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第二章
五.それは困りましたね
しおりを挟む同封されていた紙を開くと、そこには手書きで丁寧に地図が描かれていた。定規でしっかりと正確に描かれている。それは森の奥深くにひっそりと建てられており、人気が全くと言っていいほど無かった。家から最寄りのバス停から乗り、森の中にある橋の上に設置されたバス停で下車した。綺麗な森だ。道はきちんと整備されており、川は綺麗な透明で、空気は瑞々しく澄んでいた。湿気はそれほど無く、気温も涼しかった。もうすぐ冬になるため寒いのかと思い、薄めのコートを持参したが、どうやら必要ないらしい。僕は地図を開いて、それに従って道を進んだ。道行く中で、リスやカエルに出会った。しかし僕は、それほど動物に興味がある訳では無いので特に反応はしなかった。下車したバス停から二十分程歩くと、開けた場所に出た。直径五十メートル程の円形になっており、真ん中に祠が建てられていた。目的地はそこのはずだったが、小さな祠がぽつんとあるだけだった。
どうやら道を間違えたみたいだ。僕は辺りを見渡してから、地図を再び開いた。少し来た道を戻ってみたが、やはり間違っていないらしかった。おかしいなと思った。てっきり大きな施設が待ち構えているのかと思っていたが、そんな建造物はどこにも見当たらない。世の中から隔離された存在だということを僕に示しているようだ。不気味なくらい辺りは静寂だった。もう一度、祠がある場所に戻ろうとしてみたが、どれだけ歩いても祠は見つからなかった。先程の開けた場所も無くなっていた。いや、元々存在しなかったのかもしれない。僕はもう地図を持っていなかった。さっきまで持っていたという確かな記憶も存在しない。地図なんて同封されていなかったのかもしれない。
「ここはどこなんだ」呟いた。
すると背後に何かの気配を感じた。振り返ってみると、そこには丁寧に積木を積み上げたような頑丈そうな建物があったのだ。さっきまで無かったのだが。ため息が出た。それは深く深く体から全ての空気を吐いてしまったようなため息だった。
その建物にはひとつも窓がなかった。さらには扉もどこにもないみたいだった。周りを一周してみたが、やはりどこにも何も無い。ただ大きな岩がドンと置かれたみたいだった。僕は呆然として立ち尽くしていた。瞬きをする。ドライアイを持っているために、すぐ目が乾くのだ。少し長く目を瞑る。深呼吸をした。すると微かに冷たい風が僕に吹いた。驚いて目を開けると、辺りは黒々として何も見えなかった。本当に何も見えないのだ。自分の存在さえも確認することが出来ないくらいに。右手を動かしてみたが、動いている気配はない。左手も右足も左足も、まるで虚無になっていた。自分が今まで生きてきた過程が全て否定されているかのようだった。しかし、もうそんなことはどうでも良くなったのだが。ここでは思考という概念がないのかもしれない。なにか言葉を出してみようと試みたが、それさえも許されなかった。
バン、という音と共に光が灯された。たった今、世界に命が宿されたかのようだった。そこは壁一面真っ白であった。いや、少しくすんだような白さだった。オフホワイトとでもいうべきか。人間の心の内を表しているかのように、完全な白ではなかった。さっきまでとは真反対の異世界に迷い込んでしまった。まるで訳が分からなかった。今、自分がどこにいるのか、生きているのかさえも分からない。とりあえず前に進んでみる。幅五メートル程の廊下を直進する。両側の壁には等間隔で扉がついていた。各扉の右には(誰のものかは分からないが)名前が記されていた。山中渉、斎藤美沙子、藤井智和、岸宮進、近藤千賀、墨咲琴音、今倉太一。ここの従業員の名前だろうか。それともここは病院かなにかの施設で、入院患者のそれなのだろうか。僕には確かめようが無かったが。しかし、どこまで行ってもこの廊下に終わりは来ないようだった。
何分歩いただろうか。もう時間の感覚が狂っていた。誰もいない、何も聞こえない。気がおかしくなりそうだった。
「誰かいませんか」小さな声で言ってみる。しかし、何の音沙汰も無い。
「すみません。誰かいませんか」少し声量を上げてみたが、返事は無い。
「すみません!誰かいませんか!」腹が立って叫んでみた。すると、どこからか声がした。
「コードをお願いします」コードをお願いします。僕は繰り返した。コードって何のことか分からなかった。
「知りません。初めて来たものですから」
数十秒の沈黙があり、やがてまたどこからか声がする。「申し訳ございません。新規の方でしたか。今、スタッフをそちらに向かわせますので少々お待ちいただけますか」
随分と長い間ここにいるのだが、と思ったが言わないでおいた。
「はい」と返事をしたが、天の声はもう何も言わなかった。
それから数分が経った頃、一人の女性がどこからかやって来て僕の背後に立っていた。
「お待たせ致しました。わたくし、アヤコと申します。日向絢子です。」とても美しい女性であった。見事にケアされた艶のある長い髪、キメ細かい白い肌、贅肉が削ぎ落とされたような細い足、人形のような整った顔。完全と言わんばかりの美しい女性だった。「こちらへどうぞ」
僕は彼女の後ろをついて歩いた。彼女が通ったあとには優しい甘い香りが残っており、僕の好きな香りだった。誰かの香りと似ていると思ったが、それが誰なのか思い出すことは出来なかった。懐かしい匂いだった。
「そういえば、お名前を教えていただけますか」彼女は思い出したかのように話しかけてきた。
「ハシモトです。橋本涼太です」
「ありがとうございます。ハシモトさん、ここへはどうやって?」
「バスで来ました」
「手紙がよこされた、とか」
「あ、はい。郵便受けに一通の手紙が入っていました。そこに地図が同封されていたので」
「地図?ここへの案内ですか」
「はい。でも、もう持っていません。どこかに忘れてきたらしいです」
「それは確かですか」
「というと?」
「あなたは初めから地図を持っていましたか?どこかに忘れてきたらしい、というのは確かなものですか?ここへはどうやって来ましたか」
僕は彼女が言っている意味が分からなかった。
「そう言われてしまうと、何とも言えません。地図が存在したかも分からないし、僕がここへどうやって来たのかも分かりません」
「それは困りましたね。」アヤコさんは微笑んだ。
「しかし、それでいいのです。ハシモトさん。いや、リョウタくん。」彼女は何故か言い直したが、僕は特に気にならなかった。それは、かつて母が僕を呼ぶ言い方であった。
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