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第105話 セヴェリ様ぁぁああっ

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 セヴェリはクスクスと意地悪な顔で笑いながら、目だけをこちらに流している。

「利……用……?」
「ええ。あの時言ったでしょう? 追手に見つかった際、私がサビーナを囮にしている間に逃げ果(おお)せるように、一緒に居た方が都合が良いというものだと。そうする事に、私は決めたのですよ」

 ズキン、と心が痛んだ。と同時に、あの時の胸の痛みの正体を理解する。
 そう、セヴェリがサビーナと共に居る事を選んだあの日。サビーナは、心のどこかで気付いてたのだ。
 セヴェリに追い出されずに済んで安堵したと同時に。追手に見つかった際には、サビーナを盾に逃げるつもりなのだろうと、分かっていた。
 ただ、面と向かってそう宣言されるのが怖くて、気付いていながらも心に蓋をしていたのだ。
 セヴェリの傍にいる限り、彼を守る姿勢は変わらない。もし追手が来たならその思惑通り、サビーナはセヴェリを守る盾となっただろう。
 でも何故だろうか。
 それを目的として傍に置いて欲しくはなかった。ただ共にいたいという純粋な気持ちで、傍に置いていて欲しかったと思うのは、我儘だったのだろうか。
 セヴェリの思惑が露見した今、サビーナの胸は引き裂かれるように悲鳴を上げ始める。それとは対照的に、セヴェリは淡々と話を続けた。

「私にも良心がありますからね。あなたと離れて一人で生きる事も、真剣に考えました。でもあなたは色々と利用出来そうだったので、傍に置いておく事に決めたのですよ。そうしたら案の定、貴族との結婚を仄めかして来たでしょう? 正直、しめたと思いましたね」

 クックックと喉を鳴らして笑う姿は、まるでどこかの悪役男優のようだ。サビーナはそんな彼を、茫然と見上げる。

「まぁ、そこからが大変でした。私の世話はもう嫌だと言い出さないように、私に依存させる必要がありましたからね。丁度よく高熱を出してくれたので、サビーナの体を開き、私から逃れられないようにしたんですよ。ああ、彼女を怒らないでくださいね、デニス。私が無理矢理にサビーナの純潔を奪ったのですから」

 デニスに向けられた視線から逃れるように、サビーナは左方へと顔を逸らせた。手と足が、自分の意思とは関係なくカタカタと震えている。隣のデニスの拳が、ギュッと握られているのだけは分かった。

「セヴェリ様……」
「私を斬りたければ斬っても構いませんよ、デニス」
「……いえ」

 デニスの顔は見えなかったが、何かを飲み込むように否定の言葉だけが紡がれただけだ。そんなデニスに構わず、セヴェリはサビーナの顔を覗き込める位置に移動している。

「薄っぺらいあなたの体を抱くのは苦痛でしたが、その苦労の甲斐もあって、サビーナは本当に良く働いてくれましたよ。私を男爵令嬢との結婚まで漕ぎ着けてくれました。欲を言えば、もっと高貴な貴族が良かったのですがね。まぁクリスタはあなたと違って美人で素直な女性ですし、良しとしましょう」

 サビーナは蚊の鳴くような声で「申し訳ありません……」と告げると、そのまま肩を震わせた。込み上げるものをひたすらに我慢する。
 自分の体は、欲望の捌け口にすらなっていなかった。セヴェリの気持ちが収まるならという考えすら、傲慢だったのだ。
 セヴェリは相変わらず口の端を上げてクスクスと笑いながら、サビーナに語り掛ける。

「謝る必要はありませんよ。よくやったと褒めているんです。実は、あなたをどう傷付けずに振ろうかと考えあぐねていましてね。タイミング良くデニスが来てくれたものです。これで私も猫をかぶる必要がなくなる。あなたにはデニスという、愛する人が傍にいるんですから」

 そう言い終えると、セヴェリは荷物をまとめ始め、コートを手に取った。その顔は、どこか揚々としている。

「では……私は今日からブロッカで生活する事にしますよ。クリスタとの結婚の話も詰めなければいけませんしね。あなたたちは好きにここを使いなさい。デニスが傍にいれば、サビーナの命は保証されたようなものでしょう。私の心残りも無くなる」

 コートを羽織ると、少量の荷物を抱えて家を出ようとするセヴェリ。何も言えずに視線だけを出口に動かす。セヴェリは今にも扉を開けようとし、こちらを見てにっこりと嬉しそうに笑った。

「私はもう二度と、この村には来ませんから」

 カチャリ、と開けられる扉の音。それと同時に隣にいたデニスがガタンと立ち上がる。

「それで……それでいいんすか、セヴェリ様!」
「何を確かめようとしているんですか? 私は貴族に戻れ、あなたたちも幸せになれる。何の不都合もないでしょう」
「けど……セヴェリ様は、そんな人じゃねぇだろ……っ」
「そんな人? どんな人ですか? 私の腹が黒い事は、あなた方お二人が一番分かっている事でしょう。私はずっとこうなる事を望んでいたんですよ。全ては筋書き通りです」

 口でセヴェリに叶うはずも無く、結局デニスは押し黙っている。
 サビーナはそんなデニスを横目にそっと立ち上がり、セヴェリを真っ直ぐに見つめた。セヴェリの緑青色の瞳は微かに揺らぎながら、それでもなお優しい光を放っている。

「セヴェリ様……」
「サビーナ、今まで苦労を掛けましたね。どうか……幸せになってください」

 セヴェリの心からの言葉に、涙が溢れそうになる。
 ずっと、ずっと望んでいた結末だ。
 セヴェリがクリスタと結婚し、命を脅かされること無く幸せに生きられるよう、ずっと画策していたのだから。
 サビーナは優しい目を向け続けるセヴェリに、深く深くお辞儀した。

「ありがとう、ございました……セヴェリ様も、どうかクリスタ様とお幸せに……っ」
「ええ。幸せになりますよ。ありがとう、サビーナ」

 そう言ってセヴェリは扉を大きく開け放ち。

「サビーナを頼みます。デニス」

 その言葉を最後に、セヴェリは出て行った。
 パタンと扉が閉じられた後、デニスは低く力強い声で「分かりました」と答えている。
 その直後、馬の嘶く声が裏から響き、そしてゆっくりと馬の足音は去って行った。

 終わった。全てが。

 セヴェリは街でクリスタと結婚して貴族となり、幸せに暮らして行ける事だろう。
 二年もの日々を費やし、ようやく思い通りの着地点に来る事が出来た。
 しかも、ずっと会いたいと思っていたデニスが目の前にいる。
 きっと今日は、人生最良の日だ。
 全てが上手く行った、最高の日……の、はずなのだ。

「う……う、うああ……」

 サビーナは漏れ出る声を抑え切れず、呻くような声を発し始める。
 それを聞いたデニスが、少し眉を寄せて覗き込んで来た、その時。

「あああああああーーーーーーーー~~~~ッ!!!!」
「サビーナ!?」

 その人生最良の日をインクで塗り潰すかのように、サビーナの叫び声で家は埋もれる。

 セヴェリが、この家からいなくなった。

 それだけで気が狂いそうな程の悲しい波が、次から次へと押し寄せてくる。
 全部、嘘だった。好きと言ってくれた言葉も、愛していますと言ってくれた言葉も。
 全て、彼の術中だっただけなのだ。

「あああッ! あーー、セヴェリ様ぁぁああっ」
「サビーナッ!!」

 泣き崩れるサビーナをデニスががっしりと受け止め、支えてくれる。それでも溢れ出る涙と声は止まらない。
 これで良かったはずだった。セヴェリを無事に貴族に戻す事が出来たのなら、利用されていたとしても喜ぶべき事柄のはずなのに。

「う、うああ……セヴェリ様、セヴェリ様ぁ……あああ……」

 漏れ出る主の名前を、サビーナは呼び続ける。
 二度とその呼び掛けに応じてくれる事はないと、分かっていながらも。

「セヴェリ様、セヴェリ様、セヴェリさまぁ……っ」
「サビーナ……あんた、セヴェリ様の事が……」

 デニスの言葉は水底を掻き混ぜたかのように、土に押し込めていた想いが浮き上がってきた。

 そうだ……
 私、セヴェリ様の事が……っ

 サビーナが顔を上げると、そこには悲しそうな表情をしたデニスの姿。
 その赤土色の目を前に、サビーナの涙は更に増す。

「……っごめん………デニスさん、ごめん……っ」
「……ん」

 彼はまるで、今から紡ぐ言葉が分かっているかのように頷き。そのまま黙って続きを促してくれる。

「私……私、セヴェリ様が好きだった……セヴェリ様を、愛してた……っ!!」

 飛び出すように出てきてしまった、愛の告白。
 愛の言葉を耳にしたデニスは、己に向けられたものではなくともサビーナを強く抱き締めてくれた。その優しさが、サビーナの罪悪感を増幅させる。

「ごめん、デニスさ……、ごめ………っ」
「分かってる。俺がいっから。俺がセヴェリ様の分まで、あんたを愛してやっから」
「ふ……うう、うあぁぁあああっ」

 居心地の良い言葉に身を預けるように、サビーナはデニスに縋った。

 セヴェリにこんな感情を抱いたのは、いつだったのだろうか。
 最初に感じたのは、母性愛だった。それがいつの間にか、より深く複雑な愛情へと変化していたのだ。

 私、デニスさんには恋してた……
 でもセヴェリ様に感じてたのは、最初からずっと……愛だったんだ……

 心の中でずっと蕾のまま、花開く事無く散っていった無言の愛は、サビーナの胸を空虚にさせた。
 ただただ、涙が滂沱として下っていくばかりだ。
 そんなサビーナを、デニスはひしと抱き締め。

「絶対にあんたを……幸せにすっから……」
「……デニスさん……デニスさん……っ」

 サビーナは救いを求めるようにデニスの名を呼び、彼は気が収まるまでサビーナを優しく抱き締めてくれた。
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