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第三章
八.だから僕ってことか
しおりを挟む目を覚ますと、そこは見慣れない光景だった。天井には男性アイドルグループのポスターが貼ってある。辺りを見回すと、ピンク色をした物が多いようだ。自分の部屋ではないことは確かであった。意識が朦朧としているために思考回路は閉ざされていた。しばらく、ぼーっとしていると、部屋の扉が開き、遥香が水を持って入ってきた。彼女は僕がいるベッドの横に座ると、はいと言って水をくれた。僕はそれを一気に飲み干した。そして彼女は、ごめんねと言った。
「ごめん、嫌でしょう。私のベッドに横たわるの」
僕は首を横に振った。
「いいや、別に気にしないよ。それこそごめん。迷惑かけてるね」
彼女は首を横に振った。それから彼女は口元だけで微笑むと、僕からグラスを受け取って棚の上に置いた。そして自然な流れで立ち上がって窓辺に向かいカーテンを閉めた。その後ろ姿はとても綺麗だった。綺麗に整えられた毛先、細い腰、ハーフパンツを履いているためにむき出しになっている足。それらは僕を魅了した。見とれていると、振り返った彼女は僕を見つめた。
「どうしたの」そう尋ねたが、彼女は答えなかった。
「何で急に会いに来たの」彼女は尋ね返した。
「君から、その、彼氏の話を聞かされてからずっと考えているんだよ。君のことを救いたい。でもそのために何をすればいいのか、君に何をしてあげられるのか分からないんだ。ごめん」
遥香は次の言葉を待っているかのように黙っている。でも僕は何を言っていいかわからなかった。
「大丈夫だよ。君が心配することじゃない。ただ、誰かに話したかっただけなの。仲の良い友達には何だか話しずらいし」
「だから僕ってことか」
遥香は首を縦に振った。
「そうだ、いいことを思いついた。僕の家に来なよ。それなら君の彼氏は君の居場所が分からなくなる。身を隠すんだよ」
彼女は黙って考えているようだった。
「でも、それはハシモト君に申し訳ないし、男女が同じ部屋で暮らすっていうのは大丈夫なのかな」と彼女は真剣な顔で言った。僕は少し恥ずかしくなった。
「大丈夫。適度な距離は保つよ。でも君が嫌なら来なくていい」
僕はそう言うと、ベッドから起き上がり上着を羽織った。
「君はなんで駅で倒れていたの」
「姉さんが見えたんだ。死んだはずの姉さんが。目の前が真っ暗になったよ。もう訳が分からなくなって」
「そっか」彼女はそれだけ言った。
僕は、水ありがとうと言って彼女の家から出た。
翌日、太陽が僕らの真上を丁度通り過ぎた頃、遥香が僕の家へやって来た。小さなキャリーケースとリュックを背負った彼女は化粧っ気の無い顔をしていた。
「今日は暑い」遥香が言った。
「そうだね、今日は特別暑い。まだ五月だっていうのに」僕は彼女のキャリーケースを受け取りながら言った。
遥香の奥に広がる青と白の空で鴉が鳴いている。制限のない空間で自由に飛び回る鴉が少し羨ましくなった。自分も自由に羽を広げて飛んでいきたいと思った。
遥香は部屋の中に入ると、コップ借りるねと言って台所で水を汲んで飲んだ。その横顔には髪の裏から汗が落ちていた。彼女はコップを静かに置くと、ねえ、と言った。
「本当にいいの」
「何が」僕は素っ気なく返事した。
「いや、私がここにいていいのかなって」
「いいんじゃない」
「他人事みたいだね。君が巻き込まれるかもしれないよ」
「もうとっくに巻き込まれてるよ。君が呼び出したあの日からもうとっくに。しかし面白いね、君が僕の家にいることに実感が湧いてないよ」
「湧かなくていいんじゃない」彼女は少し照れくさそうに言った。
「他人事みたいだね」僕はそう言った。
彼女が着替えたいと言うので、寝室に通してやった。扉を閉めて彼女が着替えている間に部屋の片付けをした。やがて寝室が彼女が出てくると、僕はその姿に驚いてしまった。何とラフな格好なのだろうか。少なくとも、男の家で着る服ではなかった。
「ちょっと露出が多いんじゃないかな。夏ならまだしも五月だし。しかも」僕はそこで続きを言うのを躊躇った。
「しかも」遥香は口角を少し上げながら言った。
「ニヤニヤしてんじゃねーよ。男の部屋で着るような服じゃないんだよ」
「怖い怖い。そんなに怒らないでよ」彼女は脱いだ服を畳みながら言った。
僕は黙ってそれを見ていたが、彼女はふと思い出したようにこちらを見てから、悪そうな顔をした。
「いいよ、襲っても」
「襲わないよ。調子に乗るな」
彼女はクスクス笑っていたが、僕はそれ以上会話を続けることをやめた。
遥香がキャリーケースやリュックから荷物を出してどこに置いておくか決めている間、僕はテレビを見ていた。特に面白い番組はやっていなかったので背景音楽として扱った。僕は窓の外の空をぼんやりと眺めていたが、台所で大きな音がしたので我に返った。台所では遥香が皿を落として慌てていた。ごめんと苦笑する彼女を僕は許し、片付けておくから荷物を整理するように言って、僕は立ち上がった。
その日は家に材料が何も無かったので夕飯を作ることが出来ず、しかしスーパーは少し遠いのでコンビニで済ませることにした。コンビニは僕の家アパートから徒歩五分以内にあるので便利が良かった。僕はビールとカップ麺を買い、彼女は水とおにぎりを買っていた。店員が僕らを見て微笑んだので何か勘違いされていると思ったが、僕も微笑んでおいた。遥香は隣で気味悪そうな顔で僕を見ていた。
アパートに戻る途中には街灯がほとんどないために、遥香は何回か転びそうになっていた。その度に彼女は変なポーズをした。転びそうになったことを誤魔化しているのか分からないが、笑ってしまった。しかし五回目には僕は飽きてしまっていた。アパートに戻ると、鍋でお湯を沸かし、ビールと水を冷蔵庫に入れる。遥香がシャワーをしたいと言ったので許可を出し、「運転」ボタンを押した。僕は沸いたお湯をカップ麺に注いで、麺が解かれていくのをじっと見ていた。その時僕はあの装置の事を思い出した。ライファー。アヤコさんはそう言った。寿命が延びる代わりに記憶を失う装置、ライファー。そこから出てきたミシマは僕を認識した。その事実はアヤコさんが言った装置の説明とは矛盾していたのだ。しかし、この日本では毎日人は亡くなっているのに、なぜミシマだけがそこにいたのだろう。そんな考えが思い浮かんだが、それは僕に分かることではなかった。
僕は麺を啜り始めた頃に、遥香は浴室から出てきた。浴室の方から微かに石鹸の良い香りが漂ってきた。それは嗅ぎ慣れた匂いだったが、遥香から漂っていることを想像してしまった。恥ずかしくなって急いで麺を啜ったために、むせた。台所のカーテンを開けた遥香は僕の方を見て不思議そうな顔をしていた。その顔は赤くなっていて、すっぴんだったが十分に綺麗な顔をしていた。僕は目を逸らして麺を啜ることに全力を注いだが、彼女のことが気になってそちらに視線を移すと、彼女はまだこちらを見ていた。髪の毛を拭きながら僕の隣に座った彼女は何も言わずに前を向いていたが、僕の心臓は今にも爆発しそうな勢いで打っていた。僕が何も出来ずに呆然としていると、視界が真っ暗になり彼女の唇が僕のそれに触れた。そのまま時が止まってしまったように彼女も僕も微動だにしなかった。やがて彼女は僕から離れると、ごめんねと言って立ち上がり、冷蔵庫から水を取り出して飲んだ。僕はその後ろ姿を見ていたが、音も無く立ち上がり、その後ろ姿に抱きついた。そして彼女を振り向かせ、その唇にキスをした。彼女が持っていたペットボトルから水が少し流れ出し、僕の足を濡らした。夜は静かだった。車の音も、電車の音も、虫の声も、何も聞こえない。僕らは深いキスをした。彼女の濡れた髪を撫で、彼女の匂いは僕を癒した。今、僕らは罪を犯したのだ。
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