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2話
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件の面接から一週間ほど経って、内々定通知が届いた。あの日、もしかして……と思ってはいたが、実際に書面で知らされて大喜びしてしまった。大本命の企業から内々定をいただけたのだから、迷うことなく早々に内々定の承諾書を返送した。選考途中のほかの企業に辞退の連絡を入れて、俺の就職活動は無事終了した。
ただ、社長さんの息子さんの件での連絡は、あれから二週間過ぎても何もなかった。息子さんからストップでもかかって話が流れたのか、社長さんが忙しくてそんな話をしていられないのか、俺には分からない。ただ、もし流れたのなら、それはそうと一報が欲しいと思ってしまう。
俺の両親は二人ともドミナントで、それぞれ同性のパートナーがいる。相手のサブミッシブも夫婦で、家族ぐるみで仲良くしている。だが、両親がパートナーにコマンドを使うところは見たことはない。まあ、マナーとして当たり前なのだが。
街中でも、来い、座れ、待て、くらいのコマンドを使うパートナーたちに遭遇することはあるが、基本的にそれ以上のコマンドを伴うプレイは、公の場で使うべきではないとされている。だからいくら身内とはいえ、あの人たちのコマンドやプレイを俺が知っているはずがない。
俺は、学校で習った程度の知識でしかプレイやコマンド、パートナーというものを知らない。周りの友人からパートナーの惚気のようなものを聞く機会もなくはないが、俺の周りはあまりパートナーとのことをあまり赤裸々に話したがらない人の方が多い。
ドム性の強い人のパートナーになる――。あれから何度も考えてはみたものの、正直あまりピンと来ていない。相手の年齢も、顔も、性格も知らないのだから、想像するのも難しい。どうしたもんかな、と考えながら、とりあえずこの二週間は、ほどほどにバイトに行きつつ、卒論の文献収集に勤しんでいた。
そんなある日、スマホに着信があった。画面に表示されたのはあの会社の番号だ。慌てて電話に出ると、電話の相手はすっかり聞き慣れた声の採用担当のお兄さんだった。土日のどこかで空いている日はないか、ということだったので、翌週の土曜を指定した。メールで場所を送るから、十三時に来てほしい、と言われた。了承して電話を切ると、早々にメールが届いた。採用担当――人事の人はこんなことまでしなきゃいけないのだろうか、と少しだけお兄さんが心配になった。
届いたメールにあったURLを開くと、行ったことはないけれど、俺でも名前くらいは知っているような高級ホテルのサイトに繋がった。正直敷居が高すぎる。
「こんなとこに着てける服ないんだけど……」
どうにも情けない独り言が、一人暮らしの狭いアパートの部屋に空しく響いた。
+ + +
高級ホテルに気後れしようが、約束は約束だ。当日、場違いさをひしひしと感じつつ、リクルートスーツを身にまとった俺は、ホテルのロビーで極力挙動不審に見えないように壁に張り付いて、何を見るでもなくスマホの画面を見つめていた。
「陽川さん」
不意に声をかけられ、驚いて肩を跳ねさせながら顔を上げると、人事担当のお兄さんが苦笑を浮かべながら俺を見ていた。
「驚かせちゃってすみません。お待たせしました」
「い、いえ、とんでもない……」
「こちらへどうぞ」
いっそ思い切り笑ってくれ、と思いながら歩いて行くお兄さんの後に続く。てっきりロビーにあるラウンジに入ると思っていたのに、お兄さんはその横を通り過ぎてエレベーターへと向かった。
友人とちょっと旅行に行っても安いビジネスホテルにしか泊まったことがない。ああいうところは大抵チェックインをしていない人は入るなと注意書きがあるが、こういうところは違うのだろうか。不安になりつつ、案内されているのだから、ととりあえず自分を納得させることにした。それでも、俺がそわそわしているのは伝わったらしく、静かなエレベーターの中でお兄さんが口を開いた。
「社長たちは八階のレストランの個室を借りています。そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ」
「う……。すみません、こういうところ初めてで……」
「それは確かに緊張しますね。社長も、もっと考えてあげればよかったのに」
「いや、そんな……」
はあ、とわざとらしい溜め息を吐くお兄さんに、俺は、はは、と力なく笑った。場に対する緊張は若干ほぐれたような気がする。ありがとうございます、と心の中でお兄さんにお礼を言葉を紡いだタイミングで、エレベーターが八階に到着した。
目的地に向かってまっすぐ歩いていくお兄さんの背中を追いかける。妙に豪華な扉の前で、ホテルのスタッフとお兄さんが一言二言言葉を交わすと、その扉が開かれた。色んなものに圧倒されながら、お兄さんの後ろをついて歩く。一つのドアの前でお兄さんが足を止めた。
「お連れしました」
軽いノックの後、お兄さんが部屋の中に声をかけると、たぶん社長さんのものだと思われる声で入ってくれ、という言葉が返ってきた。無意識に背筋が伸びる。役員面接の前の気持ちに近いかもしれない。お兄さんが静かにドアを開いた。
「座れ」
「恵秀!」
「え、ここに?」
ドアが完全に開くより先に、突然不機嫌そうな冷たい声が飛んできた。続く社長さんの怒鳴り声と、俺の間抜けな声が重なる。ドアハンドルを握っていたお兄さんは、苦しそうな声を漏らしてその場に座り込んだ。
「え!? だ、大丈夫ですか!?」
「ぅ……し、失礼しました。大丈夫です、僕のことは、お気になさらず……」
慌てて俺が声をかけると、いきなり顔色が悪くなったお兄さんが力なく笑いながらそう言った。
「野上くん、すまなかった。下がって少し休ませてもらってくれ」
「承知、しました、……失礼します」
慌てた様子の社長さんの言葉を受けて、お兄さんは軽く頭を下げて少しふらつきながら来た道を戻って行った。大丈夫だろうか、とその背中を見守っていると、先ほどとだいぶトーンの変わった声が俺に向けられた。
「君、本当にコマンドが効かないのか?」
慌てて俺が振り返ると、俺より年上の男性が驚いた顔をして俺を見ていた。目元に濃い隈と、あまり良いとは言えない顔色が気になったが、それがあってもその人は、俳優みたいに整った顔をしている。先ほどまで頬杖をついていたのだろう。驚いて身体を起こしたのか、テーブルに肘をついたまま固まっている左腕が何とも言えない格好になっていた。
「えっ、今のコマンドだったんですか? すみません、今からでも座った方がいいです?」
告げられた言葉に戸惑いつつ、ドミナントがコマンドを使ったらそれに従わないと良くないんじゃないのか、と慌てながら質問を返してしまった。そんな俺がおかしかったのか、一瞬固まったその人は一拍置いてから、あはは、と声を上げて笑った。
「いや違う、はは、ただの確認だったんだ。いきなりごめんね。っふふ、いや申し訳ない。そこの席に座って」
笑いを堪えられないのか、男性は肩を震わせながらテーブルを挟んだ自分の向かいの席を指差した。俺は笑われはしたものの、何がおかしかったのか分からず、苛立ちよりも戸惑いが勝ったまま、勧められるまま男性の向かいに腰を下ろした。彼の隣に座る社長さんは、困り顔で額の汗をハンカチで拭っていた。
「月山[[rb:恵秀 > けいしゅう]]です。父もいるし、恵秀と呼んでくれるかな」
「はい。……陽川よすがです。好きに呼んでいただければ」
「わかった。じゃあよすがくん」
先ほどのコマンドを言った時の声色が嘘のように、穏やかな声で息子さん――恵秀さんが名乗った。それに倣い、俺も名前を告げる。
「いやぁ、陽川くん、すまなかった。驚いたろう……第一印象が最悪だ」
「いえ、あの、大丈夫です。確かに驚きましたけど……」
困り顔の社長さんに謝られ、慌てて首を横に振る。色んな意味で驚きはしたけれど、正直それより戸惑いの方が強かった。第一印象は何だこの人というよりも、今何が起きたんだ、という気持ちが勝った。どうにもこの場の展開についていけていない。
「父の言う通りだ、コマンドのこともだけど、あんなふうにいきなり笑ってしまって、申し訳なかった。ごめんね。――ヴァニラが本当にいるなんて思わなかったんだ。適当なことを言ったドムに父が騙されたと思ってね」
「まったく、お前は私を何だと思っているのか」
恵秀さんの謝罪にも、いえ、と首を横に振った。続く親子のやり取りに俺はどう反応していいか分からず、黙って苦笑を浮かべていた。
ふと、俺はさっきのお兄さんのことが気になった。ちらりと背後のドアを振り返る。俺が入ってきたドアはいつの間にか閉められていた。
「あの、さっきの方は大丈夫なんですか?」
「ああ、大丈夫。少し休めば落ち着くはずだ」
「そうですか……」
社長さんの返答に俺がほっとしながら呟くと、恵秀さんが気まずそうに視線を泳がせた。
「父から聞いていると思うけど、僕はドム性が極端に強くてね。あんな基本のコマンドでもサブは怖がってしまうし、ドムも威圧されたと感じて具合が悪くなってしまう人も多いんだ」
「じゃあ、さっきの方は……」
「彼はドム。よくこういうことに付き合わせてしまっているから僕のコマンドに多少は慣れているけど、慣れているからと言ってもやっぱり耐えられるわけじゃないらしい。申し訳ないとは思ってるんだけどね」
肩を竦める恵秀さんの隣で、社長さんが大きな溜め息を吐いた。
社長さんが俺に頼んできたのはそういう理由があったからか、と納得する。怖がってしまうサブミッシブは論外として、強いドミナントにサブミッシブ役を頼もうとしても、恵秀さんのドム性に敵うドミナントはなかなかいないのだろう。それならそういう影響を受けないヴァニラの俺を頼りたくなるのは道理だ。
そんなことを考えていると、俺の前に美味しそうなケーキと紅茶が運ばれてきた。向かいの親子の前には紅茶のカップしか置かれていない。いいのだろうか、と思わず二人に視線を向けると、二人から揃って食べなさい、と勧められてしまった。なんとなく気恥ずかしくて、視線を落としてフォークに手を伸ばした。
一人だけ食べるというのはどうにも落ち着かない。落ち着かないが、勧められたものを固辞するのも失礼だ。気まずさを覚えながらもちまちまとケーキを頬張った。この前のコーヒーのように、味が分からなくなることはなかった。
ありがたくケーキと紅茶を楽しませてもらっていると、時折社長さんが世間話や質問を投げてくる。それに俺が頷いたり答えたりしているのを、恵秀さんは穏やかな表情で聞いていた。ケーキを頬張りながらそれを何度か盗み見ていたら視線がぶつかった。いきなり逸らすのも失礼かと思って、誤魔化すようにへらりと笑って視線を手元に戻した。
「さて、本題だがね」
俺の皿が空になったタイミングで社長さんが呟いた。俺は手にしていたカップを戻し、少し居住まいを正す。はい、と俺が返事をすると、恵秀さんが口を開いた。
「……僕のパートナーに、ということだけど、困惑しただろう。ごめんね」
「いえ! ……いやあの、確かに困惑はしたんですけども。お互い顔も知らなかったし、それ以前にヴァニラの僕にパートナーってとか、パートナーとして成り立つのかなぁとか、色々と大丈夫なのかなぁとか、思ったり……」
「それは当然の反応だね。会ったこともない奴とパートナーになれなんてかなり無理のある話だし、それ以前にヴァニラの君は、今までパートナーという存在を自分事として考えることはなかっただろうし」
返された言葉に素直に頷く。そんな俺に恵秀さんもうんうん、と頷いていた。再び口を開いた恵秀さんは、それまで浮かべていた穏やかな表情を消して、真剣な顔になった。
「君がヴァニラだと聞いて、父はいてもたってもいられなかったらしい。当事者の僕に確認もなく、いきなり君にお願いしたくらいだ。さっきも言ったけど、僕は正直全く父の話を信じていなかった。――だからと言って、出会い頭に許可もなくいきなりコマンドを放つのはルール違反だった。たとえ君に効かなかったとしてもね。よすがくんは大丈夫と言ってくれたけど、採用試験を受けた会社の社長やその息子が相手じゃ怒りたくても怒れないよね。本当に申し訳なかった」
そう言って恵秀さんは立ち上がり深く俺に頭を下げた。それに倣うように隣に座っていた社長さんも腰を上げて俺に頭を下げる。二人なりのけじめなんだろうが、どうにも俺はこの展開についていけていない。正直戸惑いが増すばかりだ。
「いや、本当に大丈夫なのでお二人とも頭を上げてください! 社長さんにお願いされたことも、さっきのコマンドのことも、俺全然怒ったりとかはなくて、ただびっくりしたのと戸惑ったのと、それだけなんで! 本当に!」
ただの大学生の若造相手に年上の二人が深々と頭を下げてくるのが、申し訳ないやら怖いやらでものすごく居た堪れない気持ちになる。本気で止めてもらいたくて、慌てた俺も立ち上がってちょっと声を張ってしまった。お願いします! と俺が続けると、二人は顔を上げてくれた。俺の訴えがあまりにも必死そうだったからか、二人は顔を見合わせて苦笑いしていた。
「分かった、ありがとう」
「君には気を遣わせてばかりだ。すまないね、陽川くん」
「本当に大丈夫なんで、そんなに謝らないでください……」
腰を下ろす二人に促され、俺も大人しく椅子に座る。なおも謝罪の言葉を繰り返す社長さんに、こっちが申し訳なくなってしまう。世の中の社長っていう存在はもっと横柄なものだと勝手に思い込んでいた。この人を見ているとそれが一転する。
「話を戻そうか。よすがくんは本当にヴァニラで、僕のコマンドで身体に不調が生じる様子もない。流石にこの短時間で君の本質や細かい人柄までを知ることはできないけど、今の時点で僕の方は君の人柄を好意的に感じている。よすがくんさえ良ければ、パートナーに……いや、疑似パートナー、かな? なってもらえたら、ありがたいんだけど、どうかな?」
恵秀さんの薄い灰色の瞳がまっすぐに俺を見つめてくる。先ほどの不機嫌なコマンドを向けてきた人と同一人物とは思えないくらい、穏やかで、丁寧で、誠実に話をする人だ。それこそ、どっちがこの人の本質なのかは俺には分からない。でも、こんなに容姿の整っている人なら、過去に何か不愉快なことがあって、そういうことを警戒してのあのコマンドだったのかもしれない。そう思うくらいには、今対面している恵秀さんという人に対して、悪感情はほぼ無いと言える。
パートナーやコマンド、プレイに対する俺の理解度はほかの人たちに比べたらほぼ無いに等しい。そこに対する不安感や戸惑いの気持ちは拭い切れない。それでも、ひとりで生きていくものだと思っていた自分にパートナーのような存在ができる、俺をパートナーにしたいと言ってくれる人がいる――そんな夢のような話に、腹の奥底で眠っていた小さな欲から生まれた泡が、ふつりと浮かんできた。
「……僕でお力になれるなら、ぜひ。ただ、僕はその、どうすれば、」
真剣な顔でまっすぐ俺を見つめる恵秀さんに応えるように、俺からも恵秀さんを見つめ返して了承の言葉を紡ぐ。それを聞いた恵秀さんの目が大きく見開かれ、分かりやすく表情がパッと明るくなった。
「ありがとう、よすがくん! 本当に助かるよ!」
「ああ、陽川くんありがとう、ありがとう!」
恵秀さんの言葉に被せるように社長さんの大きな声が同時に飛んできた。本当に嬉しそうにお礼の言葉を言う親子二人に気恥ずかしくなって、俺はほとんど空になっている手元のカップを口元へ運んだ。
「よすがくんには、僕のコマンドが効いているふりをしてもらいたいんだ」
「ふり、ですか」
「うん。さっきも言ったけど、サブ相手では怯えさせてしまって無理だった。パートナーのいない人向けに簡易プレイをさせてくれる公的サービスも受けてみたんだけど、そこに所属している中で一番強いサブ性を持つ人でも手に負えないって実質出禁になってしまったんだ。ドムに効いているふりを頼んだけど、威圧されてると感じたり、そもそもふりであってもドム側が支配される側になるのはものすごくストレスがかかるみたいで、これも無理だった。ああ、スイッチも同様だね。――だから、影響を受けないヴァニラのよすがくんに、疑似プレイをお願いしたいんだ」
「疑似プレイ……なるほど……」
聞けば聞くほど恵秀さんのこれまでの苦悩にこちらまで胃が痛くなるような気がした。
求められていることは理解できた。理解はできたがそれを俺が実際に実行できるかはまた別問題だ。俺のプレイの知識は授業で習う程度のもの。さっきだって、不意打ちとはいえ飛んできたコマンドに対してものすごく間抜けな反応をしてしまった。俺は案外難しいことを求められているのかもしれない。
「どうすればいいかは一応理解できたと思うんですが、……すみません、プレイとかコマンドについての知識が授業で聞いたくらいのものしかないので、コマンドが効いているふりっていうのが……難しいなぁと、思いまして、」
「ああ、そうか。それはそうだよね。他人のプレイをまじまじ見るようなことなんてないよねえ」
申し訳なく思いながら恐る恐る俺が訴えると、恵秀さんは一瞬きょとんとしたものの、納得したのか困ったように笑いながら独り言のように呟いた。隣で聞いていた社長さんも、うんうん、と頷く。
少しだけ考え込んでから、恵秀さんが申し訳なさそうに眉尻を下げながら口を開いた。
「難しいとは思うし、こんなことを頼ませるのはものすごく心苦しくもあるんだけど……。よすがくんの身近な人に、軽めのプレイを見学させてもらうことはできないかな? ご家族とか、仲のいいお友だちとか……」
一瞬、顔が引きつった。俺の顔が引きつったのに恵秀さんも気づいたのだろう。バッと頭を下げてきた。
プレイの見学……許してくれそうな人はいるだろうか。友人たちは多分無理だ。総じてみんなパートナーへの独占欲が強い。聞いてくれないこともないだろうが、それがストレスにならないとも限らない。気まずさはあるものの、両親のどちらかの方がまだ可能性は高い気がする。力になりたいと言ったのだから、このくらいはとりあえず相談してみよう。
「分かりました。受けてもらえるかは分かりませんが……ちょっと聞いてみます」
「ありがとう、本当に助かるよ」
少し考え込んでから答えると、恵秀さんは分かりやすくホッとした顔をした。結構感情が顔に出やすい人なのかもしれない。
「あの、僕からも一ついいですか?」
「もちろん。なんだろう?」
「さっきの疑似プレイの話、ちょっと心配なので、先に僕の主治医の先生と一緒に会って、話を聞いてもらってもいいですか?」
「主治医?」
「はい。ダイナミクス科の開業医のお医者さんです。長年、ダイナミクス研究をされている方なので、きっと力になってくださると思います」
面接の時に少し触れたからか、診断書の名前を思い返したのか、社長さんはきょとんとしている恵秀さんの隣で頷いている。恵秀さんは考えるそぶりもなく、すぐに俺の言葉に頷いた。
「その先生のご迷惑でなければ、むしろ僕からもお願いしたいくらいだ。ぜひよろしくお願いします」
「分かりました」
話がまとまって、今日はこれで帰ることになった。恵秀さんと連絡先を交換したので、今後は直接恵秀さんとやり取りをすることになった。
月山親子と回復したらしい人事担当のお兄さんが、わざわざロビーまで見送りに来てくれた。軽く会釈して三人に背を向けようとしたところで、ふと先日のアレが気になってしまった。
「あの、月山社長、今更なんですが、ちょっと質問してもいいですか?」
「うん? 何かな」
「ええと……あの、面接の日、無理ですって言ってたら、内々定はもらえてなかった……感じですか……?」
失礼を承知で尋ねてしまった。若干声を潜めながら聞く俺に、三人は顔を見合わせて吹き出した。
「ははっ、確かにそう思われても仕方がないなぁ。はは、すまないすまない。息子のことは関係ないよ。君はもともと採用する予定だったんだ。役員面接もほとんど確認程度のものだ」
「えっ、あ、そうだったんですか……」
「気持ちが先走ってしまったとはいえ、君には悪いことをしたねぇ。あの場であんなことを頼まれたら、内定を人質に無理を言ったようなものだ……。そこまで考えが及ばなかった、本当に悪かったね」
「いやあの、大丈夫です、それは、関係なかったので」
内定云々の話より、貴方があまりにも痛々しかったからです、なんて言えるわけもない。大丈夫です、と繰り返す俺と、申し訳なさそうに肩を落とす社長さんを、二人のお兄さんたちが苦笑いを浮かべながら眺めていた。
ただ、社長さんの息子さんの件での連絡は、あれから二週間過ぎても何もなかった。息子さんからストップでもかかって話が流れたのか、社長さんが忙しくてそんな話をしていられないのか、俺には分からない。ただ、もし流れたのなら、それはそうと一報が欲しいと思ってしまう。
俺の両親は二人ともドミナントで、それぞれ同性のパートナーがいる。相手のサブミッシブも夫婦で、家族ぐるみで仲良くしている。だが、両親がパートナーにコマンドを使うところは見たことはない。まあ、マナーとして当たり前なのだが。
街中でも、来い、座れ、待て、くらいのコマンドを使うパートナーたちに遭遇することはあるが、基本的にそれ以上のコマンドを伴うプレイは、公の場で使うべきではないとされている。だからいくら身内とはいえ、あの人たちのコマンドやプレイを俺が知っているはずがない。
俺は、学校で習った程度の知識でしかプレイやコマンド、パートナーというものを知らない。周りの友人からパートナーの惚気のようなものを聞く機会もなくはないが、俺の周りはあまりパートナーとのことをあまり赤裸々に話したがらない人の方が多い。
ドム性の強い人のパートナーになる――。あれから何度も考えてはみたものの、正直あまりピンと来ていない。相手の年齢も、顔も、性格も知らないのだから、想像するのも難しい。どうしたもんかな、と考えながら、とりあえずこの二週間は、ほどほどにバイトに行きつつ、卒論の文献収集に勤しんでいた。
そんなある日、スマホに着信があった。画面に表示されたのはあの会社の番号だ。慌てて電話に出ると、電話の相手はすっかり聞き慣れた声の採用担当のお兄さんだった。土日のどこかで空いている日はないか、ということだったので、翌週の土曜を指定した。メールで場所を送るから、十三時に来てほしい、と言われた。了承して電話を切ると、早々にメールが届いた。採用担当――人事の人はこんなことまでしなきゃいけないのだろうか、と少しだけお兄さんが心配になった。
届いたメールにあったURLを開くと、行ったことはないけれど、俺でも名前くらいは知っているような高級ホテルのサイトに繋がった。正直敷居が高すぎる。
「こんなとこに着てける服ないんだけど……」
どうにも情けない独り言が、一人暮らしの狭いアパートの部屋に空しく響いた。
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高級ホテルに気後れしようが、約束は約束だ。当日、場違いさをひしひしと感じつつ、リクルートスーツを身にまとった俺は、ホテルのロビーで極力挙動不審に見えないように壁に張り付いて、何を見るでもなくスマホの画面を見つめていた。
「陽川さん」
不意に声をかけられ、驚いて肩を跳ねさせながら顔を上げると、人事担当のお兄さんが苦笑を浮かべながら俺を見ていた。
「驚かせちゃってすみません。お待たせしました」
「い、いえ、とんでもない……」
「こちらへどうぞ」
いっそ思い切り笑ってくれ、と思いながら歩いて行くお兄さんの後に続く。てっきりロビーにあるラウンジに入ると思っていたのに、お兄さんはその横を通り過ぎてエレベーターへと向かった。
友人とちょっと旅行に行っても安いビジネスホテルにしか泊まったことがない。ああいうところは大抵チェックインをしていない人は入るなと注意書きがあるが、こういうところは違うのだろうか。不安になりつつ、案内されているのだから、ととりあえず自分を納得させることにした。それでも、俺がそわそわしているのは伝わったらしく、静かなエレベーターの中でお兄さんが口を開いた。
「社長たちは八階のレストランの個室を借りています。そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ」
「う……。すみません、こういうところ初めてで……」
「それは確かに緊張しますね。社長も、もっと考えてあげればよかったのに」
「いや、そんな……」
はあ、とわざとらしい溜め息を吐くお兄さんに、俺は、はは、と力なく笑った。場に対する緊張は若干ほぐれたような気がする。ありがとうございます、と心の中でお兄さんにお礼を言葉を紡いだタイミングで、エレベーターが八階に到着した。
目的地に向かってまっすぐ歩いていくお兄さんの背中を追いかける。妙に豪華な扉の前で、ホテルのスタッフとお兄さんが一言二言言葉を交わすと、その扉が開かれた。色んなものに圧倒されながら、お兄さんの後ろをついて歩く。一つのドアの前でお兄さんが足を止めた。
「お連れしました」
軽いノックの後、お兄さんが部屋の中に声をかけると、たぶん社長さんのものだと思われる声で入ってくれ、という言葉が返ってきた。無意識に背筋が伸びる。役員面接の前の気持ちに近いかもしれない。お兄さんが静かにドアを開いた。
「座れ」
「恵秀!」
「え、ここに?」
ドアが完全に開くより先に、突然不機嫌そうな冷たい声が飛んできた。続く社長さんの怒鳴り声と、俺の間抜けな声が重なる。ドアハンドルを握っていたお兄さんは、苦しそうな声を漏らしてその場に座り込んだ。
「え!? だ、大丈夫ですか!?」
「ぅ……し、失礼しました。大丈夫です、僕のことは、お気になさらず……」
慌てて俺が声をかけると、いきなり顔色が悪くなったお兄さんが力なく笑いながらそう言った。
「野上くん、すまなかった。下がって少し休ませてもらってくれ」
「承知、しました、……失礼します」
慌てた様子の社長さんの言葉を受けて、お兄さんは軽く頭を下げて少しふらつきながら来た道を戻って行った。大丈夫だろうか、とその背中を見守っていると、先ほどとだいぶトーンの変わった声が俺に向けられた。
「君、本当にコマンドが効かないのか?」
慌てて俺が振り返ると、俺より年上の男性が驚いた顔をして俺を見ていた。目元に濃い隈と、あまり良いとは言えない顔色が気になったが、それがあってもその人は、俳優みたいに整った顔をしている。先ほどまで頬杖をついていたのだろう。驚いて身体を起こしたのか、テーブルに肘をついたまま固まっている左腕が何とも言えない格好になっていた。
「えっ、今のコマンドだったんですか? すみません、今からでも座った方がいいです?」
告げられた言葉に戸惑いつつ、ドミナントがコマンドを使ったらそれに従わないと良くないんじゃないのか、と慌てながら質問を返してしまった。そんな俺がおかしかったのか、一瞬固まったその人は一拍置いてから、あはは、と声を上げて笑った。
「いや違う、はは、ただの確認だったんだ。いきなりごめんね。っふふ、いや申し訳ない。そこの席に座って」
笑いを堪えられないのか、男性は肩を震わせながらテーブルを挟んだ自分の向かいの席を指差した。俺は笑われはしたものの、何がおかしかったのか分からず、苛立ちよりも戸惑いが勝ったまま、勧められるまま男性の向かいに腰を下ろした。彼の隣に座る社長さんは、困り顔で額の汗をハンカチで拭っていた。
「月山[[rb:恵秀 > けいしゅう]]です。父もいるし、恵秀と呼んでくれるかな」
「はい。……陽川よすがです。好きに呼んでいただければ」
「わかった。じゃあよすがくん」
先ほどのコマンドを言った時の声色が嘘のように、穏やかな声で息子さん――恵秀さんが名乗った。それに倣い、俺も名前を告げる。
「いやぁ、陽川くん、すまなかった。驚いたろう……第一印象が最悪だ」
「いえ、あの、大丈夫です。確かに驚きましたけど……」
困り顔の社長さんに謝られ、慌てて首を横に振る。色んな意味で驚きはしたけれど、正直それより戸惑いの方が強かった。第一印象は何だこの人というよりも、今何が起きたんだ、という気持ちが勝った。どうにもこの場の展開についていけていない。
「父の言う通りだ、コマンドのこともだけど、あんなふうにいきなり笑ってしまって、申し訳なかった。ごめんね。――ヴァニラが本当にいるなんて思わなかったんだ。適当なことを言ったドムに父が騙されたと思ってね」
「まったく、お前は私を何だと思っているのか」
恵秀さんの謝罪にも、いえ、と首を横に振った。続く親子のやり取りに俺はどう反応していいか分からず、黙って苦笑を浮かべていた。
ふと、俺はさっきのお兄さんのことが気になった。ちらりと背後のドアを振り返る。俺が入ってきたドアはいつの間にか閉められていた。
「あの、さっきの方は大丈夫なんですか?」
「ああ、大丈夫。少し休めば落ち着くはずだ」
「そうですか……」
社長さんの返答に俺がほっとしながら呟くと、恵秀さんが気まずそうに視線を泳がせた。
「父から聞いていると思うけど、僕はドム性が極端に強くてね。あんな基本のコマンドでもサブは怖がってしまうし、ドムも威圧されたと感じて具合が悪くなってしまう人も多いんだ」
「じゃあ、さっきの方は……」
「彼はドム。よくこういうことに付き合わせてしまっているから僕のコマンドに多少は慣れているけど、慣れているからと言ってもやっぱり耐えられるわけじゃないらしい。申し訳ないとは思ってるんだけどね」
肩を竦める恵秀さんの隣で、社長さんが大きな溜め息を吐いた。
社長さんが俺に頼んできたのはそういう理由があったからか、と納得する。怖がってしまうサブミッシブは論外として、強いドミナントにサブミッシブ役を頼もうとしても、恵秀さんのドム性に敵うドミナントはなかなかいないのだろう。それならそういう影響を受けないヴァニラの俺を頼りたくなるのは道理だ。
そんなことを考えていると、俺の前に美味しそうなケーキと紅茶が運ばれてきた。向かいの親子の前には紅茶のカップしか置かれていない。いいのだろうか、と思わず二人に視線を向けると、二人から揃って食べなさい、と勧められてしまった。なんとなく気恥ずかしくて、視線を落としてフォークに手を伸ばした。
一人だけ食べるというのはどうにも落ち着かない。落ち着かないが、勧められたものを固辞するのも失礼だ。気まずさを覚えながらもちまちまとケーキを頬張った。この前のコーヒーのように、味が分からなくなることはなかった。
ありがたくケーキと紅茶を楽しませてもらっていると、時折社長さんが世間話や質問を投げてくる。それに俺が頷いたり答えたりしているのを、恵秀さんは穏やかな表情で聞いていた。ケーキを頬張りながらそれを何度か盗み見ていたら視線がぶつかった。いきなり逸らすのも失礼かと思って、誤魔化すようにへらりと笑って視線を手元に戻した。
「さて、本題だがね」
俺の皿が空になったタイミングで社長さんが呟いた。俺は手にしていたカップを戻し、少し居住まいを正す。はい、と俺が返事をすると、恵秀さんが口を開いた。
「……僕のパートナーに、ということだけど、困惑しただろう。ごめんね」
「いえ! ……いやあの、確かに困惑はしたんですけども。お互い顔も知らなかったし、それ以前にヴァニラの僕にパートナーってとか、パートナーとして成り立つのかなぁとか、色々と大丈夫なのかなぁとか、思ったり……」
「それは当然の反応だね。会ったこともない奴とパートナーになれなんてかなり無理のある話だし、それ以前にヴァニラの君は、今までパートナーという存在を自分事として考えることはなかっただろうし」
返された言葉に素直に頷く。そんな俺に恵秀さんもうんうん、と頷いていた。再び口を開いた恵秀さんは、それまで浮かべていた穏やかな表情を消して、真剣な顔になった。
「君がヴァニラだと聞いて、父はいてもたってもいられなかったらしい。当事者の僕に確認もなく、いきなり君にお願いしたくらいだ。さっきも言ったけど、僕は正直全く父の話を信じていなかった。――だからと言って、出会い頭に許可もなくいきなりコマンドを放つのはルール違反だった。たとえ君に効かなかったとしてもね。よすがくんは大丈夫と言ってくれたけど、採用試験を受けた会社の社長やその息子が相手じゃ怒りたくても怒れないよね。本当に申し訳なかった」
そう言って恵秀さんは立ち上がり深く俺に頭を下げた。それに倣うように隣に座っていた社長さんも腰を上げて俺に頭を下げる。二人なりのけじめなんだろうが、どうにも俺はこの展開についていけていない。正直戸惑いが増すばかりだ。
「いや、本当に大丈夫なのでお二人とも頭を上げてください! 社長さんにお願いされたことも、さっきのコマンドのことも、俺全然怒ったりとかはなくて、ただびっくりしたのと戸惑ったのと、それだけなんで! 本当に!」
ただの大学生の若造相手に年上の二人が深々と頭を下げてくるのが、申し訳ないやら怖いやらでものすごく居た堪れない気持ちになる。本気で止めてもらいたくて、慌てた俺も立ち上がってちょっと声を張ってしまった。お願いします! と俺が続けると、二人は顔を上げてくれた。俺の訴えがあまりにも必死そうだったからか、二人は顔を見合わせて苦笑いしていた。
「分かった、ありがとう」
「君には気を遣わせてばかりだ。すまないね、陽川くん」
「本当に大丈夫なんで、そんなに謝らないでください……」
腰を下ろす二人に促され、俺も大人しく椅子に座る。なおも謝罪の言葉を繰り返す社長さんに、こっちが申し訳なくなってしまう。世の中の社長っていう存在はもっと横柄なものだと勝手に思い込んでいた。この人を見ているとそれが一転する。
「話を戻そうか。よすがくんは本当にヴァニラで、僕のコマンドで身体に不調が生じる様子もない。流石にこの短時間で君の本質や細かい人柄までを知ることはできないけど、今の時点で僕の方は君の人柄を好意的に感じている。よすがくんさえ良ければ、パートナーに……いや、疑似パートナー、かな? なってもらえたら、ありがたいんだけど、どうかな?」
恵秀さんの薄い灰色の瞳がまっすぐに俺を見つめてくる。先ほどの不機嫌なコマンドを向けてきた人と同一人物とは思えないくらい、穏やかで、丁寧で、誠実に話をする人だ。それこそ、どっちがこの人の本質なのかは俺には分からない。でも、こんなに容姿の整っている人なら、過去に何か不愉快なことがあって、そういうことを警戒してのあのコマンドだったのかもしれない。そう思うくらいには、今対面している恵秀さんという人に対して、悪感情はほぼ無いと言える。
パートナーやコマンド、プレイに対する俺の理解度はほかの人たちに比べたらほぼ無いに等しい。そこに対する不安感や戸惑いの気持ちは拭い切れない。それでも、ひとりで生きていくものだと思っていた自分にパートナーのような存在ができる、俺をパートナーにしたいと言ってくれる人がいる――そんな夢のような話に、腹の奥底で眠っていた小さな欲から生まれた泡が、ふつりと浮かんできた。
「……僕でお力になれるなら、ぜひ。ただ、僕はその、どうすれば、」
真剣な顔でまっすぐ俺を見つめる恵秀さんに応えるように、俺からも恵秀さんを見つめ返して了承の言葉を紡ぐ。それを聞いた恵秀さんの目が大きく見開かれ、分かりやすく表情がパッと明るくなった。
「ありがとう、よすがくん! 本当に助かるよ!」
「ああ、陽川くんありがとう、ありがとう!」
恵秀さんの言葉に被せるように社長さんの大きな声が同時に飛んできた。本当に嬉しそうにお礼の言葉を言う親子二人に気恥ずかしくなって、俺はほとんど空になっている手元のカップを口元へ運んだ。
「よすがくんには、僕のコマンドが効いているふりをしてもらいたいんだ」
「ふり、ですか」
「うん。さっきも言ったけど、サブ相手では怯えさせてしまって無理だった。パートナーのいない人向けに簡易プレイをさせてくれる公的サービスも受けてみたんだけど、そこに所属している中で一番強いサブ性を持つ人でも手に負えないって実質出禁になってしまったんだ。ドムに効いているふりを頼んだけど、威圧されてると感じたり、そもそもふりであってもドム側が支配される側になるのはものすごくストレスがかかるみたいで、これも無理だった。ああ、スイッチも同様だね。――だから、影響を受けないヴァニラのよすがくんに、疑似プレイをお願いしたいんだ」
「疑似プレイ……なるほど……」
聞けば聞くほど恵秀さんのこれまでの苦悩にこちらまで胃が痛くなるような気がした。
求められていることは理解できた。理解はできたがそれを俺が実際に実行できるかはまた別問題だ。俺のプレイの知識は授業で習う程度のもの。さっきだって、不意打ちとはいえ飛んできたコマンドに対してものすごく間抜けな反応をしてしまった。俺は案外難しいことを求められているのかもしれない。
「どうすればいいかは一応理解できたと思うんですが、……すみません、プレイとかコマンドについての知識が授業で聞いたくらいのものしかないので、コマンドが効いているふりっていうのが……難しいなぁと、思いまして、」
「ああ、そうか。それはそうだよね。他人のプレイをまじまじ見るようなことなんてないよねえ」
申し訳なく思いながら恐る恐る俺が訴えると、恵秀さんは一瞬きょとんとしたものの、納得したのか困ったように笑いながら独り言のように呟いた。隣で聞いていた社長さんも、うんうん、と頷く。
少しだけ考え込んでから、恵秀さんが申し訳なさそうに眉尻を下げながら口を開いた。
「難しいとは思うし、こんなことを頼ませるのはものすごく心苦しくもあるんだけど……。よすがくんの身近な人に、軽めのプレイを見学させてもらうことはできないかな? ご家族とか、仲のいいお友だちとか……」
一瞬、顔が引きつった。俺の顔が引きつったのに恵秀さんも気づいたのだろう。バッと頭を下げてきた。
プレイの見学……許してくれそうな人はいるだろうか。友人たちは多分無理だ。総じてみんなパートナーへの独占欲が強い。聞いてくれないこともないだろうが、それがストレスにならないとも限らない。気まずさはあるものの、両親のどちらかの方がまだ可能性は高い気がする。力になりたいと言ったのだから、このくらいはとりあえず相談してみよう。
「分かりました。受けてもらえるかは分かりませんが……ちょっと聞いてみます」
「ありがとう、本当に助かるよ」
少し考え込んでから答えると、恵秀さんは分かりやすくホッとした顔をした。結構感情が顔に出やすい人なのかもしれない。
「あの、僕からも一ついいですか?」
「もちろん。なんだろう?」
「さっきの疑似プレイの話、ちょっと心配なので、先に僕の主治医の先生と一緒に会って、話を聞いてもらってもいいですか?」
「主治医?」
「はい。ダイナミクス科の開業医のお医者さんです。長年、ダイナミクス研究をされている方なので、きっと力になってくださると思います」
面接の時に少し触れたからか、診断書の名前を思い返したのか、社長さんはきょとんとしている恵秀さんの隣で頷いている。恵秀さんは考えるそぶりもなく、すぐに俺の言葉に頷いた。
「その先生のご迷惑でなければ、むしろ僕からもお願いしたいくらいだ。ぜひよろしくお願いします」
「分かりました」
話がまとまって、今日はこれで帰ることになった。恵秀さんと連絡先を交換したので、今後は直接恵秀さんとやり取りをすることになった。
月山親子と回復したらしい人事担当のお兄さんが、わざわざロビーまで見送りに来てくれた。軽く会釈して三人に背を向けようとしたところで、ふと先日のアレが気になってしまった。
「あの、月山社長、今更なんですが、ちょっと質問してもいいですか?」
「うん? 何かな」
「ええと……あの、面接の日、無理ですって言ってたら、内々定はもらえてなかった……感じですか……?」
失礼を承知で尋ねてしまった。若干声を潜めながら聞く俺に、三人は顔を見合わせて吹き出した。
「ははっ、確かにそう思われても仕方がないなぁ。はは、すまないすまない。息子のことは関係ないよ。君はもともと採用する予定だったんだ。役員面接もほとんど確認程度のものだ」
「えっ、あ、そうだったんですか……」
「気持ちが先走ってしまったとはいえ、君には悪いことをしたねぇ。あの場であんなことを頼まれたら、内定を人質に無理を言ったようなものだ……。そこまで考えが及ばなかった、本当に悪かったね」
「いやあの、大丈夫です、それは、関係なかったので」
内定云々の話より、貴方があまりにも痛々しかったからです、なんて言えるわけもない。大丈夫です、と繰り返す俺と、申し訳なさそうに肩を落とす社長さんを、二人のお兄さんたちが苦笑いを浮かべながら眺めていた。
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