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第8話 同意書
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アリルと話してから数週間が過ぎた。
身体の異変を感じたのは、結婚記念日まで残り一週間を切ってからの事だ。ダニエラは、自身のお腹に手を当てた。
先月、月のものが来なくておかしいとは思っていたけど……
まさか、本当にという気持ちの方が勝る。何故今更、こんなタイミングで。
確かアリルは忘れた頃に授かると言っていたが、本当にその通りだ。神様のなんと意地悪なことか。
「どう、しよう……」
もう子供はいらない、と断らなかった自分が悪いのは明らかだ。すでに新生活の準備は出来ているというのに、この先の予定が全て狂ってしまう。
イオスに相談しようかという気持ちが起こらなかったわけではない。しかし相談すれば確実に彼に負担を強いてしまう。金銭面での援助を申し出てくれるか、結婚生活をもう一年延期しようと提案してくれるか。
ダニエラはそのどちらもさせたくはなかった。
折角気持ち良く別れられると思った矢先に、やっぱり負担をかけますなんて言えるはずがない。
堕ろすしか、ない……
雷の魔術師がお腹の中の子の処理をしてくれると聞いたことがある。手術ではないので医者に頼むよりも楽だし、誰にもばれないのだとかなんとか。
でも、どこを探せばいいのだろうか。騎士団の中にも魔術師はいるだろうが、イオスの耳に入ってしまう可能性が高い。
街を当てもなく歩く。偶然魔術師に出会ったとしても、いきなり『子供を堕ろしたいので手伝って』なんて言って上手く行くとは思えない。
やっぱり医者に……でも、入院すれば怪しまれるし、離婚してから……
道の真ん中でへたり込んでしまった。離婚後すぐ仕事が始まるというのに、どうしたものだろうかと途方にくれる。
そんなダニエラに、声をかける者がいた。
「何をしてるの?」
「雷の魔術師を探して……」
そう言いながら顔を上げると、そこには見知った顔があった。
「雷の魔術師なら知り合いにいるから、良かったら紹介するわ」
「あ、りがとうございます……アンナ様……」
ダニエラの手を取って引っ張り起こしたアンナは、真っ青なダニエラの顔を確認して眉をひそめる。
「それにしても、イオスに言えばすぐ探し出してくれるのに、ずっと街を歩いていたの?」
「ええ、まぁ……」
「もしかして、緊急? 誰かが呪われちゃった?」
「いえ、そういうわけでは……」
「じゃあ、雷が弱点の魔物でも出たの? 良かったら私が退治するわよ」
「あの、そういうわけでも……」
否定しながら、ダニエラは思わず庇う様に己の腹に手を置いてしまう。
「お腹でも痛いの?……って、もしかして」
しまった、と手を離したが遅かった。
「ダニエラ、あなたおめでたね?」
断定的に問われたその表情は硬い。それもそうだろう。妊婦が雷の魔術師を探す理由など、ひとつしかないのだから。
「イオスは、知ってるのか?」
ダニエラは僅かに首を横に振った。心なしか、アンナの口調がきつい。
「イオスに内緒で堕ろすつもりなのか。ダニエラが子供を欲しがっているとイオスから聞いたことがある。待望の赤ん坊なのだろう? 何故堕ろす」
怖い。詰め寄るアンナはとんでもなく怖かった。堕ろすのやめます、と言いそうになる。
「その……私達は今週末、別れる事が決まっているので……」
「別れる? 本当か?」
「本当です。だから、もう子供は……」
「どうしようもなく困っている、というのであれば手を貸さんでもない。明日うちに来るといい。魔術師を待機させておこう」
「え? ありがとうござ……」
「ただし、イオスの同意書を持ってこい。それがなくては堕ろす手伝いなどできん」
「……はい」
それだけ言うと、アンナの表情と口調は柔和になった。
「帰りましょう。送るわ」
「いえ、まだ明るいし、大丈夫です」
「そう?」
「はい、役場で離婚届も取って来なければいけませんので」
「そう、気をつけて」
「ありがとうございます」
颯爽と去って行くアンナを見送った後、ダニエラは役場で離婚届をもらった。
これで全てが終わる。子供を堕ろして離婚すれば、全てが終わる。イオスと関わることは、もうなくなる。
これでいいんだと言い聞かせて、ダニエラは家に帰った。すると玄関の扉はすでに開いていた。
「おかえり、ダニエラ」
「イオス様?早かったんですね」
「役場に離婚届を取りに行かなくてはいけないと思ってな。早目に終わらせて取ってきたのだ」
「やだ、イオス様も?私も今日行って来たところだったんです。すみません、ちゃんと伝えておけば良かった」
「構わない。そのお陰で久しぶりに早く帰ることができたからな。ゆっくり話でもしよう。それとも久々に外に食べに行くか?」
「いいえ、ちょっと食欲がなくって……」
そう言われたイオスはダニエラの顔を覗き込む。
「そう言えば顔色が良くないな。大丈夫か?」
「はい、朝ほどは酷くないので」
「朝から悪かったのか? これからはちゃんと教えてくれ」
「これからって、私達もう終わりじゃないですか」
ダニエラは可笑しくて笑ったが、イオスは相変わらずの無愛想なままだ。
「そうだったな。今日は私が作ろう。何が食べたい?」
「じゃあ、冷たいレモンティーとムニエルのヨーグルト添えで」
「わかった。少し待っていてくれ」
イオスは調理場に入って行ったので、ダニエラは引き出しから紙とペンを取り出した。
離婚届に自分のサインを入れ終えた後、まっさらな紙の上に『同意書』と書いた。その紙の一番下に、署名を書くための欄を作る。
ダニエラはその離婚届と手作りの同意書、二枚の紙を持って調理場に向かった。
「ああ、もう出来る。座っていてくれ」
「ありがとうございます。では遠慮なく」
イオスが料理をする姿を後ろから見つめた。
彼は仕事が早く終わった時、こうやって夕食を作ってくれることがあった。
回数は多くなかったが、イオスがしている白いエプロンが似合っていて、とても好きな光景のひとつだ。
「すまない、待たせたな」
すぐに料理が運ばれて来た。イオスはシュルシュルとエプロンを外している。
「いいえ、イオス様が料理なさるところを見るのが好きなんです。エプロン姿が可愛くて」
「そうか。私もダニエラが料理してくれている姿を見るのは幸せだった」
本当に三年もの長い間、イオスは良い夫を演じ切ってくれた。ダニエラが嬉しくなる様な言葉を探し、思ってもいない、言いたくもない言葉をどれだけ言ってくれたことか。
人前では妻を褒め、柄ではなかったろうに仲のよい素振りをしてくれていた。
家にいる時は愛を囁き、身体を気遣ってくれ、ダニエラが機嫌を損ねぬよう、細心の注意を払ってくれていた。
一体、どれくらいの神経を擦り減らせてしまったことか。申し訳なくて涙が出て来る。
「……ダニエラ?どうした、涙ぐんで。具合が悪いのか?」
「いえ、イオス様のお料理を食べるのもこれが最後かと思ったら、感慨深くって」
「………………」
ダニエラが言いたかったのは、『感慨深い』ではなく『感傷に浸る』なのだが、ダニエラは自分の言葉の間違いには全く気付かなかった。
「これ、渡しておきますね」
「ああ、離婚届か。私もサインしてある。渡しておこう」
二人は互いのサインが入った離婚届を交換した。ダニエラは中を確認してそれを仕舞うと、もう一枚の紙をイオスに無言で渡す。
「何だ、同意書……? 何も書かれていないが、何の同意書だ?」
「今後何かあった時に、私が後から書き足せる様に空けています。イオス様にはそこにサインだけ頂きたいんです」
「その時に言ってくれれば何でもする。そう一筆書いても構わない。何に使われるか分からぬ物にサインをするほど、私は愚かではない」
やすやすとサインを貰えるとはダニエラも思っていない。あまり使いたくはなかった手だが、致し方ない。
「イオス様はこの先も軍師として生きるおつもりでしょう? 何があるか分からないではないですか。同意を頂きたいときに紛争地に行っているかもしれないし、その……し、死んでるかもしれないし」
「…………そうだな」
無愛想なイオスの表情が硬くなった様に見えた。そんなつもりはないのだが、これではイオスに死んで欲しいと言っている様で、ダニエラは慌てて言い訳けた。
「あの、別に財産を物にしようとか、そういうことを思ってるんじゃなくて、なんていうかただの保険の様なものです! これがあると安心出来るっていうか……イオス様を貶める様なことには使いません、絶対に! 信じて下さい!」
これだけ言っても、イオスは無愛想なままペンを取ろうとしない。こうなっては奥の手だ。
「イオス様は私の三年間を奪ったんですよ? これくらいは償いと思ってサインしてくれてもいいんじゃないんですか?」
イオスの体が、痙攣する様にピクリと動いた。そして彼は席を立ち、ペンのある所まで移動する。
サラサラとペンの走る音が聞こえて、ダニエラはホッとした。そしてツカツカとダニエラの前まで来ると、同意書を彼女に渡した。
「これでいいか」
「あ、ありがとうございます」
「出来れば、それを使った時は教えてくれ。どういう内容か把握しておきたい」
「勿論です」
勿論、言うつもりはない。何も知らない方がイオスのためなのだから。
「ダニエラ。私はお前にとって、良い夫ではなかったか……?」
「ええ!? まさか! 私には勿体無いくらいの、素晴らしい夫でした!」
「ならば…………」
「……ならば?」
イオスの機嫌を損ねてしまったのだろうか。最後の最後に来て、この要望は今までのイオスの努力を無に帰す様な事だったのかもしれない。こんなに素晴らしい夫を演じさせておいて、仇で返す様な真似をしてしまったことに罪悪感が募る。
「いや、何でもない」
イオスはダニエラを罵る言葉を飲み込んだのだろう。最後くらい、本音を吐かせてあげたい。そうすれば、彼も少しはスッキリするかもしれない。
ダニエラは、アリルに言われた言葉を口にすることにした。
「イオス様は、私と離婚したいですか?」
ダニエラが望む答えとは、真逆の考えを持っているのは分かり切った事だ。しかしそれを口に出させる事で、楽にしてあげたかった。
「……」
「では、私と結婚生活を続けたいですか?」
「……私に、その決定権はない」
「私がイオス様の意に沿わぬ選択をしても、黙ってそれに従うんですか?」
「そうだ」
「いいんですよ、最後くらい本当のこと言ってくれて。私、覚悟は出来てますから」
「ダニエラを苦しめる様な発言は、しないと心に決めている」
どこまでも優しいなぁ、とイオスを見上げた。
彼が心に決めている事を無理矢理に捻じ曲げさせては、逆に可哀想だ。この三年間、それを貫き通すために頑張って来たのだから。
「分かりました。じゃあもう無理には言わせません。ありがとうございます」
ダニエラがお礼を言うと、イオスは頷いていた。
「今夜は、どうする」
「イオス様がしたいのなら、応じます」
「私はどちらでも構わない」
好きでもない女としたいわけないか、と心で毒づく。まぁ、これが最後になるかもしれないのだ。普段、イオスの帰りは遅いのであまり無理はさせられないし、明日子供を堕ろした後でそんな気になるとは思えない。
最後まで嫌な事をさせてしまうのは申し訳ないが、諦めて貰おう。
「では、今夜よろしくお願いします」
二人は、当然の様に寝室に消えた。
身体の異変を感じたのは、結婚記念日まで残り一週間を切ってからの事だ。ダニエラは、自身のお腹に手を当てた。
先月、月のものが来なくておかしいとは思っていたけど……
まさか、本当にという気持ちの方が勝る。何故今更、こんなタイミングで。
確かアリルは忘れた頃に授かると言っていたが、本当にその通りだ。神様のなんと意地悪なことか。
「どう、しよう……」
もう子供はいらない、と断らなかった自分が悪いのは明らかだ。すでに新生活の準備は出来ているというのに、この先の予定が全て狂ってしまう。
イオスに相談しようかという気持ちが起こらなかったわけではない。しかし相談すれば確実に彼に負担を強いてしまう。金銭面での援助を申し出てくれるか、結婚生活をもう一年延期しようと提案してくれるか。
ダニエラはそのどちらもさせたくはなかった。
折角気持ち良く別れられると思った矢先に、やっぱり負担をかけますなんて言えるはずがない。
堕ろすしか、ない……
雷の魔術師がお腹の中の子の処理をしてくれると聞いたことがある。手術ではないので医者に頼むよりも楽だし、誰にもばれないのだとかなんとか。
でも、どこを探せばいいのだろうか。騎士団の中にも魔術師はいるだろうが、イオスの耳に入ってしまう可能性が高い。
街を当てもなく歩く。偶然魔術師に出会ったとしても、いきなり『子供を堕ろしたいので手伝って』なんて言って上手く行くとは思えない。
やっぱり医者に……でも、入院すれば怪しまれるし、離婚してから……
道の真ん中でへたり込んでしまった。離婚後すぐ仕事が始まるというのに、どうしたものだろうかと途方にくれる。
そんなダニエラに、声をかける者がいた。
「何をしてるの?」
「雷の魔術師を探して……」
そう言いながら顔を上げると、そこには見知った顔があった。
「雷の魔術師なら知り合いにいるから、良かったら紹介するわ」
「あ、りがとうございます……アンナ様……」
ダニエラの手を取って引っ張り起こしたアンナは、真っ青なダニエラの顔を確認して眉をひそめる。
「それにしても、イオスに言えばすぐ探し出してくれるのに、ずっと街を歩いていたの?」
「ええ、まぁ……」
「もしかして、緊急? 誰かが呪われちゃった?」
「いえ、そういうわけでは……」
「じゃあ、雷が弱点の魔物でも出たの? 良かったら私が退治するわよ」
「あの、そういうわけでも……」
否定しながら、ダニエラは思わず庇う様に己の腹に手を置いてしまう。
「お腹でも痛いの?……って、もしかして」
しまった、と手を離したが遅かった。
「ダニエラ、あなたおめでたね?」
断定的に問われたその表情は硬い。それもそうだろう。妊婦が雷の魔術師を探す理由など、ひとつしかないのだから。
「イオスは、知ってるのか?」
ダニエラは僅かに首を横に振った。心なしか、アンナの口調がきつい。
「イオスに内緒で堕ろすつもりなのか。ダニエラが子供を欲しがっているとイオスから聞いたことがある。待望の赤ん坊なのだろう? 何故堕ろす」
怖い。詰め寄るアンナはとんでもなく怖かった。堕ろすのやめます、と言いそうになる。
「その……私達は今週末、別れる事が決まっているので……」
「別れる? 本当か?」
「本当です。だから、もう子供は……」
「どうしようもなく困っている、というのであれば手を貸さんでもない。明日うちに来るといい。魔術師を待機させておこう」
「え? ありがとうござ……」
「ただし、イオスの同意書を持ってこい。それがなくては堕ろす手伝いなどできん」
「……はい」
それだけ言うと、アンナの表情と口調は柔和になった。
「帰りましょう。送るわ」
「いえ、まだ明るいし、大丈夫です」
「そう?」
「はい、役場で離婚届も取って来なければいけませんので」
「そう、気をつけて」
「ありがとうございます」
颯爽と去って行くアンナを見送った後、ダニエラは役場で離婚届をもらった。
これで全てが終わる。子供を堕ろして離婚すれば、全てが終わる。イオスと関わることは、もうなくなる。
これでいいんだと言い聞かせて、ダニエラは家に帰った。すると玄関の扉はすでに開いていた。
「おかえり、ダニエラ」
「イオス様?早かったんですね」
「役場に離婚届を取りに行かなくてはいけないと思ってな。早目に終わらせて取ってきたのだ」
「やだ、イオス様も?私も今日行って来たところだったんです。すみません、ちゃんと伝えておけば良かった」
「構わない。そのお陰で久しぶりに早く帰ることができたからな。ゆっくり話でもしよう。それとも久々に外に食べに行くか?」
「いいえ、ちょっと食欲がなくって……」
そう言われたイオスはダニエラの顔を覗き込む。
「そう言えば顔色が良くないな。大丈夫か?」
「はい、朝ほどは酷くないので」
「朝から悪かったのか? これからはちゃんと教えてくれ」
「これからって、私達もう終わりじゃないですか」
ダニエラは可笑しくて笑ったが、イオスは相変わらずの無愛想なままだ。
「そうだったな。今日は私が作ろう。何が食べたい?」
「じゃあ、冷たいレモンティーとムニエルのヨーグルト添えで」
「わかった。少し待っていてくれ」
イオスは調理場に入って行ったので、ダニエラは引き出しから紙とペンを取り出した。
離婚届に自分のサインを入れ終えた後、まっさらな紙の上に『同意書』と書いた。その紙の一番下に、署名を書くための欄を作る。
ダニエラはその離婚届と手作りの同意書、二枚の紙を持って調理場に向かった。
「ああ、もう出来る。座っていてくれ」
「ありがとうございます。では遠慮なく」
イオスが料理をする姿を後ろから見つめた。
彼は仕事が早く終わった時、こうやって夕食を作ってくれることがあった。
回数は多くなかったが、イオスがしている白いエプロンが似合っていて、とても好きな光景のひとつだ。
「すまない、待たせたな」
すぐに料理が運ばれて来た。イオスはシュルシュルとエプロンを外している。
「いいえ、イオス様が料理なさるところを見るのが好きなんです。エプロン姿が可愛くて」
「そうか。私もダニエラが料理してくれている姿を見るのは幸せだった」
本当に三年もの長い間、イオスは良い夫を演じ切ってくれた。ダニエラが嬉しくなる様な言葉を探し、思ってもいない、言いたくもない言葉をどれだけ言ってくれたことか。
人前では妻を褒め、柄ではなかったろうに仲のよい素振りをしてくれていた。
家にいる時は愛を囁き、身体を気遣ってくれ、ダニエラが機嫌を損ねぬよう、細心の注意を払ってくれていた。
一体、どれくらいの神経を擦り減らせてしまったことか。申し訳なくて涙が出て来る。
「……ダニエラ?どうした、涙ぐんで。具合が悪いのか?」
「いえ、イオス様のお料理を食べるのもこれが最後かと思ったら、感慨深くって」
「………………」
ダニエラが言いたかったのは、『感慨深い』ではなく『感傷に浸る』なのだが、ダニエラは自分の言葉の間違いには全く気付かなかった。
「これ、渡しておきますね」
「ああ、離婚届か。私もサインしてある。渡しておこう」
二人は互いのサインが入った離婚届を交換した。ダニエラは中を確認してそれを仕舞うと、もう一枚の紙をイオスに無言で渡す。
「何だ、同意書……? 何も書かれていないが、何の同意書だ?」
「今後何かあった時に、私が後から書き足せる様に空けています。イオス様にはそこにサインだけ頂きたいんです」
「その時に言ってくれれば何でもする。そう一筆書いても構わない。何に使われるか分からぬ物にサインをするほど、私は愚かではない」
やすやすとサインを貰えるとはダニエラも思っていない。あまり使いたくはなかった手だが、致し方ない。
「イオス様はこの先も軍師として生きるおつもりでしょう? 何があるか分からないではないですか。同意を頂きたいときに紛争地に行っているかもしれないし、その……し、死んでるかもしれないし」
「…………そうだな」
無愛想なイオスの表情が硬くなった様に見えた。そんなつもりはないのだが、これではイオスに死んで欲しいと言っている様で、ダニエラは慌てて言い訳けた。
「あの、別に財産を物にしようとか、そういうことを思ってるんじゃなくて、なんていうかただの保険の様なものです! これがあると安心出来るっていうか……イオス様を貶める様なことには使いません、絶対に! 信じて下さい!」
これだけ言っても、イオスは無愛想なままペンを取ろうとしない。こうなっては奥の手だ。
「イオス様は私の三年間を奪ったんですよ? これくらいは償いと思ってサインしてくれてもいいんじゃないんですか?」
イオスの体が、痙攣する様にピクリと動いた。そして彼は席を立ち、ペンのある所まで移動する。
サラサラとペンの走る音が聞こえて、ダニエラはホッとした。そしてツカツカとダニエラの前まで来ると、同意書を彼女に渡した。
「これでいいか」
「あ、ありがとうございます」
「出来れば、それを使った時は教えてくれ。どういう内容か把握しておきたい」
「勿論です」
勿論、言うつもりはない。何も知らない方がイオスのためなのだから。
「ダニエラ。私はお前にとって、良い夫ではなかったか……?」
「ええ!? まさか! 私には勿体無いくらいの、素晴らしい夫でした!」
「ならば…………」
「……ならば?」
イオスの機嫌を損ねてしまったのだろうか。最後の最後に来て、この要望は今までのイオスの努力を無に帰す様な事だったのかもしれない。こんなに素晴らしい夫を演じさせておいて、仇で返す様な真似をしてしまったことに罪悪感が募る。
「いや、何でもない」
イオスはダニエラを罵る言葉を飲み込んだのだろう。最後くらい、本音を吐かせてあげたい。そうすれば、彼も少しはスッキリするかもしれない。
ダニエラは、アリルに言われた言葉を口にすることにした。
「イオス様は、私と離婚したいですか?」
ダニエラが望む答えとは、真逆の考えを持っているのは分かり切った事だ。しかしそれを口に出させる事で、楽にしてあげたかった。
「……」
「では、私と結婚生活を続けたいですか?」
「……私に、その決定権はない」
「私がイオス様の意に沿わぬ選択をしても、黙ってそれに従うんですか?」
「そうだ」
「いいんですよ、最後くらい本当のこと言ってくれて。私、覚悟は出来てますから」
「ダニエラを苦しめる様な発言は、しないと心に決めている」
どこまでも優しいなぁ、とイオスを見上げた。
彼が心に決めている事を無理矢理に捻じ曲げさせては、逆に可哀想だ。この三年間、それを貫き通すために頑張って来たのだから。
「分かりました。じゃあもう無理には言わせません。ありがとうございます」
ダニエラがお礼を言うと、イオスは頷いていた。
「今夜は、どうする」
「イオス様がしたいのなら、応じます」
「私はどちらでも構わない」
好きでもない女としたいわけないか、と心で毒づく。まぁ、これが最後になるかもしれないのだ。普段、イオスの帰りは遅いのであまり無理はさせられないし、明日子供を堕ろした後でそんな気になるとは思えない。
最後まで嫌な事をさせてしまうのは申し訳ないが、諦めて貰おう。
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二人は、当然の様に寝室に消えた。
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