夕凪と小春日和を待つ日々

阪上克利

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振り返ると激変していた

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 夕凪ゆうなが生まれ、今のアパートに引っ越してから4か月が経った。
 引っ越してきたころには5月の中旬でこれから暑くなる時期だったが、暦が9月にもなるとそろそろ風が冷たくなってくる。
 そして夕凪ゆうなは相変わらずよく泣く。
 本当にちょっとしたことで泣く。

 もしかしたら何かを感じる力が強いのだろうか……。

 夕凪ゆうなが泣くと……あたしはこの小さな存在に感心する。
 何かを訴えたくて小さな身体のすべてを使って強く泣くのだ。
 大人になればそんなことはしなくなる。もちろん泣くことなどはしないけど、大人になれば何か訴えたいことがあっても全力で訴えることがあるだろうか。
 赤ちゃんは打算なくそれがやれるのだ。
 
 そして、その訴えは基本的には母親に向けられているものだ。

 あたしは必要とされている……。
 それを強く感じるから、夕凪ゆうなが泣くと可愛くて仕方ない。

 ただ……それでも泣き声というものは、やっぱりストレスになるときもある。

 赤ちゃんの泣く理由はよく分からない。
 泣くたびにあやしたり、おっぱいやミルクをあげたり、オムツを変えてあげたり……。
 それでも泣き止まない時はベビーベッドにそっと夕凪ゆうなを置いて、小さなキッチンのベッドの見える位置に椅子を置き、暖かいコーヒーを入れる。

 ストレスをため込まないためだ。
 夕凪が泣いている声を聴きながら温かいコーヒーを飲む。

 何で泣いているのか分からないが、彼女はあたしがコーヒーを1杯飲み終わる前には必ず泣き止むのである。
 そういうことは、育児教室で教えてもらっていたから、育児に不用意なストレスを抱えなくて済んだ。一人で参加して不安だったけど、育児教室には行っていて本当に良かったと思う。

 それにしても赤ちゃんのオムツはかわいい。

 と言っても、あたしにも抵抗がなかったわけではない。
 ただ……仕事で高齢者のトイレの介助やオムツの交換をしているうちに赤ちゃんのオムツなど簡単だし可愛いと思えるようになってきたのだ。
 高齢者のオムツは、大人であるから赤ちゃんに比べたら身体も大きく、関節も固くなって動かしづらかったりしているし、認知症のために排泄の処理を嫌がって汚れたままになっているのを、半ば強引にきれいにしたりするので、かなりの労力が必要だ。
 そこから比べると赤ちゃんのオムツ交換は、まず赤ちゃんが気持ち悪いと言って泣いて、変えてくれるようにせがんでくるわけだし、交換するにしても身体が小さいし、股関節なども柔らかいし、正直労力はあまりかからない。
 介護の仕事は重労働ではあるものの、そういう意味ではいい仕事に巡り合えてよかったと思っている。

 その日はいつもと同じような夜だった。

 仕事は18:00に終わり、職場の横の託児所に寄って夕凪ゆうなを迎えに行き、バスに乗り、スーパーによって帰ってきたら時計は19:00を過ぎていた。
 夕凪にあげるミルクをすぐに作り、お風呂を沸かす。

 家事をしながらここ1年で生活が激変したことに気づく。

 1年前は……普通の女子高生だった。
 何も考えず両親からもらったお金を使っていた。
 ちょっとした買い物はすべてコンビニで済ましていたし、持っているものはブランド品が多かった。

 今は違う。

 コンビニでは高すぎるので買い物は基本的にスーパーに行く。
 気が付けばコンビニには行かなくなっている。
 当り前のように出てきていた食事は自分で作らなければいけなくなったし、当たり前のようにきれいになってたたんでタンスに収納されていた洋服は、自分ですべて洗濯して、綺麗にしてからたたまなければならない。
 新しい洋服などは買えない。
 家計を考えなければならないからだ。

 世の中、人が生活するのにこんなにもお金がかかるとは思わなかった。
 だから洋服は麻里さんに教わった古着屋でなるべくそろえるようにしているし、持っているものも安くて丈夫なものが多い。

 何と言っても家に帰ってからが、やることが多い。
 まず、夕凪ゆうなを抱っこ紐で抱っこしたまま朝、干した洗濯物を入れる
 お風呂を沸かす。
 お風呂が沸くまでの間、ミルクを熱湯で作り、水につけて冷ます。
 そしてわずかに空いた時間で洗濯物を畳む。
 お風呂が沸いたら夕凪ゆうなをお風呂に入れる。
 そのあと自分が入浴するが、赤ちゃんを長い時間ほったらかしにはできないので、さっと洗ってすぐに出る。温まる時間などない。
 ミルクがぬるくなったところで夕凪ゆうなに飲ませる。

『けほっ』
 ミルクを全部飲んだ後、夕凪ゆうなを抱いて優しく背中をトントンと叩くと小さな声でゲップを出す。
 するとすっきりしたのか……気分良くなったのか……夕凪ゆうなは気持ちよさそうに眠ってくれる。

 ここから今度はあたしの食事が始まる。
 休みの日に作り置きしておいたおかずとたまに母親が持ってきてくれるおかずを保存しておき、仕事の日はそれを食べるようにする。
 テレビはつけない。
 テレビの光と音で夕凪ゆうなが起きてしまうかもしれないからだ。
 パソコンやタブレットの類はお金の関係で置いていないからネットを見ることはない。
 それにあったとしてもやはりテレビと同じ理由で夕凪ゆうなが起きてしまうかもしれないのでたぶん見ない。
 それでラジオを小さい音で聞いている。

 女子高生だったころはネットを見ないなんて……テレビを見ないなんて……
 ちょっと信じられなかった。
 ラジオなんか車に乗るときぐらいしか聞いたことがなかった。
 しかしラジオはなかなか重宝するのだ。
 ニュースを定期的に教えてくれるし、役に立つ情報も言ってくれる。最新の音楽も流れる。
 何と言っても何かをやりながら聞いていられる。

 あたしは炊飯器のご飯をお茶碗にもって、お湯を沸かした。
 ラジオを聴きながら食事をするときが一日の中で唯一ゆっくりできる時だと思う。
 でもそんなひとときも夕凪ゆうなの泣き声で邪魔されるときがある。

 今夜もそんな感じだった。
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