アフロディジア -aphrodisia-

キズキ七星

文字の大きさ
1 / 10

1.Vacuity

しおりを挟む


 辺りは静まり返っていた。どこにある何も音を生み出していない。ほぼ天井に近い位置の壁に掛けられている時計は電池が切れて動かなくなっているし、電気代が勿体なく暖房をつけていないからエアコンの音もしない。ここは東京のような栄えた街ではないから人間は活動を止めている。車は静かに眠っているし、犬も猫も虫も草も存在を消している。雲はただゆっくりと流れ、漆黒に染まった空を見上げると生きていることを実感出来る。月も出ていない、エモくないなあ。夜でもなく朝でもないその間の無音で時が止まっているような、ただ、ツーという何も無い音が流れているだけ。そう考えると、音はあるのかもしれない。音がこの世界から無くなることは無いのかもしれない。無音になった瞬間に無音という音が作り出されるのかもしれない。いや、無音は有音の下に隠されているだけであって、常に存在しているのかもしれない。その無音という音に気付く人間は幾らいるのだろうか。僕は気付いた。ああ勝ち組かもしれない。こんなことで勝ち組になれるのならば、皆すでに何かの勝ち組になっているだろうな。勝ち組って何なのだろう。誰に勝っている組合なのだろう。無音で勝ち組になったところで何の利益が僕にあるのだろう。羊を数えたところで、無意識の旅に落ちることは無いのだから、どうすればいいのか。テレビをつけても好みの番組はやっていない。むしろつまらないんじゃないか。つまる番組って何だろう。元々普段からテレビは見ないのだから、そんなことは知ったことじゃないし、別に知る必要も無い。ああ酒が飲みたい。そんなに度数が高くない酒が飲みたい。この無機質な時間を浄化させてくれる酒が。


 目を覚ますと壁にかかっているカーテンの隙間から暉が差し込んでいる。ああ面倒臭い。無意味で無利益な作業を繰り返す僕のビデオテープがまた再生され始める。何故こんなにも毎日は同じことの繰り返しなのだろう。同じ時間に起き、同じ朝ごはんを食べ、同じようなことしか言わない教授の同じようなことしかしない講義を受け、同じ昼ごはんを食べ、また訳の分からない教授の趣味を聞かされる選択制の講義を受け、同じ家に帰ってくる。ああ無感情。もう僕は無感情で、無感情にならないとやっていけなくなるんだよ。冷蔵庫の横の棚からシリアルの袋を取り出し、皿に適量を盛り付けたあと牛乳をぶっかけて作業食事を済ませる。腹がすこし満たされればいい。今日は時間があるな。余裕を持って大学に行けそうだ。朝シャンでもするか。


 何食わぬ顔で朝の挨拶を交わそうとしてきた。
「おいおい忘れたんじゃないだろう、先週貸したお金のこと。別に急いでる訳じゃないけど、借りた物はすぐに返すんだよ、なあ。」
「ああごめん。給料日まだなんだ、先週言っただろう、給料入ったら返すって。」
先月そんなに働いてないじゃないか、どこに返す金あるんだよ、いくら貸したと思っているんだ。言いたかったが言わなかった。割ともうどうでも良くなってきた、今日のところは。なあもう少し待ってくれよ、俺だって返さなきゃいけないことくらい分かってるんだよ。瀬田、まだ言ってるのか、もういいよ。待ってるじゃないか。授業を始めようと教授が何年も使っていると思われる年季の入った真っ黒だったであろう鞄から教科書を取り出した。いや、こいつは何を当たり前のことを言ってるんだ。金は返すんだよ。

 特に面白いことは無い。一つだけあるとすれば気になる子がいることだと思う。思うだけでそれが面白いことなのかどうかは僕にも分からない。何も無い自分に辟易としてさらに何も生まれない。ああ無生産だな。気になる子は同じクラスにいる割と幼い顔をした丸顔の子で、友達が多くいつも笑顔でいる子だ。そういう子が好きだったかな、僕は基本的に御淑やかな性格の人を好んでいる。笑い方が静かだったり食べ方がゆっくりで綺麗だったり歩き方に無駄な音が無くしなやかだったりボディラインが美しかったり。そうなんだよ、その子はクラス内で男友達も多く、野郎達も彼女を男みたい扱っているが、よく凝らして見ると唆られる躰をしていることに気付く。そんなことに気付いたのは僕だけじゃないだろうか。他の野郎に気付かれたらそれはそれで殺意が湧くかもしれないが。ただ、そういう目で彼女を見たことは無い。ただ、無意識のうちに眼を其方に向けてしまうだけの事だ。気になっているんだろうなあ。無性欲。男としてはどうなのかと思うが無害なんだよ、無性欲というのは。ニュースでレイプ事件とかを報せたりするけどそんなことを起こす気も起こらない。


 起きろよ、先生こっち来るぞ、おい起きろって。寝てねーよ、起こすんじゃねーよ。寝てないのに瀬田は起してくる。ああ、害。瀬田はいつも隣にいて何か喋っている。どうでも良くて面白くないがたまに口角を上げさせられる。瀬田の話に生産性はないけれど、まあ聴いていても損はないから聴く。そんなに話したいのならラジオでもすればと言ったことがある。そういうことじゃねーんよ永井、なあ俺はお前と話したいんだよ永井、俺にはお前しか話し相手いないの知ってるだろう永井。そんなことを言っていた。渾沌とした中から無理に引き抜いた記憶は、曖昧な形で表面が霞んでいる。核は黒く、そこを掘り返せば四角みたいに形を成していく。それも時間が経っていけば豆腐の様に屑る。終いには液体になって真新しい記憶の火で過熱されて溶けていく。上から轟々と音を立てて。次空きコマだからなあ、何しようか永井。今考え事してるんだよ、少し黙っててくれ。何を考えてるんだよ、なあ俺暇じゃないか、何考えてるんだよ。「何も、何もだよ、考える時に『何か』を考えなきゃいかんのか、何もだよ。」え、暇じゃん、俺もお前も暇じゃん、ゲーセンでも行こうぜ。面倒臭いよ、午後からまた授業あるだろ、大人しく座禅でも組んでろよ。そこからは僕の耳にはもう瀬田の声は届かなくなった。瀬田の口がパクパク動いているから何か喋っているのだろうがもう僕には聴こえない。聴かないようにしている訳では無いんだが聴こえないんだ。ああ無頓着。



―無―
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

母の下着 タンスと洗濯籠の秘密

MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。 颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。 物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。 しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。 センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。 これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。 どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。

私の優しいお父さん

有箱
ミステリー
昔、何かがあって、目の見えなくなった私。そんな私を、お父さんは守ってくれる。 少し過保護だと思うこともあるけれど、全部、私の為なんだって。 昔、私に何があったんだろう。 お母さんは、どうしちゃったんだろう。 お父さんは教えてくれない。でも、それも私の為だって言う。 いつか、思い出す日が来るのかな。 思い出したら、私はどうなっちゃうのかな。

還暦の性 若い彼との恋愛模様

MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。 そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様。 その後、結婚、そして永遠の別れまでを描いたストーリーです。 全7話

(完)百合短編集 

南條 綾
恋愛
ジャンルは沢山の百合小説の短編集を沢山入れました。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

ハチミツ色の絵の具に溺れたい

桃本もも
青春
大学生になったばかりの梅若佐保には、ひとつだけ悔やんでも悔やみきれないことがあった。 高校で唯一仲良くしていた美術部の後輩、茜谷まほろが事故に遭うきっかけを作ってしまったことだ。 まほろは一命を取りとめたものの、意識不明がつづいている。 まほろがいない、無味乾燥な日々。 そんな佐保のもとに、入院しているはずのまほろが現れる。 「あたし、やりたいことがあって、先輩のところに来たんです」 意識だけの存在になったまほろとの、不思議なふたり暮らしがはじまる――

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

処理中です...