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最終話
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月が変わり、あっと言う間に十二月になっていた。居酒屋でバイトをしている俺は、忘年会シーズンということもあって、今月は出勤日が多い。
恵秀さんとのプレイの時間は、以前は夜に取ることもそこそこあったけれど、最近は講義のない日の昼間や、夕方に取っている。
あれから恵秀さんの体調はまた落ち着いてきたらしく、薬も飲んでいないらしい。不眠で浮かんでいた目元の隈も、薄くなってほとんど消えている。
コマンドは結局、あの後増やされていない。心配していたけれど、増えた二つとスキンシップで十分満たされている、らしい。うっとりとそう告げられてかなり恥ずかしくなったが、問題がないなら、何よりだと思う。
「よすー! 七番テーブル生持ってってー!」
「はーい!」
金曜日の店はいつも以上に忙しい。叫ぶような先輩の声にこっちも叫ぶように返事をして、両手でビールジョッキを持つ。今日頑張れば明日は休める、そう思いながら指示された席へと向かった。
アルコールが入れば話し声も大きくなる。廊下を進めばあちらこちらの席から楽しげな喧騒が聞こえてくる。俺はわりとこの喧騒が好きだったりする。
「失礼いたしまーす、生中ご注文のお客さまー」
「えっ」
「あれ」
俺のバイト先は全部の席が個室のような感じになっている。肘で入り口の扉を開けて中に声をかける。同時に聞こえてきたのは、聞き慣れた声と、聞き覚えのある声だった。
「陽川くんじゃん」
「よすがくん!」
「え、あ、け、恵秀さん?」
中にいたのは八人くらいの男女。その中に恵秀さんと人事担当の野上さんがいて、驚いた顔で俺を見ていた。二人の声に、同じ席の人たちの視線が一気に俺に集まる。バイト先で知り合いに会うことなんてほとんどない俺は、正直めちゃくちゃ気まずかった。
奥の方に座っていた恵秀さんが、腰を上げてわざわざ俺の方に来た。
「ジョッキもらうよ、ありがとう。バイト先ここだったんだね」
「あ、すみません」
俺からジョッキを受け取った恵秀さんが、近くの席のお兄さんにそれを渡す。早く戻ろう、と背を向けようとしたところで上機嫌な野上さんの声が飛んできた。
「久しぶりだねぇ、陽川くん」
「お、お久しぶりです……」
人懐こい笑みを浮かべて俺に手を振ってくる野上さんに、軽く頭を下げる。
「けーしゅーそれ誰ー?」
「若い子に絡んでんなよなー」
すっかり酔った様子のお姉さんとお兄さんの声が恵秀さんに投げつけられる。それに苦笑を浮かべた恵秀さんが、ごめんね、と小さく俺に謝った。
「君らの後輩だよー。来年うちに入社する子」
恵秀さんが口を開くより先に、満面の笑みでジョッキを受け取った野上さんが答えた。その言葉にえーっ! というほかの六人の揃った声が響いた。
「新卒くん? わー、よろしくねえ!」
「野上かっこいい子拾ってくるじゃーん」
「拾ってくる言うなばーか」
「え? で、月山は新卒ナンパしてんの?」
「ばかやめろってー」
わあわあと賑やかな声が飛び交って、思わず俺は笑ってしまった。
「うるさくてごめんね、同期会やってたんだ」
「そうなんですね、水差しちゃってすみません」
眉尻を下げつつ、でもどこか楽しそうな声で話す恵秀さんはそう言った。初めて見る顔だなぁ、なんて思いながら、俺は首を横に振った。
「ほら、さっさと新卒くん返してあげなよ。忙しい店員さんに絡むな絡むな」
野上さんの隣に座っているお姉さんが、呆れた様子でそう言うと、恵秀さんがハッとした顔になった。
「そうだね、邪魔してごめんね」
「大丈夫です、こちらこそすみません」
謝る恵秀さんに俺も軽く頭を下げる。傍らで賑やかにしている先輩方にも頭を下げた。
「失礼しました、ごゆっくりどうぞー!」
いつものテンションで声を張れば、先輩方は頑張ってねー、と手を振ってくれた。それに思わずはにかんで、俺は入り口の扉を戻し、足早に厨房へと戻った。
それからしばらく恵秀さんたちの席に行くことはなく、ほかの席と厨房を行ったり来たりと飛び回っていた。お会計の時にでも一言挨拶して行った方がいいかな、なんて考えていたところで恵秀さんたちの席に飲み物を持って行くことになった。
ラストオーダーだったのかもしれない。渡されたトレンチにはグラスが九個乗っていた。
「失礼いたしまーす、お飲み物お持ちいたしましたー」
扉を開けて俺が顔を出すと、中の先輩方はさっき以上にテンションが高くなっていた。ずいぶんたくさん飲んでくれたんだろう。楽しそうで何よりだ。
「あっ後輩くんじゃん、いらっしゃーい!」
「月ちゃん、パートナーくんだよ」
「え、あ、ほんとだ、よすがくん」
そこそこ酔っているらしく、俺に気づいた恵秀さんが嬉しそうに微笑んで手を振ってきた。
いやそれよりも、恵秀さんの向かいに座るお兄さんは、今パートナーくん、と言った。俺と恵秀さんの関係は、別に誰に言うとか言わないとかは決めてはいない。それでも一応、あと数か月で俺は恵秀さんと同じ会社に入るわけで、社長の御曹司と新卒の若造がパートナーっていうのは、公言していいものなんだろうか、と微妙に心配になった。
さっき俺が来た時とは席が変わっているらしく、入り口そばの席に野上さんが来ていた。人事担当者として過ごしているところしか見たことがなかったから、オフの緩い感じにちょっとどぎまぎしてしまう。
「お盆ごともらっちゃうね。……ごめんねえ、あんまり聞かれるもんだから、君と月山のこと話しちゃって」
「いえ、あの、恵秀さんが困らないなら、僕は別に……」
「君ほんとにいい子だねぇ」
けらけらと笑いながら野上さんがそう言った。『いい子』という言葉は、普段散々恵秀さんに言われているのに、別の人に言われると、なんだか耳馴染みのないもののように聞こえた。
持ってきた飲み物が、どれが何かを野上さんに伝えていると、ひとりのお姉さんが俺たちのところにやってきた。
「ねえ君、ちょっと聞きたいんだけど」
「はい?」
「けーしゅーのパートナーって、マジ?」
俺に問いかける声には、どことなく苛立ちが混じっている。睨み付けるように俺を見てくる視線からも、俺に対する敵意しか感じられない。こんなにまっすぐぶつけられる敵意は初めてで、流石に少し、怖かった。
「おい、やめろ森」
「のがは黙っててよ。ねえパートナーなのって聞いてんだけど」
きつい口調にたじろぎそうになる。ただ、意味の分からないクレームをぶつけてくる中年の男性客に比べたらそこまで怖くない。なんで俺が苛つかれなきゃいけないんだ、と言い返したい気持ちはあるけれど、今はあくまで店員とお客様だ。失礼な態度を取るわけにはいかない。
「はい。恵秀さんのパートナーです」
「はあ!? 首輪ないくせにガキが嘘吐くんじゃねえよ!」
俺が冷静に答えたのが気に入らなかったのか、森と呼ばれたお姉さんが吠えた。俺を睨み付けている綺麗な顔が、怒りで歪む。それと同時に、視界の端で、恵秀さんが腰を上げたのが見えた。
「確かに首輪はいただいてないです。まだ正式に約束していないので」
「あはっ、うそつき! まだパートナーじゃないんじゃん! あんたがなれるんなら、私にだってまだチャンスがあるってことね!」
「森、マジでやめろって、落ち着け」
野上さんが俺と森さんの間に入って森さんを宥めようとする。俺を馬鹿にしたように笑う森さんの言葉が、俺には理解できなかった。
恵秀さんと野上さんは、俺がヴァニラだってことまでは、言っていないのかもしれない。森さんは、恵秀さんの強すぎるドム性のことを知らないのかもしれない。恵秀さんがどの程度の情報を周りに開示しているのか、俺は知らない。
「森さん、落ち着いて」
すぐそばに来ていた恵秀さんが、森さんの肩を軽く叩きながら窘めるように声をかけた。すごい顔で俺を睨み付けていた森さんは、途端に悲しそうな顔になって恵秀さんの腕にしがみついた。一瞬、本当に一瞬、自分の顔が引きつったのを感じた。
「だぁって、けーしゅーがずっとパートナーは作らないって言ってたのに! こんな子がよくてあたしがダメな意味が分かんないんだけど! ねえ、まだ約束してないならあたしともプレイしようよぉ!」
恵秀さんにべったりくっついたまま、森さんは先ほどの怒声が嘘のように甘えた声で訴える。その温度差の気味悪さに思わず一歩引いてしまった。恵秀さんは黙ったまま、森さんの言葉を聞いている。ちらりと後ろに見えたほかの先輩方は、気まずそうに視線を逸らしてグラスに口をつけていた。
「あたしいいサブだってよく褒められてるんだよ? 男相手じゃできないことだってあるでしょ? ねえこんな子にけーしゅーもったいないよぉ。パートナーにするなら絶対女のサブの方がいいってぇ!」
不意に、森さんの言葉が胸に突き刺さった。パートナーにするなら絶対女のサブの方がいい――そう、そうだろう。それは確かにそうかもしれない。うちの両親は同性同士のパートナーだけど、あの人たちの間に恋愛感情はない。でも恵秀さんにとって、パートナーは恋人と同義だ。
俺がパートナーになったとしたら、俺が恵秀さんの恋人になったとしたら? 恵秀さんは俺とキス以上のこともしたいと言ってくれていたけれど、俺はそういうことの詳しい知識がない。同性同士でできるということは知っている。調べればすぐ分かることだけど、でもきっと、異性とする方がすんなりできるはずだ。だって身体の構造がそうなっていないから。肉体関係のことを抜いて考えたってそうだ。結局俺は、ヴァニラで、サブミッシブの真似事をしているだけだ。サブミッシブにはなれない。
森さんは、俺に恵秀さんはもったいない、と言った。俺がひっそりと思っていたことを、サブミッシブの人の口からはっきりと言われた。それが、それが信じられないくらい、苦しかった。
俺も恵秀さんも口を開かない。俺たち二人が揃って自分の言葉を否定しなかったからか、森さんはにんまりと嬉しそうに笑った。
「ね! 図星でしょ! やめなよこんな若い子! この子だってけーしゅーといるより同じ年くらいのかわいい子相手にしてる方が絶対いいよぉ!」
きゃはきゃはと楽しそうに笑うお姉さんの声が、いやに耳に響いた。そう、恵秀さんも否定をしない。しなかった。俺を庇うことも、森さんを怒ることもなかった。
さあっと、俺の中で何かが引いていくような感じがした。ああ、結局、そんなものなのかな。そう考えたら、ものすごく虚しくなった。受け入れてくれるサブミッシブが見つからないから、恵秀さんは消去法でヴァニラの俺を選んだ。そんなの初めから分かっていた。きちんとしたパートナーになれるなら、よく分からないヴァニラなんかよりも、サブミッシブがいいに決まっている。だって恵秀さんは、ドミナントなんだから。
この場にいるのが、森さんにしがみ付かれている恵秀さんを見ているのが、無性に苦しくなった。
俺は野上さんに持たせたままになっていた空のトレンチに手を伸ばす。それに気づいた野上さんが、すっと渡してくれた。あんなに賑やかだった席は、不気味なくらい、静かになっている。周りの席の喧騒が、妙に遠くで聞こえた。
「お騒がせして、申し訳ございませんでした。失礼いたしました。ごゆっくりどうぞ」
震えるかと思った声は、自分が思うよりもずっと落ち着いて、ずっと冷たかった。深く頭を下げて踵を返す。
「っ、よすがくん待って!」
我に返ったように俺を呼ぶ恵秀さんの声が、ひどく、煩わしいもののように聞こえた。それに振り返らず、俺が入り口の扉を閉めるのと同時に、もう一度恵秀さんの待って! という悲鳴のような叫びが聞こえたけれど、俺は小走りで厨房へ戻った。
「よす、次これ……どうした? なんかクレームでもあったか?」
俺が戻ったことに気づいた先輩が料理を差し出してきたけれど、ぎょっとした顔で固まった。心配そうに尋ねてくるものだから、そばにいたバイト仲間も心配そうに俺の顔を覗き込んできた。
「あ、いや、だいじょぶです、すみません。ちょっと……廊下でだいぶ酔ってるお客さんに怒鳴られちゃって……」
「……そうか」
「酔うのはいいけど、店員に当たんないでほしいよなぁ」
俺が半笑いで誤魔化すと二人は顔を見合わせてそう言った。自分が思っていた以上にショックを受けたのか、ひどい顔をしていたらしい。バイト仲間に、ほんとにな、と頷いて肩を竦める。気を取り直して、渡された料理を持ってお客さんのところに向かった。
その直後に休憩に入るように言われて、俺は更衣室でぼんやりしていた。頭の中をぐるぐる回っているのは、さっきの森さんの言葉と、恵秀さんの態度だ。
「やっぱり、好きってなんなのか分かんないや」
大きな溜め息とともに零れた独り言は、誰の耳にも届かず、薄暗い更衣室に響いて消えた。
休憩から戻ると、スタッフの皆が妙にざわざわしていた。バイトリーダーの先輩の姿はない。
「何かあったんですか?」
近くにいたスタッフに声をかけると、彼は眉を顰めながら口を開いた。
「七番テーブルで救急車呼ぶ騒ぎがあったんだよ」
「えっ!?」
自分も相手も驚くほど大きな声をあげてしまった。七番テーブル、恵秀さんたちの席だ。
「な、何があったんですか、あそこ、知り合いが来てて、」
「えっ陽川の知り合い、いたの? なんかさ、酔ったドムがコントロールミスったのか知らないけど、サブドロップしたサブが、呼吸困難? になっちゃったらしいよ。慌てて救急車呼んで、本人はもう運ばれてって、同じグループの人らは多分タクシーとかでついてったんじゃないかな?」
「……え、」
頭が、真っ白になった。
「プレイすんのはそいつらの勝手だけどさ、店に迷惑かけんでほしいよなぁ。ここまずトライアルルームでもないんだし。陽川知り合いいたなら詳しいこと聞いてみたら?」
愚痴っぽく話すスタッフの言葉の内容が、頭に入ってこない。
サブドロップ――サブミッシブに起きるバッドトリップのことだ。信頼関係の築けていないドミナントとサブミッシブの間で起こりがちだと言われている。主にドミナントの無理なコマンドの強要や、セーフワードの拒絶、……それから、ドミナントによる強い威嚇を受けた際、恐怖や不安感からサブミッシブに精神的、肉体的に大きな負荷がかかって恐慌状態になるものらしい。
呼吸困難まで起こるようなことは本当に稀だ。そうならないようにするのがドミナントの務めだし、仮にサブドロップに入りかけたのだとしてもすぐにフォローをすれば、そこまで酷いことにはならない。
恵秀さんだ。多分、救急車で運ばれたのは森さんだろう。
どうして、なんで。――そう考えて、ふと、最後に聞いた恵秀さんの叫びがよぎる。もしかして、あれは、俺は気づかなかったけど、あれは、恵秀さんが放った、強い『待て』のコマンドだったんじゃないか。初めて会った時、俺の隣で恵秀さんの『座れ』のコマンドを受けた野上さんは、ドミナントだけどよろけるほど、負荷がかかっていた。恵秀さんがそれまでサブミッシブに使ったコマンドは、基本の優しいコマンド。それでさえセーフワードを使わせるほどサブミッシブには強くて怖いコマンドだった。そんな恵秀さんが、俺を引き留めようとして焦って思い切りコマンドを放っていたとしたら……? 恵秀さんにしがみついていて、あんな至近距離で強いコマンドを浴びたサブミッシブの森さんはどうなる……?
背中に、冷たいものが伝った。
「……俺の、せいだ」
「え? 何?」
思わず零れた言葉は、話をしてくれたスタッフの耳には、正しく届かなかったらしい。何でもない、と誤魔化して、落ち着かない気持ちで仕事に戻った。
気づけば、もう閉店の時間で、仕事も終わっていた。叱られた記憶はないから、ひどいミスを犯すようなことはなかったんだろうけど、今日自分が何をしていたか、何も覚えていない。
レジ締めも、店内の片付けも無事に終えて、あとは帰るだけ。更衣室でぼーっとしていたせいか、いつの間にか他のみんなはいなくなっていて、鍵閉められんから早く出ろ、と声をかけられて、慌てて店の外に出た。うちの店は閉店の時間だけど、街はまだ明るい。
森さんは、恵秀さんは、大丈夫だろうか。そう思うのに、俺は怖くて、恵秀さんに連絡ができなかった。俯いて、はあ、と溜め息を零したタイミングでいきなり後ろから誰かに抱き付かれた。
「は!? な、なに……っ」
「ごめんよすがくん!」
「へ、あ、……恵秀、さん?」
俺を抱き締める少し背の高い身体は、僅かに震えていた。店のそばを通る人はまばらとはいえまだゼロじゃない。道端で突然抱き付いた男と抱き付かれた男は通行人の視線を集める。
「恵秀さん、あの、あのちょっと落ち着きましょ、いったん離れて……」
「いやだ無理」
俺の訴えは通らず、恵秀さんはむしろ腕に力を込めてきた。少し、苦しい。
「け、恵秀さん、あの、苦しいんで、ちょっと、離して……」
ぺちぺちと背中を叩くと、今度はあっさり腕を解かれた。きちんと俺と向かい合った恵秀さんの顔は、涙でぐしゃぐしゃだった。
「だ、大丈夫ですか!?」
その顔に俺が慌てると、恵秀さんはまたくしゃりと顔を歪めた。流石に道端は本当に目立つ。俺は恵秀さんの腕を引いて、少し離れたところにある公園へ走った。
公園について、隅にあるベンチに恵秀さんを座らせる。俺も隣に座ろうとしたら、恵秀さんがお腹にしがみついてきて、動けなくなってしまった。
「……救急車呼ばれたって聞いたんですけど、大丈夫でしたか?」
ぽんぽんと丸まった背中を宥めるように軽く叩きながら尋ねる。恵秀さんは顔を上げることなく、そのままの体勢で口を開いた。
「僕が、僕が君に、決めてないコマンドを思い切り放ってしまったんだ。でも、君には届かなくて、部屋にいたみんなは苦しそうで、森さんが一番ひどくて、倒れて、呼吸もままならなくなって……。僕が、いけないんだ、きちんとコントロールをしないで、あんな場所で、コマンドを……」
訴える声はひどいものだった。きっと、たくさん泣いたんだろう。恵秀さんの言った内容は、ほぼほぼ俺の想像通りだった。俺はただ、恵秀さんの背中を優しく叩く。
「言い訳にしかならないけど、彼女のあの勝手な言葉に腹が立って仕方がなくて、でも口を開けばひどい威嚇になりそうだから、君にも、周りのみんなにも迷惑をかけてしまうからってただ堪えていて……。でも、そのせいでよすがくんにあんな顔をさせてしまった。僕は、君を傷つけたいわけじゃなかったのに。ほかの誰より一番傷つけたくないのに、傷ついた顔をした君が僕から離れていくのが、耐えられなくて、……あんな、コマンドを、ごめんなさい……」
恵秀さんの声がまた揺れる。俺にしがみつく身体は、震えていて、俺より大きいはずなのに、とても小さい。
「恵秀さん」
俺が呼びかけると、恵秀さんの身体が跳ねた。怒られる前の子どものような反応が、痛々しくて仕方がない。
「恵秀さん、一回、一回離してください。離れませんから」
背中をさすりながら、言い聞かせるように訴える。恵秀さんは少し迷ったようだったけど、ゆっくりと俺に回していた腕を解いた。それでも、縋るように両の腕を俺に伸ばしたままでいる。普段の落ち着いた穏やかな年上のお兄さんはここにはいない。泣き虫で怖がりな、小さな子どものようなお兄さんが、行かないで、と俺を見つめていた。
俺は恵秀さんの隣に腰を下ろして、ぎゅっとその身体を抱き締めた。恵秀さんは一瞬固まったものの、すぐにぎゅうっと俺を抱き締め返してきた。
「俺が、貴方のコマンドを無視したから、貴方を傷つけることになっちゃいましたね。ごめんなさい」
「違う! よすがくんは悪くない! 君は、だって君は、僕が使ったのが、コマンドだって、分からないんだから……何も、悪くないんだよ……」
言いながら切なくなってしまったんだろう、恵秀さんの声はどんどん小さくなっていく。俺は恵秀さんの背に回した腕に、少しだけ、力を込めた。
「悔しかったんです、あの時、ものすごく。女のサブの方がいいって、俺に恵秀さんはもったいないって。その通りだって思って言い返せなかった。言い返せない自分も悔しかったし、恵秀さんが何も言ってくれなかったのも、ものすごく悔しかった」
「……うん」
恵秀さんを落ち着かせようと思っていたはずなのに、いつの間にかこっちがしがみついてしまっていた。止めなくちゃいけないのに、恵秀さんを責めるような言葉が溢れてくる。傷ついてる人に、今言うべきじゃないのに、どうしても、止められない。
「恵秀さんは俺を好きだって言ってくれたけど、本当は俺よりサブの人の方がいいって思ってるんじゃないかって思った。俺は貴方のパートナーのはずなのに、約束はこれからするって、首輪はこれから送るって、恵秀さんはあの人に言わなかった。今まで俺も、言われたことない」
「うん、」
「年の近いお姉さんが恵秀さんにくっついてるの、すごく嫌だった。どうして恵秀さんは振り払ってくれないんだって思った。本当に、本当は、恵秀さんは俺みたいなヴァニラの男より、サブの女の人の方がいいと思ってるんじゃないかって、思って、あの人にくっつかれてる恵秀さんを見るのが、すごく、すごく苦しかった……」
「うん、」
目頭が熱い。鼻が痛い。抱えていた言葉を口にするたびに、ぼろぼろと涙が溢れてくる。恵秀さんの肩を濡らしながら、俺は止まらない八つ当たりのような言葉を恵秀さんに投げつける。
「最悪、最悪だ、俺。あの人は苦しい思いをして、恵秀さんもいっぱい傷ついて、苦しかったのに、店を出て貴方が俺に抱き着いてくれたことが、信じられないくらい嬉しかった。あの人のところじゃなくて、俺のそばに来てくれたのが、嬉しくて、堪らなかった」
「……よすがくん、」
「ごめんなさい、こんな、こんなひどい気づき方したくなかった……。ごめんなさい、恵秀さん、俺、俺、貴方が好きです。貴方のパートナーも恋人も、別の人に、なってほしくないんです」
「っ、よすがくん……!」
自分がこんなに汚くて、卑しくて、ひどい人間だと思ってなかった。醜い嫉妬で、恵秀さんへの好きだって気持ちに気づきたくなかった。自分のどうしようもない愚かさが気持ち悪くて、ようやく恵秀さんのことを好きになれたんだって、素直に喜ぶこともできない。
小さな子どものように声を上げて泣く俺を、恵秀さんはそれまで以上にきつくきつく抱き締めた。嬉しい気持ちと、申し訳ない気持ちが溢れて、どうしようもなくなって、俺はまた声を上げて泣いた。
しばらくわあわあ泣いた後、少し落ち着いて、我に返って、居た堪れなさで顔を上げることができなかった。
「けいしゅうさん、」
「なあに、よすがくん」
恐る恐る呼びかけると、恵秀さんはいつもの調子で返事をしてくれた。多分、恵秀さんも落ち着いたんだろう。どうしよう、ものすごく、恥ずかしい。
「よすがくん?」
「……呼んでみた、だけです」
俺がそう言うと、恵秀さんは小さく笑った。
「顔、見せてくれる?」
「いやです、今絶対やばい顔してる」
「お互い様だよ、僕もきっとぐしゃぐしゃ」
「恵秀さんのはさっき見たから知ってます」
「あ、じゃあ僕だけ見れないのは不公平だね?」
そんなやり取りをして、どちらからともなく吹き出した。ぽんぽん、とさっき俺がしていたように恵秀さんに背を叩かれておずおずと顔を上げる。俺の動きに合わせて、恵秀さんも顔を上げる。やっぱり、恵秀さんの顔は涙でぐしゃぐしゃだった。鏡はないけど、きっと俺も負けないくらい、ぐしゃぐしゃだろう。
「可愛い」
「これ見て可愛いっていう恵秀さんの感覚、絶対おかしいですよ」
「そう? 僕はよすがくんのことが好きなので、君がどんな顔をしていても可愛いくて、格好いいと思うよ」
ぐしゃぐしゃな顔をしているくせに、恵秀さんは嬉しそうにはにかんだ。その顔がものすごく優しくて、綺麗で、ちょっとだけ恵秀さんの言葉の意味が分かった気がした。
「……恵秀さんも、可愛くて、格好いいです。今は、綺麗でした」
「えっ、いや流石に最後のはおかしくないかな?」
おどけてみせる恵秀さんがおかしくて、俺は声を上げて笑った。
それから少しだけ落ち着いて、恵秀さんをまっすぐに見つめた。俺が真面目な顔になったのが分かったのか、恵秀さんの顔からも笑みが消えた。
「恵秀さん、あの、……あの人のこと、聞いてもいいですか? その、大丈夫、なんですか?」
俺の言葉に、恵秀さんは少しだけ切なそうな顔をした。それに胸が軋んだけれど、今は、そんなことを考えてる場合じゃない。
「大丈夫だよ。病院できちんと処置をしてもらって、念のため一晩入院するらしいけど、問題はないらしい」
「そう、ですか……良かった」
はあ、と安堵の息が漏れる。あの人の態度は良くなかったし、本当にものすごくイライラしたけれど、だからってあの人に苦しい思いをしてほしいわけじゃない。ホッとしていると、恵秀さんが隣で難しい顔をしていた。
「恵秀さん?」
「……よすがくんが気に病むことじゃないよ。元はと言えば失礼な彼女の自業自得だ。きちんとコントロールできなかった俺のせいでもあるけど、君は本当に悪くない。巻き込まれただけだよ」
「そうかもしれないですけど、やっぱり俺のせいではあるじゃないですか。あの人がどこまで俺や恵秀さんのことを知ってたかは、分からないけど……」
そう言って俺が足元に視線を落とすと、隣で恵秀さんがわざとらしく大きな溜め息を吐いた。
「うん分かった。でも彼女はもう大丈夫。言い方は悪いけど、一度痛い目に遭ったからきっともう僕に寄って来ることもない。これでおしまい。僕は今、あの失礼な人のことよりも、よすがくんが僕に抱いてくれた好きだって気持ちを噛み締めたいんです」
拗ねたような言い方をする恵秀さんに俺はぽかんとしてしまった。この人はこんな、こんな子どもっぽいことを言う人だっただろうか。……もしかして、俺が好きだと言ったから、浮かれてくれているんだろうか。
どうしよう、なんだかものすごく、恵秀さんが可愛らしく見える。
「恵秀さん」
「なあに」
返ってきた返事は、まだちょっと拗ねている感じがする。それがおかしくて、少しだけ笑ってから、俺は恵秀さんにおねだりをした。
「コマンド使ってください。『抱き締めさせて』って」
恵秀さんは一度目を見開いてから、へらっと破顔した。
「さっきまであんなにくっついてたのにね」
「ダメですか?」
「駄目じゃないです。……ほら、よすがくん、抱きしめさせて?」
嬉しそうにはにかみながら、恵秀さんが腕を広げる。飛び込むようにしてその中に身体を預ければ、恵秀さんの腕にしっかりと捕らえられた。
「ふふ、いい子。よすがくんは、本当にいい子だね、大好きだよ」
うっとりとしながら、恵秀さんが片手で俺の頭を撫でる。当たり前のように囁かれた、大好き、の言葉が嬉しくて、にやついてしまう。
「ねえよすがくん、僕からもお願いがあるんだけど、聞いてくれる?」
「なんでしょう」
少し身体を起こして恵秀さんと視線を絡ませる。柔らかくて優しい笑みを湛えた恵秀さんは、両手でそっと俺の頬を撫でた。
「キスのコマンド……唇も解禁していいですか?」
頬を撫でていた右手の親指で、優しく俺の唇をなぞられる。それがくすぐったくて、肩を震わせていると、恵秀さんは催促するように俺の名前を繰り返した。
「……大丈夫です。恵秀さんなら」
頬に添えられた恵秀さんの手の平に、甘えるように頬をすり寄せる。俺を見つめる恵秀さんの瞳は、潤んでいるように見えた。
「目を、閉じてごらん、よすがくん」
囁くように告げられたコマンドに従って、ゆっくりと、瞼を伏せる。冬の夜の寒い空気が、気にならないくらいに、顔が熱い。恵秀さんの唇が、どこに、いつ触れてくるのか分からなくて、鼓動がどんどん早くなる。焦らされているような気分になりながら、恵秀さんの唇を待った。
「いい子だね。よくできました」
そんな甘い声に、思わず目を開けそうになった。それに抗ってぎゅっと瞼に力を入れていると、柔い感触がまずそこに降ってきた。瞼に、目尻に、額に、鼻先に、頬に。恵秀さんの優しいキスが、顔中に降らされる。唇が触れるのと同時に、いい子、と恵秀さんが呟くのが、無性に恥ずかしい。でも、同じくらいそれが嬉しかった。
「よすがくん」
不意に呼びかけられて目を開けそうになった。まだ、唇にしてもらってない。そう思って再び強く目を瞑ると、至近距離で恵秀さんが笑ったのが伝わってきた。
「僕のパートナーは、本当にとてもいい子だね」
そんな声とともに、柔らかくて温かいものが、俺の唇にそっと触れた。唇を重ねたまま、俺の咥内へ注ぎ込むかのように、恵秀さんが小さく囁いた。
「いいこ、だいすきだよ」
多分今まで聞いた中で一番甘くて、嬉しそうで、優しくて、幸せそうで、熱くて、とろけた声だった。そっと離れていく唇に合わせるように、ゆっくりと瞼を開く。滲んでぼやけた視界の中で、恵秀さんが笑っているのが見えた。
「うつっちゃった」
「ん、何が?」
「恵秀さんの、泣き虫」
「ええっ、僕泣き虫じゃないよ!」
「俺の前では泣き虫ですよ」
「嘘だぁ」
そんなことを言い合って、また笑う。この人の側にいられるのが、ただただ嬉しくて、俺は改めて恵秀さんにぎゅうっと抱き着いた。
恵秀さんとのプレイの時間は、以前は夜に取ることもそこそこあったけれど、最近は講義のない日の昼間や、夕方に取っている。
あれから恵秀さんの体調はまた落ち着いてきたらしく、薬も飲んでいないらしい。不眠で浮かんでいた目元の隈も、薄くなってほとんど消えている。
コマンドは結局、あの後増やされていない。心配していたけれど、増えた二つとスキンシップで十分満たされている、らしい。うっとりとそう告げられてかなり恥ずかしくなったが、問題がないなら、何よりだと思う。
「よすー! 七番テーブル生持ってってー!」
「はーい!」
金曜日の店はいつも以上に忙しい。叫ぶような先輩の声にこっちも叫ぶように返事をして、両手でビールジョッキを持つ。今日頑張れば明日は休める、そう思いながら指示された席へと向かった。
アルコールが入れば話し声も大きくなる。廊下を進めばあちらこちらの席から楽しげな喧騒が聞こえてくる。俺はわりとこの喧騒が好きだったりする。
「失礼いたしまーす、生中ご注文のお客さまー」
「えっ」
「あれ」
俺のバイト先は全部の席が個室のような感じになっている。肘で入り口の扉を開けて中に声をかける。同時に聞こえてきたのは、聞き慣れた声と、聞き覚えのある声だった。
「陽川くんじゃん」
「よすがくん!」
「え、あ、け、恵秀さん?」
中にいたのは八人くらいの男女。その中に恵秀さんと人事担当の野上さんがいて、驚いた顔で俺を見ていた。二人の声に、同じ席の人たちの視線が一気に俺に集まる。バイト先で知り合いに会うことなんてほとんどない俺は、正直めちゃくちゃ気まずかった。
奥の方に座っていた恵秀さんが、腰を上げてわざわざ俺の方に来た。
「ジョッキもらうよ、ありがとう。バイト先ここだったんだね」
「あ、すみません」
俺からジョッキを受け取った恵秀さんが、近くの席のお兄さんにそれを渡す。早く戻ろう、と背を向けようとしたところで上機嫌な野上さんの声が飛んできた。
「久しぶりだねぇ、陽川くん」
「お、お久しぶりです……」
人懐こい笑みを浮かべて俺に手を振ってくる野上さんに、軽く頭を下げる。
「けーしゅーそれ誰ー?」
「若い子に絡んでんなよなー」
すっかり酔った様子のお姉さんとお兄さんの声が恵秀さんに投げつけられる。それに苦笑を浮かべた恵秀さんが、ごめんね、と小さく俺に謝った。
「君らの後輩だよー。来年うちに入社する子」
恵秀さんが口を開くより先に、満面の笑みでジョッキを受け取った野上さんが答えた。その言葉にえーっ! というほかの六人の揃った声が響いた。
「新卒くん? わー、よろしくねえ!」
「野上かっこいい子拾ってくるじゃーん」
「拾ってくる言うなばーか」
「え? で、月山は新卒ナンパしてんの?」
「ばかやめろってー」
わあわあと賑やかな声が飛び交って、思わず俺は笑ってしまった。
「うるさくてごめんね、同期会やってたんだ」
「そうなんですね、水差しちゃってすみません」
眉尻を下げつつ、でもどこか楽しそうな声で話す恵秀さんはそう言った。初めて見る顔だなぁ、なんて思いながら、俺は首を横に振った。
「ほら、さっさと新卒くん返してあげなよ。忙しい店員さんに絡むな絡むな」
野上さんの隣に座っているお姉さんが、呆れた様子でそう言うと、恵秀さんがハッとした顔になった。
「そうだね、邪魔してごめんね」
「大丈夫です、こちらこそすみません」
謝る恵秀さんに俺も軽く頭を下げる。傍らで賑やかにしている先輩方にも頭を下げた。
「失礼しました、ごゆっくりどうぞー!」
いつものテンションで声を張れば、先輩方は頑張ってねー、と手を振ってくれた。それに思わずはにかんで、俺は入り口の扉を戻し、足早に厨房へと戻った。
それからしばらく恵秀さんたちの席に行くことはなく、ほかの席と厨房を行ったり来たりと飛び回っていた。お会計の時にでも一言挨拶して行った方がいいかな、なんて考えていたところで恵秀さんたちの席に飲み物を持って行くことになった。
ラストオーダーだったのかもしれない。渡されたトレンチにはグラスが九個乗っていた。
「失礼いたしまーす、お飲み物お持ちいたしましたー」
扉を開けて俺が顔を出すと、中の先輩方はさっき以上にテンションが高くなっていた。ずいぶんたくさん飲んでくれたんだろう。楽しそうで何よりだ。
「あっ後輩くんじゃん、いらっしゃーい!」
「月ちゃん、パートナーくんだよ」
「え、あ、ほんとだ、よすがくん」
そこそこ酔っているらしく、俺に気づいた恵秀さんが嬉しそうに微笑んで手を振ってきた。
いやそれよりも、恵秀さんの向かいに座るお兄さんは、今パートナーくん、と言った。俺と恵秀さんの関係は、別に誰に言うとか言わないとかは決めてはいない。それでも一応、あと数か月で俺は恵秀さんと同じ会社に入るわけで、社長の御曹司と新卒の若造がパートナーっていうのは、公言していいものなんだろうか、と微妙に心配になった。
さっき俺が来た時とは席が変わっているらしく、入り口そばの席に野上さんが来ていた。人事担当者として過ごしているところしか見たことがなかったから、オフの緩い感じにちょっとどぎまぎしてしまう。
「お盆ごともらっちゃうね。……ごめんねえ、あんまり聞かれるもんだから、君と月山のこと話しちゃって」
「いえ、あの、恵秀さんが困らないなら、僕は別に……」
「君ほんとにいい子だねぇ」
けらけらと笑いながら野上さんがそう言った。『いい子』という言葉は、普段散々恵秀さんに言われているのに、別の人に言われると、なんだか耳馴染みのないもののように聞こえた。
持ってきた飲み物が、どれが何かを野上さんに伝えていると、ひとりのお姉さんが俺たちのところにやってきた。
「ねえ君、ちょっと聞きたいんだけど」
「はい?」
「けーしゅーのパートナーって、マジ?」
俺に問いかける声には、どことなく苛立ちが混じっている。睨み付けるように俺を見てくる視線からも、俺に対する敵意しか感じられない。こんなにまっすぐぶつけられる敵意は初めてで、流石に少し、怖かった。
「おい、やめろ森」
「のがは黙っててよ。ねえパートナーなのって聞いてんだけど」
きつい口調にたじろぎそうになる。ただ、意味の分からないクレームをぶつけてくる中年の男性客に比べたらそこまで怖くない。なんで俺が苛つかれなきゃいけないんだ、と言い返したい気持ちはあるけれど、今はあくまで店員とお客様だ。失礼な態度を取るわけにはいかない。
「はい。恵秀さんのパートナーです」
「はあ!? 首輪ないくせにガキが嘘吐くんじゃねえよ!」
俺が冷静に答えたのが気に入らなかったのか、森と呼ばれたお姉さんが吠えた。俺を睨み付けている綺麗な顔が、怒りで歪む。それと同時に、視界の端で、恵秀さんが腰を上げたのが見えた。
「確かに首輪はいただいてないです。まだ正式に約束していないので」
「あはっ、うそつき! まだパートナーじゃないんじゃん! あんたがなれるんなら、私にだってまだチャンスがあるってことね!」
「森、マジでやめろって、落ち着け」
野上さんが俺と森さんの間に入って森さんを宥めようとする。俺を馬鹿にしたように笑う森さんの言葉が、俺には理解できなかった。
恵秀さんと野上さんは、俺がヴァニラだってことまでは、言っていないのかもしれない。森さんは、恵秀さんの強すぎるドム性のことを知らないのかもしれない。恵秀さんがどの程度の情報を周りに開示しているのか、俺は知らない。
「森さん、落ち着いて」
すぐそばに来ていた恵秀さんが、森さんの肩を軽く叩きながら窘めるように声をかけた。すごい顔で俺を睨み付けていた森さんは、途端に悲しそうな顔になって恵秀さんの腕にしがみついた。一瞬、本当に一瞬、自分の顔が引きつったのを感じた。
「だぁって、けーしゅーがずっとパートナーは作らないって言ってたのに! こんな子がよくてあたしがダメな意味が分かんないんだけど! ねえ、まだ約束してないならあたしともプレイしようよぉ!」
恵秀さんにべったりくっついたまま、森さんは先ほどの怒声が嘘のように甘えた声で訴える。その温度差の気味悪さに思わず一歩引いてしまった。恵秀さんは黙ったまま、森さんの言葉を聞いている。ちらりと後ろに見えたほかの先輩方は、気まずそうに視線を逸らしてグラスに口をつけていた。
「あたしいいサブだってよく褒められてるんだよ? 男相手じゃできないことだってあるでしょ? ねえこんな子にけーしゅーもったいないよぉ。パートナーにするなら絶対女のサブの方がいいってぇ!」
不意に、森さんの言葉が胸に突き刺さった。パートナーにするなら絶対女のサブの方がいい――そう、そうだろう。それは確かにそうかもしれない。うちの両親は同性同士のパートナーだけど、あの人たちの間に恋愛感情はない。でも恵秀さんにとって、パートナーは恋人と同義だ。
俺がパートナーになったとしたら、俺が恵秀さんの恋人になったとしたら? 恵秀さんは俺とキス以上のこともしたいと言ってくれていたけれど、俺はそういうことの詳しい知識がない。同性同士でできるということは知っている。調べればすぐ分かることだけど、でもきっと、異性とする方がすんなりできるはずだ。だって身体の構造がそうなっていないから。肉体関係のことを抜いて考えたってそうだ。結局俺は、ヴァニラで、サブミッシブの真似事をしているだけだ。サブミッシブにはなれない。
森さんは、俺に恵秀さんはもったいない、と言った。俺がひっそりと思っていたことを、サブミッシブの人の口からはっきりと言われた。それが、それが信じられないくらい、苦しかった。
俺も恵秀さんも口を開かない。俺たち二人が揃って自分の言葉を否定しなかったからか、森さんはにんまりと嬉しそうに笑った。
「ね! 図星でしょ! やめなよこんな若い子! この子だってけーしゅーといるより同じ年くらいのかわいい子相手にしてる方が絶対いいよぉ!」
きゃはきゃはと楽しそうに笑うお姉さんの声が、いやに耳に響いた。そう、恵秀さんも否定をしない。しなかった。俺を庇うことも、森さんを怒ることもなかった。
さあっと、俺の中で何かが引いていくような感じがした。ああ、結局、そんなものなのかな。そう考えたら、ものすごく虚しくなった。受け入れてくれるサブミッシブが見つからないから、恵秀さんは消去法でヴァニラの俺を選んだ。そんなの初めから分かっていた。きちんとしたパートナーになれるなら、よく分からないヴァニラなんかよりも、サブミッシブがいいに決まっている。だって恵秀さんは、ドミナントなんだから。
この場にいるのが、森さんにしがみ付かれている恵秀さんを見ているのが、無性に苦しくなった。
俺は野上さんに持たせたままになっていた空のトレンチに手を伸ばす。それに気づいた野上さんが、すっと渡してくれた。あんなに賑やかだった席は、不気味なくらい、静かになっている。周りの席の喧騒が、妙に遠くで聞こえた。
「お騒がせして、申し訳ございませんでした。失礼いたしました。ごゆっくりどうぞ」
震えるかと思った声は、自分が思うよりもずっと落ち着いて、ずっと冷たかった。深く頭を下げて踵を返す。
「っ、よすがくん待って!」
我に返ったように俺を呼ぶ恵秀さんの声が、ひどく、煩わしいもののように聞こえた。それに振り返らず、俺が入り口の扉を閉めるのと同時に、もう一度恵秀さんの待って! という悲鳴のような叫びが聞こえたけれど、俺は小走りで厨房へ戻った。
「よす、次これ……どうした? なんかクレームでもあったか?」
俺が戻ったことに気づいた先輩が料理を差し出してきたけれど、ぎょっとした顔で固まった。心配そうに尋ねてくるものだから、そばにいたバイト仲間も心配そうに俺の顔を覗き込んできた。
「あ、いや、だいじょぶです、すみません。ちょっと……廊下でだいぶ酔ってるお客さんに怒鳴られちゃって……」
「……そうか」
「酔うのはいいけど、店員に当たんないでほしいよなぁ」
俺が半笑いで誤魔化すと二人は顔を見合わせてそう言った。自分が思っていた以上にショックを受けたのか、ひどい顔をしていたらしい。バイト仲間に、ほんとにな、と頷いて肩を竦める。気を取り直して、渡された料理を持ってお客さんのところに向かった。
その直後に休憩に入るように言われて、俺は更衣室でぼんやりしていた。頭の中をぐるぐる回っているのは、さっきの森さんの言葉と、恵秀さんの態度だ。
「やっぱり、好きってなんなのか分かんないや」
大きな溜め息とともに零れた独り言は、誰の耳にも届かず、薄暗い更衣室に響いて消えた。
休憩から戻ると、スタッフの皆が妙にざわざわしていた。バイトリーダーの先輩の姿はない。
「何かあったんですか?」
近くにいたスタッフに声をかけると、彼は眉を顰めながら口を開いた。
「七番テーブルで救急車呼ぶ騒ぎがあったんだよ」
「えっ!?」
自分も相手も驚くほど大きな声をあげてしまった。七番テーブル、恵秀さんたちの席だ。
「な、何があったんですか、あそこ、知り合いが来てて、」
「えっ陽川の知り合い、いたの? なんかさ、酔ったドムがコントロールミスったのか知らないけど、サブドロップしたサブが、呼吸困難? になっちゃったらしいよ。慌てて救急車呼んで、本人はもう運ばれてって、同じグループの人らは多分タクシーとかでついてったんじゃないかな?」
「……え、」
頭が、真っ白になった。
「プレイすんのはそいつらの勝手だけどさ、店に迷惑かけんでほしいよなぁ。ここまずトライアルルームでもないんだし。陽川知り合いいたなら詳しいこと聞いてみたら?」
愚痴っぽく話すスタッフの言葉の内容が、頭に入ってこない。
サブドロップ――サブミッシブに起きるバッドトリップのことだ。信頼関係の築けていないドミナントとサブミッシブの間で起こりがちだと言われている。主にドミナントの無理なコマンドの強要や、セーフワードの拒絶、……それから、ドミナントによる強い威嚇を受けた際、恐怖や不安感からサブミッシブに精神的、肉体的に大きな負荷がかかって恐慌状態になるものらしい。
呼吸困難まで起こるようなことは本当に稀だ。そうならないようにするのがドミナントの務めだし、仮にサブドロップに入りかけたのだとしてもすぐにフォローをすれば、そこまで酷いことにはならない。
恵秀さんだ。多分、救急車で運ばれたのは森さんだろう。
どうして、なんで。――そう考えて、ふと、最後に聞いた恵秀さんの叫びがよぎる。もしかして、あれは、俺は気づかなかったけど、あれは、恵秀さんが放った、強い『待て』のコマンドだったんじゃないか。初めて会った時、俺の隣で恵秀さんの『座れ』のコマンドを受けた野上さんは、ドミナントだけどよろけるほど、負荷がかかっていた。恵秀さんがそれまでサブミッシブに使ったコマンドは、基本の優しいコマンド。それでさえセーフワードを使わせるほどサブミッシブには強くて怖いコマンドだった。そんな恵秀さんが、俺を引き留めようとして焦って思い切りコマンドを放っていたとしたら……? 恵秀さんにしがみついていて、あんな至近距離で強いコマンドを浴びたサブミッシブの森さんはどうなる……?
背中に、冷たいものが伝った。
「……俺の、せいだ」
「え? 何?」
思わず零れた言葉は、話をしてくれたスタッフの耳には、正しく届かなかったらしい。何でもない、と誤魔化して、落ち着かない気持ちで仕事に戻った。
気づけば、もう閉店の時間で、仕事も終わっていた。叱られた記憶はないから、ひどいミスを犯すようなことはなかったんだろうけど、今日自分が何をしていたか、何も覚えていない。
レジ締めも、店内の片付けも無事に終えて、あとは帰るだけ。更衣室でぼーっとしていたせいか、いつの間にか他のみんなはいなくなっていて、鍵閉められんから早く出ろ、と声をかけられて、慌てて店の外に出た。うちの店は閉店の時間だけど、街はまだ明るい。
森さんは、恵秀さんは、大丈夫だろうか。そう思うのに、俺は怖くて、恵秀さんに連絡ができなかった。俯いて、はあ、と溜め息を零したタイミングでいきなり後ろから誰かに抱き付かれた。
「は!? な、なに……っ」
「ごめんよすがくん!」
「へ、あ、……恵秀、さん?」
俺を抱き締める少し背の高い身体は、僅かに震えていた。店のそばを通る人はまばらとはいえまだゼロじゃない。道端で突然抱き付いた男と抱き付かれた男は通行人の視線を集める。
「恵秀さん、あの、あのちょっと落ち着きましょ、いったん離れて……」
「いやだ無理」
俺の訴えは通らず、恵秀さんはむしろ腕に力を込めてきた。少し、苦しい。
「け、恵秀さん、あの、苦しいんで、ちょっと、離して……」
ぺちぺちと背中を叩くと、今度はあっさり腕を解かれた。きちんと俺と向かい合った恵秀さんの顔は、涙でぐしゃぐしゃだった。
「だ、大丈夫ですか!?」
その顔に俺が慌てると、恵秀さんはまたくしゃりと顔を歪めた。流石に道端は本当に目立つ。俺は恵秀さんの腕を引いて、少し離れたところにある公園へ走った。
公園について、隅にあるベンチに恵秀さんを座らせる。俺も隣に座ろうとしたら、恵秀さんがお腹にしがみついてきて、動けなくなってしまった。
「……救急車呼ばれたって聞いたんですけど、大丈夫でしたか?」
ぽんぽんと丸まった背中を宥めるように軽く叩きながら尋ねる。恵秀さんは顔を上げることなく、そのままの体勢で口を開いた。
「僕が、僕が君に、決めてないコマンドを思い切り放ってしまったんだ。でも、君には届かなくて、部屋にいたみんなは苦しそうで、森さんが一番ひどくて、倒れて、呼吸もままならなくなって……。僕が、いけないんだ、きちんとコントロールをしないで、あんな場所で、コマンドを……」
訴える声はひどいものだった。きっと、たくさん泣いたんだろう。恵秀さんの言った内容は、ほぼほぼ俺の想像通りだった。俺はただ、恵秀さんの背中を優しく叩く。
「言い訳にしかならないけど、彼女のあの勝手な言葉に腹が立って仕方がなくて、でも口を開けばひどい威嚇になりそうだから、君にも、周りのみんなにも迷惑をかけてしまうからってただ堪えていて……。でも、そのせいでよすがくんにあんな顔をさせてしまった。僕は、君を傷つけたいわけじゃなかったのに。ほかの誰より一番傷つけたくないのに、傷ついた顔をした君が僕から離れていくのが、耐えられなくて、……あんな、コマンドを、ごめんなさい……」
恵秀さんの声がまた揺れる。俺にしがみつく身体は、震えていて、俺より大きいはずなのに、とても小さい。
「恵秀さん」
俺が呼びかけると、恵秀さんの身体が跳ねた。怒られる前の子どものような反応が、痛々しくて仕方がない。
「恵秀さん、一回、一回離してください。離れませんから」
背中をさすりながら、言い聞かせるように訴える。恵秀さんは少し迷ったようだったけど、ゆっくりと俺に回していた腕を解いた。それでも、縋るように両の腕を俺に伸ばしたままでいる。普段の落ち着いた穏やかな年上のお兄さんはここにはいない。泣き虫で怖がりな、小さな子どものようなお兄さんが、行かないで、と俺を見つめていた。
俺は恵秀さんの隣に腰を下ろして、ぎゅっとその身体を抱き締めた。恵秀さんは一瞬固まったものの、すぐにぎゅうっと俺を抱き締め返してきた。
「俺が、貴方のコマンドを無視したから、貴方を傷つけることになっちゃいましたね。ごめんなさい」
「違う! よすがくんは悪くない! 君は、だって君は、僕が使ったのが、コマンドだって、分からないんだから……何も、悪くないんだよ……」
言いながら切なくなってしまったんだろう、恵秀さんの声はどんどん小さくなっていく。俺は恵秀さんの背に回した腕に、少しだけ、力を込めた。
「悔しかったんです、あの時、ものすごく。女のサブの方がいいって、俺に恵秀さんはもったいないって。その通りだって思って言い返せなかった。言い返せない自分も悔しかったし、恵秀さんが何も言ってくれなかったのも、ものすごく悔しかった」
「……うん」
恵秀さんを落ち着かせようと思っていたはずなのに、いつの間にかこっちがしがみついてしまっていた。止めなくちゃいけないのに、恵秀さんを責めるような言葉が溢れてくる。傷ついてる人に、今言うべきじゃないのに、どうしても、止められない。
「恵秀さんは俺を好きだって言ってくれたけど、本当は俺よりサブの人の方がいいって思ってるんじゃないかって思った。俺は貴方のパートナーのはずなのに、約束はこれからするって、首輪はこれから送るって、恵秀さんはあの人に言わなかった。今まで俺も、言われたことない」
「うん、」
「年の近いお姉さんが恵秀さんにくっついてるの、すごく嫌だった。どうして恵秀さんは振り払ってくれないんだって思った。本当に、本当は、恵秀さんは俺みたいなヴァニラの男より、サブの女の人の方がいいと思ってるんじゃないかって、思って、あの人にくっつかれてる恵秀さんを見るのが、すごく、すごく苦しかった……」
「うん、」
目頭が熱い。鼻が痛い。抱えていた言葉を口にするたびに、ぼろぼろと涙が溢れてくる。恵秀さんの肩を濡らしながら、俺は止まらない八つ当たりのような言葉を恵秀さんに投げつける。
「最悪、最悪だ、俺。あの人は苦しい思いをして、恵秀さんもいっぱい傷ついて、苦しかったのに、店を出て貴方が俺に抱き着いてくれたことが、信じられないくらい嬉しかった。あの人のところじゃなくて、俺のそばに来てくれたのが、嬉しくて、堪らなかった」
「……よすがくん、」
「ごめんなさい、こんな、こんなひどい気づき方したくなかった……。ごめんなさい、恵秀さん、俺、俺、貴方が好きです。貴方のパートナーも恋人も、別の人に、なってほしくないんです」
「っ、よすがくん……!」
自分がこんなに汚くて、卑しくて、ひどい人間だと思ってなかった。醜い嫉妬で、恵秀さんへの好きだって気持ちに気づきたくなかった。自分のどうしようもない愚かさが気持ち悪くて、ようやく恵秀さんのことを好きになれたんだって、素直に喜ぶこともできない。
小さな子どものように声を上げて泣く俺を、恵秀さんはそれまで以上にきつくきつく抱き締めた。嬉しい気持ちと、申し訳ない気持ちが溢れて、どうしようもなくなって、俺はまた声を上げて泣いた。
しばらくわあわあ泣いた後、少し落ち着いて、我に返って、居た堪れなさで顔を上げることができなかった。
「けいしゅうさん、」
「なあに、よすがくん」
恐る恐る呼びかけると、恵秀さんはいつもの調子で返事をしてくれた。多分、恵秀さんも落ち着いたんだろう。どうしよう、ものすごく、恥ずかしい。
「よすがくん?」
「……呼んでみた、だけです」
俺がそう言うと、恵秀さんは小さく笑った。
「顔、見せてくれる?」
「いやです、今絶対やばい顔してる」
「お互い様だよ、僕もきっとぐしゃぐしゃ」
「恵秀さんのはさっき見たから知ってます」
「あ、じゃあ僕だけ見れないのは不公平だね?」
そんなやり取りをして、どちらからともなく吹き出した。ぽんぽん、とさっき俺がしていたように恵秀さんに背を叩かれておずおずと顔を上げる。俺の動きに合わせて、恵秀さんも顔を上げる。やっぱり、恵秀さんの顔は涙でぐしゃぐしゃだった。鏡はないけど、きっと俺も負けないくらい、ぐしゃぐしゃだろう。
「可愛い」
「これ見て可愛いっていう恵秀さんの感覚、絶対おかしいですよ」
「そう? 僕はよすがくんのことが好きなので、君がどんな顔をしていても可愛いくて、格好いいと思うよ」
ぐしゃぐしゃな顔をしているくせに、恵秀さんは嬉しそうにはにかんだ。その顔がものすごく優しくて、綺麗で、ちょっとだけ恵秀さんの言葉の意味が分かった気がした。
「……恵秀さんも、可愛くて、格好いいです。今は、綺麗でした」
「えっ、いや流石に最後のはおかしくないかな?」
おどけてみせる恵秀さんがおかしくて、俺は声を上げて笑った。
それから少しだけ落ち着いて、恵秀さんをまっすぐに見つめた。俺が真面目な顔になったのが分かったのか、恵秀さんの顔からも笑みが消えた。
「恵秀さん、あの、……あの人のこと、聞いてもいいですか? その、大丈夫、なんですか?」
俺の言葉に、恵秀さんは少しだけ切なそうな顔をした。それに胸が軋んだけれど、今は、そんなことを考えてる場合じゃない。
「大丈夫だよ。病院できちんと処置をしてもらって、念のため一晩入院するらしいけど、問題はないらしい」
「そう、ですか……良かった」
はあ、と安堵の息が漏れる。あの人の態度は良くなかったし、本当にものすごくイライラしたけれど、だからってあの人に苦しい思いをしてほしいわけじゃない。ホッとしていると、恵秀さんが隣で難しい顔をしていた。
「恵秀さん?」
「……よすがくんが気に病むことじゃないよ。元はと言えば失礼な彼女の自業自得だ。きちんとコントロールできなかった俺のせいでもあるけど、君は本当に悪くない。巻き込まれただけだよ」
「そうかもしれないですけど、やっぱり俺のせいではあるじゃないですか。あの人がどこまで俺や恵秀さんのことを知ってたかは、分からないけど……」
そう言って俺が足元に視線を落とすと、隣で恵秀さんがわざとらしく大きな溜め息を吐いた。
「うん分かった。でも彼女はもう大丈夫。言い方は悪いけど、一度痛い目に遭ったからきっともう僕に寄って来ることもない。これでおしまい。僕は今、あの失礼な人のことよりも、よすがくんが僕に抱いてくれた好きだって気持ちを噛み締めたいんです」
拗ねたような言い方をする恵秀さんに俺はぽかんとしてしまった。この人はこんな、こんな子どもっぽいことを言う人だっただろうか。……もしかして、俺が好きだと言ったから、浮かれてくれているんだろうか。
どうしよう、なんだかものすごく、恵秀さんが可愛らしく見える。
「恵秀さん」
「なあに」
返ってきた返事は、まだちょっと拗ねている感じがする。それがおかしくて、少しだけ笑ってから、俺は恵秀さんにおねだりをした。
「コマンド使ってください。『抱き締めさせて』って」
恵秀さんは一度目を見開いてから、へらっと破顔した。
「さっきまであんなにくっついてたのにね」
「ダメですか?」
「駄目じゃないです。……ほら、よすがくん、抱きしめさせて?」
嬉しそうにはにかみながら、恵秀さんが腕を広げる。飛び込むようにしてその中に身体を預ければ、恵秀さんの腕にしっかりと捕らえられた。
「ふふ、いい子。よすがくんは、本当にいい子だね、大好きだよ」
うっとりとしながら、恵秀さんが片手で俺の頭を撫でる。当たり前のように囁かれた、大好き、の言葉が嬉しくて、にやついてしまう。
「ねえよすがくん、僕からもお願いがあるんだけど、聞いてくれる?」
「なんでしょう」
少し身体を起こして恵秀さんと視線を絡ませる。柔らかくて優しい笑みを湛えた恵秀さんは、両手でそっと俺の頬を撫でた。
「キスのコマンド……唇も解禁していいですか?」
頬を撫でていた右手の親指で、優しく俺の唇をなぞられる。それがくすぐったくて、肩を震わせていると、恵秀さんは催促するように俺の名前を繰り返した。
「……大丈夫です。恵秀さんなら」
頬に添えられた恵秀さんの手の平に、甘えるように頬をすり寄せる。俺を見つめる恵秀さんの瞳は、潤んでいるように見えた。
「目を、閉じてごらん、よすがくん」
囁くように告げられたコマンドに従って、ゆっくりと、瞼を伏せる。冬の夜の寒い空気が、気にならないくらいに、顔が熱い。恵秀さんの唇が、どこに、いつ触れてくるのか分からなくて、鼓動がどんどん早くなる。焦らされているような気分になりながら、恵秀さんの唇を待った。
「いい子だね。よくできました」
そんな甘い声に、思わず目を開けそうになった。それに抗ってぎゅっと瞼に力を入れていると、柔い感触がまずそこに降ってきた。瞼に、目尻に、額に、鼻先に、頬に。恵秀さんの優しいキスが、顔中に降らされる。唇が触れるのと同時に、いい子、と恵秀さんが呟くのが、無性に恥ずかしい。でも、同じくらいそれが嬉しかった。
「よすがくん」
不意に呼びかけられて目を開けそうになった。まだ、唇にしてもらってない。そう思って再び強く目を瞑ると、至近距離で恵秀さんが笑ったのが伝わってきた。
「僕のパートナーは、本当にとてもいい子だね」
そんな声とともに、柔らかくて温かいものが、俺の唇にそっと触れた。唇を重ねたまま、俺の咥内へ注ぎ込むかのように、恵秀さんが小さく囁いた。
「いいこ、だいすきだよ」
多分今まで聞いた中で一番甘くて、嬉しそうで、優しくて、幸せそうで、熱くて、とろけた声だった。そっと離れていく唇に合わせるように、ゆっくりと瞼を開く。滲んでぼやけた視界の中で、恵秀さんが笑っているのが見えた。
「うつっちゃった」
「ん、何が?」
「恵秀さんの、泣き虫」
「ええっ、僕泣き虫じゃないよ!」
「俺の前では泣き虫ですよ」
「嘘だぁ」
そんなことを言い合って、また笑う。この人の側にいられるのが、ただただ嬉しくて、俺は改めて恵秀さんにぎゅうっと抱き着いた。
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