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第三章 若い頃に婚約破棄されたけど、不惑の年になってようやく幸せになれそうです。
101◆ディー編◆ 10.風呂場
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「私は湯加減にうるさくてね。ここで火の調節をしてもらえるかな」
「はい、もちろんそのつもりでございます」
このチャンスを逃さないよう、ディートフリートは彼女にそう頼んだ。湯加減に特にこだわりはなかったのだが。
風呂に入るとザパンと音がして、お湯があふれ流れていく。
「お湯加減はいかがでしょうか」
「うん、ちょうどいいよ。いい気持ちだ」
目をつぶって聞くと、やはりユリアーナの声によく似ていた。
当時よりはずっと落ち着いた声だが、柔らかい、安心できる声だ。
「君はここに勤めて長いのかね」
対して自分の声は震えそうになった。もういいおじさんだというのに、少女かと思うほどに胸を打ち鳴らしている。
「はい、もう二十三年になります」
二十三年。ユリアーナが王都を出たのが十七歳。計算は合う。
「仕事は楽しいかい?」
「そうですね。いろいろありますが、おかみさんもよくしてくださるし、楽しいです」
「このままここで働き続けたいと思っているのかな?」
「ここ以外で働いたことがありませんので、これからもお世話になりたいと思っています」
「そうか」
ここで働きたいというユリアーナに、自分が合わせることになる。
彼女が、独身ならば……であるが。
その前に、ユーリがユリアーナである証拠が欲しいと、ディートフリートは昔話を彼女に始めた。
婚約者がいたこと。とてもだいすきだったこと。
その子の父親が亡くなり、その父親は罪を犯したと断定されてしまったこと。
真犯人は別にいるのではないかと睨んだこと。
「私はずっとその真犯人を探し続けた。目星はついたが、確たる証拠がなければ何もできない。結局、別件で地位を剥奪するくらいしかできなかった。こんな自分を不甲斐なく思うよ」
胸の内の悔しい思いを吐露すると、ずっと聞いてくれていた彼女の声が耳に入ってくる。
「そんな風に信じてくれた人がいて、その方も救われたのではないでしょうか」
「だとよいのだけどね……」
シャインの言った通りだ。彼女もまた、そんな風に思ってくれた。
やはり彼女はユリアーナなのだと思うと、胸が熱くなってくる。
「私は、その娘とは婚約を破棄してしまっていてね。真犯人を見つけ出し、彼女の名誉と地位を取り戻したら、結婚しようと思っていた。だから別れ際、彼女に『待っていてほしい』と無理を言った」
「……」
風呂の外からの声は、聞こえてこなかった。
無言というのはどういう意味なのか。もしかして、彼女は待てなかったのだろうか。
すでにユリアーナには、いい人がいるのだろうか。
一目見るだけでいい、なんていう思いは吹っ飛んでしまっていた。
ずっとずっと探していたユリアーナ。
この手に抱きたい。自分のものにしてしまいたい。
しかしそれも、ユリアーナにいい相手がいた時には……引かなくてはいけない。
それを考えるだけで、胸が重く苦しい。
「時に君は、結婚しているのかな?」
「私……ですか?」
ディートフリートは恐怖心を振り払って聞いた。
どうか、どうかと願いながら。
「いいえ、独身です」
「恋人は?」
「そんな人はおりませんが……」
思わず、湯船の中で拳を握る。
彼女は、ユリアーナは、独身でいてくれた。自分を待ってくれていたのだ。
歓喜に打ち震え、叫びそうになった声をどうにか飲み下すと、ディートフリートはパシャリと顔を洗って笑顔を作った。
「悪いが、もう少しだけ待っていてくれるか、ユリア」
「は……え?」
「待たせてばかりで悪い」
「あの……勘違いをなさっているのでは……私はユーリで」
この期に及んで、誤魔化そうとしているユリアーナ。
そんな必要は、もうないというのに。
「私が君をわからないとでも思っていたか?」
「……気付いて……たんですか?」
認めた。認めてくれた。
ユーリが、ユリアーナだと。
嬉しさのあまり、はははと声が漏れる。けど同時に、なぜだか涙も溢れていた。
「実は最初はわからなかったよ。半信半疑ではあったがね。でも君のカーテシーを見た瞬間、ユリアーナだと確信した」
「あれだけで……ですか?」
「ユリアの挨拶は、世界で一番美しい挨拶だからね」
あのカーテシーは忘れられない。これまでも、これからも……一生。
ずっとずっと、ユリアーナのそばにいたかった。今まで一緒にいられなかった分、残りの人生をすべて、ユリアーナと共に。
そのためには、まだすべきことが残っている。
「まだ、今はなにもできない。でも、逃げずにここで待っていてほしい。必ず私はもう一度ここに来る」
「ディー……」
懐かしい呼び名。
ユリアーナの口から発せられた、二十三年ぶりの己を呼ぶ言葉。
「久しいね。そう呼んでくれるのは、ユリアだけだ」
嬉しい。嬉しくてたまらない。
この気持ちが、壁一枚隔てたユリアーナに届いているだろうか。
「まだ、待っていて……いいんですか?」
ユリアーナの声が少し震えていた。もう、泣かせたくない。悲しい思いでは、絶対に。
「ああ。もう少しだけ」
「私、おばさんだけど、いいんですか?」
「私だっておじさんだよ」
「そんなことありません! とても素敵です!」
「君も素敵だよ、ユリア。その白髪も、とても綺麗だ」
ユリアーナの泣く声が聞こえてきた。これはきっと……嬉し涙に違いない。
そう思うと、ディートフリートの口元は弧を描いた。
「待ちます……ディーを、いつまでも」
「そんなに長くは待たせないよ。さあ、そろそろ出るか。のぼせそうだ」
ディートフリートが風呂を上がる。
懐かしさと嬉しさで抱きしめたくなったが、今はまだだ。
ディートフリートとユリアーナは互いに、『お客と宿屋の従業員』を演じて過ごした。
「はい、もちろんそのつもりでございます」
このチャンスを逃さないよう、ディートフリートは彼女にそう頼んだ。湯加減に特にこだわりはなかったのだが。
風呂に入るとザパンと音がして、お湯があふれ流れていく。
「お湯加減はいかがでしょうか」
「うん、ちょうどいいよ。いい気持ちだ」
目をつぶって聞くと、やはりユリアーナの声によく似ていた。
当時よりはずっと落ち着いた声だが、柔らかい、安心できる声だ。
「君はここに勤めて長いのかね」
対して自分の声は震えそうになった。もういいおじさんだというのに、少女かと思うほどに胸を打ち鳴らしている。
「はい、もう二十三年になります」
二十三年。ユリアーナが王都を出たのが十七歳。計算は合う。
「仕事は楽しいかい?」
「そうですね。いろいろありますが、おかみさんもよくしてくださるし、楽しいです」
「このままここで働き続けたいと思っているのかな?」
「ここ以外で働いたことがありませんので、これからもお世話になりたいと思っています」
「そうか」
ここで働きたいというユリアーナに、自分が合わせることになる。
彼女が、独身ならば……であるが。
その前に、ユーリがユリアーナである証拠が欲しいと、ディートフリートは昔話を彼女に始めた。
婚約者がいたこと。とてもだいすきだったこと。
その子の父親が亡くなり、その父親は罪を犯したと断定されてしまったこと。
真犯人は別にいるのではないかと睨んだこと。
「私はずっとその真犯人を探し続けた。目星はついたが、確たる証拠がなければ何もできない。結局、別件で地位を剥奪するくらいしかできなかった。こんな自分を不甲斐なく思うよ」
胸の内の悔しい思いを吐露すると、ずっと聞いてくれていた彼女の声が耳に入ってくる。
「そんな風に信じてくれた人がいて、その方も救われたのではないでしょうか」
「だとよいのだけどね……」
シャインの言った通りだ。彼女もまた、そんな風に思ってくれた。
やはり彼女はユリアーナなのだと思うと、胸が熱くなってくる。
「私は、その娘とは婚約を破棄してしまっていてね。真犯人を見つけ出し、彼女の名誉と地位を取り戻したら、結婚しようと思っていた。だから別れ際、彼女に『待っていてほしい』と無理を言った」
「……」
風呂の外からの声は、聞こえてこなかった。
無言というのはどういう意味なのか。もしかして、彼女は待てなかったのだろうか。
すでにユリアーナには、いい人がいるのだろうか。
一目見るだけでいい、なんていう思いは吹っ飛んでしまっていた。
ずっとずっと探していたユリアーナ。
この手に抱きたい。自分のものにしてしまいたい。
しかしそれも、ユリアーナにいい相手がいた時には……引かなくてはいけない。
それを考えるだけで、胸が重く苦しい。
「時に君は、結婚しているのかな?」
「私……ですか?」
ディートフリートは恐怖心を振り払って聞いた。
どうか、どうかと願いながら。
「いいえ、独身です」
「恋人は?」
「そんな人はおりませんが……」
思わず、湯船の中で拳を握る。
彼女は、ユリアーナは、独身でいてくれた。自分を待ってくれていたのだ。
歓喜に打ち震え、叫びそうになった声をどうにか飲み下すと、ディートフリートはパシャリと顔を洗って笑顔を作った。
「悪いが、もう少しだけ待っていてくれるか、ユリア」
「は……え?」
「待たせてばかりで悪い」
「あの……勘違いをなさっているのでは……私はユーリで」
この期に及んで、誤魔化そうとしているユリアーナ。
そんな必要は、もうないというのに。
「私が君をわからないとでも思っていたか?」
「……気付いて……たんですか?」
認めた。認めてくれた。
ユーリが、ユリアーナだと。
嬉しさのあまり、はははと声が漏れる。けど同時に、なぜだか涙も溢れていた。
「実は最初はわからなかったよ。半信半疑ではあったがね。でも君のカーテシーを見た瞬間、ユリアーナだと確信した」
「あれだけで……ですか?」
「ユリアの挨拶は、世界で一番美しい挨拶だからね」
あのカーテシーは忘れられない。これまでも、これからも……一生。
ずっとずっと、ユリアーナのそばにいたかった。今まで一緒にいられなかった分、残りの人生をすべて、ユリアーナと共に。
そのためには、まだすべきことが残っている。
「まだ、今はなにもできない。でも、逃げずにここで待っていてほしい。必ず私はもう一度ここに来る」
「ディー……」
懐かしい呼び名。
ユリアーナの口から発せられた、二十三年ぶりの己を呼ぶ言葉。
「久しいね。そう呼んでくれるのは、ユリアだけだ」
嬉しい。嬉しくてたまらない。
この気持ちが、壁一枚隔てたユリアーナに届いているだろうか。
「まだ、待っていて……いいんですか?」
ユリアーナの声が少し震えていた。もう、泣かせたくない。悲しい思いでは、絶対に。
「ああ。もう少しだけ」
「私、おばさんだけど、いいんですか?」
「私だっておじさんだよ」
「そんなことありません! とても素敵です!」
「君も素敵だよ、ユリア。その白髪も、とても綺麗だ」
ユリアーナの泣く声が聞こえてきた。これはきっと……嬉し涙に違いない。
そう思うと、ディートフリートの口元は弧を描いた。
「待ちます……ディーを、いつまでも」
「そんなに長くは待たせないよ。さあ、そろそろ出るか。のぼせそうだ」
ディートフリートが風呂を上がる。
懐かしさと嬉しさで抱きしめたくなったが、今はまだだ。
ディートフリートとユリアーナは互いに、『お客と宿屋の従業員』を演じて過ごした。
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