書庫『宛先のない手紙』

中村音音(なかむらねおん)

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亀。

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亀は冬、水槽に氷が薄っすらと張った早朝に逃げてしまいました。

水路までの道行きは3メートルほどでしょうか。
人には5、6歩でも、足の短い亀のこと、どれだけ手足を繰り出したか、きっと途方もなかったことでしょう。


亀は水路で見つけたものです。
緩やかな流れに足首つけて、甲羅ほどの石にしがみついていたところをすくい上げたのです。

夏の暑い日のことでした。

ここは滅多なことで猛暑になることはございません。昼は手団扇ほどのものでございます。
かえって夜露に気を遣い、カーディガンなどを羽織らねばたまらないこともございます。

風鈴は涼むのではなく、涼みを伝える鳩時計のようなものでしょうか。
亡くなった父の形見、南部鉄でございます。

そんなさなかのことでございました。
とくに涼む必要などないわけでございますから、なんとはなしに水路を覗き込むと、亀が石にしがみついているではありませんか。

水路には、雷魚がのたうっていたり、ハヤが飛んだり、中にはライチュウが我が物顔をお天道様に向けてぱくぱくしていたりするものですから、おもしろくって、ときどきのぞき込むようにしていたのでございます。

亀は微動だにせずそこに凛としておりました。
白の亀なら彫像とみまごうほど、そのいでたちに威光のようなものを感じてしまうほどでした。

わたくしはしばらく観察してみることにしました。

小川ほどの可愛らしい水路ではございますが、それは飽きることのない現世の走馬灯でございます。
移りゆく時間の流れに逆らって、そのお亀さんが時間を止めて高雅なひと時を過ごしていました。これからどう生きていくのか、死んでいくのか、さて、朽ちてでもしてみましょうか、といった哲学めいた面持ちをしておりました。

もう二度と動かないのではないかしら、そう感じた時。
その亀、右手をくくっと、まさにくくっと突き出したのでございます。

それが私には手招きに見えてしまって。

もちろんわたくしが水に入り横たわり、添ってあげられるわけがありません。
亀ごときに、そこまでする義理はございません。
ですからわたくしのほうが、亀畜生をすくいあげてやったのでございます。



餌は書生にまかせきりでした。
わたくしは日にいちど、玄関の外に置いたびいるのぷらすてぃっくケース水槽を真上から見下す程度でございました。
それはそれは、りりしい動きをする亀でございましてよ。



秋になりまして、亀の庭にモミジが落ちました。
その風流なこと。
滑稽にも亀は葉が顔に張りついても、瞬きひとつで煩わしさが消えるよに、払うこともせず悠然としておりました。



冬になり霜が降りますと、朝早くには水槽の水が薄ガラスに変化することがあるようになりました。

冬は本当にきらいです。
夏でさえ肌寒さを感じる土地ですので、冬は加減を知らないのです。
これから迎える春。
沈んだ気持ちも上向く春。


わたくしは春に向かうとつい心が浮かれてしまうのです。

毎年春にはうれしいことが起こるからです。


今度の春にも、わたくしは密かに期待を寄せているのです。
これだけお世話した亀ですもの。きっと恩返しをしてくれる。
そう思って期待に胸をときめかせておりましたのに。



その亀が今朝逃げ出してしまったのです。
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