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1話
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はあ、と何度目か分からない溜め息を吐くと、それが静かな店内に響いたような気がした。平日、昼前のカフェはそれほど混んではいない。ノートパソコンやスマホの画面を見る人たちに紛れて、ひとり履歴書を睨みつける俺を気にするような人はいないだろう。
俺、陽川よすがは大学四年の就活生だ。大本命の製薬会社の二次面接まで合格し、今日はこれから最後の役員面接に向かう。ここまで来たのだからどうにか内定をもらいたいという気持ちと、そう上手くいってくれるものだろうかという気持ちが腹の中をぐるぐると回って胃が痛くなってきている。緊張し過ぎて随分早く家を出て来てしまった。遅れるよりマシとは言え、面接まではあと一時間強。味の分からないコーヒーを片手に、何百回と見返した履歴書と睨めっこをしながら時間を潰す。
「ここでいい?」
「はい、大丈夫です」
すぐ近くでそんなやり取りが聞こえて、ちらりと視線をそちらに向ける。俺の座っている窓際のカウンター席に、二人組の男性客がやってきた。片方が座ろうとすると、当然のようにもう片方が椅子を引き、相手が腰を下ろすのに合わせて椅子をそっと押す。ちょっと良いレストランのスタッフのようだった。
「ありがとう。君もお座り?」
椅子に座った男がそう言うと、隣の男は崩れ落ちるようにその場にぺたりと座り込んだ。床に敷かれたラグの上で彼が姿勢を正して正座になると、椅子に座った男は優しく頭を撫でる。顔を上げ、自分の頭を撫でる相手に微笑みかける男の首には、白い首輪が着けられていた。見慣れた光景だったが、俺はなんとも言えない気持ちになり、二人から視線を逸らした。
人間には他の動物と異なり、男女という肉体的な性差に加えて、ダイナミクスと呼ばれる精神的な力量関係の性差がある。支配する性をドミナント――通称ドム――、服従する性をサブミッシブ――通称サブ――、支配し、服従する性をスイッチ、他に干渉せず、干渉されない性をヴァニラと呼ぶ。肉体的な性差は生まれてすぐに――あるいは母体の胎の中でも――分かるものだが、ダイナミクスは第二次性徴期を過ぎて、検査を受けなければ分からない。
世界の人口の八割強がドミナントかサブミッシブだ。二割弱が二つの性の性質両方を持っているスイッチで、残り一割にも満たない――否、一パーセントにも満たないのがヴァニラだと言われている。
ヴァニラ以外の人間は、本人の持つ支配欲、服従欲を満たさなければ、精神的、肉体的に不調を起こしてしまう。もちろん、その欲の強さや種類に個人差はあるが、それを満たしてくれる対の存在がかなり重要なものとなる。そんな、お互いの欲を満たし合う関係はパートナーと呼ばれる。正式にパートナーとなる契約を結ぶと、ドミナントがサブミッシブに首輪を贈るものらしい。
俺のそばの席に来た二人組は、きっとパートナーなのだろう。それを少し羨ましく思ってしまうのは、俺には生涯縁のないことだからだろう。――俺のダイナミクスは、都市伝説扱いされているヴァニラだ。
日本では、高校一年でダイナミクスの検査が行われる。基本的に他人のダイナミクスを無遠慮に尋ねるのは、マナー違反だとされている。とはいえ、学校で行われる検査だ。友人同士がお前は何だった、自分は何だった、と言い合うのは珍しいことではない。仲のいい友人にヴァニラであることを告げたら、翌日には学年中に俺のダイナミクスが知れ渡っていた。
パートナーを探さなくていいから楽でいいな。パートナーが一生できないなんて可哀想だね。本当にコマンドが効かないのか試してみていいか。――好き放題言ってくる同級生たちを苦笑いで躱す日々を送った高校時代だった。
パートナーを探して自分の欲を満たしてもらわなくても生きていけるというのは、確かに楽なのかもしれない。でも俺は、お前は誰にも必要とされずに生きていくんだよ、と神様に言われているような気持ちになったりもしていた。別にそんなに信心深いわけではないけれど。今はもう仕方のないことだと割り切っているし、開き直って志望動機にヴァニラであることを前面に出しているくらいだ。それでも、少なからずパートナーというものへの憧憬のような感情は腹の底でひっそりと存在しているので、先ほどのようなパートナー同士の光景を見ると、何とも言えない気持ちになってしまう。
はあ、ともう一度溜め息を吐いて、手にしたマグカップに口を付ける。味の分からないコーヒーは、いつの間にかすっかり冷めてしまっていた。
+ + +
「それでは、志望動機をお聞かせください」
俺の向かいに座るのは四人の面接官。筆記試験、一次面接の時からずっと顔を合わせている採用担当の若い男性、就活生向けの資料とホームページの写真ですっかり覚えた代表取締役社長、少し冷たい表情の中年の女性と、穏やかな表情の年配の男性。面接のたびに面接官の人数が増えていて少しだけ胃が軋む。採用担当のお兄さんは、俺の志望動機を聞くのはこれで三回目だ。向こうからしたら何十人、何百人いる内の一人だろうけど、だからと言って丸暗記した全く同じ内容を繰り返すわけにはいかない。膝に置いた拳に少し力を込めて、口を開いた。
「御社のMR職を志望した一番の理由は、私自身のダイナミクスにあります。私はヴァニラです。ほかのダイナミクスの方たちのようにパートナーを得て、支え合って生きていくという当たり前のことが、私にはできません。そんな中、御社のダイナミクス由来の心身不調に対する薬の存在を知りました。他社製の薬に比べ、服用時の副作用の症状がかなり抑えられており、安心して患者様に処方できる、と長年がお世話になっているダイナミクス科の医師から聞きました。昨今、ニュースで取り上げられる頻度が増えているように、パートナーに恵まれず、心身の不調を抱える方は少なくありません。そんな患者様の元へ適切な薬を迅速に届けてもらえるように、私がMRとして、医師や薬剤師に情報提供をしていきたい。そういったかたちで自分と違うダイナミクスの方を支えたい。それを実現するのは他社ではなくぜひ御社でと強く思い、志望いたしました」
お兄さんはうんうん、と相槌を打ちながら聞いてくれていたが、ほかの三人は、俺のヴァニラだという告白に目を見開いて驚いた表情を浮かべていた。俺は一次面接の時からヴァニラであることを隠していなかったから、当たり前に情報共有されているものだと思っていた。内容を変えようと思って履歴書にはあえて書いていなかったけれど。
「……本当に、ヴァニラなのか?」
ぽつりと社長さんがそんな言葉をこぼした。正式な問いかけというよりも、思わず漏れてしまった言葉という感じだった。
「はい、ヴァニラです。必要があれば医師の診断書も持参しておりますので、提出いたします」
答えながら、ちらりと視線を傍らの鞄へ向ける。昔からお世話になっている主治医の先生曰く、ダイナミクスを詐称する人は少なくないらしい。提出義務がなくても念のため持っていきなさい、と就活を始める前に渡されたものだ。
「それでは提出をお願いします。退室時に、入り口横のスタッフに渡してください」
「承知いたしました」
俺の返答に、社長さんではなく女性の面接官さんがそう告げた。素直に俺が頷くと、次の質問が飛んでくる。自社の製品について、他社との比較について、MRという職種について、俺の大学の専攻や卒論の内容について――。ほとんど想定外の質問はなく、特に言葉に詰まることもなく答えることができた。
しばらく問答を交わしてから、お兄さんが締めにお決まりの質問を投げてきた。
「それでは最後に、陽川さんから質問はありますか?」
「はい。一点、月山社長に伺いたいことがあるのですが、よろしいでしょうか?」
「かまいませんよ」
投げられた問いに俺がそう返すと、名指しされた社長さんが微笑んで頷いた。
「ありがとうございます。御社は創業から長い歴史のある企業でいらっしゃいますが、ダイナミクス由来の不調に対する薬の製造は五年ほど前が初、とかなり最近でした。なにかきっかけがあったのでしょうか? これについては調べても見当たらなかったので、質問させていただきました」
刹那、部屋の空気が固まったような気がした。面接官たちの視線が僅かに泳いだように見えて、質問の選択を誤ったか、と背に冷たいものが伝った。
「……陽川さんは、本当によく弊社のことを調べてくれていますね」
俺に問いを投げられた社長さんは、一瞬言葉に詰まったように見えたが、眉尻を下げ、少し困ったように微笑みながらそう呟いた。本当に触れてはいけないところだったのかもしれない――そんなことを俺が考えていると、社長さんが言葉を続けた。
「お恥ずかしい話ですがね、それまで、そのあたりの症状や患者さんを意識したことがありませんでした。自分の身近な人間がそれに苦しむようになって初めて、そういった薬の必要性に気づき、遅ればせながら弊社も研究、開発に至ったというわけです」
「……っ、そ、そうだったんですね。お答えいただき、ありがとうございます」
「いいえ。そういった薬がきっかけで弊社の採用試験に臨んでくださったのですから、君が気になるのも当然ですね」
本当に恥ずかしそうに話す社長さんに、こちらも一瞬言葉に詰まってしまった。慌てて我に返って頭を下げると、社長さんは穏やかな表情でそう応えてくれた。
社長という存在も、当然普通の人間と同じだよなぁ、なんて間の抜けたことを考えている内に面接は終わり、退室を促された。部屋を出て、先ほど言われた通りに入口のスタッフさんの診断書の入った封筒を渡す。
肩の荷が下りたなぁ、と思いながら乗ってきたエレベーターへと向かう。下りのボタン押してエレベーターの到着を待っていると、不意に後ろから名前を呼ばれた。え、と振り返ると、先ほどの面接官の年配の男性が駆け足でこちらに向かってきていた。
「な、何か?」
「すみませんね、お引き留めちゃって。ちょっと確認したいことがあるので、別室でお待ちいただきたいんですが、お時間は大丈夫です?」
「分かりました。大丈夫です」
「ああよかった。それじゃあ僕が案内しますね」
俺の返答に、人の好さそうな顔のおじさんはホッとしたように息を吐いた。到着したエレベーターに乗り込むと、おじさんが目的の階のボタンを押す。そんなに離れた階ではないらしく、エレベーターは早々にその階に着いた。おじさんに案内された部屋は、先ほどまでいた面接会場や控え室とは異なり、明らかに来客用に使われている応接室のような部屋だった。場所が違うんじゃないか、と思いながらおじさんを見ると、にこにこ顔のおじさんは、少しだけ眉尻を下げて申し訳なさそうな顔をした。
「どうぞ、掛けて待っていてください。申し訳ないんだけど、しばらくお待たせしちゃうかもしれません。すみませんね」
「いえ、大丈夫です……」
「本当にすみませんね、それじゃあ僕は失礼しますね」
ぺこぺこと頭を下げながらおじさんは部屋を出て行った。腰の低い人だなぁ、と思いつつ、あんなに謝られるなんて、俺はどのくらい待てばいいんだろう、と少し不安になる。
勧められた上等なソファに気後れしそうになりながらも、とりあえず下座のソファの端っこに腰を下ろした。落ち着かない気持ちで、そわそわと部屋の中を見回してしまう。ただの一就活生を通すような部屋ではない気がする。確認って何なんだろう。面接で何かしでかしたかな。――そんな考えがぐるぐると頭を回る。どうにも気が引けてスマホを開く気にもなれず、俺はソファの端で縮こまっていた。
三十分ほど経って、ドアがノックされた。慌てて立ち上がって返事をすると、ドアが開かれた。開いたドアから現れたのは、先ほどのおじさんではなく、この会社の代表取締役社長、その人だった。
「いやあ、かなり待たせてしまったね。申し訳ない」
「い、いえ、大丈夫です!」
驚きやら緊張やらが思い切り顔に出ていたのだろう。俺に謝る社長さんは苦笑を浮かべていた。固まる俺に腰を下ろすよう促すと、社長さんはローテーブルを挟んだ向かいのソファに腰を下ろした。
「さっきは面接お疲れ様。急に引き留めて悪かったね」
「いえ、とんでもないです。あの、私が、何か……」
代表取締役社長直々に来るような理由がまるで分らない。面接の時に何かをやらかしたとか、提出したものに不備があったとか、そのくらいなら社長さんではなく採用担当のお兄さんが来るはずだ。確認、とおじさんは言っていたけれど、何の確認なのだろう。どぎまぎしながら尋ねると、社長さんが居住まいを正してまっすぐ俺を見つめてきた。
「君に何か問題があったわけではないんだ。不安にさせてしまってすまない。私から個人的に頼みたいことがあって、引き留めさせてもらったんだ」
「個人的に頼みたいこと、ですか……?」
「ああ。――先ほどは、診断書をありがとう。本当に君はヴァニラなんだね」
個人的に頼みたいこと、という意味深な言葉を俺が繰り返すと、社長さんはダイナミクスについて触れてきた。俺がヴァニラであることが、その頼みたいことに関係があるのだろうか。新卒採用とは別に、会社の薬の被験者になってほしいとか、そういうことだろうか。いまいち予想がつかない。
問われた言葉にはい、と俺が返事をすると、社長さんは小さく頷いてから口を開いた。
「頼みたいことというのがだね。――陽川くん、君に私の息子のパートナーになってもらいたいんだ」
「へ?」
欠片も想像していなかった社長からの頼みとやらに、俺は間の抜けた声で返事をしてしまった。
「パートナー……月山社長の、息子さんの……?」
「ああ。君にしか頼むことができないんだ」
「いや、あの、ヴァニラ相手にパートナーも何も……」
かなり真剣に言ってくる社長さんに俺は戸惑うことしかできない。ふるふると首を横に振りながら訴えるも、同様に緩く首を横に振る社長さんに言葉を遮られてしまった。
「私の息子はドムだ。ただ、そのドム性が異常に強いらしく、サブとまともにプレイをすることができない。座れ、来い程度の基本のコマンドさえ怯えられ、ひどい時にはそれだけでセーフワードを使われてしまう始末なんだ」
「うわ……」
告げられた内容に思わず絶句して、そんな声を漏らしてしまった。とても面接に来た企業の代表取締役社長に対してしていい反応ではない。そんなことは分かっているが、こんなことを聞いたら誰だって俺と同じ反応をすると思う。
プレイというのは、ドミナントとサブミッシブ――ややこしくなるので、一旦スイッチは省く――が互いの支配欲と服従欲を満たすために行う重要な行為だ。プレイはドミナントがコマンドと呼ばれる命令をして、サブミッシブがそれに従うというものだ。どういう仕組みなのか、詳しく解明はされていないが、コマンドはいわゆる言霊のようなもので、ドミナントがそのつもりで発した言葉には特殊な強制力のようなものが宿り、それを向けられたサブミッシブは、本人の意思に関わらず自然と身体がそのコマンドに従うというものだ。
それぞれの持つドム性、サブ性の強さや相性によってコマンドが効きやすい、効きにくいということはあるが、基本的にはドミナントがコマンドを使えばサブミッシブはそれに従ってしまう。お互いが信頼し合っている者同士であれば、コマンドによって互いの支配欲と服従欲を満たすことができる。だが、信頼関係がなかったり、特にサブミッシブ側に相手に対して拒否反応や恐怖心を抱いていたりする場合、無理矢理使われるコマンドは双方に大きなストレスを与えることになる。
肉体的にも精神的にも負担がかかりやすいサブミッシブ側が身を守るために使うのがセーフワードと呼ばれるものだ。プレイを始める前に二人で決めておき、これ以上プレイを続けたくない、そのコマンドは怖いから使わないでほしい――そういった場合に意思表示のために使われる単語だ。それを使う際、サブミッシブにも使われるドミナントにも若干のストレスがかかってしまうため、ほとんどのサブミッシブは本当に限界になるまで使うことはないらしい。
プレイやセーフワードの基本的なことは、中学や高校の性教育の授業で必ず習う。ヴァニラの俺でも一応このくらいのことは頭に入っている。だから、基本のコマンドでサブミッシブがセーフワードを使うなんていうことがどれだけ異常なことなのかも十分理解できるし、社長さんの息子さんに同情せずにはいられない。
「面接の時に話した身近な人間というのは息子のことでね。長いことパートナーに恵まれず、欲求不満で体調を崩しもメンタルもやられてしまって通院するようになったんだが、処方される薬がどれも身体に合わないらしく、副作用で苦しんでいたんだ。薬を飲んでも飲まなくても体調は優れず、まともに生活することも難しくなってしまってね……。そんな息子が見ていられなくて、うちの会社で副作用の出にくい薬の開発を始めたんだ」
「そういうことだったんですね」
「ああ。……薬は無事に完成して、息子の薬による副作用も比較的落ち着いて、ある程度は普通に生活ができるようになった。だが、その普通の生活を送るため、と今度は薬の服用量が増えてしまってね。規定量が増えれば別の副作用が出てしまう。……正直、そんな息子の姿をもう見ていられないんだ」
社長さんは話しながら頭を抱え込んでてしまった。面接中に見た姿と違って、彼の姿が弱々しく見えて、居た堪れない気持ちになる。大切な家族が苦しんでいるのを見れば、それこそ藁にも縋る思いだろう。俺だって両親が同じようなことになれば、いてもたってもいられなくなると思う。
「無理を言っているのは承知している。だが、ドム性の影響を受けないヴァニラの君なら、息子を救えるかもしれないんだ。どうか、どうか……あの子のパートナーになってもらえないだろうか」
「待っ……と、とりあえず! まずは一度息子さんと会ってお話をさせてください。自分一人で決めることじゃないと思うし、息子さんがどう思うかもあると思うんで!」
肩を震わせながら懇願する姿が痛々しくて、とても無理です、なんて言えなかった。はっきり、はいとも、いいえとも言えず、とりあえず何とかそう訴えると、社長さんがガバッと身体を起こして俺の方を見た。こちらに向けられた目は僅かに潤んでいた。
「ああ、ありがとう! ありがとう陽川くん! 本当にありがとう、ぜひ一度話してやってくれ! すまない……ありがとう……!」
勢い良く立ち上がった社長さんは、ローテーブル越しに俺の両手をガシッと掴むと、涙ぐみながら何度も何度も感謝の言葉を繰り返した。気持ちは分からないでもないけれど、圧がすごくて、俺は、はい、はい、と頷くことしかできなかった。
「本当にありがとう。後日連絡するから、君の都合のいい日に顔を合わせてやってほしい」
「は、はい」
少し落ち着いた様子の社長さんは、俺の手を離すと、少し鼻をすすりながら、穏やかにそう告げた。俺が頷けば、優しそうな微笑みを向けられた。
「時間を取らせてしまってすまなかったね。ありがとう、四月から一緒に働けるのを楽しみにしているよ」
「へ?」
「それじゃあ僕は先に失礼するね。部屋の外のスタッフに案内するように伝えておくから。本当にありがとう、陽川くん」
「いえ、あの、こちらこそ……?」
社長さんは最後に、面接を受けに来た就活生に向かってとんでもない爆弾を落として部屋を出て行った。
四月から、四月からって言ってたけど、採用決まっているってことなのか? さっきの息子さんの件、無理って言ったら不採用だったとかそういう? え、なんで今あんな意味深なこと言ってくの? ――そんな混乱をしながら俺はとりあえず応接室を出た。部屋の外には来る時に連れて来てくれたおじさんが待っていた。来る時同様、おじさんの背中について行く。社長さんの息子さんのこととか、最後の社長さんの言葉とかをぐるぐる考えている内に、エントランスホールについていた。
連れて来てくれたおじさんに会釈をして、外に出た。むわっとした暑さがまとわりついてくる。七月の頭とは思えない真夏のような暑さに溜め息を吐かずにはいられない。背後の大きなビルを一度振り返ってから駅へと向かう道を歩く。就活をしていたら、とんでもない仕事を受けることになってしまった。もう一度溜め息がこぼれたのは、暑さのせいか、お願いされた頼みごとのせいなのか、自分でもよく分からなかった。
俺、陽川よすがは大学四年の就活生だ。大本命の製薬会社の二次面接まで合格し、今日はこれから最後の役員面接に向かう。ここまで来たのだからどうにか内定をもらいたいという気持ちと、そう上手くいってくれるものだろうかという気持ちが腹の中をぐるぐると回って胃が痛くなってきている。緊張し過ぎて随分早く家を出て来てしまった。遅れるよりマシとは言え、面接まではあと一時間強。味の分からないコーヒーを片手に、何百回と見返した履歴書と睨めっこをしながら時間を潰す。
「ここでいい?」
「はい、大丈夫です」
すぐ近くでそんなやり取りが聞こえて、ちらりと視線をそちらに向ける。俺の座っている窓際のカウンター席に、二人組の男性客がやってきた。片方が座ろうとすると、当然のようにもう片方が椅子を引き、相手が腰を下ろすのに合わせて椅子をそっと押す。ちょっと良いレストランのスタッフのようだった。
「ありがとう。君もお座り?」
椅子に座った男がそう言うと、隣の男は崩れ落ちるようにその場にぺたりと座り込んだ。床に敷かれたラグの上で彼が姿勢を正して正座になると、椅子に座った男は優しく頭を撫でる。顔を上げ、自分の頭を撫でる相手に微笑みかける男の首には、白い首輪が着けられていた。見慣れた光景だったが、俺はなんとも言えない気持ちになり、二人から視線を逸らした。
人間には他の動物と異なり、男女という肉体的な性差に加えて、ダイナミクスと呼ばれる精神的な力量関係の性差がある。支配する性をドミナント――通称ドム――、服従する性をサブミッシブ――通称サブ――、支配し、服従する性をスイッチ、他に干渉せず、干渉されない性をヴァニラと呼ぶ。肉体的な性差は生まれてすぐに――あるいは母体の胎の中でも――分かるものだが、ダイナミクスは第二次性徴期を過ぎて、検査を受けなければ分からない。
世界の人口の八割強がドミナントかサブミッシブだ。二割弱が二つの性の性質両方を持っているスイッチで、残り一割にも満たない――否、一パーセントにも満たないのがヴァニラだと言われている。
ヴァニラ以外の人間は、本人の持つ支配欲、服従欲を満たさなければ、精神的、肉体的に不調を起こしてしまう。もちろん、その欲の強さや種類に個人差はあるが、それを満たしてくれる対の存在がかなり重要なものとなる。そんな、お互いの欲を満たし合う関係はパートナーと呼ばれる。正式にパートナーとなる契約を結ぶと、ドミナントがサブミッシブに首輪を贈るものらしい。
俺のそばの席に来た二人組は、きっとパートナーなのだろう。それを少し羨ましく思ってしまうのは、俺には生涯縁のないことだからだろう。――俺のダイナミクスは、都市伝説扱いされているヴァニラだ。
日本では、高校一年でダイナミクスの検査が行われる。基本的に他人のダイナミクスを無遠慮に尋ねるのは、マナー違反だとされている。とはいえ、学校で行われる検査だ。友人同士がお前は何だった、自分は何だった、と言い合うのは珍しいことではない。仲のいい友人にヴァニラであることを告げたら、翌日には学年中に俺のダイナミクスが知れ渡っていた。
パートナーを探さなくていいから楽でいいな。パートナーが一生できないなんて可哀想だね。本当にコマンドが効かないのか試してみていいか。――好き放題言ってくる同級生たちを苦笑いで躱す日々を送った高校時代だった。
パートナーを探して自分の欲を満たしてもらわなくても生きていけるというのは、確かに楽なのかもしれない。でも俺は、お前は誰にも必要とされずに生きていくんだよ、と神様に言われているような気持ちになったりもしていた。別にそんなに信心深いわけではないけれど。今はもう仕方のないことだと割り切っているし、開き直って志望動機にヴァニラであることを前面に出しているくらいだ。それでも、少なからずパートナーというものへの憧憬のような感情は腹の底でひっそりと存在しているので、先ほどのようなパートナー同士の光景を見ると、何とも言えない気持ちになってしまう。
はあ、ともう一度溜め息を吐いて、手にしたマグカップに口を付ける。味の分からないコーヒーは、いつの間にかすっかり冷めてしまっていた。
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「それでは、志望動機をお聞かせください」
俺の向かいに座るのは四人の面接官。筆記試験、一次面接の時からずっと顔を合わせている採用担当の若い男性、就活生向けの資料とホームページの写真ですっかり覚えた代表取締役社長、少し冷たい表情の中年の女性と、穏やかな表情の年配の男性。面接のたびに面接官の人数が増えていて少しだけ胃が軋む。採用担当のお兄さんは、俺の志望動機を聞くのはこれで三回目だ。向こうからしたら何十人、何百人いる内の一人だろうけど、だからと言って丸暗記した全く同じ内容を繰り返すわけにはいかない。膝に置いた拳に少し力を込めて、口を開いた。
「御社のMR職を志望した一番の理由は、私自身のダイナミクスにあります。私はヴァニラです。ほかのダイナミクスの方たちのようにパートナーを得て、支え合って生きていくという当たり前のことが、私にはできません。そんな中、御社のダイナミクス由来の心身不調に対する薬の存在を知りました。他社製の薬に比べ、服用時の副作用の症状がかなり抑えられており、安心して患者様に処方できる、と長年がお世話になっているダイナミクス科の医師から聞きました。昨今、ニュースで取り上げられる頻度が増えているように、パートナーに恵まれず、心身の不調を抱える方は少なくありません。そんな患者様の元へ適切な薬を迅速に届けてもらえるように、私がMRとして、医師や薬剤師に情報提供をしていきたい。そういったかたちで自分と違うダイナミクスの方を支えたい。それを実現するのは他社ではなくぜひ御社でと強く思い、志望いたしました」
お兄さんはうんうん、と相槌を打ちながら聞いてくれていたが、ほかの三人は、俺のヴァニラだという告白に目を見開いて驚いた表情を浮かべていた。俺は一次面接の時からヴァニラであることを隠していなかったから、当たり前に情報共有されているものだと思っていた。内容を変えようと思って履歴書にはあえて書いていなかったけれど。
「……本当に、ヴァニラなのか?」
ぽつりと社長さんがそんな言葉をこぼした。正式な問いかけというよりも、思わず漏れてしまった言葉という感じだった。
「はい、ヴァニラです。必要があれば医師の診断書も持参しておりますので、提出いたします」
答えながら、ちらりと視線を傍らの鞄へ向ける。昔からお世話になっている主治医の先生曰く、ダイナミクスを詐称する人は少なくないらしい。提出義務がなくても念のため持っていきなさい、と就活を始める前に渡されたものだ。
「それでは提出をお願いします。退室時に、入り口横のスタッフに渡してください」
「承知いたしました」
俺の返答に、社長さんではなく女性の面接官さんがそう告げた。素直に俺が頷くと、次の質問が飛んでくる。自社の製品について、他社との比較について、MRという職種について、俺の大学の専攻や卒論の内容について――。ほとんど想定外の質問はなく、特に言葉に詰まることもなく答えることができた。
しばらく問答を交わしてから、お兄さんが締めにお決まりの質問を投げてきた。
「それでは最後に、陽川さんから質問はありますか?」
「はい。一点、月山社長に伺いたいことがあるのですが、よろしいでしょうか?」
「かまいませんよ」
投げられた問いに俺がそう返すと、名指しされた社長さんが微笑んで頷いた。
「ありがとうございます。御社は創業から長い歴史のある企業でいらっしゃいますが、ダイナミクス由来の不調に対する薬の製造は五年ほど前が初、とかなり最近でした。なにかきっかけがあったのでしょうか? これについては調べても見当たらなかったので、質問させていただきました」
刹那、部屋の空気が固まったような気がした。面接官たちの視線が僅かに泳いだように見えて、質問の選択を誤ったか、と背に冷たいものが伝った。
「……陽川さんは、本当によく弊社のことを調べてくれていますね」
俺に問いを投げられた社長さんは、一瞬言葉に詰まったように見えたが、眉尻を下げ、少し困ったように微笑みながらそう呟いた。本当に触れてはいけないところだったのかもしれない――そんなことを俺が考えていると、社長さんが言葉を続けた。
「お恥ずかしい話ですがね、それまで、そのあたりの症状や患者さんを意識したことがありませんでした。自分の身近な人間がそれに苦しむようになって初めて、そういった薬の必要性に気づき、遅ればせながら弊社も研究、開発に至ったというわけです」
「……っ、そ、そうだったんですね。お答えいただき、ありがとうございます」
「いいえ。そういった薬がきっかけで弊社の採用試験に臨んでくださったのですから、君が気になるのも当然ですね」
本当に恥ずかしそうに話す社長さんに、こちらも一瞬言葉に詰まってしまった。慌てて我に返って頭を下げると、社長さんは穏やかな表情でそう応えてくれた。
社長という存在も、当然普通の人間と同じだよなぁ、なんて間の抜けたことを考えている内に面接は終わり、退室を促された。部屋を出て、先ほど言われた通りに入口のスタッフさんの診断書の入った封筒を渡す。
肩の荷が下りたなぁ、と思いながら乗ってきたエレベーターへと向かう。下りのボタン押してエレベーターの到着を待っていると、不意に後ろから名前を呼ばれた。え、と振り返ると、先ほどの面接官の年配の男性が駆け足でこちらに向かってきていた。
「な、何か?」
「すみませんね、お引き留めちゃって。ちょっと確認したいことがあるので、別室でお待ちいただきたいんですが、お時間は大丈夫です?」
「分かりました。大丈夫です」
「ああよかった。それじゃあ僕が案内しますね」
俺の返答に、人の好さそうな顔のおじさんはホッとしたように息を吐いた。到着したエレベーターに乗り込むと、おじさんが目的の階のボタンを押す。そんなに離れた階ではないらしく、エレベーターは早々にその階に着いた。おじさんに案内された部屋は、先ほどまでいた面接会場や控え室とは異なり、明らかに来客用に使われている応接室のような部屋だった。場所が違うんじゃないか、と思いながらおじさんを見ると、にこにこ顔のおじさんは、少しだけ眉尻を下げて申し訳なさそうな顔をした。
「どうぞ、掛けて待っていてください。申し訳ないんだけど、しばらくお待たせしちゃうかもしれません。すみませんね」
「いえ、大丈夫です……」
「本当にすみませんね、それじゃあ僕は失礼しますね」
ぺこぺこと頭を下げながらおじさんは部屋を出て行った。腰の低い人だなぁ、と思いつつ、あんなに謝られるなんて、俺はどのくらい待てばいいんだろう、と少し不安になる。
勧められた上等なソファに気後れしそうになりながらも、とりあえず下座のソファの端っこに腰を下ろした。落ち着かない気持ちで、そわそわと部屋の中を見回してしまう。ただの一就活生を通すような部屋ではない気がする。確認って何なんだろう。面接で何かしでかしたかな。――そんな考えがぐるぐると頭を回る。どうにも気が引けてスマホを開く気にもなれず、俺はソファの端で縮こまっていた。
三十分ほど経って、ドアがノックされた。慌てて立ち上がって返事をすると、ドアが開かれた。開いたドアから現れたのは、先ほどのおじさんではなく、この会社の代表取締役社長、その人だった。
「いやあ、かなり待たせてしまったね。申し訳ない」
「い、いえ、大丈夫です!」
驚きやら緊張やらが思い切り顔に出ていたのだろう。俺に謝る社長さんは苦笑を浮かべていた。固まる俺に腰を下ろすよう促すと、社長さんはローテーブルを挟んだ向かいのソファに腰を下ろした。
「さっきは面接お疲れ様。急に引き留めて悪かったね」
「いえ、とんでもないです。あの、私が、何か……」
代表取締役社長直々に来るような理由がまるで分らない。面接の時に何かをやらかしたとか、提出したものに不備があったとか、そのくらいなら社長さんではなく採用担当のお兄さんが来るはずだ。確認、とおじさんは言っていたけれど、何の確認なのだろう。どぎまぎしながら尋ねると、社長さんが居住まいを正してまっすぐ俺を見つめてきた。
「君に何か問題があったわけではないんだ。不安にさせてしまってすまない。私から個人的に頼みたいことがあって、引き留めさせてもらったんだ」
「個人的に頼みたいこと、ですか……?」
「ああ。――先ほどは、診断書をありがとう。本当に君はヴァニラなんだね」
個人的に頼みたいこと、という意味深な言葉を俺が繰り返すと、社長さんはダイナミクスについて触れてきた。俺がヴァニラであることが、その頼みたいことに関係があるのだろうか。新卒採用とは別に、会社の薬の被験者になってほしいとか、そういうことだろうか。いまいち予想がつかない。
問われた言葉にはい、と俺が返事をすると、社長さんは小さく頷いてから口を開いた。
「頼みたいことというのがだね。――陽川くん、君に私の息子のパートナーになってもらいたいんだ」
「へ?」
欠片も想像していなかった社長からの頼みとやらに、俺は間の抜けた声で返事をしてしまった。
「パートナー……月山社長の、息子さんの……?」
「ああ。君にしか頼むことができないんだ」
「いや、あの、ヴァニラ相手にパートナーも何も……」
かなり真剣に言ってくる社長さんに俺は戸惑うことしかできない。ふるふると首を横に振りながら訴えるも、同様に緩く首を横に振る社長さんに言葉を遮られてしまった。
「私の息子はドムだ。ただ、そのドム性が異常に強いらしく、サブとまともにプレイをすることができない。座れ、来い程度の基本のコマンドさえ怯えられ、ひどい時にはそれだけでセーフワードを使われてしまう始末なんだ」
「うわ……」
告げられた内容に思わず絶句して、そんな声を漏らしてしまった。とても面接に来た企業の代表取締役社長に対してしていい反応ではない。そんなことは分かっているが、こんなことを聞いたら誰だって俺と同じ反応をすると思う。
プレイというのは、ドミナントとサブミッシブ――ややこしくなるので、一旦スイッチは省く――が互いの支配欲と服従欲を満たすために行う重要な行為だ。プレイはドミナントがコマンドと呼ばれる命令をして、サブミッシブがそれに従うというものだ。どういう仕組みなのか、詳しく解明はされていないが、コマンドはいわゆる言霊のようなもので、ドミナントがそのつもりで発した言葉には特殊な強制力のようなものが宿り、それを向けられたサブミッシブは、本人の意思に関わらず自然と身体がそのコマンドに従うというものだ。
それぞれの持つドム性、サブ性の強さや相性によってコマンドが効きやすい、効きにくいということはあるが、基本的にはドミナントがコマンドを使えばサブミッシブはそれに従ってしまう。お互いが信頼し合っている者同士であれば、コマンドによって互いの支配欲と服従欲を満たすことができる。だが、信頼関係がなかったり、特にサブミッシブ側に相手に対して拒否反応や恐怖心を抱いていたりする場合、無理矢理使われるコマンドは双方に大きなストレスを与えることになる。
肉体的にも精神的にも負担がかかりやすいサブミッシブ側が身を守るために使うのがセーフワードと呼ばれるものだ。プレイを始める前に二人で決めておき、これ以上プレイを続けたくない、そのコマンドは怖いから使わないでほしい――そういった場合に意思表示のために使われる単語だ。それを使う際、サブミッシブにも使われるドミナントにも若干のストレスがかかってしまうため、ほとんどのサブミッシブは本当に限界になるまで使うことはないらしい。
プレイやセーフワードの基本的なことは、中学や高校の性教育の授業で必ず習う。ヴァニラの俺でも一応このくらいのことは頭に入っている。だから、基本のコマンドでサブミッシブがセーフワードを使うなんていうことがどれだけ異常なことなのかも十分理解できるし、社長さんの息子さんに同情せずにはいられない。
「面接の時に話した身近な人間というのは息子のことでね。長いことパートナーに恵まれず、欲求不満で体調を崩しもメンタルもやられてしまって通院するようになったんだが、処方される薬がどれも身体に合わないらしく、副作用で苦しんでいたんだ。薬を飲んでも飲まなくても体調は優れず、まともに生活することも難しくなってしまってね……。そんな息子が見ていられなくて、うちの会社で副作用の出にくい薬の開発を始めたんだ」
「そういうことだったんですね」
「ああ。……薬は無事に完成して、息子の薬による副作用も比較的落ち着いて、ある程度は普通に生活ができるようになった。だが、その普通の生活を送るため、と今度は薬の服用量が増えてしまってね。規定量が増えれば別の副作用が出てしまう。……正直、そんな息子の姿をもう見ていられないんだ」
社長さんは話しながら頭を抱え込んでてしまった。面接中に見た姿と違って、彼の姿が弱々しく見えて、居た堪れない気持ちになる。大切な家族が苦しんでいるのを見れば、それこそ藁にも縋る思いだろう。俺だって両親が同じようなことになれば、いてもたってもいられなくなると思う。
「無理を言っているのは承知している。だが、ドム性の影響を受けないヴァニラの君なら、息子を救えるかもしれないんだ。どうか、どうか……あの子のパートナーになってもらえないだろうか」
「待っ……と、とりあえず! まずは一度息子さんと会ってお話をさせてください。自分一人で決めることじゃないと思うし、息子さんがどう思うかもあると思うんで!」
肩を震わせながら懇願する姿が痛々しくて、とても無理です、なんて言えなかった。はっきり、はいとも、いいえとも言えず、とりあえず何とかそう訴えると、社長さんがガバッと身体を起こして俺の方を見た。こちらに向けられた目は僅かに潤んでいた。
「ああ、ありがとう! ありがとう陽川くん! 本当にありがとう、ぜひ一度話してやってくれ! すまない……ありがとう……!」
勢い良く立ち上がった社長さんは、ローテーブル越しに俺の両手をガシッと掴むと、涙ぐみながら何度も何度も感謝の言葉を繰り返した。気持ちは分からないでもないけれど、圧がすごくて、俺は、はい、はい、と頷くことしかできなかった。
「本当にありがとう。後日連絡するから、君の都合のいい日に顔を合わせてやってほしい」
「は、はい」
少し落ち着いた様子の社長さんは、俺の手を離すと、少し鼻をすすりながら、穏やかにそう告げた。俺が頷けば、優しそうな微笑みを向けられた。
「時間を取らせてしまってすまなかったね。ありがとう、四月から一緒に働けるのを楽しみにしているよ」
「へ?」
「それじゃあ僕は先に失礼するね。部屋の外のスタッフに案内するように伝えておくから。本当にありがとう、陽川くん」
「いえ、あの、こちらこそ……?」
社長さんは最後に、面接を受けに来た就活生に向かってとんでもない爆弾を落として部屋を出て行った。
四月から、四月からって言ってたけど、採用決まっているってことなのか? さっきの息子さんの件、無理って言ったら不採用だったとかそういう? え、なんで今あんな意味深なこと言ってくの? ――そんな混乱をしながら俺はとりあえず応接室を出た。部屋の外には来る時に連れて来てくれたおじさんが待っていた。来る時同様、おじさんの背中について行く。社長さんの息子さんのこととか、最後の社長さんの言葉とかをぐるぐる考えている内に、エントランスホールについていた。
連れて来てくれたおじさんに会釈をして、外に出た。むわっとした暑さがまとわりついてくる。七月の頭とは思えない真夏のような暑さに溜め息を吐かずにはいられない。背後の大きなビルを一度振り返ってから駅へと向かう道を歩く。就活をしていたら、とんでもない仕事を受けることになってしまった。もう一度溜め息がこぼれたのは、暑さのせいか、お願いされた頼みごとのせいなのか、自分でもよく分からなかった。
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