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第二章 儀式(セレモニー)
儀式(セレモニー):百聞は一見にしかず
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「掛湯がすんだら、こっちに来い」
と湯槽から健悟が云った。
「はい」
と柳川が云って、掛湯をし、健悟の左隣りに落ちついた。
「髪、切ったのか」
「はい。役作りのためです。消防士には短髪の方々が多いですから」と柳川は、その決意を認めてもらおうとでもするかのように、左手で頭を数度さすった。そして、はにかんだようすで、消防士に見えますか、と訊いた。
「短髪なのは消防士だけじゃないぞ。自衛官も警察官もだ。板前なんかもそうだな」
「はい」
「映画とかドラマなんかを観て研究していたらしいな。署長に聞いたぞ。それでも足りないからうちの署に来ることになったんだってな」
「これまで演じてきたのは、パティシエとかコンビニのバイト店員とかで……」
「菓子屋とかコンビニとか、消防の世界とは、かなりかけ離れているじゃねえか」健悟は笑った。
「演技の幅を広げたいんです。でも、オファーの来る役柄が、いつも似たようなものばかりで……。もちろん仕事を頂けるのはありがたいんですが、デビュー作の――」
「見習い美容師だろ? そのイメージがついちまったってわけだ」
健悟が先取りして云った。
「ご存じなんですか?」
健悟は両手に湯を汲み顔を濯いで、
「うちの署におまえのファンがいてな。耳にタコができちまったよ」
「ひょっとして小柳さんですか?」
柳川の口から小雪の本名を聞いて、健悟はムッとした。小雪とは「小柳美雪」の苗字と名まえから一字ずつとったものだ。
「知りあいか?」健悟は声を低くした。
「今日、署長室で会ったんです。デビュー当時から応援してくれていて、先月のファンクラブの集いにも来てくれました」
今日会ったとすれば、あのとき、あの会議室で小雪は萬屋に黙っていたことになる。健悟は何か事情がありそうだと思ったが、小雪の話題が続けば柳川が調子に乗ってゆく気がして、
「それはともかく、こんどは消防士だなんて、ずいぶんとイメージが違うな」
「いつか演じたいと思っていた役なんです。主役のオーディションも勝ち取りました。ですから――」柳川は健悟の顔を直視した。「――役作りのためなら何でもやります」
しばらく沈黙が流れた。
「覚悟できてんだな?」
健悟が低い声で訊くと、柳川は潔く、はい、と応えた。健悟はもう一度、本気だな、と念をおした。柳川はまたも、はい、と応えた。健悟はひとまず、柳川に対する心を決めた。
「じゃあ、まずひとつ教えてやろう」
柳川の顔つきがかわった。
「さっき髪型の話をしたよな。俺には、今のおまえが消防士には見えない」
「なにか足りないところが……」
健悟は、それには応えず、
「筋トレはジムだけか?」
「パーソナル・トレーナーに自宅用のメニューを作ってもらっています。大会にも出ているような人なので信頼しています」
「俺たち消防士の基本は腕立て、懸垂、スクワットだ。これに訓練が加わる。署内にトレーニングルームもあるが、見てくれの軀を作るためじゃない。俺たちに必要なのは、現場で使える軀だ」
「現場で使える軀って……」
よし、引っかかった。健悟は、心のなかで拳を天に突きあげた。
「百聞は一見にしかずと云ってな――」
健悟はいきなり立上った。湯の吼える音が浴室に響いた。驚いて目をぱちぱちさせている柳川を跨ぎ、その顔のまえで仁王立ちになった。胸を張り、両手を腰にあてて、柳川の目のまえにすべてを差しだした。
「――これが消防士の軀だ」
柳川は、その自信に満ちた立ち姿をふり仰ぎ、目を見張った。
「いいか。筋トレするなら、着る物に負けない軀を作れ。映画のなかで防火服を着ていようと、普段着を着ていようと、それからカレンダーで脱ごうと、この軀なら消防士だとわかる。俺をよく見ろ。どうだ」
「ボディビルダーとは……違います」
「あたりまえだ。あいつらのなかにはステロイドを使うやつもいる」
「消防士の仕事で、これだけの軀になったんですか?」
健悟は腰を突き出して、笑った。
「ステロイドなんか使ったら、俺の相棒が使いものにならなくなる」
「あ」
「こいつも実戦で鍛えているぞ」
健悟は、右手で相棒をつかんでゆっくりとしごきはじめた。柳川が混乱しているような表情を泛べた。健悟は、その表情に満足した。
――おい、健悟。ちょっとやり過ぎじゃねえのか?
相棒が呆れたように語りかけた。
――つべこべ云ってないで、さっさと起きやがれ!
――どうなっても知らねえぞ?
――どういう意味だ?
――好きにしろ。またあとでな。
うえから見おろす柳川は、これを直視してはいけないという道徳観と、大きくなるところを見たいという好奇心とのあいだで戸惑っているようだった。けれどもその眼差しは、ヒーローに憧れる童心そのものだ、と健悟は思った。時に傷つき時に倒れながら巨悪と戦い、最後には勝利する。そうした圧倒的な力に、男はひれ伏し、つき従い、また自分もそうありたいと思うものだ。健悟は、柳川がどこまでついて来られるのか益々試してみたくなった。
「柳川、驚くなよ」
健悟は右手を放した。
――相棒が勢いよくそり返って臍を叩き、そのまま腹にべったりと貼りついて、仏塔のように聳え立つ。そして臍まわりの毛が後光のように射す。さらに掛湯をしただけのその仏塔の頂きが、麝香とも乳香ともつかぬ、重厚で甘く神秘的な法香を放つ――。
柳川はしばらく口をあんぐりと開けて、健悟の勃起を見つめていた。それから拝むような顔つきで健悟を見あげた。健悟は、どうだと云わんばかりに勝ち誇ったような表情を泛べるだけで、何も云わなかった。柳川はふたたび屹立を見た。そして顔を近づけながら、両手をゆっくりと差しのべようとした。
――おっと、柳川。そこまでだ。
「さてと、そろそろ背中を流しもらおうか」
健悟はさりげなく右脚を引きあげ、左脚を軸に反転すると、湯のなかを波を立てながら突き進んで、湯槽からあがった。風呂椅子に腰をおろそうとすると、遅れてやってきた柳川が、ちょっと待ってください、と云ってカランの湯を洗面器に汲んで、風呂椅子にかけた。
健悟は腰をおろした。
柳川は湯気でくもった鏡にシャワーの湯をかけて手で水を拭い、段になった置き場から洗面道具のセットを手にとって健悟の背後に回った。ほどなくして健悟の耳に、洗面器に石鹸を泡立てる音が届いた。
健悟は頸だけふり返って、
「おまえ、ソープ行ったことあるだろ」
柳川が石鹸の手をとめた。
「その泡立てるやつ、ソープ嬢みたいだぞ」
柳川はさっと顔を赤らめて、いいえ、とだけ応え、また石鹸を泡立てはじめた。
健悟は腕時計を見た。もっと揶揄ってやるか。なりふり構わず急いで準備をしている柳川を背に、健悟は儀式の続きを考えた。
と湯槽から健悟が云った。
「はい」
と柳川が云って、掛湯をし、健悟の左隣りに落ちついた。
「髪、切ったのか」
「はい。役作りのためです。消防士には短髪の方々が多いですから」と柳川は、その決意を認めてもらおうとでもするかのように、左手で頭を数度さすった。そして、はにかんだようすで、消防士に見えますか、と訊いた。
「短髪なのは消防士だけじゃないぞ。自衛官も警察官もだ。板前なんかもそうだな」
「はい」
「映画とかドラマなんかを観て研究していたらしいな。署長に聞いたぞ。それでも足りないからうちの署に来ることになったんだってな」
「これまで演じてきたのは、パティシエとかコンビニのバイト店員とかで……」
「菓子屋とかコンビニとか、消防の世界とは、かなりかけ離れているじゃねえか」健悟は笑った。
「演技の幅を広げたいんです。でも、オファーの来る役柄が、いつも似たようなものばかりで……。もちろん仕事を頂けるのはありがたいんですが、デビュー作の――」
「見習い美容師だろ? そのイメージがついちまったってわけだ」
健悟が先取りして云った。
「ご存じなんですか?」
健悟は両手に湯を汲み顔を濯いで、
「うちの署におまえのファンがいてな。耳にタコができちまったよ」
「ひょっとして小柳さんですか?」
柳川の口から小雪の本名を聞いて、健悟はムッとした。小雪とは「小柳美雪」の苗字と名まえから一字ずつとったものだ。
「知りあいか?」健悟は声を低くした。
「今日、署長室で会ったんです。デビュー当時から応援してくれていて、先月のファンクラブの集いにも来てくれました」
今日会ったとすれば、あのとき、あの会議室で小雪は萬屋に黙っていたことになる。健悟は何か事情がありそうだと思ったが、小雪の話題が続けば柳川が調子に乗ってゆく気がして、
「それはともかく、こんどは消防士だなんて、ずいぶんとイメージが違うな」
「いつか演じたいと思っていた役なんです。主役のオーディションも勝ち取りました。ですから――」柳川は健悟の顔を直視した。「――役作りのためなら何でもやります」
しばらく沈黙が流れた。
「覚悟できてんだな?」
健悟が低い声で訊くと、柳川は潔く、はい、と応えた。健悟はもう一度、本気だな、と念をおした。柳川はまたも、はい、と応えた。健悟はひとまず、柳川に対する心を決めた。
「じゃあ、まずひとつ教えてやろう」
柳川の顔つきがかわった。
「さっき髪型の話をしたよな。俺には、今のおまえが消防士には見えない」
「なにか足りないところが……」
健悟は、それには応えず、
「筋トレはジムだけか?」
「パーソナル・トレーナーに自宅用のメニューを作ってもらっています。大会にも出ているような人なので信頼しています」
「俺たち消防士の基本は腕立て、懸垂、スクワットだ。これに訓練が加わる。署内にトレーニングルームもあるが、見てくれの軀を作るためじゃない。俺たちに必要なのは、現場で使える軀だ」
「現場で使える軀って……」
よし、引っかかった。健悟は、心のなかで拳を天に突きあげた。
「百聞は一見にしかずと云ってな――」
健悟はいきなり立上った。湯の吼える音が浴室に響いた。驚いて目をぱちぱちさせている柳川を跨ぎ、その顔のまえで仁王立ちになった。胸を張り、両手を腰にあてて、柳川の目のまえにすべてを差しだした。
「――これが消防士の軀だ」
柳川は、その自信に満ちた立ち姿をふり仰ぎ、目を見張った。
「いいか。筋トレするなら、着る物に負けない軀を作れ。映画のなかで防火服を着ていようと、普段着を着ていようと、それからカレンダーで脱ごうと、この軀なら消防士だとわかる。俺をよく見ろ。どうだ」
「ボディビルダーとは……違います」
「あたりまえだ。あいつらのなかにはステロイドを使うやつもいる」
「消防士の仕事で、これだけの軀になったんですか?」
健悟は腰を突き出して、笑った。
「ステロイドなんか使ったら、俺の相棒が使いものにならなくなる」
「あ」
「こいつも実戦で鍛えているぞ」
健悟は、右手で相棒をつかんでゆっくりとしごきはじめた。柳川が混乱しているような表情を泛べた。健悟は、その表情に満足した。
――おい、健悟。ちょっとやり過ぎじゃねえのか?
相棒が呆れたように語りかけた。
――つべこべ云ってないで、さっさと起きやがれ!
――どうなっても知らねえぞ?
――どういう意味だ?
――好きにしろ。またあとでな。
うえから見おろす柳川は、これを直視してはいけないという道徳観と、大きくなるところを見たいという好奇心とのあいだで戸惑っているようだった。けれどもその眼差しは、ヒーローに憧れる童心そのものだ、と健悟は思った。時に傷つき時に倒れながら巨悪と戦い、最後には勝利する。そうした圧倒的な力に、男はひれ伏し、つき従い、また自分もそうありたいと思うものだ。健悟は、柳川がどこまでついて来られるのか益々試してみたくなった。
「柳川、驚くなよ」
健悟は右手を放した。
――相棒が勢いよくそり返って臍を叩き、そのまま腹にべったりと貼りついて、仏塔のように聳え立つ。そして臍まわりの毛が後光のように射す。さらに掛湯をしただけのその仏塔の頂きが、麝香とも乳香ともつかぬ、重厚で甘く神秘的な法香を放つ――。
柳川はしばらく口をあんぐりと開けて、健悟の勃起を見つめていた。それから拝むような顔つきで健悟を見あげた。健悟は、どうだと云わんばかりに勝ち誇ったような表情を泛べるだけで、何も云わなかった。柳川はふたたび屹立を見た。そして顔を近づけながら、両手をゆっくりと差しのべようとした。
――おっと、柳川。そこまでだ。
「さてと、そろそろ背中を流しもらおうか」
健悟はさりげなく右脚を引きあげ、左脚を軸に反転すると、湯のなかを波を立てながら突き進んで、湯槽からあがった。風呂椅子に腰をおろそうとすると、遅れてやってきた柳川が、ちょっと待ってください、と云ってカランの湯を洗面器に汲んで、風呂椅子にかけた。
健悟は腰をおろした。
柳川は湯気でくもった鏡にシャワーの湯をかけて手で水を拭い、段になった置き場から洗面道具のセットを手にとって健悟の背後に回った。ほどなくして健悟の耳に、洗面器に石鹸を泡立てる音が届いた。
健悟は頸だけふり返って、
「おまえ、ソープ行ったことあるだろ」
柳川が石鹸の手をとめた。
「その泡立てるやつ、ソープ嬢みたいだぞ」
柳川はさっと顔を赤らめて、いいえ、とだけ応え、また石鹸を泡立てはじめた。
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