オフホワイトの世界

キズキ七星

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第二章

六.蝕まれるように黒く記憶が消されていく

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 静かな空間が広がっていた。僕はここが何なのか分からなかったが、部屋の中央にある水槽のようなものが僕の想像を遥かに越えているものであることは分かっていた。それは今まで見たこともない装置である。現時点でその装置について分かっているのは、人が中に入っているということだけだ。全裸になった人間が水槽の中で浮いている。水らしきものに浸されているのだ。
「ミシマさんですよ」アヤコさんは言った。
僕は返事をせずにそのミシマらしき人間を見つめていた。毛という毛は全て無くなっており、目を閉じ、赤ん坊のようにうずくまっているために、それが本当にミシマなのかどうか確認出来なかった。しかしそれは、ミシマであるということであった。
「ミシマなんですか」
「はい。彼は大学で起こった火事により、命の存続が難しい状態にありました。しかし、現時点では亡くなっておりません。それは確かなことです。今、あなたの前におられるのは、三島光輝さん本人です」
僕はよく分からなかった。
「何で死んでいないんですか?僕は目の前で真っ黒焦げになったミシマを目にしました。あれだけの大火傷を負っておいて、生きていると言われても信じ難いです」
「それは無理もありません。しかし、ミシマは生きています。それは手紙にも書かれていたはずです」彼女は、なかなか理解しようとしない僕にため息をついた。
「これは特別な装置なんですよ。世には出ておりません。ここは秘密裏にされている施設ですから。この水槽のような物は、人間の寿命を延ばすことが出来ます。瀕死状態でなくても構いません。健康な状態で入っても、効果は得られます。しかし、それなりの代償を払う必要がありますが」
「代償とは一体何ですか」僕はミシマを見続けたまま尋ねた。
「オフホワイトです」アヤコさんも水槽に目をやりながら答えた。
オフホワイト、僕は繰り返した。よく分からない言葉であった。
「記憶ですよ。この水槽で命を延ばした者は、記憶が失われるのです。本人の記憶だけではありません。その人と繋がりのある人間から、その人に関する記憶が全て失われるのです。それから、本人は記憶が無くなっているわけですから、この装置『ライファー』に入ったことも忘れてしまいます」
オフホワイトやらライファーやら、少し時間を与えられないと理解出来そうになかった。
「もとある記憶から、蝕まれるように黒く記憶が消されていく。白かったものがくすんでいくのです。人の心のように。だから私たちはそれを『オフホワイト』と呼んでいます」
「ところでアヤコさん、ミシマはいつまでこれに入り続けるのですか」
「さあ。私には分かりません。明日かもしれないし、来年かもしれない。もしくは、もう出てこられないかもしれません」
ああ、と思った。僕はもう考えるのはよそうと思った。
 その時、シューという音と共にオフホワイトの扉から煙が噴き出した。扉はゆっくりと開き、中の液体は外に飛び出した。足元はぐっしょりと濡れてしまったが、それよりも何が起こったのかに興味があった。閉じ込められていたミシマが床に放り投げられる。僕はそれをただ見ていた。アヤコさんは慌てて大きな白いタオルを持ってきてミシマの上に広げた。彼は瞼を開け、眼球を動かす。それから、生まれたての子鹿のように、発達していない筋肉で立ち上がろうとしていた。彼はガリガリに痩せ、死神のようであった。そしてよろよろと歩き始めた。まるで僕のことが認識出来たかのように目配せをした。しかし彼は、何も言わず部屋の奥へと歩いていき、やがて闇に消えた。それは、もう二度と彼には会えないことを示唆しているかのようだった。僕はそれでも構わなかった。死んだと思っていた友人に再び会えたのだ。それだけで十分だった。しかし、矛盾は生じていたことに僕は気がついた。アヤコさんは、『オフホワイト』に入った人間やその周りの人から、本人に関する記憶が無くなると言った。だが、ミシマは僕を認識した。それは一体どういうことなのだろうか。僕には到底理解し得ないことのように感じた。

 アヤコさんは水浸しになった床を見つめてから、僕に顔を向けた。
「今日は、ハシモトさんに『オフホワイト』を見てもらいたかったのです。まさかミシマが覚醒するとは思いませんでしたが。しかし、また会えるかどうかは分かりません。わざわざお越しいただきありがとうございました」彼女は深々とお辞儀をした。
「はい」僕はそう言って会釈をした。
 アヤコさんに連れられて、僕は施設から出た。どうやって来たのか分からなかったが、何故かバス停まで迷わず行くことが出来た。僕はバスに乗り、今日の夢のような出来事を反芻した。人間の寿命を延ばすことができる装置、生きていたミシマ、日向絢子、オフホワイト、ライファー。
 森は静かに流れ、鳥は美しく歌い、僕は深い眠りについた。木漏れ日がバスの中の僕を照らし、安堵させる。この夢はどこで終わりを告げるのだろうか。また来ることは可能なのだろうか。青く澄んだ空の奥には黒々とした世界が広がっているのだ。そこから伸びた手が空をかき分け、穴を開け、僕を掴む。それは不吉な事が起きる予兆なのかもしれない。
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