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栓を抜く。

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 林業やりたいなんて、若い頃は露とも思わなかったさ。都会のアスファルトの上で、摩天楼の上のほうまでエレベーター乗って仕事して、終わったら地下に潜って20分揺られたらまた高層マンション昇って明日に備える。
 乾いた毎日だったよ。上下と地下とまた上下の毎日。
 ある日、自分の毎日を絵に描くみたいに想像してみた。上下、底で左右、また上下。
 器みたいにも思えたが、その下になにがあるのかに思いを馳せたとき、それはワインのコルクみたいにも思えた。

 それは、大事なものに蓋をする人生。

 そう、大事なものの蓋。

 そんなふうに自分の日々をとらえると、なんだか虚しくなる。

 そもそも都会というところは、大地の息づかいに蓋をしたところだ。
 とくに大都会の蓋はどでかい。大地の呼吸を、その息の根を止めた蓋。
 地面というものは、とうの昔に置いていかれていた。
 かつてそこに大地があったことなど想像することさえできなくなってもいた。

 その巨大な蓋の上に突如降って湧いた小さなコルク人生。私はそんな毎日をずっと送ってきた。
 同じ会社に、似た時間の地下鉄に乗って出かけていく。
 仕事が終わると、仕事に応じて帰宅時間が変わる程度で、行き先の同じ電車で帰宅し、眠るべき自宅に戻る。

 そんな刻まれた溝をなぞるだけの毎日の中で、ささやかな抵抗も試みていた。
 毎日同じ電車に乗っても、今日の印を探そうとしていた。
 そうでもしないと、今日がいつの「今日」だったのか、わからなくなる。ルーティンの毎日は、来年の今月今夜も、再来年の今月今夜も変わらない。やることは変わらないのに、年だけとっていく。
 実際そのようにして年を取った。今日、役職が取れて、晴れて平社員に戻った。
 晴れて、なのか、これまで手応えという手応えを残せなかった虚無感に目を泪で腫らして、なのか、そこのところは今でもあんまり深く考える気はしない。

 印を電車の中吊りに見つけたときのこと。
 そこには『林業説明会』とあった。
 林業かあ。考えたこともない職業だった。
 どんな仕事で、どんな生活なのか、少し考えてみた。印として。
 考えるためのヒントも書かれていて「林業は木がなくならない限りなくならない仕事です。」と書かれていた。
 なくならない仕事かあ、と今日の印を重ねる。
 活版の営業がデジタル化の驀進ばくしんで会社ごと吹き飛び、転職した身としてはそそられるキャッチコピーだった。

 それはきっと、来る日も来る日も木々を見まわって切って束ねて出荷する毎日。
 それだけなら、今の仕事とルーティンという土俵上では変わらない。
 だけど、今の仕事と違って雨が降れば傘などさしていられないだろうし、ドカ雪の日には雪をかき分け行進しなければならないようにも思えた。「電車止まったんで」と電話1本で休むわけにはいかない。
 暴風雨で木々が倒れた緊急事態を考えてみた。
 すると、会議に間に合わない企画書制作に歯を喰いしばる自分の姿が浮かんできて、気分が悪くなった。どうしてまた、こんなときにそんなことを思い出さなければならないのだ?
 どの仕事をしていても、厄介で乗り越えなければならない問題は起こる。そのことだけは確信をもって言える。
 だからといって、夢に浮いた気持ちを現実が地に引き戻すにはタイミングが悪すぎる。

 行ってみるか。
 私はそう思った。
 これまでは印だけで終わっていた点が、ターニング・ポイントとなるような気がした。
 もちろん、現実はどうなるのか、わかったもんじゃない。年齢的な問題で、雇われないことはまず間違いないだろう。
 だけど、このまま同じ会社に勤めていても、あと5年。長くて10年。どれだけ今日という日に印を刻みつけても、印を残したという記録だけしか積みあがらない毎日。

 あたって砕け散ってみるのも悪くない、と思った。
 それに、少しは社会を知った老猾ろうかつさも兼ね備えているはずだった。そう信じたかった。
 白黒で決着をつけるつもりもなかった。そのあたりのしたたかさは身に着けている。
 それに少しの蓄えはある。
 雇われなくたって、でできることから始めればいい。白でも黒でもない、グレーのどこかにしがみつく選択。そのきっかけを見つけに行く。

 都会での生活は、味わい尽くした。
 説明会は今度の日曜日。その日を境に私は蓋のように生きてきた人生を抜け出す。それこそコルクを抜いて見せるのだ。
 頭の中には、蠢く大地に触れる足が、すっかり忘れてしまっていた生きる者の息吹を感じ始めていた。空は手を広げ、雨が肩を抱く。
 そこには人工物の吐き出す不快な息はない。
 あと5年、長くて10年が、レコードを裏返したみたいに新しい曲を奏で始めた。
 社会人人生の寿命があと数十年に伸びた思いだった。
 ワインボトル? いやシャンパンボトルの栓を抜く音が頭の内側に鳴り響いた。
 自分への前祝いの宴が始まる。
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