オフホワイトの世界

キズキ七星

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第三章

七.私も君に会いたい

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 以前、彼女は言った。交際している恋人から暴力を受けていると。僕はそのことについて考えずにはいられなかった。なぜ今まで関わりのなかった彼女の黒い部分を知ることになってしまったのか、僕にはよく分からなかった。部屋のカーテンが、緩やかな風に吹かれて優しく靡いていた。ふわり、ふわりと踊っているように見えた。その向こうには澄んだ青空が広がっていたが、大空の奥の方は鉛色で染められており、淀んでいた。それは明らかにこちらへ向かっている空色であった。
 時刻は既に十五時を回っており、今起床したことに後悔のほか感じるものは無い。昨晩、午前三時まで映画を見耽っていたことに原因があることは考える前から分かっていたが、それは既に習慣になってしまっていた。根付いてしまった習慣は簡単には直せない。直すのにはそれなりの時間と意識が必要になってくる。その習慣が悪いものであればあるほど、その時間と意識は、多く強いものが必要になってくるのだ。しかし、まだ十五時だというのに外は、空もビルも人も道路も、夕陽の橙色で染め上げられている。僕の部屋もまた、その光が差し込んでおり、淡い色で覆われている。鴉の鳴き声が街中に響き渡っているかのように、スピーカーの如く爆音で聞こえてきた。僕の精神は研ぎ澄まされているようだった。他人にあまり興味を持たない僕は、これだけ彼女の事を考えていることに自分でも驚いているほどだったのだ。
 僕はベランダに出て、静かに色を変えてしまった無限に広がる空を見上げた。冬空の下で生きている僕は、無力だった。それに今気づいたのだ。これだけ考えても、何をしてやれば良いのか検討もつかなかった。やはり解決はしていなかったのかもしれない。だが、解決は不可欠である。彼女はわざわざ僕を呼び出し、自然な顔で僕に打ち明けたのだ。いや待てよ。なぜ呼び出したはずの彼女が、一時間以上も遅れて来たのか。電車が遅延していたのか、それとも化粧や何やかんやで時間を取られたのか。いや、あの日も彼女は恋人に会っていたのではないか。そして、僕と会う前も暴力を受けていたという可能性は無いだろうか。いやいや、全然可能性しかないじゃないか。そんな弱った状態で彼女は、僕の元へ来たのか。でも、他愛のない話ばかりしてすぐには本題に入らなかった。それは何故か。
 僕はポケットからスマホを取り出し、遥香の電話番号を探した。声が聞きたかったのだ。しかし、僕のスマホに彼女の電話番号は記録されていなかった。だとしたら、彼女はどうやって僕に電話をよこしたのだろうか。いや、そんなことは今どうでもいいことだ。今すぐに彼女に会って話をする必要があった。話をしなければいけない、そんな気がしたのだ。

 確か、彼女は細畑駅の近くに住んでいると言っていた。僕は名鉄電車に乗り、その駅へ向かった。十分足らずで着いたが、そこからどうすればいいか分からなかった。今思えば、こんな無計画に外に出てくるのは初めての事だ。ホームのベンチに座り途方に暮れていたが、ある考えに辿り着いた。大学の友人が、彼女の連絡先を知っているかもしれないと。早速、手当り次第に電話をかけ(事情は何となく誤魔化した)、その作業に取りかかってから約二十分経った頃に遥香の連絡先を手に入れることが出来た。ふと掛け時計を見上げると、針は十八時ぴったりを示していた。
 僕はすぐに電話をした。ぷるるる、と耳許で鳴り響く。三回コールが鳴った後、それは鳴り止んだ。
「もしもし」それは間違いなく彼女の声だ。
「ハルカ!今どこにいる」僕は食い気味に言葉を発した。
「どなたですか。まず名前を言ったらどうですか」彼女は僕のことが分からないらしかった。それはそうだと気づき、失礼なことをしたと思った。
「ハシモトです。申し訳ないが、連絡先を知らなかったから大学の友人に教えて貰った」
「ああ、ハシモト君か。ビックリしたよ、画面に『ハシモト君』て書いてあったけど、君が私の番号知ってるなんて思わないし」
それは僕も言いたいことだったが、今はどうでも良い。
「それで、今どこにいるんだ。君の家の近くの駅にいるんだ。おそらくここだと思う。今から会えないか」僕は焦っていた。僕が焦ったところで何かがどうかするわけでもなく、僕が彼女に会ったところで彼女の人生が変わるとも思えなかったが、今会うべきなのだと、確信していた。(なぜそこまで確信していたかは分からない)
「分かったよ。なんだかよく分からないけど、私も君に会いたいし。いいよ、今からそっち行くから少し待っててね。」そうして僕達は電話を切った。
 辺りはすっかり暗くなっており、ホームの小さな光だけが頼りだった。空には星は無く、月はどこにあるか分からなかった。僕だけが見えていなかったのかもしれないし、空から月が消えていたのかもしれない。その真相は明らかになっていないのだが、月が無くなることは無いだろうと思った。ふと前を向くと、向かいのホームに人影があるように見えた。もう来たのか。電話を切ってから一分程しか経っていないが。向かいのホームの人影は微動だにしなかった。何かと見間違えたのかもしれない。しかし、人の気配を僕は感じていた。小さなホームの光を頼りに目を凝らすと、やはりそれは人であった。いや、人の形をした何かであった。僕は、その得体の知れない何かから目を離すことが出来なかった。僕は、自分の意識で体を動かすことが出来ずにいた。しかし、その『人の形をした何か』からは懐かしいものを感じ取っており、それは不気味に僕を安心させていたのだ。涼ちゃん、と耳許で誰かが囁いた。それは聞き覚えのある懐かしい声だった。その声の主が誰であるのか、僕には考える時間は必要なかった。それは紛れもなく、姉の声だったのだ。だが、それは実に奇妙な事なのだ。姉は、三年前に亡くなっているのだ。ごめんね、とまた声がした。僕は目から溢れ出ている冷たいものを微かに感じていた。
 視界には何も映っておらず、ただ真っ暗な世界が迎えていた。僕は安堵を覚え、その闇に身を任せていたが、その闇の優しさの中に潜むものが垣間見え、恐怖が一気に押し寄せてきた。僕は意識を取り戻すことに専念した。遠くから階段を掛けおりる足音が聞こえてきたが、その足音は僕の敵でないことは明確だった。大好きな姉から恐怖を感じたのは初めてでは無かったが、これだけ逃げてしまいたいと思ったことは初めてであった。何とか意識を取り戻した僕は、体の内側から吐気が込み上げてきて、ホームに吐き出した。恐怖と一緒に姉との思い出も少し吐いてしまったかもしれない。寒気がした。それは気温のせいなのか、姉のせいなのか、僕には今とても理解出来るはずもなかった。酷く混乱しており、思考回路が絶たれていた。先程、階段から駆け下りてきた女性が僕の背中に手を当て、摩ってくれたおかげで吐気はもう込み上げてこなくなった。ありがとうございますとお礼を言い、顔を見上げるとそこには遥香がいた。その綺麗な顔と彼女の温もりに穏やかになった僕の精神はぷつっと途絶え、僕は意識を失った。
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