バニラ風味のトランキライザー

夜現 黎

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3話

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 翌週の土曜日、俺は実家に帰って来ている。
 恵秀さんたちと顔を合わせた翌日にも一度実家に帰った。とりあえず両親に恵秀さんのことと、疑似パートナーのこと、プレイで自分がサブミッシブのようにコマンドを受けたふりをすることを話した。両親ともに俺の話にだいぶ戸惑っていた。俺だって戸惑っているんだから、当然だろう。それでも、二人とも自分がドミナントだからか、基本的なコマンドすら使えない恵秀さんのことをひどく心配していた。同じ性だからこそ、思うところがあったんだろう。戸惑いながらも、俺が決めたことに反対はしないでくれた。
 それから、プレイの見学もお願いした。二人ともかなり驚いていたけれど、いいよ、と笑って許してくれた。結局、二人がそれぞれのパートナーと相談した結果、翌週――つまり今日――父さんと父さんのパートナーのプレイを見せてもらうことになった。正直お互いめちゃくちゃ気まずいと思うし、申し訳ない気持ちでいっぱいなのだけど、背に腹は代えられなかった。
 見学の許可が出たことを恵秀さんに連絡すると、『ありがとう、無理のない範囲でね』と早々に返事が返ってきた。あの顔色の悪さを思い出して、自分は相当しんどいだろうに、いい人だなぁ、と俺が感心やら心配やらをしてしまったのは仕方がないと思う。

 父さんに呼ばれて二階の自室からリビングへ降りると、父さんと、そのパートナーのひろさんが俺を待っていた。久しぶり、と挨拶もそこそこに、俺たちはダイニングテーブルに向かい合って座った。
「とりあえずたかしさんからざっくりとした話は聞いているけど、プレイの前に簡単に説明からしていいかな?」
 敬さん、というのは父さんのことだ。家の中で両親の名前を聞くことはあまりないからなんだか新鮮に感じる。
 浩さんは父さんの方を窺いながら俺にそう言った。俺がやるのはサブミッシブの方だから、浩さんが説明してくれるんだろう。俺は素直に頷いた。
「はい、お願いします」
「うん。まずコマンドについては……授業でやったよね。ドムがサブを従わせるために使う単語。本来はドムとサブが事前にどういう時になんていう単語を使うか話し合ってからプレイをするものなんだけど、結構これを省くドムは少なくない」
「そうなの?」
 浩さんの言葉に俺が思わず聞き返すと、隣の父さんが答えた。
「ああ、多いくらいだ。コマンドのつもりでドム側が使えば、大抵のサブはそれに身体が反応する。来い、来て、座れ、お座り――そんな感じの言い回しの差にわざわざ気を使う必要ないと思ってるってことだな。俺と浩は全部決めてる」
「相手のドムの人も分かってると思うけど、よすがくんたちは必ず決めないと駄目だ。君はサブじゃないから、ドムの人がコマンドとして言ったのかそうじゃないのかが分からない。普通だとなかなか無いことだけど、相手にコマンドが効かないのは、ドムにとってすごくストレスになるだろうから」
「なるほど……」
 浩さんの言う通り、確かに基本的なことは授業で聞いている。それでも、実際の細かいことまでは知らなかった。事前にコマンドを決めておきましょう、というのは何を使うか決める、ということではなくて、どういう場面で何という言葉を使うか、という意味だったのは初めて知った。奥が深いな、と俺が感心していると、浩さんは話を続けた。
「コマンドについてだけど、まずコマンドを使われた時は――まあ、後で見てもらうから、それでなんとなく分かると思うんだけど。身体が自分の意志で動かなくなる感じかな。何かに操られているような感じ。来てって言われると足がドムの方に勝手に動いて行って、座ってって言われると膝の力が抜けて、その場に座り込むような感じ。……伝わるかな?」
「はい。座れ、のコマンドを使ってるところは何度か外で見かけたことがあるので、なんとなくは」
「うんうん。あれは日常生活で使われがちだからね。サブ用のラグを用意しているお店も多いし」
 いつかのカフェのように、テーブル席のある飲食店では、大抵椅子のそばにラグが敷かれている。もちろんサブミッシブをラグではなく椅子に座らせるドミナントもいるが、ドミナントの足元に座るのが落ち着くというサブミッシブが一定数いるらしい。……恵秀さんはどっちがいいんだろうか。
 そんなことを考えていると、浩さんが少し真面目な顔で俺を見てきた。
「先にコマンドについて話しちゃったけど、プレイをするために一番大切なことがあります。まず第一に、パートナーやパートナーになろうとしている二人は、お互いのことをきちんと信頼していなくちゃいけない。このサブは自分に身を委ねてくれる。このドムは自分に無理をさせない。そういう信頼関係の上でプレイは成り立っているっていうことを忘れちゃいけない」
「はい」
「信頼関係がなくてもサブにはコマンドは効いてしまうんだけどね。ただ、従う身体と従いたくない気持ちの乖離でサブに大きなストレスがかかる。……ヴァニラのよすがくんにはそれは起こらないと思うけど、嫌なことは嫌だってきちんと言わなくちゃいけない。それは分かるね? ドムのコマンドはサブの信頼の上に成り立つものだから、言われたもの全部に従う必要はない」
「……分かりました」
 真剣な様子の浩さんの言葉を受け止めて返事をする。あの人はきっと無理なことは言わなさそうだけど、俺はまだ何も知らない。プレイのことも、恵秀さんのことも。
「よし、じゃあ後は実際に見てもらった後でもう少し説明しようか」
 俺の返事に満足そうに頷くと、笑みを浮かべた浩さんが立ち上がる。それに倣うように父さんも立ち上がったので、俺も腰を上げかけたが、父さんに止められた。俺はこのままダイニングテーブルの席にいろということらしい。
「照れくさいねぇ」
「息子に見せる俺の方がなかなか恥ずかしいけどな」
 浩さんと父さんがそんなことを言い合って、くすくすと笑っている。浩さんはそのまま椅子のそばで待ち、父さんはソファの方へと移動した。父さんはソファに腰を下ろすと、俺の方を見た。
「始めるから、よすがは静かにな」
「う、うん」
 思わず背筋が伸びた。そんな俺がおかしかったのか、父さんは少し笑ってから、視線を俺から浩さんへ移した。
「浩」
「はい」
「来てくれ」
 特別、父さんの声色が変わった感じはなかった。それでも、浩さんにはそれが別のものとして聞こえているのだろう。ゆっくりと、引っ張られるように父さんの元へ歩いていく。父さんの使ったコマンドは俺には分からなかったけれど、二人の間の空気が別のものに変わったのはなんとなく伝わってきた。こっちが緊張してしまって、無意識にぐっと手を握り込んでいた。
 父さんの前で浩さんが足を止めると、嬉しそうに笑った父さんが、いい子、と小さく呟いた。こっちに背を向けている浩さんの表情は分からない。
「座ってくれ」
 次のコマンドに、浩さんの身体が揺れる。崩れるように絨毯の上に座り込んでから、浩さんが正座に姿勢を直す。きちんと座り直した浩さんが、ソファに座る父さんを見上げると、父さんはまた、いい子、と微笑んだ。ただそれだけのことなのに、二人がものすごく幸せそうなのが伝わってくる。
「立ってくれ」
「ここに座ってくれ」
「ハグしよう」
 一度自分の足元に浩さんを座らせた父さんが浩さんを立たせて、ソファの自分の隣に座り直させると、腕を広げてハグをねだった。見ているこっちがものすごく照れくさいというか居た堪れなくて目を逸らしたくなった。
 二人の間に恋人や夫婦のような甘い空気は一切ない。それでも、お互いを信頼して、大切にしていて、二人でいることが幸せなんだろうというの空気が、こっちにまではっきりと伝わってくる。
「よくできました」
 浩さんが父さんにハグをすると、父さんは一際嬉しそうな声でそう言った後、浩さんの背中を優しく撫でた。しばらくその体勢を続けた後、二人は腕を解いてソファに並んで座り直した。
「俺たちのプレイは大体このくらいだな」
 父さんのその言葉を聞いて、俺は深く息を吐いた。別に息を止めていたわけじゃないけれど、なんとなくこう、落ち着かなかった。
 二人は照れくさそうにしながら、ダイニングテーブルの元の席に戻ってきた。
「なんとなく……雰囲気くらいは、伝わったかな?」
「はい。……俺にふりでできるかどうかはちょっと分かんないけど……」
「それはそうだろうなぁ」
 俺の答えに二人は肩を竦めて笑った。
「じゃあ、ちょっとプレイの話をするか」
「プレイの話?」
 今度は浩さんじゃなくて、父さんが話し始めた。さっきやってたことの説明だろうか、と俺は首を傾げた。
「プレイの内容は、それぞれの持つ欲求の程度でかなり変わってくる。俺と浩はお互い支配欲と服従欲がかなり弱い方だから、さっきくらいの基本のコマンドで十分満足できる。だが、みんながみんなそうじゃない。それは分かるな?」
「一応は、分かるつもり」
「よし。同じダイナミクスの中でも真逆の欲求を持っていたり、対のダイナミクスで似た欲求を持っていたりするのはよくあることだと思っておけ。サブの身の回りの世話を焼きたがるドムもいれば、自分のことを全部サブにやらせたがるドムもいる。ドムのためにあれこれしたがるサブもいれば、ひたすら世話を焼かれて甘やかされたいサブもいる。欲求の方向性や強さも人それぞれかなり違う」
「……なるほど」
 一言に支配欲、服従欲とまとめられても、その中身はかなり違う。授業では『それぞれの持つ欲求には個人差があります』としか言われなかった。それはそうだろう、こうやって聞かされてみれば、授業でそれを具体的に並べるわけにはいかないだろう、と理解できる。
「極端な話だが、大事なことだからな。日常生活で使えるコマンドがプレイになる者もいれば、セックスやいわゆるSMプレイみたいなことじゃないとプレイにならない者もいる」
「えっ!?」
 父さんの言葉に思わず目を見開いて声をあげてしまった。俺は父さんたちのように、恋愛対象は異性で、パートナーは同性というのが一般的だと思っていたせいか、パートナーでそういうことをするというのを今初めて知った。パートナーというものの認識が俺の中で今一気に変わった気がする。授業の知識ごときじゃ本当に何にも分からない。
 驚きで固まる俺に、向かいに座る二人は顔を見合わせて困ったように笑った。
「よすがくんには縁のなかった話だからね、驚くのも仕方ないよ」
「俺たちや母さんたちみたいにお互いに恋愛感情を向けていないパートナーもそれなりにいるが、恋人や伴侶であり、パートナーでもあるっていう人たちの方が多いくらいかもしれない。……まぁ、言ってしまえば、パートナーに恋愛感情がなくてもプレイの一環としてセックスを求める奴もいる」
「ええっ!?」
 二度目の悲鳴のような俺の声に父さんは肩を竦めた。
 別にパートナー云々を抜きにしても、付き合っているわけじゃなくてただのセフレとか、そういう関係を持っている人がいることくらいは俺だって知っているし、大学でそういう話も聞く。俺自身はさほど興味がないからよくやるなぁ、くらいにしか考えていなかった。ダイナミクス絡みでもそういうことがあるのか、と驚きを隠せない。知らない世界だ。何も分からない。
 混乱している俺を宥めるように浩さんが俺を呼んだ。
「敬さんは何もよすがくんを怖がらせようとしてるわけじゃないんだよ。まず相手の求めるものがどういうものか確認をしてからプレイをするのが大切っていうことなんだ。求めているものを確認して、それに君が応えられるかどうかをはっきり伝えなきゃいけない」
「今までまともにサブにコマンドが使えなかったようなドムなら、まずは近くに呼んだり、座らせたりくらいのコマンドだけで十分満足できるだろう。ただ、よすがも相手も思い込みでプレイをするのはよくない。必ずお互いに確認し合うことが重要だ」
「……はい」
 丁寧に説明してくれる二人にしっかりと頷く。そんな俺を見て、二人は満足げに笑った。

 その晩、恵秀さんに父さんたちのプレイを見学させてもらったことを伝えた。さほど時間を置かずに届いた返信には感謝の言葉が綴られていた。すごく気を遣わせてしまっているような気がする。そんなに気にしなくていいのにな、と自室のベッドに転がりながら溜め息を吐いた。
 あの人はどんなコマンドが使いたいんだろう。どういうプレイをしたいんだろう。それは俺が応えられるものなんだろうか。もちろん力にはなりたいけれど、あまり難しいものじゃないといいな。――そんなことを考えて目を閉じる。ドミナントのことも、プレイのことも、恵秀さんのことも、俺には知らないことばっかりだ。
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