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第1話 おかえりなさいませ
しおりを挟む血の味がした。
何の罪もない者を斬り伏せて、その返り血がサビーナの顔を叩きつける。
後悔を感じる暇など無かった。
必死だった。
ただ彼を救うために、夢中だったのだ。
「私と一緒に来てください!!」
サビーナがそう手を差し出すと、彼はゆっくりと首を振った。
「貴女まで咎人にさせるわけにかいかないのです」
こんな時にまで優しい笑みを向ける彼に、サビーナは力の限り叫ぶ。
「たとえ貴方が地に落ちようと!! 私は決して貴方を見捨てたりはしません!!」
すると彼は困ったように、悲しそうに、でもどこかほんの少し嬉しそうに。
緑青色の瞳をサビーナに向けた。
「苦労を、かけますよ」
「承知の上です!!」
そんな苦労ならばいくらでも我慢できる。
彼のためならば、いくらでも。
二人は互いの意思を確認するように頷き合うと、共に愛する故郷を後にするのだった。
✳︎✳︎✳︎
サビーナは、アンゼルード帝国という国で生まれ育った。
頭脳は平均。器量はほどほどという、特出した能力もない、言わば普通の女の子だった。少し異なる点を上げるなら、祖父がラウリル公国出身の為、この地には珍しい深い緑色の髪を持っている事だろうか。顔の造作は十人並みであったが。
そのサビーナは上級学校を出た後、十六歳でオーケルフェルト家のメイドとして仕える事になった。ここで働き始めてそろそろ半年になる。先輩メイドから仕事を教わり、未熟ながらも与えられている自分の仕事くらいは、一人でなんとかこなせるくらいになってきた。と言っても、やる事は来客対応とお茶汲みくらいなのだが。
オーケルフェルト家はアンゼルード帝国でも屈指の貴族で、かなりの権力を持つ家である。
「おかえりなさいませ、マウリッツ様、セヴェリ様!」
屋敷の主(あるじ)達が外出先から戻ってきて、サビーナは彼らを迎えた。マウリッツ・オーケルフェルトはこの屋敷の当主。少し頭が寂しくなってきているが、若かりし頃は美形を想像させる彫りの深さである。
「ただいま、サビーナ」
いち召使いであるサビーナに笑顔を向けてくれたのは、マウリッツの息子、セヴェリ・オーケルフェルトだ。無愛想なマウリッツに比べ、セヴェリの物腰は柔らかである。
「サビーナ、後で私の部屋に紅茶を持って来てくれますか?」
「は、はい! かしこまりました!」
「ありがとう」
セヴェリの口調は優しく、いつもサビーナの心をドキドキとさせる。しかし残念ながら、それを咎める者がこの屋敷にはいた。
「セヴェリ。メイドなんぞに気を使うな。いちいち伺う事も、礼を言う必要もない」
父親のそんな指摘を受けて、セヴェリは少し困った様にニッコリと微笑みを返す。
「母さんはいつも言っていました。礼の心と、笑顔を忘れてはいけないと。私はそれを実践したいと……いえ、すべきだと考えています」
「フン、その教えは男であるお前には必要ない。そんな事は、女どもがやっていれば良いのだ。セヴェリ、そんな態度ではこのオーケルフェルト家を守ってはいけんぞ」
「……はい」
いつもの優しい笑みを失うと、セヴェリは父親に逆らう事なく従順な態度を見せていた。
可哀想なセヴェリ様……
サビーナは、憐憫の目をセヴェリに向けた。
マウリッツの妻であり、セヴェリの母親である人物を、サビーナは知らない。何年も前に流行病で亡くなったのだそうだ。そのセヴェリの母親の肖像画がホールに飾られてある。名前はアデラと言うそうだが、セヴェリは間違いなく彼女似だろう。
明るく光る金の髪。緑青色した瞳。優しい目元と、緩く上がる口角。きっと、素敵な女性だったに違いない。あのセヴェリの母親なのだから。
サビーナは、サービスワゴンの上にティーセットを手早く用意した。そして少し考えてから、手作りのクッキーをワゴンの上に追加する。頼まれていないものだが、食べなかったなら食べなかったで別に構わない。少し疲れているように見えたし、甘い物を取ってくれればと思ったのだ。
ゴロゴロとワゴンを押して、セヴェリの部屋の前に来る。そして規則正しくノックをすると「どうぞ」と入室を促す声が聞こえた。
「失礼いたします。紅茶を持って参りました」
「ああ、いつもすまない。ありがとう」
やはり、セヴェリは笑顔でそう言ってくれた。横柄な態度の貴族が多い昨今、セヴェリの様な青年は本当に珍しい。
「ああ、クッキーも持って来てくれたのですか」
「あ、はい。私の手作りなのですが、ご迷惑であればすぐにお下げ致しますので……」
「サビーナの? へぇ、それは嬉しいですね」
こんな何気無い一言が、サビーナに喜びを与える。いや、サビーナだけではない。この屋敷に仕える者全員が、セヴェリの事を好いていた。老いも若きも男も女も関係なく、それこそ身分の差も気にせずに、セヴェリは接してくれるからだ。彼の嫌がる顔や怒った姿を、ここの誰も見た事がない。こんな温和な人物を嫌う者など、居はしなかった。
セヴェリはクッキーに手を伸ばし、それをゆっくりと味わってくれている。どうだろうかと少しハラハラしながらその様子を見ていると、食べ終わると同時にセヴェリは口角を上げた。
「うん、美味しいです。知りませんでしたよ、サビーナにこんな才能があったとは」
「さ、才能だなんて!」
サビーナはカアッと顔を赤くすると、両手を左右に振って見せた。才能なんて言えるものではない。お菓子作りは好きだが、それは趣味の範囲内だ。本格的な職人に比べて、それは遠く及ばない代物である。
「本当ですよ。少しボソボソとしていて、粉っぽくて、すぐ喉が渇いてしまいます。中々こうは作れません」
サビーナは赤くしていた顔を、更に赤くさせた。セヴェリの言う才能が別の意味であった事を悟り、勝手に良い意味で捉えてしまっていた自分が恥ずかしかった。
「うう、お下げしますーっ」
「あ、待って下さい」
クッキーを下げようと手を出すと、上から阻止するようにセヴェリの手が触れる。サビーナは無意識にビクッと震え、思いっきり手を引っ込めた。
しまった、今の態度は悪かった……と思ったサビーナだったが、当のセヴェリは少し驚いた顔をしただけですぐにいつもの笑顔となっている。
「本当に美味しいんですよ。……この味は、母が作ってくれたクッキーによく似ている」
「アデラ……様の……?」
「ええ、懐かしい味です。また、是非作って下さい」
「は、はいっ!」
サビーナが元気よく返事をすると、セヴェリは目を細めて頷いてくれたのだった。
セヴェリの部屋を出てワゴンを押して行くと、後ろからトンと背中を叩かれる。ふと見ると、そこには騎士服を纏った大柄の男が立っていた。
「リック」
「どうだ、サビーナ。仕事は慣れたか?」
「うん、まぁまぁ、かな」
彼の名前はリックバルド。オーケルフェルト家に仕える騎士で、サビーナの兄である。兄と言っても親同士が連れ子再婚したため、血の繋がりはない。しかしリックバルドは十三も年の離れたサビーナを、妹というより、最早娘のように思ってくれている。何の取り柄もないサビーナが、こんな高貴な貴族のメイドになれたのは、この兄の口利きのおかげだ。
「あんまり部屋の中で裸でいるんじゃないぞ」
「し、下着は着けてるから大丈夫だよっ」
「全く、裸族が……」
リックバルドは呆れたように息を吐いた。
彼はサビーナが物心ついた時から、ずっと一緒にいる。忙しい両親に代わってこのリックバルドが育ててくれたようなものだ。割と最近まで一緒にお風呂に入っていたりもしたので、素っ裸で家を歩き回っていても何も言われる事はなかったが、さすがにここではまずいと思ったのだろう。
見習いのメイドは一年間、この屋敷で暮らして勉強する事になっている。立派な一室を与えられて、家より快適なくらいだ。裸族でいられないという一点を除けば、ずっと住み続けても構わないと思わせるほどに。
「お父さんとお母さんは元気?」
「ああ、サビーナの事を毎日心配している。お前の事だから、マウリッツ様やセヴェリ様に粗相をせんかとな」
「うう……今のところ、大丈夫……だと思う」
今日のクッキーは、粗相という程でもないはずだ。似たような失敗は、何度もやらかしてしまっているが。
「セヴェリ様は優しい方だが、メイドであるお前が甘えてはいかんぞ」
「わ、分かってるってば」
「なら良いが」
そう言うとリックバルドは目を細めて笑い、サビーナの頭をグシャッと撫でると立ち去っていった。
リックバルドはオーケルフェルト騎士隊の班長という立場にあり、それなりの地位にいる。ここに来て初めて知った事だが、リックバルドは意外にモテるようだった。
長身で切れ長の目、剣の腕前は隊長に匹敵するとも言われている。見た目は無骨で近寄りがたいが、割と誰とでも仲良く喋る事が出来る、気さくな人物である。
血は繋がっていないが、そんな兄を持つと鼻が高い。サビーナには色々と小言を言ってくる、ちょっと鬱陶しい存在でもあったが、身内が人から好かれるというのは嬉しいものだ。出来れば、リックバルドにもそんな気分を味わわせてあげたい。当主に信頼され、みんなに好かれるメイドになれば、きっとリックバルドに自慢の妹だと言って貰えるだろう。今は無理でも、いつかそんな人になりたいと思いながら、サビーナは日々の仕事をこなすのだった。
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