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第三章 親分の長い非番日 ※【地雷:男女恋愛】
茶柱に願いを
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マンションのエントランスを出たあと、健悟は小雪の部屋をふり返った。小雪がベランダから顔を出していた。健悟は、手をあげて彼女に応え、来た道をひき返した。
少し遠回りをしたが、小雪も同じ町内に住んでいるとわかったのは、思わぬ収穫だった。個人情報保護の観点から職員の住所録が作られなくなって久しい。人事総務は、もちろんすべての職員の連絡先を識っているが、決して口外はしない。
俺はツイているのかも知れない。小雪のLINEのアドレスを手に入れただけでなく、小雪の住んでいるところもわかったし、しまいには部屋にまで上がりこんだ。健悟は、酒でも買って帰ろうと、馴染みの酒屋に立ち寄って缶ビールをひとケース買った。
「おい、婆ぁさん。生きてるか?」
健悟の住むマンションの近くに、昔ながらの煙草屋がある。店主はこの町内の大地主で、健悟にとっては大家であり、月末になると、通い帳を持って家賃を払いに行っている。
健悟は店先のガラス・カウンターの扉を開け、なかに向かって声をかけた。奥の障子が開いて、店主が顔を出した。
「店に出てないから、心配したぜ」
「お茶の準備をしようと思ってね。健坊も飲んでいくかい?」
「おう。上がらせてもらうよ」
健悟は店の勝手口から部屋に上がった。
「だけどよ、スミ婆ぁ。四十過ぎの男をとっつかまえて『健坊』はないだろう」
「何云ってんだい。いつからのご贔屓だ。健坊は健坊さ」
台所に立ったスミ婆ぁが、快活に云った。
「それは俺も同じだ」健悟は笑って畳部屋に腰を下ろした。「看板娘だった記憶がない。中学の頃から通ってるが、ずっと婆ぁさんのまんまだ」
「云ってくれるねぇ」水菓子を涼しげなガラス皿に載せて、スミ婆ぁが台所から戻ってきた。「さあ、お食べ」種付きの真桑瓜だった。
「夏は、西瓜よりこっちだな」
皮を叮嚀に剥かれた真桑瓜は、見るからに美味そうだ。健悟はひと切れ口にして、そのほんのりと甘い果汁を咽喉に流しいれた。
「さあ、お茶が入ったよ」
スミ婆ぁが、お茶をすすめた。
蛍焼きの湯呑み茶碗をそっと手に取って、健悟は、
「お」
と声をあげた。
茶柱が一本、すっくと立っていた。スミ婆ぁは、ゆるりとお茶を飲んでいる。健悟は、スミ婆ぁに気づかれないようにその茶柱を飲みこんだ。
「茶柱かい?」スミ婆ぁが、云った。
「気づいていても知らないふりしてくれよ。せっかくの運がスミ婆ぁに飛んじまったかねえか」健悟は焦った。
「あたしもだよ」スミ婆ぁは、お茶を飲み干した。「これでおあいこだね」
「スミ婆ぁ、もう一杯」
「茶柱を立ててほしいのかい?」
「ああ。茶柱が立つまで何度でもお代わりしてやる」
スミ婆ぁが、愉快そうに笑う。
「健坊、これは茎茶だよ。茶柱が立たないほうがおかしい」
「なんだよ、そんなことか」健悟は湯呑み茶碗を差し出した。「ところで、スミ婆ぁの希いって、なんだ?」
「買い戻したい土地があるんだよ」スミ婆ぁは、お茶を注いだ。「ほら、茶柱が立った」にこりと笑う。
「土地どころか不動産だって、たくさん持ってるだろ。駅前のビルなんか一等地じゃないか」
「早鐘交差点のところにね……」お茶を口に含む。「こないだ二年ぶりに行ってみたら、趣味の悪い洋館が建っててさ。気に入らないね」
「更地にしてコインパーキングにでもしておけば、今でもスミ婆ぁのものだったのにな」
スミ婆ぁは頷いて、
「不動産屋の話では土地の値段が下がっているらしいから、今の持ち主が売る気になれば、買い戻したいねぇ。高い値で売ったから、建物を取り壊してもおつりがくるはずさ」
「で、買い戻してどうする」
「立派なのを建てたいね……」しんみりと云う。
「よせやい。墓なんて、縁起でもねえ」
健悟は、空になった湯呑み茶碗を、ちゃぶ台においた。
「白い家だよ。庭付きの小さな家をね」スミ婆ぁは、健悟の湯飲み茶碗の上で急須を傾けた。「健坊に格安で貸してやるから、さっさと所帯を持つんだね。好い人、いないのかい?」
「いねえこともねえけどよ。まだ紹介できる段階じゃない」健悟は茶柱を見た。
「健坊、そのなかから一本選んでごらん」
スミ婆ぁが、試すように云った。
うう、暑い……。
三階建ての自宅マンションにはエレベーターがない。健悟は、階段を登りながらシャツの前をはだけたいと思ったが、他の住人の手前、そうもいかない。階段を登りきった廊下のいちばん奥が健悟の部屋だ。間取りは3LDK。独身男の部屋としては贅沢だが、健悟が待機住居を出るときに、大家のスミ婆ぁに家賃は格安にするから此処に住めと云われて、引っ越してきたのだ。以来、此処に住みつづけて、いつの間にか古株となっている。
ドアを開けるや否や、健悟は、三和土で靴を蹴り脱いだ。リビングにつづく廊下の途中にくぐり戸がある。くぐり戸の奥には洗面所と浴室がある。健悟は、靴下を脱いで洗面所に投げいれた。それからリビングに上がって背広を壁のハンガーにかけ、ネクタイを解きながらベランダへ向かい、サッシを開いて換気をした。部屋の空気が攪拌されているあいだにベルトを緩め、ズボンを下着ごと脱ぐ。身につけているのはシャツだけで、あとは裸かの奇妙な姿だが、カーテンが閉まっているのでお構いなしだ。
健悟は、ズボンから下着を引き抜いて洗面所へと向った。洗濯機のふたを開けてさっき投げいれた靴下と一緒に放りこむ。ああそうだと思いだして、リビングに戻り、革鞄からコンビニの袋に突っこんだ汗だくのTシャツを引きぬいて洗面所に戻った。下着と一緒に洗濯機で回すのは気がひけるので、消臭スプレーをかけて、洗濯機の上の突っ張り棒のハンガーにいったん掛ける。
ふぅ。シャワーでも浴びるとするか。
さっきからシャツ一枚だけの素っ裸でうろうろしている。いつものことだが、今日に限って自分でもこの姿に笑えてしまう。頭を下げると相棒と目が合った。茶柱を思い出して、もう一度、吹きだした。
健悟はシャツのボタンを外した。小雪がボタンをとめてくれたので、いつもより時間をかけた。
小雪のやつ、粋なことしてくれるな……。
シャツのボタンが赤い糸でとめてあった。
「焔をとめる」か……。
小雪からのメッセージを、健悟はこう理解して浴室の戸を開けた。
少し遠回りをしたが、小雪も同じ町内に住んでいるとわかったのは、思わぬ収穫だった。個人情報保護の観点から職員の住所録が作られなくなって久しい。人事総務は、もちろんすべての職員の連絡先を識っているが、決して口外はしない。
俺はツイているのかも知れない。小雪のLINEのアドレスを手に入れただけでなく、小雪の住んでいるところもわかったし、しまいには部屋にまで上がりこんだ。健悟は、酒でも買って帰ろうと、馴染みの酒屋に立ち寄って缶ビールをひとケース買った。
「おい、婆ぁさん。生きてるか?」
健悟の住むマンションの近くに、昔ながらの煙草屋がある。店主はこの町内の大地主で、健悟にとっては大家であり、月末になると、通い帳を持って家賃を払いに行っている。
健悟は店先のガラス・カウンターの扉を開け、なかに向かって声をかけた。奥の障子が開いて、店主が顔を出した。
「店に出てないから、心配したぜ」
「お茶の準備をしようと思ってね。健坊も飲んでいくかい?」
「おう。上がらせてもらうよ」
健悟は店の勝手口から部屋に上がった。
「だけどよ、スミ婆ぁ。四十過ぎの男をとっつかまえて『健坊』はないだろう」
「何云ってんだい。いつからのご贔屓だ。健坊は健坊さ」
台所に立ったスミ婆ぁが、快活に云った。
「それは俺も同じだ」健悟は笑って畳部屋に腰を下ろした。「看板娘だった記憶がない。中学の頃から通ってるが、ずっと婆ぁさんのまんまだ」
「云ってくれるねぇ」水菓子を涼しげなガラス皿に載せて、スミ婆ぁが台所から戻ってきた。「さあ、お食べ」種付きの真桑瓜だった。
「夏は、西瓜よりこっちだな」
皮を叮嚀に剥かれた真桑瓜は、見るからに美味そうだ。健悟はひと切れ口にして、そのほんのりと甘い果汁を咽喉に流しいれた。
「さあ、お茶が入ったよ」
スミ婆ぁが、お茶をすすめた。
蛍焼きの湯呑み茶碗をそっと手に取って、健悟は、
「お」
と声をあげた。
茶柱が一本、すっくと立っていた。スミ婆ぁは、ゆるりとお茶を飲んでいる。健悟は、スミ婆ぁに気づかれないようにその茶柱を飲みこんだ。
「茶柱かい?」スミ婆ぁが、云った。
「気づいていても知らないふりしてくれよ。せっかくの運がスミ婆ぁに飛んじまったかねえか」健悟は焦った。
「あたしもだよ」スミ婆ぁは、お茶を飲み干した。「これでおあいこだね」
「スミ婆ぁ、もう一杯」
「茶柱を立ててほしいのかい?」
「ああ。茶柱が立つまで何度でもお代わりしてやる」
スミ婆ぁが、愉快そうに笑う。
「健坊、これは茎茶だよ。茶柱が立たないほうがおかしい」
「なんだよ、そんなことか」健悟は湯呑み茶碗を差し出した。「ところで、スミ婆ぁの希いって、なんだ?」
「買い戻したい土地があるんだよ」スミ婆ぁは、お茶を注いだ。「ほら、茶柱が立った」にこりと笑う。
「土地どころか不動産だって、たくさん持ってるだろ。駅前のビルなんか一等地じゃないか」
「早鐘交差点のところにね……」お茶を口に含む。「こないだ二年ぶりに行ってみたら、趣味の悪い洋館が建っててさ。気に入らないね」
「更地にしてコインパーキングにでもしておけば、今でもスミ婆ぁのものだったのにな」
スミ婆ぁは頷いて、
「不動産屋の話では土地の値段が下がっているらしいから、今の持ち主が売る気になれば、買い戻したいねぇ。高い値で売ったから、建物を取り壊してもおつりがくるはずさ」
「で、買い戻してどうする」
「立派なのを建てたいね……」しんみりと云う。
「よせやい。墓なんて、縁起でもねえ」
健悟は、空になった湯呑み茶碗を、ちゃぶ台においた。
「白い家だよ。庭付きの小さな家をね」スミ婆ぁは、健悟の湯飲み茶碗の上で急須を傾けた。「健坊に格安で貸してやるから、さっさと所帯を持つんだね。好い人、いないのかい?」
「いねえこともねえけどよ。まだ紹介できる段階じゃない」健悟は茶柱を見た。
「健坊、そのなかから一本選んでごらん」
スミ婆ぁが、試すように云った。
うう、暑い……。
三階建ての自宅マンションにはエレベーターがない。健悟は、階段を登りながらシャツの前をはだけたいと思ったが、他の住人の手前、そうもいかない。階段を登りきった廊下のいちばん奥が健悟の部屋だ。間取りは3LDK。独身男の部屋としては贅沢だが、健悟が待機住居を出るときに、大家のスミ婆ぁに家賃は格安にするから此処に住めと云われて、引っ越してきたのだ。以来、此処に住みつづけて、いつの間にか古株となっている。
ドアを開けるや否や、健悟は、三和土で靴を蹴り脱いだ。リビングにつづく廊下の途中にくぐり戸がある。くぐり戸の奥には洗面所と浴室がある。健悟は、靴下を脱いで洗面所に投げいれた。それからリビングに上がって背広を壁のハンガーにかけ、ネクタイを解きながらベランダへ向かい、サッシを開いて換気をした。部屋の空気が攪拌されているあいだにベルトを緩め、ズボンを下着ごと脱ぐ。身につけているのはシャツだけで、あとは裸かの奇妙な姿だが、カーテンが閉まっているのでお構いなしだ。
健悟は、ズボンから下着を引き抜いて洗面所へと向った。洗濯機のふたを開けてさっき投げいれた靴下と一緒に放りこむ。ああそうだと思いだして、リビングに戻り、革鞄からコンビニの袋に突っこんだ汗だくのTシャツを引きぬいて洗面所に戻った。下着と一緒に洗濯機で回すのは気がひけるので、消臭スプレーをかけて、洗濯機の上の突っ張り棒のハンガーにいったん掛ける。
ふぅ。シャワーでも浴びるとするか。
さっきからシャツ一枚だけの素っ裸でうろうろしている。いつものことだが、今日に限って自分でもこの姿に笑えてしまう。頭を下げると相棒と目が合った。茶柱を思い出して、もう一度、吹きだした。
健悟はシャツのボタンを外した。小雪がボタンをとめてくれたので、いつもより時間をかけた。
小雪のやつ、粋なことしてくれるな……。
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