

この空間を見渡した時、確かに誰もいなかったはずなのです。ただ広い空間が広がっているとばかり思っていたのに、数メートル先に男性の姿がありました。

彼は、椅子に座っているようです。…というのも、凛はようやく椅子というものを今初めて認識したかのように、突然現れたのでした。

無意識に握りこんだ銀の鍵だけが、今ここに自分が存在しているという唯一の感覚でした。

「どうやって来たの?」

ぼわん、と反響したようなその声に聞き覚えがあります。

凛の心臓が早鐘を打ちました。

嘘でしょ。言いかけて、慌てて口を結びます。

蓮によく似た声でした。

会いたかったとか無事だったのとか、そんなことは全部吹っ飛んでしまった凛は、ふらりと立ち上がります。雲の上を歩いているようにふわふわした意識で、一歩足を踏み出しました。

部屋の向こう側へ…行きたい、というよりは、行かなければと思ったのです。

ふらふらと覚束無い足取りは、なんの音も鳴らしませんでした。あちこちくり抜かれた壁からは確かに風が吹き抜けているはずなのに、何も感じません。音も匂いも、色さえない不可思議な空間で、凛はゆっくりゆっくり歩みを進めます。

「いい子だね」

“蓮”はにこりと笑いかけました。

凛はとうとう部屋の半分くらいまで進みました。

そこで凛の足がぴたりと止まってしまいました。ふと、手のひらの銀色を思い出したのです。

進んではいけない。行ってはいけない。

腹の底から気泡のようにふくふくと浮上する危険信号に、蕩けてしまったような、靄で霞んだ意識がふつっと緩く浮上したのです。大音量でかけていたクラシック音楽が、ぶつりと止まった感覚に似ていました。

“蓮”は首を傾げて見せました。追って揺れる金色の髪がさらりと肩に掛かる姿は、どう見ても蓮でした。

「どうしたの。さぁ、おいで」

クスクス笑う声までそっくりです。おかしそうに緩く握った手を口元に当てる仕草、困ったように下がる眉…凛の目がじわりと潤みました。会いたかった愛しい人。初めて好きになった人。凛は今すぐ駆け出したい気持ちでいっぱいなのに、どうしても足が前に進みません。

手のひらにぎゅっと握った鍵が、鉛のように重くなっていました。

「れっ…」

「ここまでおいでよ、アリス。ようこそ。歓迎するよ」

──アリス。

その単語に、凛の霞んだ意識が完全に覚醒しました。

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